「今日部活が早く終わると思うから、一緒に帰ろう? 少しだけ体育館で待っててくれない?」
狼君が俺の顔を覗き込んできたから、俺は迷うことなく「うん」と頷いた。
少しの時間でも一緒にいたい――。いつからか、俺の中に芽生えていた思い。
それに、こうやって狼君がバスケをしているところを見ることも好きだ。狼君は背も高いし、運動神経もいいから、一年生でもきっとレギュラーになれるだろう。俺はそう思っている。
狼君目当てに、数人の女子生徒が体育館に来ているようだけれど……。今の俺にはそんなことなんて気にならない。
(だって、狼君が好きなのはこの俺なんだ)
そう思えるようになったから。
逆に、「俺の彼氏はかっこいいだろう!」と自慢したいくらいだ。かといって、俺はそんな度胸を生憎持ち合わせてはいないのだけれど。
それに、俺の心に引っかかっているものがある。それは魚の小骨のように、突き刺さってなかなか飲み込むことができない。
(俺は、こんなにも狼君に大切に思われているのに、俺は彼のことを一瞬でも疑ってしまった)
その罪悪感は時間がたつとともに消えるどころか、どんどん傷口が広がっているようにさえ感じられる。
(俺は、狼君を信じることができなかったんだ)
後悔の想いは、水にインクを垂らした時のように徐々に俺の心の中に広がっていく。
「雅狼、ナイッシュー!」
狼君の打ったシュートは綺麗な弧を描き、まるで、ゴールへとボールが吸い込まれるように入っていく。
そんなスカッとするようなゴールを見ても、俺の心は晴れることなんてない。
「こういう時、恋人ならどうするんだろう」
頭の中で試行錯誤する。正直に疑ってしまったことを伝えて謝罪すべきなのだろうか? それとも自分の心の中に閉じ込めておいたほうがいいのだろうか?
正直に打ち明けなければ、狼君が傷つくことはない。
でも俺は、狼君に嘘をつき続けることも嫌だった。
「恋人って難しい……」
俺は小さな声で唸りながらその場に座り込む。その時、頭の上から狼君の声が聞こえてきた。
「風兎先輩大丈夫? どこか体調悪いとか?」
「あ、ううん。なんでもない」
「そっか。もう練習終わったよ。片付けと掃除をしてくるから、もう少しだけ待ってて」
「うん、わかった」
嬉しそうに笑いながらコートへと戻っていく狼君の後姿を、ぼんやりと見つめる。
嘘はつきたくないけど、傷つけたくない――。
「どうしたらいんだろう……」
俺は大きく息を吐いてから、一生懸命コートの掃除をする狼君を見つめる。
あーでもない、こーでもないと試行錯誤していると、「お待たせ、風兎先輩」といつの間にか制服に着替えた狼君が迎えに来てくれたのだった。
それからも俺は上の空だった。狼君は俺の隣で楽しそうに今日あった出来事を話してくれているのに、その話が全く耳に入ってこない。
代わりに罪悪感だけは、どんどん強くなっていった。
「ねぇ、風兎君、聞いている?」
「え? ごめん。あ、えっと、なんだっけ?」
狼君に名前を呼ばれた俺は、咄嗟に顔を上げる。「風兎先輩」から「風兎君」に戻った瞬間、俺は最近気恥ずかしさを感じてしまう。先輩と後輩から、恋人同士に戻ったような気がしてしまうのだ。
こうなってしまうと、突然狼君を彼氏と意識してしまう。狼君は学校にいる時と変わらないのに、俺が一人で勝手に意識してドキドキしているだけなのだけれど……。
「どうしたんだよ? さっきからボーっとしてるよ」
「べ、別に、ちょっと考え事をしてただけだから大丈夫だよ」
「本当に? 何か隠してない?」
突然狼君に手を握られた俺は、立ち止まって振り返る。振り返った先には、不安そうに俺を見つめる狼君がいる。
ここは学校から少し離れた場所だけど、手を繋いでいるところを誰かに見つかったらどうしよう……と、辺りの様子を無意識に伺ってしまった。
「ねぇ、やっぱりさっきの先輩たちに、『俺たちが付き合ってる』って言ったことを気にしてんの?」
「え?」
「俺、風兎君に断りもなくあんなことを言っちゃったから、怒ってるのかなって……」
唇を噛み締めながら俯く狼君。俺の手を握る手に、更に力が込められた。
俺は全く違うことを考えていたから、狼君の言葉に正直驚いてしまう。確かに明日、学校中の噂になっていることだろう。すでにSNS上では騒ぎになっているかもしれない。
でも、そんなことより――。
「確かにあの発言にはびっくりしたけど、全然怒ってないよ」
「本当に?」
「本当だよ。もし俺の態度がそう思わせてしまっていたならば、ごめんね」
困ったような顔をしている狼君に、素直に謝罪する。
「でも、俺、正直嬉しかったんだ。狼君が俺たちの関係を隠さないでいてくれて。それだけ、好きだって思っていてくれてたんだって……嬉しかった、から……」
「風兎君」
恥ずかしくて最後のほうは、狼君の耳まで届いただろうか?
