また今日も、貴方に夢を見る

「さて今年は年末にファイナルが行われるということで、これから更に盛り上がりを見せるJTO。次のスターは今テレビをご覧になっているあなたかもしれません。それではファイナルでお会いしましょう、さようなら~!」
「……はい、カット! 撮影は以上となります。お疲れ様でした!」

 紙吹雪がひらひらと舞う中、司会者がカメラに向かって大きく手を振る。出演者全員が同じように手を振る姿をカメラがズームアウトしながら捉えている。そして、プロデューサー・田島さんの声を合図に番組の収録が終わった。

 出演者、スタッフがお疲れ様でしたと挨拶を交わすスタジオで、茫然自失状態ではあるものの、なんとか笑顔を貼り付けた僕は無事に収録が終わったことにまずはほっとした。芸能人になりたいとか、CDを出したいだとか。そんな明確な夢がない僕なんかよりも、あの子が優勝する方が絶対に良かった。

 そう自分に言い訳するけれど、時間が経てば経つほど、じわじわと悔しさが湧いてきてたまらなくなる。参加を決めた時は、正直こんなに結果を気にするなんて思ってもいなかった。だけど、それはサプライズゲストで律が出てくるなんて知らなかったから。

 すべては律だ。僕のすべては律に直結しているから。彼に初めて会って、欲が出てしまったんだ。

 ひと仕事終えたと足取り軽く控え室に向かう参加者たち。僕はずんと沈んだ気持ちを抱えたまま、その最後尾をついていこうと、後片付けに追われるスタッフさんの間を通り過ぎる。

「あ、吉良くん」

 すると、スタジオの入口の前で田島さんに声をかけられた。

「今回の結果は残念だったけど、そんなに落ち込まないで。君の才能は世間が絶対に放っておかないよ」
「……ありがとうございます」
「こんなところで終わらないって、期待してるからね」

 田島さんは僕の肩をポンと叩くと、スタッフさんに指示を出しながら歩いていく。その頼もしい後ろ姿を数秒見つめた後、僕はまたとぼとぼと歩き始めた。他の参加者より数分遅れて控え室に入ると、もう帰り支度の済んだ人が数名いる。

「吉良さんも打ち上げ行きますか?」
「あー……、僕は明日朝早いのでやめておきます」
「わかりました! じゃあまた!」

 僕以外のみんなは、知らないうちにすっかり仲良くなっていたらしい。気落ちしていることに加えて、そんな出来上がった関係の中に飛び込んでいけるわけがなくて、僕はやんわりと打ち上げの誘いを断った。

「はぁ……」

 誰もいなくなった控え室。張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れて、僕はぐでーんと脱力しながら椅子に座った。気を抜けばすぐに目から勝手に熱いものが流れ落ちてくる。

 負けたんだ……。律の前で歌うチャンスをもらったのに、自分の持っている全てを魅せることができなかったこと。ずっと秘めていた夢を公の場で口にしたくせに、不甲斐ない結果で終わったことがどうしようもなく悔しくて、涙が止まらない。

 もっと上手く歌えたら。もっと気持ちを乗せて歌えていたら。結果は変わっていただろうか。

 強く握った掌に爪が食い込む。まさか自分がここまで本気になるとは思ってもいなかった。神さまの世界に足を踏み入れたのが間違いだった。近づけるかもなんて、罰当たりなことを考えたのが馬鹿だった。僕みたいな凡人には、相応しくない。改めてそう告げられた気がした。

 いつまでもここにいるわけにはいかない。僕はまた大きく息を吐き出すと、立ち上がった。

 顔を洗って、帰ろう。涙でぐしゃぐしゃの状態で帰るわけにはいかなくて、僕は控え室を出て、トイレに向かった。

 ◇

 控え室から少し離れたところにあるトイレで顔を洗い終えた僕は、泣き腫らした目をすれ違うひとに見せまいと下を向いて歩いていた。律って本当に実在したんだ。今になって、そう実感する。

