彼を初めて見たときのことを今でも鮮明に思い出せる。聞こえるのは彼の紡ぎ出す音だけ。一瞬で心を奪われた。彼以外、この世界には存在していないんじゃないかと錯覚するほど、その瞬間の僕は東雲律しか見えていなかった。
誰もが見蕩れる美しい容姿、一度聴いたら忘れられない歌声、人の心を惹き付けてしまう圧倒的オーラ。歳を重ねるごとに、その輝きは増していく。数え切れないほどの魅力で溢れた、生まれながらに持っている人。僕なんかとは大違い。でも、ないものねだりをしようとも思わなかった。望むだけ無駄だと理解していた僕は根っからの敗北者。
神さまがもし本当にいるならば、彼のことをいうのだと思った。手を伸ばしても届かない孤高の存在。彼の世界はどんな風に彩られているのだろう。吉良紡という存在を認知しないでほしいけれど、律の一部になりたい。日毎に彼へ抱く感情は大きくなって、どろどろと重たいものになっていく。
――いつか、貴方と一緒に歌えたら。
それは、僕のようなちっぽけな人間が口に出すのも烏滸がましい夢。だけど、心に灯火がついてしまったんだ。叶うはずのない夢を抱いてしまったんだ。
彼の隣に立つということ。彼と想い合うこと。あの頃は想像したことさえなかった現実が今はある。僕だって、夢に手を伸ばせるんじゃないかって。ほんの少しだけ希望を見い出せるところまで来れたんだ。
幾度となく背中を押してもらった。卑下してばかりだった自分に少し自信を持てるようになった。たくさんの愛情をもらった。その存在の大きさに何度救われたことだろう。これまでの僕とは違う。決心したんだ。だって、一番の味方がこんな僕を信じてくれている。
だから、今度は僕が彼を孤独から守ってあげたい。隣に並んで、一緒に歩んでいきたい。夢は叶えるためにあるのだから、最初から諦めるなんてもったいない。自分の手で未来を掴むんだ。運命も夢も、僕自身で手繰り寄せる。
以前よりも豪華に飾り付けられたステージに立てば、あの日の感覚が蘇る。足が震えることに変わりはないけれど、自分で覚悟を決めてきた分、あのときとは気持ちの持ちようが違う。だけどカメラを向けられれば、途端に身体が強ばってしまう。こればっかりは簡単に慣れそうにない。そんな僕を気にせずにお馴染みの司会者が話し始める。
「さて、続いては視聴者投票二位通過の吉良紡さんです」
「よろしくお願いします」
「早速ですが、ファイナルに参加しようと思った理由を聞いてもいいですか?」
目の前には以前と変わらない審査員のメンバーが並んで座っていて、スペシャル審査員だった律も今日はそこに加わっている。ちらりと視線を送れば、律と目が合った。自分のことを話すのは苦手だけど、優しい眼差しに勇気をもらって口を開く。
「前回は友人に勝手に応募されていて、あまり気が乗らないまま仕方なく参加したんです。正直、ここに立って後悔しました。周りはみんな夢に向かって一生懸命で、キラキラと眩しくて……。自分だけが取り残されているような、孤独な戦いでした。緊張で死ぬかと思ったし、平凡な僕が何でこんなところにいるんだろうって何度も逃げ出したくなりました」
しんと静まり返った空間。出演者やスタッフさん、番組観覧のお客さん、ここにいるすべての人が僕なんかの話に耳を傾けている。その事実に少し声が震えてきて、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「僕が平凡なことに変わりは無いし、どうしてファイナルに選んでいただけたのか、疑問に思っています。でも、前回の出演をきっかけにいろんな発見がありました。こんな自分を変えたいと、強く思いました。いつも見守ってくれる家族、壁を作りがちな僕を真正面から受け止めて応援してくれる友達。いろんな人に支えられていると、ようやく気づくことができました。……その中に僕の歌を届けたい人がいます。だからこそ、この場所で一番になりたい。そう思って、参加することにしました」
「熱いねぇ、届けたい相手は聞いちゃってもいいのかな」
