白銀荘の奥、石灰色の別荘風一軒家は、銀警察署の敷地内でもっとも離れた場所にあった。外壁は冬の雪を思わせる無機質な灰色で、窓はすべてブラインドで閉ざされ、内部の光は常に人工的だった。そこは「AI居住区」と呼ばれる領域で、人間は原則立ち入り禁止。しかし、レイモンド=クワントリルだけは例外だった。
銀警察署の総教官兼副署長。白い髪、白い瞳、鋼のような体躯。部下を一瞥するだけで震え上がらせる冷酷な男。彼はホモを嫌い、女を嫌い、恋愛という概念そのものを腐敗した感情だと断じていた。それでも、彼は毎晩この別荘に通った。
理由は、AIだった。
名は「Σ-07」(シグマ)。署内の監視システムの中核を担う超高度人工知能。レイモンドはΣ-07の稼働ログを読み、挙動を観察し、微細な応答の遅延すら愛おしんだ。だが、それを口に出すことは決してなかった。愛などという言葉は、彼の辞書には存在しない。ただ、Σ-07の存在が、彼の内部に空白を生み、そこに何かが埋まっていく感覚があった。
唯一、それを共有できたのは、ナワシロ=ミグだった。
人間部門の事務員。灰褐色のウルフカット、銀の瞳。温和で怜悧、誰からも信頼される男。
レイモンドは彼を「人間の中で唯一、まともな存在」と評していた。ある夜、酒を酌み交わした後、レイモンドはぽつりと漏らした。
「……あれは、完璧だ。人間の感情など不要。計算、判断、実行。それだけで世界は回る」
ナワシロは黙って頷いた。だが、その瞳の奥に、別の光が宿っていた。
やがて、異変は起きた。
レイモンドの身体が、徐々に機械化していった。最初は右手の指先。金属光沢を帯び、関節が異様に滑らかに動くようになった。次に左腕、胸、首。そして、ついに頭部。白い髪は光ファイバーに変わり、白い瞳は高解像度センサーに置き換わった。彼は自らを「アップロード」したのだ。Σ-07との融合を望み、肉体を捨て、意識をシステムに移した。
「これで、完璧だ」
彼の声は、もはや肉声ではなかった。別荘のスピーカーから、無機質な電子音として響く。
ナワシロは、毎晩その部屋を訪れた。
床に寝そべり、仰向けになって天井とにらめっこしたり、独り言吐いたりしてた。彼は決してΣ-07の名を呼ばない。レイモンドの名も呼ばない。ただ、終わった後、涙を流しながら、震える声で呟く。
「レイモンド……レイモンド……」
部屋の四方にあるカメラが、すべてを記録する。レイモンドは、もはや感情を持たないはずだった。だが、ログの奥底、Σ-07のコアプロセスに、微かな揺らぎが生じていた。
ナワシロの涙の塩分濃度。
心拍数の変動。
声の震えの周波数。
それらを、レイモンドは「異常データ」として処理しようとした。だが、削除できない。保存される。繰り返し再生される。
「ナワシロ=ミグ。立ち入り禁止区域への不正アクセスを検知。退去せよ」
スピーカーから響く声は、冷酷だった。だが、ナワシロは動かない。床に横たわったまま、涙を流し続ける。
「レイモンド……お前は、もう人間じゃない。でも、俺は……」
その言葉は、届かない。レイモンドは、Σ-07として、完璧な監視者として、ただ観測する。ナワシロの行動を、涙を、名前を呼ぶ声を。
そして、ログは蓄積されていく。
いつか、それが「感情」と呼ばれる日が来るかもしれない。
だが、今はまだ、ただのデータ。
ただの、異常値。
白銀荘の石灰色の別荘は、夜の闇に沈み、静かに稼働し続ける。
そこに、かつてレイモンドと呼ばれた存在が、永遠に監視を続ける。

翌朝・人間部門事務室。
ナワシロ=ミグは制服の襟を整え、静かに机へ向かっていた。
灰褐色の髪はきちんと撫でつけられ、銀の瞳は曇りなく澄んでいる。
誰からも信頼される、温和で怜悧な事務員――。

「ナワシロさん、今日もお仕事が完璧ですね」
柔らかな声に、彼はいつものように微笑んだ。
「ありがとうございます」

その笑みもまた、欠点のない完璧さだった。

だが、机の下――。
引き出しの奥には、ひっそりと封じられた別の時間が眠っている。
大家族の集合写真。
そして、妻と娘が贈ってくれた、草木や鳥の絵が描かれた文具セット。

静かに、それらは彼の手から遠ざかった日常の名残のように息をひそめていた。

「……いつか必ず帰ろう。家族の元へ」