朝登校すると、昇降口で狼君を見つける。「今日もかっこいいな」なんて思いながら少しだけ眺めていると、大きな欠伸をしている。
きっと昨日も夜遅くまで電話をしていたから、眠いんだろうなって可笑しくなってしまう。そんな俺だって、朝なかなか布団から出ることができなかったんだけど。
「おはよう、狼君」
「あ、風兎先輩。おはよう」
声をかけると、狼君がにっこりと微笑みながら俺に駆け寄ってくる。
そんな俺たちをチラチラと盗み見る生徒の視線が気にはなるけれど、狼君はそんなことはどこ吹く風だ。
狼君が俺たちの交際宣言をしてから、予想していた通り俺たちは学校中の噂の的になってしまう。みんなから向けられる好奇の目に、心は折れそうになったのは事実だ。でも、元々仲の良かった友達は変わらず接してくれたし、何よりも狼君が俺のことを気遣ってくれた。
だから俺は、今も狼君と交際を続けることができている。
「風兎先輩。今日は部活がない日だから一緒に帰れるよ」
「本当? 嬉しいなぁ」
「じゃあ、放課後昇降口で待ち合わせよう」
「わかった」
こんな何気ない会話が楽しくて仕方がない。
俺は自然と上がってしまう口角を抑えながら、足取り軽く教室へと向かったのだった。
俺は今、学校が楽しくて仕方がない。
重たい足取りで上っていた階段も、今ではスキップをしながら駆け上がることができる。校長先生の長い話が怠かった全校集会も、狼君の姿を見ることができると思えば楽しみで仕方がない。
きっと今まで憂鬱だった、陰キャが苦手とする、文化祭や体育祭だって楽しいはずだ。
だって、学校に来れば狼君に会える。
俺の毎日は、まるで宝石のように輝いて見えた。
その日は全校生徒が集まり、外部講師の講習会が行われた。その授業は体育館で行われるから、狼君の姿がみられる……と俺の心は弾む。
体育館でキョロキョロしていると、狼君を見つける。彼は背が高いから、こういった時に見つけやすい。狼君も俺を見つけてくれたらしく、ニコッと微笑んでから手を振ってくれる。俺は嬉しくなってしまい、周りの目も気にせずに手を振り返してしまった。
今日これから始まる講習は、保健体育。いわゆる、性教育ってやつだ。お年頃の高校生を集めて、正しい性の知識を学ぼう、ということが目的らしい。
周りの友達は、ちらほら彼女がいたりする。今までの俺は、そんな友達の卑猥な話を盗み聞きしては「ひゃー!」と頬を赤らめていた。
でも今日の俺はそうじゃない。ちゃんと性の知識を身につけて、狼君との実践に役立てたいと思っている。
前、狼君が「勉強しておくね」って言っていたから、俺だって勉強をしなくちゃ狼君に失礼に当たる。俺は鼻息も荒く、外部の先生の話を真剣に聞いた。
講義が始まり、ニヤニヤしながら聞いている生徒もいれば、全く興味がない、といった感じの生徒もいる。
俺はといえば、先生の話が進んでいくうちに、心の中がザワザワしていくのを感じた。
「いいですか? 皆さん。望まない妊娠を避けるためには……」
妊娠――。俺はその言葉に大きな衝撃を受ける。
当たり前だけれど、そういったことは男女がするもので、男同士がすることではない、という現実を叩きつけられた気がしたのだ。
でもそれは、仕方のないことなのかもしれない。だって、男と女では体の作りが違うのだから。
(そっか……。エッチなことって、男同士ではできないんだ)
そうガッカリしてしまう自分に、俺自身が戸惑いを感じる。俺は狼君とエッチなことがしたいと無意識に思っていた。それが信じられなかったのだ。
まだキスさえしたこともない俺たちが、そんなことを考えることは気が早いのかもしれない。でも遅かれ早かれ、そういった日はいつか来るものだと、疑いもしなかった。
遠くに座っている狼君を盗み見ると、真剣に先生の話を聞いている。
いつか来る未来のために勉強をしようと意気込んでいた俺は、溜息を吐きながら体育座りをしている自分の足の中に顔を埋めた。
(頑張って勉強しようと思ってたのにな……)
狼君と体を重ねて、愛の言葉を囁き合う。そんな甘い夢は、たった今崩れ去ってしまう。
(どうして俺は、女の子に生まれてこなかったんだろう)
そう考えると、鼻の奥がツンとなる。
講義の終わりに避妊具を配られたけれど、俺たちはこれを使うことはないんだ……と、制服のポケットの奥に突っ込んだのだった。
放課後、約束通り狼君と昇降口で待ち合わせて、肩を並べて歩き出す。
今日一日、俺は講義のことで頭がいっぱいだった。
俺たちは、どんなに想い合っても、男女のように体を重ねることはできない。それが、とても寂しかった。
「ねぇ、狼君」
「ん? どうした?」
俺が意を決して狼君を見上げると、きょとんとした顔をしている。こんなにも俺は悩んでいるのに、いつもと変わらず飄々としている狼君を見ていると、少しだけイライラしてきてしまう。
それと同時に、悲しい気持ちになってしまった。
狼君、ごめんね。俺が女の子じゃなくて――。
「狼君、今日の性教育の講習どうだった?」
「どうって、突然なんだよ? なんかあった?」
突然の問いかけに、狼君が目を見開く。俺は構わず話を続けた。
「狼君は、今日の講習を受けて何も感じなかったの?」
「え? ちょっと待って。逆に何を感じればよかったんだよ?」
狼君の態度に、段々イライラが増してきてしまった俺は、つい口調が強くなってしまう。
だって、こんな悲しいことないだろうに……。
「俺たちは男同士だから、今日講習で習ったようなことができないんだよ? 狼君は悲しくないの?」
「は?」
「だって、エッチなことは男女でしかできないんでしょう? だから俺たちは一生愛し合うことができないんだ……。そう思うと、凄く悲しかった」
「風兎君」
狼君が心配そうに俺の顔を覗き込む。俺は今にも泣きそうな顔をしていたから、慌てて顔を背けた。
「そっか。風兎君はそんな心配してたんだな」
それから俺の顔を見て微笑む。その笑顔に、俺の胸が締め付けられた。
「風兎君、ちょっとこっちに来て」
「え? ちょ、ちょっと、どうしたの?」
「ここじゃ、話せない内容だから」
何が何だかわからないまま、俺は細い路地に引きずり込まれてしまう。
そこは普段誰も通らないような、狭い砂利道だった。
「風兎君、俺勉強しておくから、って約束したよね?」
「あ、うん」
「これ見て」
「えっ!? ちょっと待って、突然なにこれ!?」
「いいから見て!」
狼君は突然スマホを制服のポケットから取り出し、俺の目の前に差し出す。そこには、裸で抱き合う男の子たちの映像が流されていた。
(こ、これって、も、もしかしてこれ、ゲイビデオってやつでは……!?)