「すみません、それは秘密です。口に出さなくても、その人にはちゃんと伝わると思うので」
「なるほど。何となくそのお相手に察しはつきますが……、なんだか蚊帳の外なのにニヤニヤしてしまいます。若いっていいですね」
砕けた口調で司会者は話を続けているけれど、もう、僕の目にはひとりしか映っていない。これから歌う曲は彼だけに贈る、僕が綴ったラブソング。嗚呼、スポットライトが眩しい。汗の滲む手でマイクを固く握りしめた。
「それでは歌っていただきましょう。吉良紡さんで『ラブレター』です、どうぞ」
そんな司会者の言葉を最後に、僕の意識はこの日のために初めて作った曲の世界へと集中する。他に誰もいない、僕と律だけの真っ白な世界。
ありがとう、僕を見つけてくれて、僕を好きになってくれて。アイドルになってくれて、僕と出会ってくれてありがとう。どうか、この想いが届きますように。これからも貴方の隣にいられますように。そして、いついかなる時も貴方が幸せでありますように。
そんな願いを込めて歌い終えた僕を待っていたのは、拍手喝采のスタンディングオベーション。観覧席には泣いている人もいて、僕の胸もじーんと熱くなった。
「いやー、前回よりもパワーアップした歌声に聞き惚れてしまいました。どうでしたか、松来さん」
「透き通るような歌声は清涼感があって、澄み渡る青空を感じました。ご自身で作られた曲もストレートな歌詞が沁みて、よかったです」
「ありがとうございます」
「さて、東雲さん。あなたに聞かないわけにはいかないですね」
そう司会者が口にすれば、観客席からキャーと悲鳴が上がる。
「最高、その一言に尽きます。彼にこれほど想われている相手に酷く嫉妬してしまいそうなほど、すごく情熱的なラブレターでしたね」
「吉良くんは東雲さんのファンだって言ってましたもんね、油断してると取られちゃいますよ」
「うーん、それは困りますね」
司会者の冗談に律も笑いながら答える。なんだか嫌な予感がする。律が意外と悪戯好きで、愉快犯なことを知っているからこそ、ここではこれ以上口を開くなと思ってしまう。芸能人をしている律には全く慣れていないし、これ以上律が何かを言う前にさっさと終わらせてほしかったけれど、そうは問屋が卸さない。
「紡」
「ッ、」
「浮気は許さないよ」
いつものように名前を呼ばれて息を飲んだ。当然のように、先程よりも大きな悲鳴が上がる。司会者はヒューと茶化すだけで、役に立ちそうもない。こちらをまっすぐに見つめて言ってのけた東雲律は、一体何を考えているのか。僕ははくはくと何も言葉が出せずに、顔を真っ赤に染め上げてパニックになることしかできなかった。
「吉良くん、……吉良くん? ちょっと、東雲さん、やりすぎですよ」
「あはは、すみません。かわいくて、つい。歌ってるときとのギャップもいいんですよね、彼」
もう考えることすら放棄してしまいたい。楽しそうに笑って謝る律は一切悪びれてなくて、僕だけが恥をかいていることを恨めしく思う。
「やっぱり東雲さんのお気に入りなんですね」
「はい。だから、俺はただ紡を信じてます」
「相思相愛というところでしょうか、素敵な関係ですね」
ここで一度カットがかかって、僕はステージを後にした。最早どんな顔をしていたのかは分からないし、どうやって楽屋に戻ったかすら記憶にない。テレビで放送されるときには、さすがに放送事故だと判断した田島さんのお陰で問題のシーンはカットされることになったのだけど、なんだかよく分からない感情のまま僕は結果を待つことになった。
◇
真っ暗なステージに全てを出し切った五名のファイナリストが集う。表情は達成感で晴れ晴れとしているけれど、これから始まる結果発表に緊張を滲ませていた。
他の人のパフォーマンスは見ていない。だけど、ファイナルの決勝にふさわしいものが出せたのだろうということは、その表情を見れば伝わってきた。僕だって全力を出し切った。後悔はない。自信を持ってそう言い切れるけれど、結果に繋がるかは分からない。バクバクと心臓の音がうるさい。呼吸の仕方を忘れたみたいに、酸素をうまく取り込めない。緊張と恐怖で足が震えていた。
