長い夏休みが終わりを迎え、ギラギラと照りつけていた太陽も茹だるような暑さも幾分かマシになった。それでも残暑は厳しくて、寝苦しい夜を過ごしている。月曜日は二限から。それなのにアラームが鳴るより前、けたたましく鳴り響く着信音で目が覚めた。こんな朝早くに誰だ、とぼんやりと開けた目で画面を確認すれば、奏だった。珍しい、普段はメールなのに。何が起きているのか全く知らない僕は欠伸を噛み殺し、掠れた声で電話に出た。
「もしもし」
『動画サイトにチャンネル作ったりしてないよな?』
「え、してないけど」
『そうだよな……』
開口一番、朝の挨拶もなしに唐突に確認されて戸惑いがちに否定すると、奏は重たい息を吐いた。
「何かあった?」
『紡のチャンネルが作られてて、そこにカラオケの動画がアップされてる』
「は?」
『ゼミの親睦会のやつ』
「え……」
どうして僕のチャンネルが? 一体何のために?
疑問は浮かんでくるけれどなりすましに遭うなんて思ってもいなくて、どこか現実味を帯びてこない。こんな朝早くにわざわざ電話をかけてくるぐらいだ。奏が嘘をついているわけないから、本当にチャンネルが作られているのだろう。アップされていると聞いて、思い当たる動画はひとつだけ。宇田が撮影した、JTOに無断で送られた動画だ。だとすれば、勝手に僕の名前を騙ってチャンネルを作った犯人は、撮影者で動画を持っている宇田なのかな。黙りこんだまま犯人を予想していれば、奏も同じ考えに至っていたらしい。
『宇田に今日確認するぞ』
「うん」
『じゃあ、また後で。迎えに行くから、あんま考えすぎんなよ』
通話を終えて、重たいため息を吐き出す。気が乗らないけれど、震える指で自分の名前を検索すればすぐにそれは見つかった。こうしている間にも視聴回数はどんどん増えていくし、コメントだって書き込まれていく。それを止める術は、僕にない。
しかも、アカウントを作られたのは動画サイトだけではなかったらしい。チャンネルの概要欄にSNSのリンクが貼られていて、それをクリックすれば普段オタ活でよく利用するSNSのアカウントも作成されていた。自分の目を疑いたいことに、おすすめのトレンドには「#吉良紡」の四文字が入っている。背筋がゾッとして、恐怖が全身を走る。たまらなくなって、僕はぎゅっと自分の体を抱きしめた。
『応援してます』
『紡くんの歌が好きです』
『アカウント作ってくれて嬉しい』
そこに記されているのは純粋な好意のはずなのに。自分のあずかり知らぬところで、みんな、中の人が僕だと思ってコメントをしている。僕に向けて、メッセージを送っている。それがすごく怖かった。同時に、少しの怒りも覚えた。そもそも僕はこんな風に応援してもらえる立場ではないし、どうしてこんなにコメントが書かれているのかは理解できないけれど、誰かを応援したいという気持ちはよく分かっているつもりだ。
オタクをしているからこそ、虚偽に塗れたアカウントに喜んでいるひとがいることが腹立たしくて、そんな人たちの気持ちを踏み躙っていることが許せない。ぐっと唇を噛んで、画面を閉じた。こんな風に晒されるようなこと、望んでいない。チャンネルなんて、作ろうと思ったこともない。JTOには仕方なく参加したけれど、そもそも不特定多数の前で歌うつもりはなかった。自分が表舞台に立ちたいわけじゃなく、僕はただ律のオタクでいられればそれでよかった。
一体、誰が何のために……。宇田は危なっかしいところがあるけれど、なりすましなんて本当にするだろうか。犯人が宇田じゃなかったときの真犯人にまるで見当がつかなくて、僕はしばらくベッドの上で放心していた。
◇
「顔色わる」
過保護に迎えに来た奏は、僕の顔を見た途端開口一番にそう言った。それに反論する力も今は持ち合わせていなくて、力なく笑うことしかできなかった。冷静になればなるほど、恐怖が湧いてくるのだから無理もない。奏もそれを察したのだろう。それ以上何か言うことはなく、重たい沈黙が僕らを包んだ。
