あれから俺たちは、重たい空気のまま、口数も少なく帰宅した。
家に帰ってから謝ろうとしたけれど、そんな勇気も出ないまま朝を迎えてしまう。
(あぁ、学校で狼君に会うのが憂鬱だなぁ)
狼君と付き合ってからは、学校へ行くことが楽しみだったのに、今日は憂鬱で仕方がない。
別に喧嘩をしたわけではないのだけれど、俺は狼君を一方的に拒絶してしまった。あのまま狼君を受け入れることができたのであれば、こんな憂鬱な思いをせずにすんだだろうか。
でも俺は怖かった。
あの時の狼君は、本物の狼のように見えたから。
あのまま食べられてしまったかもしれない。心のどこかではそれを望んでいたはずなのに、いざその場面になった時、俺の体は狼君を拒絶してしまった。
(狼君、傷ついた顔してたなぁ)
顔を洗って鏡を見ると、平凡な青年が目の前にいる。そんな自分の顔にがっかりしてしまう。
狼君はこんな平凡な俺に欲情してくれた。あんなイケメンが、こんな俺に……。
そう思うと、狼君を拒絶してしまったことを強く後悔する。
自分はもう、狼君に嫌われてしまったのだろうか? そんなことを考えると、心が張り裂けそうに痛む。
『風兎君、ごめん。また明日』
昨日の別れ際、狼君が寂しそうに笑う。その笑顔を見た瞬間、泣きたくなってしまった。
(狼君と仲直りできるかな)
大きく息を吐いてから、憂鬱な思いで制服に袖を通した。
学校に着くと、無意識に狼君のことを探してしまう。
でも、もし今狼君に会ってしまったら、自分は一体どんな反応をすればいいのだろうか? いつも通り「おはよう」と笑うことができるか、不安でならない。
そんなことを考えながら、一年生の下駄箱のほうを眺めていると、狼君がやってくる。その姿を見た瞬間、俺の心臓が跳ね上がる。
狼君と会えたことがこんなにも嬉しいのに、どうしたらいいのかがわからない。俺の心の中は、再び葛藤を始めてしまう。やっぱり恋愛をするということは、こんなにも苦しいものなのだと思い知った。
臆病者の俺はいつものように挨拶するどころか、狼君の顔を見ることさえできない。ただ黙って俯いた。
「狼君、昨日はごめんね」と伝えたくて、昨日から何度も頭の中でシミュレーションをしてきた。でも、いざ狼君を目の前にすると体が固まって動かなくなってしまう。声すら出すこともできず、俺は唇を噛む。
「風兎先輩」
そんな俺の肩をそっと叩いたのは狼君だった。
「話があるから、昼休み、体育館の倉庫に来てもらえないかな?」
「体育館の倉庫?」
「そう。あそこなら昼休みでも誰もこないから、ゆっくり話ができると思って。だから、来てもらえるかな?」
「うん。わかった」
俺が静かに頷くと、不安そうに顔を強張らせていた狼君が大きく息を吐く。それから、安堵したような顔で微笑む。
「よかった。じゃあ、昼休みな」
「うん」
そう言い残すと、狼君は俺に背を向ける。その瞬間、俺の体から力が抜けて、その場に座り込んでしまいそうになった。
(話ってなんだろう……)
狼君と別れてから、俺は授業中にも関わらず上の空だった。
(もしかして別れ話とか……)
どうしても、最悪の結末しか想像することができない。
あんな風に拒絶してしまったんだ。きっと狼君は傷ついて、俺のことが嫌いになってしまったのかもしれない。きっとそうだ……。
覚悟をしてきたはずなのに、「別れよう」と言われることを想像しただけで、大声をあげて泣きたくなってくる。いっそのこと、仮病を使って早退をしてしまおうか……。そんなことまで考える始末だ。
俺の席は窓際だから、空がよく見える。今日の空は雲一つない晴天だ。気持ちいい風も教室の中を吹き抜けていく。
そして、もうすぐ四時限目の終わりを知らせるチャイムが鳴る時間だ。
「よし、行こう」
チャイムが鳴ると同時に、俺は教科書を閉じて深く呼吸をした。
狼君が指定したのは体育館の中にある倉庫。そこには体育や部活で使うボールやマットが、きちんと整理して置かれている。小さな窓が一つしかない倉庫は、昼間だというのに薄暗い。それに埃っぽい。
倉庫の隅にはバスケットボールが籠に入れて置かれている。狼君はいつもこのボールを使ってバスケをしているんだ……。そういう風にバスケットボールを見ると、それさえも愛おしく感じられた。
(……俺は、こんなにも狼君のことが好きなんだ)
幼い頃の「結婚しようね」なんて約束を、律義に守ってくれた狼君。どこまでも真面目で、なんて真っすぐな人間なのだろうか。
そんな狼君にいつしか惹かれ、今ではこんなにも彼のことが好きになってしまった。
「狼君、まだ来てないのか」
俺は何枚か重ねられたマットの上に蹲る。
(狼君は、一体どんな話をするんだろう)
そんなことを考え始めると、どんどん怖くなってしまう。
怖いのに、早く狼君に会いたい。
会いたい……。
「狼君……。雅狼君。会いたい……」
そう呟いて目を閉じた。昨日色々なことを考えていたら眠れなかった俺は、少しずつ意識が遠のいていくのを感じた。
「風兎君、風兎君」
「んん……?」
「ごめんな。待たせちゃって。もしかして寝てた?」
「ううん。大丈夫。狼君が来てくれてよかった……」
「風兎君……」
背中から温かなものに抱き締められた俺は、現実へと引き戻される。
「会いたかった」
背中から抱き締められた俺は、その温もりと、柔軟剤の優しい匂いに包まれて胸がいっぱいになる。振り向かなくてもわかってしまう。今、俺を抱き締めてくれているのは狼君だ。「会いたかった」と小さく呟いた狼君の声が掠れている。
(狼君、もしかして泣いてる?)
