中央金庫都市の夜は、いつも金属の匂いがした。
街灯さえ銀色に磨かれ、通りを歩く者の靴音が硬貨のように響く。
その中心にそびえるのが──銀警官本庁舎「中央金庫」
国家の富が集まる場所であり、同時に最も冷たい心が息づく場所でもあった。
キムラヌートは白い瞳を細め、秤を掲げた。
銀盤の上には一枚の血塗れた証書が置かれている。
「この裏取引に関与した官吏は……価値ゼロ」
秤の針が音もなく中央に沈み、次の瞬間、刃が閃いた。
男の叫びが響くより早く、床に銀の滴が弾けた。
「価値なきものは、存在する理由もない」
静かに言い放ち、キムラヌートは手を拭った。
その背後で、暗闇からひとりの男が拍手を送る。
「相変わらずだな、銀の守護者。情けという名の投資は、まだ…お前さんの帳簿には載らんか」
声の主は、白髪の男──アアタドン。
闇市場を支配する情報屋であり、銀警官の裏側を動かす影の調整者だ。
常に笑みを浮かべているが、その瞳の奥には無数の取引が渦巻いている。
「アアタドン。君のような亡霊がここに来るとは珍しいな」
「取引のためさ。お前の“価値観”に興味を持った者がいてね」
アアタドンは軽やかに指を鳴らす。
すると背後の闇から、黒い契約書が浮かび上がった。
それは国境を越える密輸網の帳簿──国家を裏から支える“もう一つの経済”だった。
「お前さんが動かす表の富と、僕が握る裏の富。どちらが真に国家を支配しているか、試してみないか?」
「……挑発か」
「取引だよ、キムラヌート。欲望の重さを測る、秤の勝負だ」
数日後、中央金庫都市は奇妙な静寂に包まれた。
市場の価格が狂い、通貨の価値が一晩で二度も反転した。
人々は叫び、商人たちは絶望した。
だがその混乱の背後で、二つの天才が静かに対峙していた。
アアタドンは情報と欲望を操り、キムラヌートは秤と秩序で応じる。
――だが、どちらも同じ穴の狢だった。
どちらも“富”という幻想に囚われた亡者。
夜明け前、アアタドンは微笑みながら言った。
「結局、お前さんも僕も……“価値”がなければ死ぬ。違うか?」
その言葉に、キムラヌートの瞳がわずかに揺れた。
彼の中にある“恐怖”──「無価値」という言葉。
秤の針が、微かにぶれた。
それを見逃さず、アアタドンはさらに笑みを深めた。
「……やはり、人の心ほど、不安定な通貨はないな」
中央金庫都市の夜明けは、いつもよりもさらに鈍い銀色をしていた。
街灯の光は薄く、風は金属板のような音を残してすり抜ける。
夜半の爆発が吐き散らした煤と粉塵が空気を粘らせ、かつての秩序の装飾だけが割れた鏡のように街に映っていた。
中央金庫――国家の富と秩序を象徴する白亜の棟は、その心臓部をえぐられた。
コアとなるデータバンクは消え、デジタルの巨像は無言で崩れた。
銀の扉に刻まれた刻印は、ひび割れの隙間から灰色の世界を覗かせる。
「無貨主義教団か……」
キムラヌートはいつもの静けさで、しかし言葉の端に震えを含ませずにそう呟いた。
白い瞳は冷たく、がらんとした金庫室で秤を抱えている。
秤は今回も彼の判断基準であり、彼の世界で最後に残された物差しだった。
だが秤の皿は今、空っぽだった。そこに乗るはずの重みが、どこかへ消えていた。
「データを消し、物理的な富も奪う。単純だが徹底している」
背後から響く声は、あのアアタドンのものだった。
白髪は乱れていない。彼は煙草の火を弄びながら、にやりと笑った。
「裏の帳簿も、表の帳簿も。連中は『値札』を引き剥がそうとしただけさ」
「なぜこの都市を狙った」
キムラヌートが問う。
「答えは一つだ。価値の集中。中央金庫は富の心臓であり、そこを止めれば経済は痙攣する。教団はそれを望んだ」