いつもの大講義室に入ってお目当ての人を探せば、目立つ彼はすぐに見つかった。後方の席で友達と談笑している宇田の元まで歩いていけば、向こうから話しかけてくる。
「吉良、動画サイトとSNS見たぞ!」
「宇田……」
「作るなら先に言っとけよ、俺が宣伝してやったのに。まぁ、フォローはしておいたから安心しろよな」
宇田じゃなかった。いっそのことお前であってほしいという望みは叶わなかった。喉元に冷たくて重たい何かが詰め込まれているみたい。声が出せない僕の代わりに奏が問う。
「あの動画って宇田が撮ったやつじゃないの」
「撮影は俺だけど、いろんな人にちょうだいって言われたからもう今は誰が持ってるか分かんねぇよ」
多分、収集のつかないところまで拡散されてしまったのだろう。この調子だと、宇田も犯人を知っているわけではなさそうだ。嗚呼、目眩がする。あのアカウントが自分のものじゃないと世間に向けて否定する術を持たない僕はどうすることもできない。次に何が投稿されるのか見当もつかず、ただ見ていることしかできない。そんな現状が更に苛立たしさを増幅させる。
最近はJTOに出演したというのもみんなの頭から抜け落ちて、注目も落ち着いてきたのに。これじゃ、また逆戻り。数ヶ月前よりも遠慮のない視線が僕を貫く。
「まだ投稿をするようなら、弁護士に相談しよう。俺もいろいろ調べておくから」
「うん……」
アカウントを作った人は、カラオケの動画の他に僕の動画でも持っているのだろうか。頼りになる幼なじみの言葉を聞きながら、新たな不安が芽生えてくる。だけど無理に笑顔を作って、家まで送ってくれた奏を見送った。
――パタン。
ドアを閉じて、僕はずるずるとその場にしゃがみこむ。もうこれだけ広まってしまったのだ。カラオケ動画だけで終わるならいい。なりすましの犯人は、僕を貶めるようなことをするつもりなのだろうか。
顔を埋めていれば、玄関に着信音が鳴り響く。体がびくりと過剰に反応して、恐る恐る鞄からスマホを取り出した。画面を見て、一気に緊張の糸が弛んだ。どうして貴方はこんな時に。落ち込んでいるのを見透かされているみたい。いつもなら躊躇ってしまうけれど、今はただその声に癒されたくて、僕は立ち上がって靴を脱ぎながら電話に出た。
「もしもし」
『もしもし、紡?』
いつもと変わらない、甘いキャラメルを溶かしたような優しい声にほっとしてなんだか泣きそうになった。
「りつ……」
『どうしてるかなぁと思ってさ。まぁ俺が声聞きたかったっていうのも勿論あるけど』
「…………」
『あのアカウント、紡じゃないんでしょ?』
神さまは耳が早い。単刀直入に切り出された話題が現実を突きつけてきて、胃の中に重たいものが積み上げられる。だけど、律の確信めいた口調がそれを少しずつ取り除いていく。
『紡はそういうことするタイプじゃないと思ったから』
「誰かが勝手に作ったみたい」
『やっぱりそうか……』
律が僕のことを分かってくれている。ただそれだけで無限に勇気が湧いてきて、僕は前を向ける。
『紡』
「ん?」
『全部が嫌になってどうしようもなくなった時は俺のところに逃げてきていいからね』
不特定多数に注目されるのは僕にとっては恐怖でしかなくて、今まであった居場所がどんどん失われていみたいだった。そんな暗闇を裂いて、神さまは光を導く。春の陽気のような、ぽかぽかして心地良い陽だまりのよう。じーんと熱いものがこみ上げてくる。泣いているのがバレないよう、僕は声を抑えることに必死だった。
『本当はすぐ傍で守ってあげたいけど、今は難しいから……。ちゃんと周りに気をつけるんだよ。夜道は特に』
「うん」
『俺はいつでも紡の味方だからね』
「……っ」
耐えきれなくて漏れてしまった嗚咽が律に届いていなければいい。そんなことを考えながら通話の切れた電話を枕の横に置いて、僕はごろんとベッドに横になった。
◇