 目と目が合った瞬間、ありがとうと言われた瞬間――どこを切り取っても現実に起きたことだと信じられなくて、改竄された記憶なんじゃないかと疑ってしまう。

 伸びた前髪の隙間から見える眼差しと柔らかな微笑みがふと脳裏に浮かんできて、顔が熱くなった。やっぱり律がこの世界で一番綺麗だ。そう確信する。

 胸の奥がじんと熱くなって、夢の中かと錯覚したあの瞬間を反芻しながら、ふわふわとした心地で僕は控え室に戻っていた。

 あともう少しというところで、前から足早にこちらに向かってくるひとがいる。これ以上、この世界に痕跡を残したくない。廊下の端に寄った僕は、存在感を消すことに努めた。スタッフかと思っていたその人は目の前まで来ると、突然僕の右手を掴んで走り出した。

 え? ど、して……。あまりのことに声も出せない。何も言わず、僕の手を引く後ろ姿を視界に入れた瞬間に語彙力なんてものはどこかに吹き飛んだ。まるで人間としての機能を失ったみたい。思考は停止して、ただ足だけを動かしていた。

 やっぱり都合のいい夢を見ているとしか考えられない。僕の作り出した幻だって、そうとしか思えない。八年間、ずっと追いかけてきたんだ。顔を見なくたって、すぐにわかる。

 どうして、律が……。少し伸びた髪が邪魔だったのだろうか。収録の時とは違って、ハーフアップにした髪がぴょこぴょこ揺れる。奇しくも初めて律に出会った時と同じ髪型だなんて、人生わからないものだ。僕の全身からは?マークが絶え間なく飛び出ていることだろう。それほど、今起きていることが理解できない。意味がわからない。

 そんな様子をちらりと確認した律がきらりと瞳を輝かせ、楽しそうに口角を上げていたなんて、混乱し過ぎている僕が気づけるはずがなかった。

 ◇

 ようやく律が足を止めたのは、地下駐車場。予約していたのか、タクシーが用意周到に一台待機している。迷いなく乗り込んだ律に引っ張られるがまま、僕も何故か隣に乗せられる。まさか憧れのひとに誘拐みたいなことをされるなんて、さすがの僕も想像したことすらなかった。

「ここまでお願いします」
「はいよ」

 運転手に律が行先を告げると、タクシーは動き出す。

 本物、だよね……? まさか収録は続いていて、あのオーディション番組はドッキリ番組が用意した偽番組だったのか。それとも、まだ夢の続きを見ているのだろうか。混乱を極めた僕は、隣に座る律から出来る限り距離を取って縮こまることしかできない。

 無理無理。こんな狭い車内で、律の濃度が濃すぎる。律の吐いた息が体内に入ってるって考えたら死にそう。律の過剰摂取で、心臓止まらないかな。一周回って、体が拒否反応を起こしかけている。

「あ、そうだ、これ」

 え、僕、今ここで死ぬの? 命の危機を感じていると、律は僕の鞄を手渡してくる。控え室に置いていたものがどうしてここに? そんな疑問が浮かんでくるけれど、質問する余裕なんて当たり前になかった。

「あ、ありがとうございます……」

 蚊の鳴くような声で礼を言って、一切目も合わさずに鞄を受け取る。すると、何に興味を持ったのか、律が顔を覗き込んでくる。瞳いっぱい、目の前に顔面国宝。やむなく目と目が合ってしまう。

 ビーッ! ビーッ! 緊急事態だ。これ以上目が合ったら、持っていかれるぞ。途端、頭の中にそんな警鐘が響き渡る。

 むり……。語彙力なんて大気圏を超えて宇宙まで飛んで行った。あまりにも威力が強すぎる。かっこいい、イケメン、美しい、綺麗……。この顔面の素晴らしさを形容できる言葉なんてないぐらい尊いのだ。

 律の瞳に僕の泣きそうな顔が映っている。三秒が限界だった。あまりの距離の近さに耐えられなくなった僕は、受け取った鞄で顔を隠した。フッと微かな笑い声が聞こえる。笑われたっていい。そう思うけれど、律はこんなことで人を馬鹿にするようなことはしない。