すると結果発表が始まる前に、これまでのJTOのダイジェスト映像がスクリーンに流れ始めた。その中には僕も入っていて、熱いものがこみ上げる。ここから始まったんだ。およそ一年前、あの日を思い出せば感慨深い。嫌いだったあの頃の自分はもういない。律のおかげで前を向けるようになった。だから今回こそ、一番が欲しい。今の僕にあるのはただその一心で、自身を落ち着かせるために大きく息を吐いた。
映像が終わり、いよいよだと緊迫した空気がこの場を支配する。ごくりと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。暗闇の中、普段とは打って変わって厳かに現れた司会者がライトに照らされる。
「それでは発表します」
そう言って、ゆっくりと丁寧に封書を開けるのを僕はじっと見つめていた。
「JTOファイナル、栄えあるその頂点に立つのは――……」
ドラムロールが鳴り響き、スポットライトがステージをぐるぐると照らす。永遠に思えるほど長く感じて、今にも心臓が飛び出そう。そしてドラムロールの鳴り止むドンッという音がしたと思った瞬間、僕は眩い光に包まれた。
「吉良紡!」
司会者が僕の名前を叫ぶ。その瞬間、この場にいるすべての人から割れんばかりの拍手が贈られるけれど、どこか他人事のように思えてしまう。一番になりたいと願ってはいたけれど、絶対に勝つって決めていたけれど、まさかそれが現実になるなんて。状況を理解した途端、急に足に力が入らなくなって、その場にへなへなとしゃがみこみそうになった。けれど誰かに腕を掴まれて、そのまま抱きしめられる。その感触と匂いで相手が誰なのか、すぐに悟った。
「紡、おめでとう」
「……律」
耳元で囁かれると、鼻の奥がツンと痛んで視界がぼやける。体を離せば、同じように瞳を潤ませた律と目が合った。段取りになかった律の行動に慌てながら、スタッフさんが花束とトロフィーを用意する。すぐにアイドルスイッチを入れて、切り替えた律に順番に渡された。それを持ったまま震える足を前に進めてスタンドマイクの前に立てば、司会者が口を開く。
「吉良さん、今のお気持ちはいかがですか?」
頭の中は真っ白のままで、何から話せばいいのか分からない。だけど、ぽつりぽつりと話し始める僕を急かすようなひとは誰もいない。
「あの日から夢の中にいるみたいです。会いたいけど会いたくない人に出会ってしまって、それからずっと、僕は長い夢を見ているんです」
あまりに大きなものがこみ上げてくるけれど、なんとか声を振り絞る。熱いものが頬を伝っていくのを感じていた。周りを見渡せば、腕を組んだ田島さんが微笑んでいるのが見える。観客席の中には、僕を応援してくれていたであろう女の子が泣いていた。
「ここまで僕を連れてきてくれた、すべての人に感謝しています。視聴者投票で僕に投票してくださった皆さんのお陰で、この舞台に立つことができました。傍で応援してくれた家族や友達にたくさんの勇気をもらいました。こんな僕を応援してくださって、本当にありがとうございました」
そう言葉を切ると、僕は振り向いて少し後方に立つ男を見つめる。カメラなんて気にしていなかった。直接目を見て伝えたい言葉がある。
「そして、僕の神さま……ううん、東雲律さん。貴方に出会って、人生が変わりました。貴方を好きになってよかった。心からそう言えます。こんな僕に夢を見せてくれて、ありがとう」
まっすぐに最愛の人を見つめて言うと、ぐしゃりと律が顔を歪ませる。そんな表情も美しい。滅多に見せない律の涙にざわめきが起きるけれど、パーンと派手な音を立てて銀テープが噴射されてみんなの意識はそちらに向く。それを合図に司会者が番組を締める。
「JTOファイナル、栄えある優勝は吉良紡さんでした。それではまた次回のJTOでお会いしましょう!」
カメラに向かって指示通り手を振っていれば、カットの声がかかる。その瞬間、一気に緊張の糸が解けて、達成感と同時に終わったんだと少しの喪失感に包まれた。だけど、ここで完全燃焼している場合じゃない。まだひとつだけ、僕には最後の大仕事が待っている。