その日の夜、また新たに動画がアップされた。思っていたよりも動向が早くて、気が滅入りそう。これから毎日のように動画をアップするつもりなのだろうか。でも、もしかすると僕とは関係のない動画かもしれない。そんな一縷の期待を抱いて、僕は『過去』と付けられたタイトルのそれを再生した。
少し手ぶれをしている画面は粗っぽくて、素人が撮影しているとよく分かる。学校の外階段に座り、ギターを抱えた少し幼い僕が映し出される。それが高校一年生の頃の自分だとすぐに分かった。
『ちゃんと聞いててくださいね』
優しい風が僕の前髪を攫うように遊ぶ。穏やかな春の日差しがスポットライト。カメラを構えた人にそう言った僕はギターを弾いて歌い出す。お世辞にも上手いとは言えないレベルの粗末な出来。そんなことは気にも止めず、一生懸命に指を動かして瞳を輝かせている自分。あの人に向けてこんな顔をしていたのだと、今になって初めて知った。教えてもらうこと全てが新鮮で、どんどん自分のものになっていくのが嬉しかった。歌もギターももっと上手くなりたくて、純粋に音楽を楽しんでいたあの頃。そんな懐かしさと共に蘇るは何よりも苦い記憶。僕の人生において、最大の汚点。
『やめて……』
『紡』
『先輩、お願い……』
自分の歌う姿を見ていたはずなのに、脳裏を過ぎるのは消してしまいたい過去。
「ど、して……」
今になってどうして。もう五年は経っているのに。この後に起こることをまだ何も知らない、純粋無垢でいられたあの頃の自分を最後まで観ていられなくて、僕は途中でスマホの電源を落とした。トラウマは簡単に消えてくれない。心臓がぎゅうっと掴まれているみたいに痛む。荒い呼吸音が静かな部屋に響く。今でもはっきりと覚えている。その場所に誰がいたのか。誰が撮影していたのか。
消したくても消せない過去。忘れられるはずがないだろう。彼につけられた傷は未だに癒えていない。相手があの人じゃなければ、最早何だってよかった。分かりたくないけれど、分かってしまった。このチャンネルを作った人も、その目的も。
漣弦。五年前に姿を消した、一番仲の良かった先輩。僕の音楽の礎を築いた人。そして、僕のファーストキスの相手。姿を消したあの日から、もう二度と交わることはないと思っていたのに。
ベッドに入って横になっても、なかなか眠りにつくことができなかった。目を閉じると過去がフラッシュバックして動悸が激しくなる。眠ろうとすればするほど余計に眠れなくて、気がつけばカーテンの向こう側が明るくなっていた。ぼーっとする頭で自分が何をすべきか、一晩中考えていた。会わない間もずっと、彼は僕のことを恨んでいた。これは復讐なのだろう。だけどもっとタイミングなんてあっただろうに、どうして今なのか。どうすれば彼の気が晴れるのか。
僕が望むのは、なりすましをやめてもらうこと。そのためには、彼にコンタクトを取るしかない。連絡先なんて当然知らないから、僕はSNSのアカウントを作ってメッセージを送ることにした。
『吉良です。弦先輩ですよね。話がしたいです』
回りくどいことはやめにして、単刀直入に切り出した。投稿数ゼロでプロフィールすら編集していない捨て垢からの連絡なんて無視されるかと思っていたけれど、すぐに返信がきた。
『久しぶり、紡』
『俺もお前と話がしたいと思ってたんだ』
あの頃と変わらない呼び方が懐かしくて、胸の奥が悲鳴を上げる。目頭が熱くなって、鼻先がツンと痛む。なんだか無性に泣きたくなった。まるで今でも先輩後輩の仲が続いているかのような、僕らの間には何ひとつ問題なんてなかったかのような。ありもしない幻影を追いかけそうになる。
僕は弦先輩を嫌いにはなれない。はっきりとそう自覚した途端、涙が一粒零れ落ちた。弦先輩は僕を救ってくれたヒーローで、唯一無二の居場所だったから。与えてもらったものがあまりにも多すぎる。こんな嫌がらせをされたって、心の底から恨んだり憎んだりすることはできそうになかった。もう二度と会いたくないと思っていたのに、こうして連絡を取ってしまえば心が揺らぐ。僕らは何を間違えてしまったのだろう。あの頃に戻れるなら、一からやり直したい。そんな叶わない夢を抱いたところで、僕らは過去に戻れない。