聞こえてほしかったけれど、聞こえてほしくない。
恋愛って、こんなにも気持ちが大忙しになってしまうのだと、狼君と付き合って初めて知った。
いろんなことを考えて、嬉しくなったり落ち込んだり……。心が追い付いてきてくれない。恋愛経験がほぼない俺からしてみたら、恋愛をするということは、とても難しいことに感じられた。
「じゃあ、なんでそんなに元気がないんだよ?」
「そんなことない。元気だよ」
「嘘だ。絶対俺に何かを隠してる」
幼馴染の鋭いツッコミに、思わずたじろいでしまった。きっと狼君の前でいくら取り繕ったとしても、きっとごまかしきれないだろう。
(勇気を出して打ち明けよう)
覚悟を決めた俺は、狼君の手を今度は自分から握り返した。
「さっき、優希って子に『私と中村君は付き合ってる』って言われたとき、狼君のことを疑ってしまったんだ。もしかしたら、本当にこの子と狼君は付き合っていて、俺は狼君に弄ばれてるのかもしれないって……」
「なんだよ、それ」
「だって普通に考えておかしいだろう? 狼君みたいなイケメンと、平凡過ぎる俺が付き合ってるなんて。俺は、自分が狼君に相応しい相手だっていう自信がなかったんだ」
「そっか。だから様子がおかしかったんだ」
「ごめん、狼君」
「うん……」
そう呟いた狼君が空を見上げる。狼君が何を考えているかはわからなかったけれど、その顔が寂しそうに見えて、俺の心が引き裂かれたように痛んだ。
(俺は、きっと狼君を傷つけてしまった)
俺は、ただ狼君と同じように呆然と空を見上げる。辺りはいつの間にか真っ暗になっていて、空には一番星が輝いていた。
「風兎君、俺悲しい」
「ごめんね」
ポツリと呟いた狼君に、俺は謝ることしかできない。
俺は狼君と恋人同士になったとき、自分のほうが年上だから、スマートな恋愛がしたいと思っていた。いつでも余裕に満ち溢れていて、年下の狼君を包み込むような存在になりたいって……。
だって俺は、狼君より年上だから。
でも、理想と現実は全然違っていて、俺はいつも無様な姿を狼君に晒し続けている。本当に格好悪い――。目頭が熱くなり、俺は思わず唇をぎゅっと噛んだ。
「俺、風兎君に信用されてなかったの?」
「違う。俺は自分に自信がなかったんだ」
狼君が俺の言葉を待ってくれているのがわかる。俺は深呼吸してから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「自分は狼君よりも二つも年上だから、しっかりしなくちゃ……って、いつも思ってた。でも、俺は自分に自信が持てない。だって、狼君はすごくしっかりしてるし、どんどんイケメンになってく。俺は置いてきぼりだ……」
「…………」
「だから、ちょっと待って、狼君。一人でどんどん大人になっていかないで」
我慢しきれず溢れ出した涙を、俺は慌てて手の甲で拭う。でも涙は次から次へと溢れ出してきてしまう。
(あぁ、俺、なんてかっこ悪いんだろう……)
俺の理想の恋人像が、ガラガラと音をたてて崩れていくのを感じた。
「でも、俺……狼君に嫌われたくない」
涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。こんな俺は、狼君の恋人に相応しくない。でも、離れたくない。
こんなにも苦しいのに、傍にいたい。
恋をするって、こんなにも苦しいんだ……。
「風兎君。俺、超傷ついたし、超怒ってるんだよ?」
「うん。ごめんなさい」
「そんなに俺のことが信じられない?」
「そんなことない!」
俺は咄嗟に首を横に振る。その仕草が、まるで子どもが「嫌々」をするかのように感じられて、更に自分に幻滅してしまう。
「バカだな」
「え?」
「俺が、風兎君以外の人を好きになるわけないじゃん?」
突然強い力で引き寄せられた俺は、狼君に抱き締められた。それがあまりにも予想外の行動で、俺の頭は一瞬真っ白になる。
