予想通り昨夜は眠れなかった俺。大きな欠伸をしながら、朝日が燦燦と差し込む学校の廊下を歩いていた。


「風兎先輩だ、おはよう」
 そんな俺を遠くから見つけてくれた狼君が、嬉しそうにこちらに向かって走ってくる。
 たったそれだけなのに、俺の鼓動がまた速くなるのを感じた。


「風兎先輩、昨日遅くまで電話しちゃってごめん。眠くない?」
「ううん。全然大丈夫だよ」
 うっかり出そうになった欠伸を、俺は何とか口の中に押し込む。


 『風兎先輩』。そんな呼び方に少しだけ距離を感じてしまったけれど、学生指導の先生が昇降口で目を光らせていた手前、仕方がないのかもしれない。
 でも、少しだけ寂しい。


「今日は部活があるから一緒に帰れなくてごめんね。また、夜電話するから」
 顔を寄せられて耳打ちされると、俺の顔に一瞬で熱が籠っていく。
(やっぱり、まだこの距離は慣れない)
 俺は思わず狼君に気付かれないよう、静かに距離をとる。


 どうして狼君はこんなにもスマートに距離を縮めてくるのだろうか? 俺はそれが本当に不思議だった。
(俺が始めての恋人と言っておきながら、本当は元カノが何人もいたりして……)
 そんなことを考え出すと、頭の中を色々な不安が駆け巡って、更に不安は強くなっていってしまう。


 俺と狼君は中学も同じだったけれど、中学時代の頃から狼君は女の子に人気があった。でも、あれだけ容姿端麗、文武両道で全てにおいて完璧な人がいたら、誰だって彼に好意を寄せることだろう。


 もし、俺が幼稚園のときに、狼君と『将来結婚しようね』なんて可愛らしい約束をしていなければ、俺たちは今こうして恋人になどなっていなかっただろう。
 それでも、俺は狼君の恋人だ。


 最近感じる。狼君が俺を見る目が変わったことを――。


 切れ長の瞳に少しだけ宿る欲情に、いやに近い距離。そういった狼君の変化は、恋愛と程遠い人生を生きてきた俺の心を搔き乱していく。
 それと同時に、どんどん大人へと成長していく狼君が、俺は少しだけ怖かった。


「風兎先輩。俺と離れている間に浮気なんてすんなよ?」
「う、浮気!? お、俺がそんなことできるはずないだろう?」
「わかんないよ。風兎先輩は本当に隙だらけだから」
 俺の肩をポンポンと優しく叩いてから「じゃあ、またね」と狼君は俺に背を向ける。


 一年生の教室は、俺たち三年生の教室と棟が違う。それに、上履きやジャージの色だって違うんだ。
 恋人同士なのに、学年が違うというだけで、全く接点のないことが寂しくて仕方がない。


「あ、もしかして、あれって……」
『浮気なんてすんなよ』という狼君の言葉が突然思い起こされる。


「もしかして狼君、ヤキモチを妬いてくれてたのかな」
 そう感じた俺の口角は、自然に上がっていく。
「そっかぁ。ヤキモチかぁ」
 教室へと向かう足取りは、自然と普段よりも軽いものになっていた。
   

 そんな嬉しい出来事があった俺は、空にも上る気持ちで一日を終えようとしている。本当に俺は幸せボケをしていた。音もなく自分へと近づいてきていた脅威を察することもできなかったのだから。


「ねぇ、杉本、ちょっと用事があるんだけど?」
「は?」
 下校のため昇降口に向かっていた俺は、聞き慣れない声に呼び止められる。俺が振り返ると、そこには数人の女子生徒が俺を睨みつけていた。


(誰だ……)
 俺は、この見覚えのない女子生徒を前に顔を顰める。ざっと数えて五人。上履きの色が違うから学年はバラバラなのだろう。
 どの女子も校則違反である茶髪に、ばっちり決められたメイク。肩に下げているバッグには重たくないのだろうか? というほどの人形をぶら下げている。明らかに、俺が普段関わりを避けている不良グループだ。


(こんな子たちと関わりたくない)
 咄嗟に俺は女子生徒たちに背を向けたが「逃げんなよ!」と、グループのリーダー格に腕を掴まれる。
(細いくせに、なんでこんなに力があるんだよ……)
 俺はその手を振り払うこともできずに、引き摺られるように歩き始めた。


 一体これから何が始まるのだろうか、と不安から額にじっとりと汗が滲んでくる。女子生徒は皆まるで般若のお面のような顔で俺を睨みつけている。
(俺だって男なんだから、最悪力では負けないはずだ)
 そう考えを巡らせてみるが、今にも飛び掛かってきそうな勢いで俺を睨みつける女子生徒五人に、果たして俺は勝つことができるだろうか? 俺は決して目立つようなタイプではないけれど、今まで嫌がらせを受けたこともない。
 この初めてのシチュエーションに、俺の頭はパニックになってしまった。