アアタドンは肩をすくめる。
「彼らは宗教だ。信仰を持ち、教義に従っている。だが教義が、『価値なき救済』ではな。狂気はいつだって秩序を壊す」
それでも二人の言葉には同じ角度の焦りが混じっていた。
キムラヌートにとって、秩序は秤であり、秤を失うことは国家の心臓が止まることを意味した。
アアタドンにとって、帳簿と情報網――すなわち利害の源泉――を奪われることは、彼の存在理由が風に消えることを意味した。
「今回は同じ側だ」
アアタドンが淡々と言った。
「富の亡者同盟、な」
キムラヌートは微かに目を細めたが、頷いた。
互いに信用しない盟約。だが目的は一致していた――無貨主義教団(ムカしゅぎきょうだん)を潰すこと。
教団は過激で宗教的な狂信を持っていた。
彼らは値札を持つ者を「束縛された魂」と呼び、救済としてその縛りを断ち切る(殺す)ことを正義とした。
指導者は「白衣の預言者」――仮面で顔を覆い、ゼロへの帰依を説く聖職者だという。
教義はシンプルで残酷だった。価値を破壊せよ、すべての貨幣を、象徴を破壊せよ。
アアタドンは情報の裂け目を操り、潜入の糸口を編む。
キムラヌートは残存兵力で防御線を固める。
だが現場で二人はそれぞれ、思わぬ変化を目にする。
潜入したアアタドンの耳に入るのは、教団信者たちの祈りでも、理念の高説でもなかった。
それは刃を振るう者の静かな確信と、破壊がもたらす一種の清澄だ。
ある少女は、彼女が嗤うでも泣くでもなく、小さな紙切れを握りしめていた。
「昔は値札をつけてた。私はそれで笑えた。でも今は…軽い」と彼女は言った。
その無垢さは、アアタドンの胸に奇妙な穴をあける。
一方、キムラヌートは防衛に来た市民の一団を見た。
彼らは、かつて彼が秤にかけて「価値ゼロ」と断じた者たちではなかった。
年老いた商人、路地の修理屋、夜のパン屋――彼らは銀貨の流通が止まったことに恐怖し、しかし互いに物々交換で助け合っていた。
「秩序は金だけじゃない」と、キムラヌートは思う。
彼は秤を掲げる手に、わずかな揺らぎを感じた。
情報と力の同盟はやがて、教団の本拠地――「虚無の聖堂」へと至る。
聖堂はもともと倉庫だった場所を改装した巨大な空間で、白い布が天井から垂れ下がり、価値の象徴を焼き尽くした跡が残る。
信者たちの衣は粗末で、そこにあるのは確信と、徹底した否定だった。
最深部にて、白衣の預言者は待っていた。
仮面の後ろに潜む瞳は見えないが、声は知っていた――低く、しかしどこか聞き覚えのある音だった。
「リースか」
キムラヌートの喉を塞ぐように、過去の記憶が波打った。
かつて彼の右腕だった男、財務補佐官リース。
彼は鋭い頭脳と、かつては国家への忠誠を持ち合わせていた。
それがいつしか、富の偏在を憎む思想へと変容したのだという。
リースは笑わなかった。彼の中の熱病は治ることのない信念になっていた。
「キムラヌート、君は秤の守り手だ。だがその秤は誰のためにある?」
リースは問いかけた。
「国家か? 金持ちか? それとも自分自身の心の安定か?」
問いは刃のように降りかかる。
キムラヌートは答えられない。答えが秤の重みによって決まると信じていた彼にとって、信仰を以て価値を否定する者の言葉は、最も効く毒だった。
戦いは短く、しかし濃密だった。
信者たちの狂信は猛り、白衣の預言者はその場の空気を圧した。
アアタドンは遠隔で情報を切り替え、信者の動線を操り、外部の支援を遮断した。
キムラヌートは秤を握り、刃と刃を交わすたびに過去と現在がぶつかる。
クライマックスで、キムラヌートはリースと対峙する。
かつての仲間の顔が、仮面の後ろで歪む――怒りでも悲しみでもなく、救済への確信だ。