もう一度、これから……。だけど未来を願ったって、それは僕の独り善がり。弦先輩はこれからなんて望んでいない。だから、偽善者だって嗤われるんだ。
◇
漣弦の話をしよう。彼は紛うことなき原石だった。彼の才能は磨けば磨くほど輝きを増すはずなのに、本人はそんなことには無頓着。努力をしなくたって、何でもできてしまう。ただ自分が楽しければいいという快楽主義者。だけど選ばれし者の運命か、何をやっても上手くいくし、周囲の注目を集めてしまう。それが少し窮屈なときもあるんだよと、彼は眉を下げて笑っていた。
確かに自分の通う高校という狭い世界だけではなく、近隣の高校でも彼を知らない人はいないだろうというぐらい有名だった。着崩した制服、派手なピアス、整った容姿。大人びているのに、どこか破天荒。そんな姿を鮮明に覚えている。先輩は所謂問題児というもので、よく先生に呼び出しを食らってはけろりとしているところを見ていた。ちっぽけな世界のくだらないルールに縛られるような人じゃなかった。先輩はいつだって僕なんかとは比べものにならないほど、広い世界を見ていた。
関わることなんてなさそうな僕らの線が交わったのは、部活がきっかけ。律に恋に落ちてからずっと音楽を始めてみたいと思っていた。だけど中学には女子ばかりの吹奏楽部しかなくて、臆病な僕は入部しようという気持ちにもなれなくて。だから、高校に入ったら軽音楽部に入ることを楽しみにしていたんだ。
桜が散り始めた頃、部活見学の時期がやってきた。奏は小学生の頃からやっているサッカーを続けていたから、僕は緊張で震え上がりながら軽音楽部の部室の前に佇んでいた。昨日までは確かに存在していた勇気やワクワクなんて、どこかに消えてしまった。閉ざされたドアを開けることがこんなに怖いなんて。どうしようと躊躇っていれば、背後から声をかけられる。
「入んないの?」
ぎこちなく振り向けば、訝しげにこちらを見ている派手な男。ほんの少しだけ、今より少し尖っていた頃の律に雰囲気が似ていると思った。
「すみません……」
「いや、別に怒ってないけど。入部希望者?」
「一応……」
「ふーん。じゃあ、おいでよ」
ガラガラ、僕が躊躇っていたドアを遠慮なく開ける。そのまま手を引かれて、僕は知らない世界に飛び込んだ。引っ込み思案な僕は入部してもうまく周りに馴染めなくて、孤立することが多かった。そんなときに救いの手を差し伸べてくれるのはいつも弦先輩で、何度助けられたか分からないほど。
「漣くん、前まで滅多に部室に顔出さなかったのに。吉良くんのおかげだね」
「いえ、僕はそんな……」
他の先輩たちにもセットで扱われるほど、自然と弦先輩との距離は縮まって、第一印象で感じた怖さはすぐになくなっていた。先輩も初対面のときから放っておいたらまずい、鈍臭い奴だと思ったのか、事ある毎に僕に構うようになった。
見た目も考え方も、何もかもが正反対。だけど、一緒にいると心が落ち着く。不思議な関係のようにも思えた。派手な先輩と地味な僕は周りから見ても異質の組み合わせだったようで、先生からは時々心配の声をかけられていた。首を振って否定する僕、怠そうに返事する先輩。そんな僕らを疑いの目で見ていた先生は、今思えばやっぱり間違っていなかったのかもしれない。
先輩に懐くまで時間はかからなかった。音楽に関しては何よりも博識な先輩はいろんなことを教えてくれて、僕はずるずると彼の世界に引き込まれていった。特にギターに関しての腕前は抜群で、僕も彼に追いつこうと必死になって練習した。季節を巡るうちに、いつしか先輩と一緒にいる時間が奏よりも長くなった。空き教室で先輩とお弁当を食べて、放課後は一緒に帰る、そんな日常。素行は不良っぽいけれど実は成績上位の先輩には、テスト前には分からないところを教えてもらうこともあった。