 俺が連れてこられたのは,校舎の中で一番端にある薄暗い理科準備室。遠くから生徒の声が聞こえてくるけれど、放課後ここを訪れる生徒はいないだろう。
(一体俺が何をしたって言うんだよ)
 これから何が始まるのか不安に襲われていると、突然リーダー格の女子生徒に肩を押された。


「わっ⁉」
 想像もしていなかった出来事に、俺は危うく尻もちをついてしまうところだった。


「あのさ、杉本。あんた一年の中村君とどういう関係?」
「え? 中村君?」
「そう。中村雅狼。あんたいつも中村君と一緒にいるじゃん? なんで? めっちゃウザいんだけど」
 なんで突然そんな話が? 俺の頭の中は更にパニックになってしまった。


「あのさ、中村君と優希(ゆき)ちゃんは付き合ってんだよ。だから、二人の邪魔しないでもらえるかな?」
「そうだよ。優希ちゃんが可哀そう!」
 取り巻きの子たちが口々に言う。


 どうやらリーダー格の女子生徒は優希という名前で、上履きの色からすると三年生のようだ。その優希という生徒と狼君が付き合っているから、二人の邪魔をするなってことか……。
 他の四人は優希の手下のようだけれど、女子とは数人集まるだけでも、こんなにうるさいものなのだろうか。俺は大きく息を吐いた。


「優希は中村君の彼女なの! だからあんまり中村君の周りをウロチョロしないでよ。大体、あんたと中村君は全然釣り合ってないじゃん? 中村君も迷惑してると思うよ」
「はぁ……。でも……」
「『でも』じゃなくて!」
 俺を囲んでいた女子生徒たちが一歩前に進み出る。その威圧感に、俺の喉がひゅっと鳴った。


 それと同時に不安にもなってしまう。本当に狼君は、この優希という女子生徒と付き合っているのだろうか? もしそれが本当だとしたら、俺の存在ってなんなんだろう……。
 俺は何も言い返せないまま、黙って俯く。


『俺は狼君の恋人だ』と言い返すこともできず、この女子生徒の群れの中から逃げ出すこともできない。
 今の俺は、崖っぷちに追い込まれて震えている兎だ。
 

 俺は本当に狼君と付き合っているのだろうか? 
 この女子生徒たちの言う通り、狼君は優希と付き合っているのではないだろうか?
 じゃあ、あの入学式の日の告白はなんだったんだ?
 俺は今まで騙されて、弄ばれていただけなんじゃ……。大体、あんなイケメンがこんな平凡な俺を相手にするはずがない。
 やっぱり、狼君は俺のことなんか好きじゃないのかもしれない。


 色々な感情が大波のように押し寄せてきて、俺は眩暈に襲われる。倒れてしまいそうになるのを必死に耐えた。
 今の俺はこの女子生徒たちから逃げることも、『狼君と付き合っているのは俺だ』と否定することもできない。ただ、唇を噛み締めたまま、木目調の床を見つめた。


「なんか言えよ、杉本!」
 もう一度強く肩を突かれ、俺がバランスを失った時。ふと、温かくて逞しいものに包み込まれた。
「え?」
 俺が顔を上げると、そこには部活着姿の狼君がいた。


「風兎先輩、大丈夫?」
「う、うん」
 心配そうに俺の顔を覗き込む狼君を見て、俺はようやく体の力を抜くことができた。


「中村君、な、なんでここに?」
 優希が慌てふためいたように顔を引き攣らせている。先程までの勢いはどこへ行ってしまったのだろうか。


「なんでここにいるのかって……。部活の準備運動で走り込みをしていたら、先輩たちが校舎の奥の方に行くのが見えて、後を追いかけてきたんです。だって、普段そっちにはあまり生徒は行かないでしょう? そしたら、大声が聞こえてきたから、慌てて駆けつけました」
「え、そうなの? うちら、杉本に話があるって、急にここに呼び出されて。それで……」
 優希たちはどうにかこの場を取り繕うとしているようだが、狼君は顔色一つ変えていない。その場は打って変わって静寂に包まれた。


(すごい……)
 俺は狼君を見てそう感じる。彼が来ただけで、この場の雰囲気が一変してしまったのだ。
 それと同時に、女の子相手に何もできなかった自分が、心底情けなくなってくる。


「俺さ、優希先輩とは付き合えないって何度も言いましたよね?」
「で、でも……」
「それに、俺たちは付き合ってもいないのに、嘘をでっち上げるのもやめてください。いい迷惑です」
「え? でも、もし今付き合ってる人がいないなら……」
「付き合ってる人ならいます。それも、今ここに」
「え? ど、どこにいるの?」
「ここにいます。彼が俺の恋人です」