誰もが見蕩れる美しい容姿、一度聴いたら忘れられない歌声、人の心を惹き付けてしまう圧倒的オーラ。歳を重ねるごとに、その輝きは増していく。数え切れないほどの魅力で溢れた、生まれながらに持っている人。僕なんかとは大違い。でも、ないものねだりをしようとも思わなかった。望むだけ無駄だと理解していた僕は根っからの敗北者。
神さまがもし本当にいるならば、彼のことをいうのだと思った。手を伸ばしても届かない孤高の存在。彼の世界はどんな風に彩られているのだろう。吉良紡という存在を認知しないでほしいけれど、律の一部になりたい。日毎に彼へ抱く感情は大きくなって、どろどろと重たいものになっていく。
――いつか、貴方と一緒に歌えたら。
それは、僕のようなちっぽけな人間が口に出すのも烏滸がましい夢。だけど、心に灯火がついてしまったんだ。叶うはずのない夢を抱いてしまったんだ。
彼の隣に立つということ。彼と想い合うこと。あの頃は想像したことさえなかった現実が今はある。僕だって、夢に手を伸ばせるんじゃないかって。ほんの少しだけ希望を見い出せるところまで来れたんだ。
幾度となく背中を押してもらった。卑下してばかりだった自分に少し自信を持てるようになった。たくさんの愛情をもらった。その存在の大きさに何度救われたことだろう。これまでの僕とは違う。決心したんだ。だって、一番の味方がこんな僕を信じてくれている。
だから、今度は僕が彼を孤独から守ってあげたい。隣に並んで、一緒に歩んでいきたい。夢は叶えるためにあるのだから、最初から諦めるなんてもったいない。自分の手で未来を掴むんだ。運命も夢も、僕自身で手繰り寄せる。
以前よりも豪華に飾り付けられたステージに立てば、あの日の感覚が蘇る。足が震えることに変わりはないけれど、自分で覚悟を決めてきた分、あのときとは気持ちの持ちようが違う。だけどカメラを向けられれば、途端に身体が強ばってしまう。こればっかりは簡単に慣れそうにない。そんな僕を気にせずにお馴染みの司会者が話し始める。
「さて、続いては視聴者投票二位通過の吉良紡さんです」
「よろしくお願いします」
「早速ですが、ファイナルに参加しようと思った理由を聞いてもいいですか?」
目の前には以前と変わらない審査員のメンバーが並んで座っていて、スペシャル審査員だった律も今日はそこに加わっている。ちらりと視線を送れば、律と目が合った。自分のことを話すのは苦手だけど、優しい眼差しに勇気をもらって口を開く。
「前回は友人に勝手に応募されていて、あまり気が乗らないまま仕方なく参加したんです。正直、ここに立って後悔しました。周りはみんな夢に向かって一生懸命で、キラキラと眩しくて……。自分だけが取り残されているような、孤独な戦いでした。緊張で死ぬかと思ったし、平凡な僕が何でこんなところにいるんだろうって何度も逃げ出したくなりました」
しんと静まり返った空間。出演者やスタッフさん、番組観覧のお客さん、ここにいるすべての人が僕なんかの話に耳を傾けている。その事実に少し声が震えてきて、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「僕が平凡なことに変わりは無いし、どうしてファイナルに選んでいただけたのか、疑問に思っています。でも、前回の出演をきっかけにいろんな発見がありました。こんな自分を変えたいと、強く思いました。いつも見守ってくれる家族、壁を作りがちな僕を真正面から受け止めて応援してくれる友達。いろんな人に支えられていると、ようやく気づくことができました。……その中に僕の歌を届けたい人がいます。だからこそ、この場所で一番になりたい。そう思って、参加することにしました」
「熱いねぇ、届けたい相手は聞いちゃってもいいのかな」
「すみません、それは秘密です。口に出さなくても、その人にはちゃんと伝わると思うので」