 うぅ……、神様、助けて。僕の神さまは隣にいるのに、最早神頼みすることしかできなかった。

 綺麗な指先が僕の手をゆるりと撫でる。繋がれた手はそのままに、タクシーは夜の東京を駆けていく。境界線の向こう側は眩しくて、僕みたいな平凡な人間なんて手を伸ばすことすら烏滸がましい。ただ、その世界を見ているだけで満足だった。

 目が覚めるとその存在に感謝して、今日もやっぱり律が好きだなぁって思いながら眠りにつく。そんな日々。けっして交わることのない関係のはずだった。それがどうしてこんなことになっているのだろう。何度考えても、答えは見つからない。

 そうして悩む僕と思考の読めない律を乗せて暫く走り続けたタクシーは、超高層マンションの前に停車した。普段高級住宅街に足を踏み入れることなんてないから、こんな間近で見たことない。窓から見上げる建物のスケールに萎縮してしまう。

「着いたよ」

 柔らかい律の声がそう言うけれど、「どういう状況?」とますます疑問が湧いてくる。支払いを終えたタクシーにいつまでも乗っているわけにはいかないからしかたなく降りたけど、正直このまま連れ去ってほしかった。だけど、繋がれ続けた手がそれを許してくれない。

「あの、僕はここで……」
「ん?」
「…………」

 僕なんかが聖域に足を踏み入れるわけにはいかない。勇気を振り絞って声をかけたけれど、きょとんと見つめ返してくる律を前にすると、それ以上言葉は出てこなかった。

 律は慣れた手つきでオートロックを解除すると、ロビーを通り抜け、二人揃ってエレベーターに乗り込んだ。狭い箱の中に二人きりという現実に目眩がする。広いドームでさえ、律の濃度が高いからという理由で避けてきたのに。目的の階に到着するまで、息を止めることしかできなかった。そして律の暮らす部屋、その扉が今目の前で開かれている。今ここでUターンしてしまいたい。

「やっぱり帰りま、」
「入って」

 でも有無を言わさぬ物言いに逆らえるわけがなくて、キャパオーバーで魂が抜けたまま、僕はとうとう聖域に侵入してしまった。

「ここ座って」

 指示された通りソファに座って、律を待つ。これまでしたことがないぐらい、背筋はピンと伸びている。少しずつ魂が戻ってきて、脳が正常に働き始める。あまりじろじろ見ないようにしつつも、欲望は素直で、律の部屋を網膜に焼き付けてしまう。何度も妄想した律の部屋に比べると殺風景。必要最低限の家具が置いてあるだけの、生活感がない無機質な部屋。まるで、律が存在していないみたい。なんとなく少し、寂しくなった。

「紡?」

 二人分のグラスとボトルを持った律がやってくる。
表情を曇らせた僕が気になったのか、テーブルにそれを置くと、隣に座った律は少し躊躇いがちに僕の頬に触れた。

「どうして君がそんな顔をするの」
「…………」

 律は困ったように眉を下げて笑う。神さまもそんな顔をするんだ、なんて。場違いなことを考えてしまう。今の状況から現実逃避したいぐらいなのに、それ以上になんだか心がざわついている。

「……わかんない」
「そっか、わかんないか」

 真正面から初めて冷静に律の瞳を見た気がする。
 口ではわからないと言いつつ、本当は分かっていた。ちゃんと目と目が合えば、すぐに分かる。瞳の奥に棲む孤独が滲み出ている。

 悲しくて、虚しくて、寂しくて、脆くて、痛い。胸の奥がぎゅんと重たくて、目頭が熱くなる。この感情が何なのかは分からない。だけど、きっと、誰だって知ってる。居場所がない、誰にも分かってもらえない。そんな孤独を僕は知っている。