早く狼君の顔が見たくて、俺はその腕の中で向きを変えた。
俺だって会いたかったよ――。
そんな思いが溢れ出して、俺は狼君の腕の中に自ら飛び込む。「やめろ」と拒絶されるかもしれない、なんて全く思わなかった。だって、俺を見つめる狼君の瞳は、いつもみたいに優しかったから。
だから、俺は安心して狼君に体を預ける。そんな俺を、狼君はぎゅっと抱き締め返してくれた。
(よかった。嫌われてない……)
俺は安堵しながら、狼君の胸に頬ずりをする。
「あのさ、風兎君」
「ん?」
狼君の腕の中は気持ちよかったのに――。俺は狼君から体を引き離されてしまう。突然なくなってしまった温もりが恋しくて、俺は狼君の手をそっと握った。
握り締めた狼君の手は、いつもみたいに大きくて温かい。狼君も俺の手を強く握り返してくれる。でも、その手が震えていたから、俺は咄嗟に狼君の顔を見上げた。
「風兎君、昨日はごめん。俺が急にあんな風に迫ったから、風兎君、怖かったよな?」
「狼君……」
「俺、風兎君に嫌われたらどうしたらいいのかがわからない。俺、風兎君に嫌われたくない。だから、ごめん。本当にごめんな」
狼君の切れ長の瞳からは、ビー玉みたいな涙がポロポロと溢れ出す。その温かな涙が、繋がれた二人の手の上に音もなく落ちる。
「ごめんね、風兎君。俺のこと嫌いになった?」
「そんなことない……」
「嫌いになったよな……」
「嫌いになんかなってないよ!」
俺は無我夢中で狼君を抱き締めた。
(嫌われたかもって怖かったのは、狼君も同じだったんだ)
それに気づいた俺は、彼を抱き締めずにはいられなかった。
幼稚園児だった頃、園庭で転んで泣いている狼君に「痛いの痛いの飛んでいけ」とお呪いをかけてあげた時のことを思い出す。
転んで、痛くて泣いている狼君と、今腕の中で涙を流す狼君の姿がダブって見えた。
狼君は、あの頃から変わってない。
俺は優しく狼君の髪を撫でてやった。「痛いの痛いの飛んでいけ」と心で唱えながら。
「俺だってごめんね。あんな風に狼君を拒絶しちゃって……。傷ついたよね?」
本音を吐露した瞬間、俺の目からも涙が溢れ出す。
そう言えば、昔あまりにも泣き止まない狼君に困ってしまって、俺まで一緒に泣いたことがあったことも思い出した。
高校生にまでなって、こんな風に一緒に泣いているなんて――。
あの頃と全然変わってないな、なんて思うと可笑しくもなってくる。
でも、全然変わってないところも嬉しい。
でもこれからは、少しだけ大人になって、お互いの涙を拭いあえる……。
そんな関係になっていけるはずだ。
「俺は狼君のことが好きなんだ。でも、俺は臆病者だから怖かった。あんなに可愛かった狼君が、年上の俺を追い抜いて、どんどん大人になっちゃうことが……」
「そんなことない」
「ちょっと待って、狼君。俺を置いていかないで? 一人で大人にならないでよ」
「違う。そうじゃないんだ!」
俺の腕の中で狼君が首を横に振る。その仕草も小さい頃と変わってなくて、とても愛おしい。
「ごめん、風兎君。俺年下だから、早く大人にならなくちゃって。頑張らなきゃって焦ってた」
その言葉を聞いた俺は、思わず目を見開く。
俺だって、年上だからしっかりしなくちゃって、スマートな恋愛をしなくちゃって焦っていた。俺を置いて大人へと成長していく狼君に追いつくんだ、って必死だった。
「なんだ、俺たち同じだったんだね」
狼君の本音を聞いた瞬間、「好き」という思いが溢れ出して、心の中がいっぱいになってしまう。
俺は、狼君が好き。
大好き。
「狼君……」
「雅狼だよ。俺は雅狼」
「雅狼君……」
狼君のことを名前で呼んだことはなかったから、何だか恥ずかしくて。顔を見合わせて二人で笑う。
でも、やっぱり大好き。
「雅狼君。俺、キスなら頑張れるかも……」
「本当に? キスしていいの?」
「うん」
「頬っぺたじゃなくて、今度は唇にするよ?」
「だから大丈夫だって」
そう言ったものの照れくさくなってしまった俺は、俯いてしまう。
やっぱり怖いし、恥ずかしい……。
そんな俺の唇を、狼君が愛おしそうに撫でてくれる。それから、狼君が静かに瞳を閉じた。
「雅狼君、やっぱりちょっと待って」
「駄目、待てない」
「待って、ん、ん……ッ」
ちょっと待ってと言おうとした俺の唇に、ふわりと温かくて柔らかいものが触れる。
あ……、と思う間もなく、離れていった唇がもう一度重なって――。
ちょっと待って、狼君。
俺は、その言葉が言えなかった。
【END】