あの頃、僕の一番近くにいたのは間違いなく弦先輩だった。何をしても許される先輩の隣は居心地がよくて、甘やかされていることを自覚していた。平凡な自分が、彼の隣にいると特別になれたような気がして浮かれていたのかもしれない。だけど、僕は勘違いしていた。仲のいい先輩と後輩、そんなありきたりな関係が続くと思っていたのは僕だけだった。
だんだん気温が低下して肌寒くなってきた頃、冷たい風から逃げるようにして、僕らは外階段から旧校舎で過ごすようになった。運動部の部室棟がすぐ近くにあるから話し声は聞こえてくるけれど、部活が始まってしまえば僕ら以外の気配は感じられなかった。
そんな冬のある日のこと、事件は起きた。あの日は朝から雲行きが怪しくて、今にも泣き出しそうな薄灰色の雲が空を覆っていたのを覚えている。
「ねえ、紡」
「はい」
名前を呼ばれて、ギターを弾く手を止める。大切な相棒を横に置いていつものようにじいっと見つめ返せば、先輩の目から光が消えて濁っていることに気がついた。
「……お前はいつもそうだね」
「え?」
「音楽は楽しい?」
「はい、おかげさまで歌うのもギターも楽しいですよ」
唐突な質問に首を傾げながら素直に答えると、先輩は口角を無理矢理上げて歪な笑みを浮かべた。
「ふ、むかつくなあ」
「え?」
「自分の才能に気がつかないところ、隣で見ていて反吐が出そうなほど腹が立つ」
昨日まで、否、数秒前まで仲がいいと思っていた人に突然向けられる純粋な悪意。何を言われたのか、すぐには理解が追いつかなくて、じんわりと遅効性の毒のように染みてくる。
「お前といると、自分がどれだけちっぽけな存在か思い知らされる」
「そんなこと、」
「鈍感は黙ってろ」
僕なんかより、先輩の方が歌もギターも上手いのに。心からそう思っているからこそ否定しようとすれば、荒々しい口調の先輩はそれすら許さない。
「お前の歌を聴く度に、心の中が醜い感情で塗り潰されていく。まるで怪物にでもなったみたいだよ」
「……」
「どんどん自分を嫌いになるのに、人を疑うことを知らないお前はいつもそうやって無垢な瞳で見上げてくる。その度に湧き上がってくる感情を抑えるのに必死だった」
「……」
「どうして俺じゃないんだ。何度そう思ったか。お前の才能が花開くのを隣で見ているのは地獄だったよ」
「せんぱい」
次々に降り掛かってくる言葉の矢を止めてほしくて、僕は震える手で先輩の手を掴んだ。その刹那、ぎりっと唇を強く噛んだ先輩はその手を乱暴に振りほどき、衝動のままに僕を押し倒した。
「何も手に入らないなら、いっそお前のことを汚して、壊してやりたい。才能ごと食い散らかして、全て俺のものにしたい」
泣きそうな顔をしているように見えたと思う。だけど、今となってはもうはっきりと思い出せない。跡が残るほど痛いぐらいに手首を掴まれて、噛み付くようにキスをされる。舌で唇をこじ開けられて、今まで感じたことの無い感覚に口内が荒らされる。何の情緒もない、呆気なく奪われた最悪なファーストキスだった。唇が解放されて、荒い息を吐きながら戸惑っていられたのもつかの間、濡れた唇を拭った先輩が無表情のままシャツの首元を掴んだ。
「やめて、先輩、お願い」
殴られると思って抵抗すれば、先輩は全てを諦めたみたいに生気のない顔で笑った。身長も年齢も体格も負けている僕は、その手を止める術なんて持ち合わせていない。顔を歪める僕を見て、先輩は美しく笑った。
「いつかお前は俺のことなんて捨てて、もっと広い世界に飛び立つんだろうね」
「……ぁ、しらな、」
「そんなの、許さないよ」
遠慮なく突き刺される言葉のナイフが心を抉る。息が詰まる。こわい、苦しい、痛い。何をされるのか分からない。助けがほしいのに、ここにいるのは僕らだけ。心から信頼して、兄のように慕っていたのに。関係が崩れるときは一瞬なのだと、この時初めて知った。
何にも持っていない平凡な自分。物心ついた時からずっとそう思って生きてきた。だからこそ言葉の意味がわからなくて、そんな僕にまた先輩は苛立つのだろう。それは堂々巡りで、終わりがない。嗚呼、どこで何を間違えたのだろう。あんなに優しかった人を壊してしまった。その事実だけはちゃんと頭で理解できた。酷く悲しくて、申し訳なくて、涙が止まらない。