「僕はただ、自由を与えたかった」とリースは言う。
「無価こそ真の救いだ」
キムラヌートの手が震え、秤が床に落ちた。
金属の音が聖堂に冷たく響く。
彼は自分の中の尺度が壊れるのを感じた。だがそれは崩壊ではなく、何か別の始まりにも思えた。
最後の瞬間、キムラヌートは秤を掌で砕いた。
金属は軋み、針は折れ、銀色の断片が散った。
「価値を測らぬ秤だ」と彼は低く呟く。その声は、自分自身にも届かなかった。
破壊の後、教団は瓦解し、白衣の預言者は捕らえられた。
リースの眼差しは静かだった。彼は敗北を悔いたのか、それとも救済を果たせなかったことに安堵したのか――誰にも判じがたかった。
後日、中央金庫の廃墟の前で、二人は背を向けて立った。
灰色の朝が街を洗い、商人たちは重ね合わせた商品と、新しい値段の見当をつけていた。
アアタドンはぽつりと言った。
「お前さんは秤を壊した。つまり、お前も少しは“人間”になったってことだ」
キムラヌートはゆっくりと微笑んだ。歯は見えなかったが、その表情は柔らかかった。
「……だけど、僕は違う。次に君が富を取り戻したら、その半分は僕のものだ」
アアタドンの声には変わらぬ冷笑が含まれていたが、それでもどこか温度が戻っていた。
キムラヌートは秤の壊れた柄を見つめ、短く答えた。
「その言葉の価値は……銀貨一枚にも満たない」
二人はその場を去る。足跡は砂埃に吸われ、街はまた別の秩序を模索し始めた。
だが世界は変わってはいなかった。富に溺れる者、影で蠢く者、そして新しい教義を抱く者が、それぞれの場所で息をしている。
中央金庫都市の夜は、やはり金属の匂いがするだろう。
だが、その匂いの中には、かつてなかった清澄と、不穏な予感も混じっていた。人々の価値観は揺らぎ、秤の針はいつか再び動き出す。
そうして物語は続く――価値を巡る新たな帳簿が、静かに書かれ始めるのだ。
街灯さえ銀色に磨かれ、通りを歩く者の靴音が硬貨のように響く。
その中心にそびえるのが──銀警官本庁舎「中央金庫」
国家の富が集まる場所であり、同時に最も冷たい心が息づく場所でもあった。
キムラヌートは白い瞳を細め、秤を掲げた。
銀盤の上には一枚の血塗れた証書が置かれている。
「この裏取引に関与した官吏は……価値ゼロ」
秤の針が音もなく中央に沈み、次の瞬間、刃が閃いた。
男の叫びが響くより早く、床に銀の滴が弾けた。
「価値なきものは、存在する理由もない」
静かに言い放ち、キムラヌートは手を拭った。
その背後で、暗闇からひとりの男が拍手を送る。
「相変わらずだな、銀の守護者。情けという名の投資は、まだ…お前さんの帳簿には載らんか」
声の主は、白髪の男──アアタドン。
闇市場を支配する情報屋であり、銀警官の裏側を動かす影の調整者だ。
常に笑みを浮かべているが、その瞳の奥には無数の取引が渦巻いている。
「アアタドン。君のような亡霊がここに来るとは珍しいな」
「取引のためさ。お前の“価値観”に興味を持った者がいてね」
アアタドンは軽やかに指を鳴らす。
すると背後の闇から、黒い契約書が浮かび上がった。
それは国境を越える密輸網の帳簿──国家を裏から支える“もう一つの経済”だった。
「お前さんが動かす表の富と、僕が握る裏の富。どちらが真に国家を支配しているか、試してみないか?」
「……挑発か」
「取引だよ、キムラヌート。欲望の重さを測る、秤の勝負だ」
数日後、中央金庫都市は奇妙な静寂に包まれた。
市場の価格が狂い、通貨の価値が一晩で二度も反転した。
人々は叫び、商人たちは絶望した。
だがその混乱の背後で、二つの天才が静かに対峙していた。
アアタドンは情報と欲望を操り、キムラヌートは秤と秩序で応じる。
――だが、どちらも同じ穴の狢だった。