それでも、温かくて逞しい狼君の腕に、遠慮がちに体を委ねた。
「覚えておけよ? 風兎君は、俺が最初で最後に恋をした人なんだから」
「わかった……」
「絶対に忘れるなよ」
「うん」
力一杯抱き締めるくせに、優しく髪を撫でてくれる。そんな狼君の大きな手が気持ちよくて、俺は目を細める。
「でも俺、怒ってるんだよ?」
「あ……」
優しく頭を撫でられて夢心地だった俺は、狼君の一言で一気に現実へと引き戻される。咄嗟に狼君を見上げると、拗ねたような顔をしていた。
(どうしよう、狼君、本当に怒ってる……)
どうしていいかわからずに呆然としていると、「じゃあさ……」と狼君に耳打ちされる。
甘くて少しだけ色気を含んだその声は、俺の鼓膜を震わせて、背中を甘い電流が一気に駆け抜けていった。
耳が熱を帯びて、膝が小刻みに震え出す。俺はギュッと狼君の制服を握り締めた。
「許してほしいなら、キスして?」
「キ、キス!?」
「そうキス」
「で、でも。俺、キスのやり方なんてわからない」
突然のおねだりに、俺の顔から火が出そうになる。心臓が太鼓のように鳴り響いて、全身の血が沸騰していくような感覚に襲われた。
何をしたらいいのかわからずに、慌てふためいてしまう。「どうしたらいいの?」と狼君に尋ねようと口を開くけれど、からからに喉が渇いてしまい、それは声にならなかった。
そんな俺を見た狼君は、口角を釣り上げて意地の悪い笑みを浮かべる。
「キスくらい知ってるでしょう? こことここをくっつけるんだよ」
そう楽しそうに笑いながら、俺と自分の唇をつつく狼君。
「で、でも……」
「できないの? じゃあ風兎君のこと、許してあげないから」
「えぇ、そんなぁ……」
不貞腐れたように俺から体を離す狼君を見て、俺はがっくりと肩を落とす。
(キスのやり方くらい知ってるよぉ)
俺は無意識に前髪を掻きむしった。
キスなんて恥ずかしい。
でも、狼君と仲直りしたい。
心の中で、今度はまた違う葛藤が生まれる。
なんて恋とはこうも忙しいものなのだろうか、と泣きたくなってしまう。
やっぱり俺には、恋をするなんて無理なのだろうか……と、再び自信を無くしてしまいそうだ。
でも――。
少しだけ、ほんの少しだけでも、頑張って勇気を出してみよう。
「狼君」
「ん?」
そっと名前を呼ぶと、狼君が俺の方を向いた。
目と目があった瞬間、心臓がドキンと大きく鼓動を打つ。
俺はついっと背伸びをして、そっと唇を押し当てた。その瞬間、ふわりという柔らかい感触に、俺は思わず目を見開く。
(なんだ、これ……)
思わず右手で自分の唇を覆ってしまった。
暴れ狂う心臓の音がうるさいくらい鼓膜に響いて、心臓が口から飛び出しそうだ。そんな中、俺は声を振り絞る。
「ごめん、今日はほっぺたで許して……」
狼君の唇を目がけたものの、あまりの恥ずかしさに俺の唇が触れたのは狼君の頬だった。精一杯背伸びをした両足は、まだ小さく震えている。
「でも、これが俺の精一杯だから」
「風兎君……」
狼君は目を見開きながら、俺の唇が触れた頬を自分の手で抑えている。その顔が、みるみるうちに赤くなっていった。
(自分からしてって言ったくせに……)
狼君の予想外の反応に、俺はどうしていいかわからなくなってしまう。
「こ、これで許してくれる?」
「うん。許した」
恐る恐る顔を覗き込むと、狼君が照れくさそうに笑う。その笑顔を見た瞬間、俺の心は幸せで満たされていった。
(あぁ、好きだな)
素直にそう思える自分がいる。
「でも、今度は唇にしてよね」
「唇に?」
「そう唇に。できないの?」
「それは……、まだ心の準備ができてない」
「そっか、残念だなぁ」
狼君はそう笑ってくれたけど、臆病者の俺はこれ以上先へと進むことが怖かった。
キスをして、その先は……?
大きな不安と、でも少しだけ感じる好奇心。その狭間で、俺の心は揺れ動く。
「狼君、ちょっと待って……」
俺は狼君に聞こえないように、小さな声で呟いた。