「紡は優しいんだね」

 そんなことないと首を横に振れば、律は両頬に手を添える。瞳が微かに孤独を訴えている。その表情は、表舞台に立つ彼がこれまで一度も見せたことの無いものだった。

「いなく、ならないで」

 境界線の向こう側で、なんだか律がふらっと消えていなくなってしまいそうな気がした。やめないで、ずっとアイドルでいて。ただのファンのくせに、そんなワガママを口に出すなんてファン失格だ。それなのに、なんの考えも無しにその言葉だけがぽろっと溢れてしまう。

 すると、律がはっと目を見開く。次の瞬間、突然すぎて何の抵抗もできないまま、僕は憧れのひとに抱き締められた。

 訳が分からない。何が彼をそうさせたのかも、そもそもどうしてこんなことになっているのかも全くもって意味が分からない。顔を真っ赤に染めた僕は、ガチガチに固まったまま身動きすることすら許されなかった。

「ふふ、かわいい」

 ようやく解放されて、安堵したのも束の間。耳まで赤に染まった僕を見て、律は甘く微笑んだ。ぶわっと熱が上がる。もう、さっきまでの負のオーラは漂っていない。そのことに安堵するけれど、鼓動は忙しなくてうるさいまま。

 そういえば、ハグをするとストレスが減るって聞いたことがある。動物セラピーみたいなかんじかも。絶対そうだ。そうじゃなきゃ、律が僕なんかを抱き締める意味が無い。

 そう言い聞かせていると、慈愛に満ちた瞳の律が僕の髪を撫でた後、流れるような仕草で頬に手を添えた。

「紡は不思議だね」
「え?」
「……欲しくなっちゃうな」

 ぽそりと呟かれた言葉は聞き取れない。聞き返そうとすると、世界で最も美しいご尊顔が近づいてくる。
まさかそんなわけないと思いつつ、身を捩りながら口元を手で抑えると、律はむっと不機嫌そうに口を尖らせる。

「だめ?」

 首を傾げて、あざとく強請られる。そんな顔をされたら全人類にクリティカルヒット。危うく絆されそうになるも、ぱっと脳裏に過去の記憶がフラッシュバックする。

『お前は人を不幸にする天才だよ』

 五年前に向けられた、言葉のナイフが胸を抉る。サーッと一気に血の気が引いて、身体の震えが止まらない。必死に忘れようと頑張って、やっと解放されたと思っていたのに。彼はいつまでも僕を縛り付ける。

「紡?」

 突然様子がおかしくなった僕を心配そうに律が見つめてる。僕は汚い。そんな風に心配してもらえる立場じゃない。綺麗な律のことまで汚してしまう。この人が好きなら、近くにいたら駄目だ。

「僕に触れないで」
「どうして?」
「…………」

 理由を口にすれば気持ち悪いと思うだろう。今日が終わればもう会うことはないけれど、ずっと憧れて、想いを寄せてきた相手に嫌われて終わるのは悲しい。

 どうか綺麗な思い出のままで、最後を迎えたい。だからこそ、沢山の人を感動させる歌声を放つ神さまの唇を僕なんかが汚すわけにはいかないんだ。

「だめ、だから……」
「俺は紡に触れたい」

 だけど、律も簡単には引き下がらない。どろりと甘ったるい熱を孕んだ瞳が、僕を射抜く。口元を抑えた手にぐっと力が入った。そうしてる間にも律がどんどん近づいてくる。逃れようとじわじわ後退るけれど、ソファの背もたれが背中についてしまったら、もうそれ以上は引き下がれない。

 だけど、僕には律を押し退けるなんてこともできなくて、ただ迫ってくる彼に首を横に振って拒絶の意を示すことしかできなかった。

「紡がほしい」

 そう言った律が、断固として唇に触れることを許さない僕の手に口付ける。くらくら、目眩がする。なんだか溺れてしまいそう。

「唇はだめ……」

 譫言のようにそればかり言って、ソファに全身を預けている僕を律は何も言わずに抱え上げる。連れていかれたのは、ベッドしか置かれていない寝室。キングサイズのそれに優しく降ろすと、小さくなって震える僕を律が優しく抱き締めた。