どちらも“富”という幻想に囚われた亡者。
夜明け前、アアタドンは微笑みながら言った。
「結局、お前さんも僕も……“価値”がなければ死ぬ。違うか?」
その言葉に、キムラヌートの瞳がわずかに揺れた。
彼の中にある“恐怖”──「無価値」という言葉。
秤の針が、微かにぶれた。
それを見逃さず、アアタドンはさらに笑みを深めた。
「……やはり、人の心ほど、不安定な通貨はないな」
中央金庫都市の夜明けは、いつもよりもさらに鈍い銀色をしていた。
街灯の光は薄く、風は金属板のような音を残してすり抜ける。
夜半の爆発が吐き散らした煤と粉塵が空気を粘らせ、かつての秩序の装飾だけが割れた鏡のように街に映っていた。
中央金庫――国家の富と秩序を象徴する白亜の棟は、その心臓部をえぐられた。
コアとなるデータバンクは消え、デジタルの巨像は無言で崩れた。
銀の扉に刻まれた刻印は、ひび割れの隙間から灰色の世界を覗かせる。
「無貨主義教団か……」
キムラヌートはいつもの静けさで、しかし言葉の端に震えを含ませずにそう呟いた。
白い瞳は冷たく、がらんとした金庫室で秤を抱えている。
秤は今回も彼の判断基準であり、彼の世界で最後に残された物差しだった。
だが秤の皿は今、空っぽだった。そこに乗るはずの重みが、どこかへ消えていた。
「データを消し、物理的な富も奪う。単純だが徹底している」
背後から響く声は、あのアアタドンのものだった。
白髪は乱れていない。彼は煙草の火を弄びながら、にやりと笑った。
「裏の帳簿も、表の帳簿も。連中は『値札』を引き剥がそうとしただけさ」
「なぜこの都市を狙った」
キムラヌートが問う。
「答えは一つだ。価値の集中。中央金庫は富の心臓であり、そこを止めれば経済は痙攣する。教団はそれを望んだ」
アアタドンは肩をすくめる。
「彼らは宗教だ。信仰を持ち、教義に従っている。だが教義が、『価値なき救済』ではな。狂気はいつだって秩序を壊す」
それでも二人の言葉には同じ角度の焦りが混じっていた。
キムラヌートにとって、秩序は秤であり、秤を失うことは国家の心臓が止まることを意味した。
アアタドンにとって、帳簿と情報網――すなわち利害の源泉――を奪われることは、彼の存在理由が風に消えることを意味した。
「今回は同じ側だ」
アアタドンが淡々と言った。
「富の亡者同盟、な」
キムラヌートは微かに目を細めたが、頷いた。
互いに信用しない盟約。だが目的は一致していた――無貨主義教団(ムカしゅぎきょうだん)を潰すこと。
教団は過激で宗教的な狂信を持っていた。
彼らは値札を持つ者を「束縛された魂」と呼び、救済としてその縛りを断ち切る(殺す)ことを正義とした。
指導者は「白衣の預言者」――仮面で顔を覆い、ゼロへの帰依を説く聖職者だという。
教義はシンプルで残酷だった。価値を破壊せよ、すべての貨幣を、象徴を破壊せよ。
アアタドンは情報の裂け目を操り、潜入の糸口を編む。
キムラヌートは残存兵力で防御線を固める。
だが現場で二人はそれぞれ、思わぬ変化を目にする。
潜入したアアタドンの耳に入るのは、教団信者たちの祈りでも、理念の高説でもなかった。
それは刃を振るう者の静かな確信と、破壊がもたらす一種の清澄だ。
ある少女は、彼女が嗤うでも泣くでもなく、小さな紙切れを握りしめていた。
「昔は値札をつけてた。私はそれで笑えた。でも今は…軽い」と彼女は言った。
その無垢さは、アアタドンの胸に奇妙な穴をあける。
一方、キムラヌートは防衛に来た市民の一団を見た。
彼らは、かつて彼が秤にかけて「価値ゼロ」と断じた者たちではなかった。
年老いた商人、路地の修理屋、夜のパン屋――彼らは銀貨の流通が止まったことに恐怖し、しかし互いに物々交換で助け合っていた。