「なるほど。何となくそのお相手に察しはつきますが……、なんだか蚊帳の外なのにニヤニヤしてしまいます。若いっていいですね」
砕けた口調で司会者は話を続けているけれど、もう、僕の目にはひとりしか映っていない。これから歌う曲は彼だけに贈る、僕が綴ったラブソング。嗚呼、スポットライトが眩しい。汗の滲む手でマイクを固く握りしめた。
「それでは歌っていただきましょう。吉良紡さんで『ラブレター』です、どうぞ」
そんな司会者の言葉を最後に、僕の意識はこの日のために初めて作った曲の世界へと集中する。他に誰もいない、僕と律だけの真っ白な世界。
ありがとう、僕を見つけてくれて、僕を好きになってくれて。アイドルになってくれて、僕と出会ってくれてありがとう。どうか、この想いが届きますように。これからも貴方の隣にいられますように。そして、いついかなる時も貴方が幸せでありますように。
そんな願いを込めて歌い終えた僕を待っていたのは、拍手喝采のスタンディングオベーション。観覧席には泣いている人もいて、僕の胸もじーんと熱くなった。
「いやー、前回よりもパワーアップした歌声に聞き惚れてしまいました。どうでしたか、松来さん」
「透き通るような歌声は清涼感があって、澄み渡る青空を感じました。ご自身で作られた曲もストレートな歌詞が沁みて、よかったです」
「ありがとうございます」
「さて、東雲さん。あなたに聞かないわけにはいかないですね」
そう司会者が口にすれば、観客席からキャーと悲鳴が上がる。
「最高、その一言に尽きます。彼にこれほど想われている相手に酷く嫉妬してしまいそうなほど、すごく情熱的なラブレターでしたね」
「吉良くんは東雲さんのファンだって言ってましたもんね、油断してると取られちゃいますよ」
「うーん、それは困りますね」
司会者の冗談に律も笑いながら答える。なんだか嫌な予感がする。律が意外と悪戯好きで、愉快犯なことを知っているからこそ、ここではこれ以上口を開くなと思ってしまう。芸能人をしている律には全く慣れていないし、これ以上律が何かを言う前にさっさと終わらせてほしかったけれど、そうは問屋が卸さない。
「紡」
「ッ、」
「浮気は許さないよ」
いつものように名前を呼ばれて息を飲んだ。当然のように、先程よりも大きな悲鳴が上がる。司会者はヒューと茶化すだけで、役に立ちそうもない。こちらをまっすぐに見つめて言ってのけた東雲律は、一体何を考えているのか。僕ははくはくと何も言葉が出せずに、顔を真っ赤に染め上げてパニックになることしかできなかった。
「吉良くん、……吉良くん? ちょっと、東雲さん、やりすぎですよ」
「あはは、すみません。かわいくて、つい。歌ってるときとのギャップもいいんですよね、彼」
もう考えることすら放棄してしまいたい。楽しそうに笑って謝る律は一切悪びれてなくて、僕だけが恥をかいていることを恨めしく思う。
「やっぱり東雲さんのお気に入りなんですね」
「はい。だから、俺はただ紡を信じてます」
「相思相愛というところでしょうか、素敵な関係ですね」
ここで一度カットがかかって、僕はステージを後にした。最早どんな顔をしていたのかは分からないし、どうやって楽屋に戻ったかすら記憶にない。テレビで放送されるときには、さすがに放送事故だと判断した田島さんのお陰で問題のシーンはカットされることになったのだけど、なんだかよく分からない感情のまま僕は結果を待つことになった。
◇
真っ暗なステージに全てを出し切った五名のファイナリストが集う。表情は達成感で晴れ晴れとしているけれど、これから始まる結果発表に緊張を滲ませていた。
他の人のパフォーマンスは見ていない。だけど、ファイナルの決勝にふさわしいものが出せたのだろうということは、その表情を見れば伝わってきた。僕だって全力を出し切った。後悔はない。自信を持ってそう言い切れるけれど、結果に繋がるかは分からない。バクバクと心臓の音がうるさい。呼吸の仕方を忘れたみたいに、酸素をうまく取り込めない。緊張と恐怖で足が震えていた。