 狼君の言葉に、その場の空気が凍り付いたのを感じる。
 俺でさえ、突然の告白に自分の耳を疑ってしまった。


「嘘、でしょ……」
「嘘じゃないです。俺たち、付き合ってますから」
 優希が言葉を失う。他の女子生徒たちの視線が一気に俺に向けられた。


(狼君、言っちゃった……)


 俺は何が起きたのかがわからず、茫然と狼君を見つめた。


「中村君、冗談でしょ!? だって、杉本は男だよ」
「そんなの関係ないです。俺は風兎先輩が大好きなんだから」
「え? 中村君ってゲイなの?」
「何とでも言ってください」


 狼君は優希のことなど眼中にないといった様子で「風兎先輩、怪我はないですか?」と俺の心配をしてくれている。
 助けてくれたことも、心配してくれたことも嬉しいけれど……。これで大丈夫なのだろうか。


「また風兎先輩に何かしようとしたら、今度は絶対に許しませんから」
 そう言い残すと、狼君は「行くよ」と俺の手を引き理科準備室を後にする。
 理科準備室のほうから「信じらんない!」という優希の喚き声が聞こえてきたけれど、狼君は構わず歩き続ける。


「ろ、狼君。歩くのが速い。それに腕も痛いよ!」
 狼君と俺は足の長さが全然違うから、二人で普通に歩いていると、いつの間にか距離ができてしまう。それに、狼君の力で腕を掴まれたら痛くてたまらない。我慢できなくなった俺は、ついに音を上げてしまった。


「あ、悪ぃ。風兎君。大丈夫?」
「うん。大丈夫。はぁ……」
 狼君がようやく止まってくれたことに安堵しながら、俺は乱れた呼吸を整えた。


 次の瞬間、俺の右手がふわりと宙に浮く。
(なんだ?) 
 咄嗟に手を振り払う間もなく、俺の手は狼君の手に捕らわれてしまった。


「なら手を繋ごう? これなら痛くないし、風兎君を置いて行っちゃうこともないだろうから」
「う、うん」
「よかった。ごめんね、俺のせいで嫌な思いさせちゃって」
「そんなことない、大丈夫だよ。むしろ狼君、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。風兎君は普段からボーッとしているから、目が離せない」
 そう笑う狼君の無邪気な笑顔に、俺の胸は締め付けられる。


(俺の彼氏は、なんて優しくてかっこいいんだろう)
 狼君が俺のことを気遣ってくれことが、恥ずかしいけれど溜まらなく嬉しい。
「好き」という思いで、心の中がいっぱいになってしまいそうだ。


「それより、狼君。部活は大丈夫なの?」
「完全に遅刻だけど、風兎君の方が最優先だから」


 繋がれていた手は、いつの間にか指と指が絡み合っていた。
(これ、恋人繋ぎってやつだ……)
 俺の鼓動がどんどん速くなっていく。


 理科準備室から出て一年生の教室がある方へ行くと、教室にも廊下にも、生徒の姿はない。みんな下校したか、部活へと行ったのだろう。
(お願い。誰ともすれ違わないで……)
 咄嗟に心の中でそう思う。


 もし他の生徒に見つかったら、この手を離さなければならないから――。
 ずっと手を繋いでいたい。
 この大きくて温かな手を、離したくなんかない。


 真っ赤な夕日に染まる廊下で、ふと狼君が振り返る。
 見惚れるほど整った顔が夕日に染まって、とても綺麗だ。最近開けたばかりのピアスが、キラキラと輝いて見えた。


「ごめんね。風兎先輩に断りもせず、俺たちが付き合ってるってこと言っちゃった」
「あ、そう言えば……」
「明日、学校中の噂になってるかも」
「え、大丈夫かな?」


 今までイケメンの彼のおかげでお花畑にいた俺は、そんなところにまで気が回らなかった。冷静になってみたら、狼君は凄いことをしてしまったのかもしれない。
 そう考えると、突然不安が押し寄せてきた。


「だって俺、風兎先輩との関係を隠したくなかったんだ」
「え?」
「だから勢いで言っちゃった。本当にごめん」


 狼君が申し訳なさそうに、でも幸せそうに笑う。
 そんな笑顔を向けられたら、怒れるわけがないじゃないか……。


「でも大丈夫だよ。風兎先輩は俺が守るから」
「狼君……」
「誰かに何か言われたら、すぐに俺に言ってほしい」
「わかった」
「絶対に、風兎先輩は俺が守るから」


 もう一度確かめるかのように、狼君が言葉を紡ぐ。その時、握られた手にギュッと力が込められた。


 幼稚園の頃は、俺よりも体が小さかった狼君を俺が助けてあげてきた。
 でも逞しく成長した彼には、「痛いの痛いの飛んでいけ」なんて魔法は、もう必要ないのかもしれない。
 俺は、それが、少しだけ寂しい。


「狼君、これ以上大人にならないで」


 俺の小さな呟きは、チャイムに掻き消されてしまった。