「秩序は金だけじゃない」と、キムラヌートは思う。
彼は秤を掲げる手に、わずかな揺らぎを感じた。
情報と力の同盟はやがて、教団の本拠地――「虚無の聖堂」へと至る。
聖堂はもともと倉庫だった場所を改装した巨大な空間で、白い布が天井から垂れ下がり、価値の象徴を焼き尽くした跡が残る。
信者たちの衣は粗末で、そこにあるのは確信と、徹底した否定だった。
最深部にて、白衣の預言者は待っていた。
仮面の後ろに潜む瞳は見えないが、声は知っていた――低く、しかしどこか聞き覚えのある音だった。
「リースか」
キムラヌートの喉を塞ぐように、過去の記憶が波打った。
かつて彼の右腕だった男、財務補佐官リース。
彼は鋭い頭脳と、かつては国家への忠誠を持ち合わせていた。
それがいつしか、富の偏在を憎む思想へと変容したのだという。
リースは笑わなかった。彼の中の熱病は治ることのない信念になっていた。
「キムラヌート、君は秤の守り手だ。だがその秤は誰のためにある?」
リースは問いかけた。
「国家か? 金持ちか? それとも自分自身の心の安定か?」
問いは刃のように降りかかる。
キムラヌートは答えられない。答えが秤の重みによって決まると信じていた彼にとって、信仰を以て価値を否定する者の言葉は、最も効く毒だった。
戦いは短く、しかし濃密だった。
信者たちの狂信は猛り、白衣の預言者はその場の空気を圧した。
アアタドンは遠隔で情報を切り替え、信者の動線を操り、外部の支援を遮断した。
キムラヌートは秤を握り、刃と刃を交わすたびに過去と現在がぶつかる。
クライマックスで、キムラヌートはリースと対峙する。
かつての仲間の顔が、仮面の後ろで歪む――怒りでも悲しみでもなく、救済への確信だ。
「僕はただ、自由を与えたかった」とリースは言う。
「無価こそ真の救いだ」
キムラヌートの手が震え、秤が床に落ちた。
金属の音が聖堂に冷たく響く。
彼は自分の中の尺度が壊れるのを感じた。だがそれは崩壊ではなく、何か別の始まりにも思えた。
最後の瞬間、キムラヌートは秤を掌で砕いた。
金属は軋み、針は折れ、銀色の断片が散った。
「価値を測らぬ秤だ」と彼は低く呟く。その声は、自分自身にも届かなかった。
破壊の後、教団は瓦解し、白衣の預言者は捕らえられた。
リースの眼差しは静かだった。彼は敗北を悔いたのか、それとも救済を果たせなかったことに安堵したのか――誰にも判じがたかった。
後日、中央金庫の廃墟の前で、二人は背を向けて立った。
灰色の朝が街を洗い、商人たちは重ね合わせた商品と、新しい値段の見当をつけていた。
アアタドンはぽつりと言った。
「お前さんは秤を壊した。つまり、お前も少しは“人間”になったってことだ」
キムラヌートはゆっくりと微笑んだ。歯は見えなかったが、その表情は柔らかかった。
「……だけど、僕は違う。次に君が富を取り戻したら、その半分は僕のものだ」
アアタドンの声には変わらぬ冷笑が含まれていたが、それでもどこか温度が戻っていた。
キムラヌートは秤の壊れた柄を見つめ、短く答えた。
「その言葉の価値は……銀貨一枚にも満たない」
二人はその場を去る。足跡は砂埃に吸われ、街はまた別の秩序を模索し始めた。
だが世界は変わってはいなかった。富に溺れる者、影で蠢く者、そして新しい教義を抱く者が、それぞれの場所で息をしている。
中央金庫都市の夜は、やはり金属の匂いがするだろう。
だが、その匂いの中には、かつてなかった清澄と、不穏な予感も混じっていた。人々の価値観は揺らぎ、秤の針はいつか再び動き出す。
そうして物語は続く――価値を巡る新たな帳簿が、静かに書かれ始めるのだ。