すると結果発表が始まる前に、これまでのJTOのダイジェスト映像がスクリーンに流れ始めた。その中には僕も入っていて、熱いものがこみ上げる。ここから始まったんだ。およそ一年前、あの日を思い出せば感慨深い。嫌いだったあの頃の自分はもういない。律のおかげで前を向けるようになった。だから今回こそ、一番が欲しい。今の僕にあるのはただその一心で、自身を落ち着かせるために大きく息を吐いた。
映像が終わり、いよいよだと緊迫した空気がこの場を支配する。ごくりと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。暗闇の中、普段とは打って変わって厳かに現れた司会者がライトに照らされる。
「それでは発表します」
そう言って、ゆっくりと丁寧に封書を開けるのを僕はじっと見つめていた。
「JTOファイナル、栄えあるその頂点に立つのは――……」
ドラムロールが鳴り響き、スポットライトがステージをぐるぐると照らす。永遠に思えるほど長く感じて、今にも心臓が飛び出そう。そしてドラムロールの鳴り止むドンッという音がしたと思った瞬間、僕は眩い光に包まれた。
「吉良紡!」
司会者が僕の名前を叫ぶ。その瞬間、この場にいるすべての人から割れんばかりの拍手が贈られるけれど、どこか他人事のように思えてしまう。一番になりたいと願ってはいたけれど、絶対に勝つって決めていたけれど、まさかそれが現実になるなんて。状況を理解した途端、急に足に力が入らなくなって、その場にへなへなとしゃがみこみそうになった。けれど誰かに腕を掴まれて、そのまま抱きしめられる。その感触と匂いで相手が誰なのか、すぐに悟った。
「紡、おめでとう」
「……律」
耳元で囁かれると、鼻の奥がツンと痛んで視界がぼやける。体を離せば、同じように瞳を潤ませた律と目が合った。段取りになかった律の行動に慌てながら、スタッフさんが花束とトロフィーを用意する。すぐにアイドルスイッチを入れて、切り替えた律に順番に渡された。それを持ったまま震える足を前に進めてスタンドマイクの前に立てば、司会者が口を開く。
「吉良さん、今のお気持ちはいかがですか?」
頭の中は真っ白のままで、何から話せばいいのか分からない。だけど、ぽつりぽつりと話し始める僕を急かすようなひとは誰もいない。
「あの日から夢の中にいるみたいです。会いたいけど会いたくない人に出会ってしまって、それからずっと、僕は長い夢を見ているんです」
あまりに大きなものがこみ上げてくるけれど、なんとか声を振り絞る。熱いものが頬を伝っていくのを感じていた。周りを見渡せば、腕を組んだ田島さんが微笑んでいるのが見える。観客席の中には、僕を応援してくれていたであろう女の子が泣いていた。
「ここまで僕を連れてきてくれた、すべての人に感謝しています。視聴者投票で僕に投票してくださった皆さんのお陰で、この舞台に立つことができました。傍で応援してくれた家族や友達にたくさんの勇気をもらいました。こんな僕を応援してくださって、本当にありがとうございました」
そう言葉を切ると、僕は振り向いて少し後方に立つ男を見つめる。カメラなんて気にしていなかった。直接目を見て伝えたい言葉がある。
「そして、僕の神さま……ううん、東雲律さん。貴方に出会って、人生が変わりました。貴方を好きになってよかった。心からそう言えます。こんな僕に夢を見せてくれて、ありがとう」
まっすぐに最愛の人を見つめて言うと、ぐしゃりと律が顔を歪ませる。そんな表情も美しい。滅多に見せない律の涙にざわめきが起きるけれど、パーンと派手な音を立てて銀テープが噴射されてみんなの意識はそちらに向く。それを合図に司会者が番組を締める。
「JTOファイナル、栄えある優勝は吉良紡さんでした。それではまた次回のJTOでお会いしましょう!」
カメラに向かって指示通り手を振っていれば、カットの声がかかる。その瞬間、一気に緊張の糸が解けて、達成感と同時に終わったんだと少しの喪失感に包まれた。だけど、ここで完全燃焼している場合じゃない。まだひとつだけ、僕には最後の大仕事が待っている。