 いつもテレビや雑誌の中で見ていた憧れの存在が、紡だけを見つめている。色気を孕んでいるのに、その瞳は優しさで満ちていて、いっぱいいっぱいの僕はキャパオーバーで泣きそうになった。

 ずっとずっと、好きだったんだ。八年間、律以外のひとに興味を持ったことなんてない。一生他に好きな人ができなくても、それでいいと思っていた。この恋が叶うなんて、妄想したことすらなかったから。

 誰にもバレない日陰の恋は、僕だけの宝物。律に望むものなんてなくて、ただ彼を好きでいられることが幸せだった。それなのに手を伸ばせば届く距離に彼がいて、僕のことを求めてる。その事実がこわい。

 触れられたくない。僕の存在なんて、記憶から消してもらいたい。そう思うのに、ほんの少しだけならという気持ちも心のどこかに潜んでいる。

 そもそも神さまに対する欲なんて持ってはいけない。一度何かを求めてしまったら、自分で作り上げた想像上の彼と異なることにいつかどこかで気がついて、そのギャップにがっかりしてしまうだろう。勝手に好きになっておいて、そんな我儘は許されない。

「紡」

 彼の口から発せられる、僕の名前。自分の名前だっていうのに、何か特別なものに感じてしまう。律になら、何をされたって構わない。だけど、律を汚してしまうことが何よりも怖い。瞳いっぱいに涙を浮かべたまま、律を見上げる。星を飼っている瞳に、僕だけが映る日が来るなんて。

「君を愛したい」
 
 涙が一筋、つーっと静かにこぼれ落ちる。それを綺麗な指先で拭うと、彼は真剣な眼差しを向けてそう言った。そして、胸元でぎゅっと握りしめていた手を取って、律が指先にキスをする。まるで彼の恋人にでもなったかのような。そんな夢みたいなシチュエーションにくらくらする。

 律が好きだって、ずっと心の中で叫んでる。愛されたい。律のものになりたい。好きだからこそ、伝わってほしくなくて。それなのに、届いてほしいと思ってしまう。なんて傲慢なのだろう。

「紡」

 なんだか意識が遠のいてきた。明日決勝だと思うと、全く眠れなくて睡眠不足だったことを思い出す。愛しい人を呼ぶように耳元で名前を呼ばれるけれど、これは僕が見ている夢の中なのかもしれない。

 そうだ、僕は幸せな夢を見ているんだ。
 それなら……。

「紡?」

 甘さと欲をどろりと溶かした瞳が僕を映す。今は夢の中だから本音を言っても許してね。

「りつ、――……」

 ずっと、律だけを追いかけてきたんだよ。ぎこちなく震える手を伸ばして、律の頬にそっと触れた。涙を浮かべながら、最愛の名前を呼ぶ。それを聞いた律がハッと目を見開いた。律もそんな顔するんだ、なんて思いながら目を閉じれば、どっと疲労感が押し寄せて遂に深い眠りの世界に旅立った。

「参ったな、手放せなくなる……」

 頬を染めた律が柔らかい笑みを浮かべながら、涙が滲んだ跡をそっと撫でていたことなんて、すっかり夢の中にいた僕には知る由がなかった。

 ◇

 カーテンの隙間から新しい朝がやってきたことを告げる、柔らかな日差しが微かに漏れている。ぼんやりと意識が浮上するけれど、まだまだ寝足りなくてそれを避けるようにごろりと寝返りを打つ。

 (……ん?)
 寝ぼけ眼を擦りながら、いつもとは違うベッドの感覚に違和感を覚える。覚醒しきらない頭でぼんやりと目を開けた。

 「えっ!」

 目の前に神さま。一気に意識が覚醒して、昨夜の出来事が蘇る。半ば気を失うように眠りについたから、最後の方は記憶がないけれど……。

 無防備な姿をさらけ出してぐっすりと眠りにつき、まだ目覚めそうにない律を見つめる。夢なんかじゃない、本物の律だ。ぐっと胸に熱いものがこみ上げてくる。

 八年前からずっと、貴方に会いたかった。こんな形で会うことになるなんて想像もしていなかったけれど。十分すぎる思い出をもらったから、それを宝物にして僕はこれから生きていく。そう決意するけど、もう会えないと思うと胸の奥がキリキリと痛む。