俺は突然目の前に差し出された映像に、声を発することができない。
(噂には聞いてたけど、本当にあるんだ……。す、すごい……)
初めて見るゲイビデオに、一瞬で釘付けになってしまった。
「風兎君、男同士でもエロイことってできるんだよ」
「はぁ……」
「俺、風兎君と付き合ってから、こういう動画をたくさん見て勉強してるんだ」
「え? そうなの?」
「うん。だって、男同士でもこうやってエロイことができるんだから」
俺は狼君に見せられた動画を、つい食い入るように見つめた。女の子役の男優さんは、男役の男優さんに抱かれて、甘い声をあげている。
(二人とも、すごく気持ちよさそう……)
激しく交わされる口づけに,熱い抱擁――。
そんな映像を見ているうちに、全身が火照りだし、下半身がムズムズしはじめる。俺は、今まで知らなかった扉を開けてしまった気がした。
「男同士でも、こういうことができるんだ」
「そうだよ。だって男にも、一応穴はあるし」
「へ? 穴、って?」」
「俺だって知らなかったから勉強したの! これ以上言わせんなよ。恥ずかしいだろう!」」
狼君は照れ隠しなのか、顔を真っ赤にしながらそっぽを向いてしまう。
でも、こういうのを見て勉強してくれてたんだ。俺は嬉しかったけれど、恥ずかしくなってしまう。
「俺は、いつか風兎君を抱きたいと思ってる」
「俺を、抱きたい……」
「うん。俺、風兎君とエロイことしたい」
突然、狼君に塀に押しつけられてしまった俺は、身動きがとれなくなってしまう。塀の冷たい感覚が伝わってきて、それが恐怖心へと変わっていく。
「ろう、くん……」
恐る恐る名前を呼ぶと、そこにはいつもと違う狼君がいた。
呼吸は荒く、体温が高くなっているのがわかる。
切れ長の瞳は、いつも優しく細められるのに、今日はギラギラとしているように見えた。
「風兎君、ううん、風兎。俺は風兎とエロイことがしたい」
「ろ、狼君……。急に、どうしたの……?」
「俺は、風兎とエロイことをすることばかり想像してきた。だって、俺は狼なんだよ?」
恐怖からひゅっと喉が鳴る。逃げ出したくても、体に力が入らず思うように動けない。
(狼君が怖い……)
体が小さく震えて、その場に崩れ落ちそうになるのを堪える。
「風兎は俺の想像以上に初心だったから、今まで我慢してきたけど……。少しだけ、エロイことしていい?」
「でも……誰かがきたら……」
「大丈夫。こんな所に来る人なんていないよ」
「でも、でも……」
「少しだけだから、お願い」
「でも、狼君……」
「いいかから、黙っててよ」
そう囁く狼君に俺は抱き締められてしまう。その腕から逃れようと体を捩っても、力で狼君に勝てるはずなんてない。
(兎は狼には勝てないんだ)
ギュッと目を閉じて唇を噛み締める。
(こんな狼君を、俺は知らない……)
涙が溢れ出してきてしまったから、俺は狼君の制服に爪を立てた。
俺だって狼君とエロイことがしたいと思っていた。でも、いざとなると怖い。こんなことならば、俺もちゃんと勉強をしておけばよかったと、今になって後悔した。
「風兎……」
「んッ」
「風兎、可愛い」
首筋に狼君の吐息を感じて、俺は思わず身震いする。頭の中が真っ白になって、呼吸がどんどん浅くなっていく。
(怖い。怖いよ、狼君……!)
俺は最後の力を振り絞り、狼君の体を突き飛ばす。狼君は大きくバランスを崩し、よろめいた。
俺は狼君のことが大好きだ。名前を呼び捨てで呼ばれて、可愛いとも言ってもらえた。俺はそれがすごく嬉しい。嬉しいけど、でも……。
「狼君、ちょっと待って!」
俺は大きな声で叫ぶ。目からはボロボロと涙が溢れ出し、情けないことに体も震えている。
狼君を見れば、狼君も今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「待ってよ、狼君……」
「風兎君……」
「待って……」
込み上げる涙を制服の袖で拭う。
俺と狼君は、何も言えないままその場に立ち尽くす。
子どもたちに帰宅を呼びかける「夕焼け小焼け」の音楽が、静かな空間に響き渡った。