 寂しいと思っては、駄目。もっとそばにいたいなんて、そんなことを望むのは許されない。だって、住む世界が違う。平凡な僕は特別な世界の住人じゃない。そんなこと、前々から分かりきっていたことだろう。それなのに、心が律を求めてる。

 だから、会いたくなかったんだ。会ったら最後、次を求めてしまうから。律に会うのは、これが最後。世界中のファンが望んでも叶えられない体験をしたんだ。僕は律の前に現れない方がいい。これ以上は罰が当たる。
 
 できるだけ音を立てないようにしてベッドの中から出る。そして、二度と見れない律の顔を見つめた。もう会えないなら律の意識がないうちにじっくり堪能したかったけれど、そういうわけにもいかない。

 「んん……」

 見惚れていると、すやすやと眠りについていた律が眉間に皺を寄せた。伸びた前髪が顔にかかって邪魔みたい。こんな律、見たことない。

 少しだけなら、貴方に触れても許されるかな。起こさないよう、慎重に彼の柔らかい髪を払ってあげると、表情が柔らかくなってホッとする。

 律の目が覚める前にいなくなった方がいい。幾許の名残惜しさを感じながらも、それを断ち切って、僕は静かに律から離れようとした。

 「黙ってどこ行くの」

 その瞬間、パチッと目を開けた律に手首を掴まれて、驚きのあまり、僕は固まってしまった。下から見上げてくる瞳が鋭くて、遠慮なく僕を責める視線が痛い。うまい言い訳も思い浮かばなくて、黙り込むことしかできなくなった。

 「いなくならないで」

 それは、昨夜僕が伝えた言葉と同じ。感情を隠そうともせず、ただ淋しいと切実に伝えてくる。だけど、僕は頷くことはできない。その願いを叶えられるのは、僕じゃない。律にお似合いのひとはいくらでもいるから。彼のそばにいるのは、僕なんかじゃなくていい。

 でも、こんな弱った律を置いて行くのは良心が痛む。彼を傷付けたくない。幸せでいてほしい。葛藤が僕の行動を抑制する。

 「紡、」

 ~~♪

 掴まれた手にぐっと力が入る。律が何かを言おうとした瞬間、スマホの着信音が静かな部屋に喧しいほどに鳴り響いた。

 その音を聞いて、ハッと我に返った。違う、僕のいるべきところはここじゃない。何とか手を離そうも試みるけれど、律もそう簡単には許してくれない。

 「電話、出ないと」

 早く出ろと急かすようにスマホは鳴り続けている。仕事の連絡だったら、たくさんの人に迷惑がかかる。業界人からの評価も高いのに、律の好感度をこんなことで落としたくない。諭すように言うと、律は苦虫を噛み潰したような表情で僕を見上げる。

 たぶん、律はわかってる。手を離したら、僕がいなくなるってこと。……ごめんね、律。その通りだよ。そうしているうちに着信は一旦切れたけれど、間を置かず、またすぐにスマホがうるさく主張し始める。こんな朝から何度も電話をかけてくるのだ。よっぽど重要な用事なのだろう。

 「お願い……」
 「…………わかったよ」

 これ以上、貴方の負担になりたくない。消え入るような声で頼むと、律は本当に渋々といった顔で僕の手を離し、スマホを手にとった。

 「……もしもし」

 聞いたことのない、冷たく暗い声で律が電話に出る。感情を持たない視線は、僕にロックオンしたまま。彼の電話が終わるのを待っていられる程、僕の心臓は強くない。ここはいわば天界、凡人の住むところじゃない。

 (律……、さようなら)
 もう貴方に会うことはないけれど、誰よりも幸せを願ってる。表情が崩れるのを我慢するために唇を噛み締めて律に一礼すると、そのまま早足で家を出る。

 最後に見えた、捨てられた子犬のような顔をした律が、走っても走っても脳裏にこびりついて離れなかった。