「愛してるよ、紡」
「…………」
「お前は俺の罪を背負って生きていくんだ」
偽りと悪意に塗れた愛の言葉。聞きたくないと耳を塞いでしまいたいのに叶わない。しかし、微かに窓を叩く雨の音がした。その音に混じって、ざわざわと人の声が聞こえてくる。グラウンドで練習していた運動部が慌てて戻ってきたらしい。
今しかない。その人がいるかどうかも分からないけれど、腰が抜けて自分ひとりで逃げ出すことは不可能に近かった。それなら数パーセントの可能性に縋りたい。
「奏! 奏、たすけて!」
今までこんなに必死に名前を呼んだことなんてないんじゃないかっていうぐらい、自分でも驚くほど悲壮感の漂う掠れた声は静かな旧校舎に響いた。
「無駄だよ、誰も来ない」
そんな僕の姿を見て、先輩は嘲笑う。先輩の手に力が入って、首が絞まる。絶望から目を背けたくてぎゅっと瞳を閉じれば、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「紡……?」
「っ、」
「チッ」
間一髪だった。少し前に先輩との練習場所が旧校舎に変わったのだと話しておいたのが役に立ったのかもしれない。必死に手を伸ばす僕を見て目を丸くした奏は、珍しく狼狽えた表情を浮かべた後、すぐに先輩を僕から引き剥がした。
「あーあ、終わりか」
意外にも先輩は抵抗の意思さえ見せなかった。俺を心配する奏越しに見えた先輩の顔が脳裏にこびりついて離れない。
「お前に出会わなければよかった」
「せんぱい、」
「紡、お前は人を不幸にする天才だよ」
ぐさり、最後に突き刺された言葉は癒えない傷として今でもよく痛む。
その後、奏が呼んだ先生に連れられた先輩は僕の知らない間に学校を退学していた。噂ではこの街を出ていったらしい。もう弦先輩とは会わない。綺麗にぴったりと重なっていた線は、もう二度と交わることはない。そう思うとほっとした。だけど、心残りのような凝りが僕を時々過去に引き戻す。
先輩はまた僕を痛めつけたいのだろうか。あの日を思い出して身が竦んだけれど、いい加減前に進みたい。過去に怯えずに、胸を張って律の隣にいたい。律のことをちゃんと考えたいから、過去と向き合わないといけない。
本当はこのまま目を逸らしていたいけれど、僕はもう逃げない。その時が来たんだ。約束は今週土曜日の十四時。決心したはずなのに、その日が近づくにつれて胃がキリキリと痛み出した。
「もしもし」
『動画サイトにチャンネル作ったりしてないよな?』
「え、してないけど」
『そうだよな……』
開口一番、朝の挨拶もなしに唐突に確認されて戸惑いがちに否定すると、奏は重たい息を吐いた。
「何かあった?」
『紡のチャンネルが作られてて、そこにカラオケの動画がアップされてる』
「は?」
『ゼミの親睦会のやつ』
「え……」
どうして僕のチャンネルが? 一体何のために?
疑問は浮かんでくるけれどなりすましに遭うなんて思ってもいなくて、どこか現実味を帯びてこない。こんな朝早くにわざわざ電話をかけてくるぐらいだ。奏が嘘をついているわけないから、本当にチャンネルが作られているのだろう。アップされていると聞いて、思い当たる動画はひとつだけ。宇田が撮影した、JTOに無断で送られた動画だ。だとすれば、勝手に僕の名前を騙ってチャンネルを作った犯人は、撮影者で動画を持っている宇田なのかな。黙りこんだまま犯人を予想していれば、奏も同じ考えに至っていたらしい。
『宇田に今日確認するぞ』
「うん」
『じゃあ、また後で。迎えに行くから、あんま考えすぎんなよ』
通話を終えて、重たいため息を吐き出す。気が乗らないけれど、震える指で自分の名前を検索すればすぐにそれは見つかった。こうしている間にも視聴回数はどんどん増えていくし、コメントだって書き込まれていく。それを止める術は、僕にない。
しかも、アカウントを作られたのは動画サイトだけではなかったらしい。チャンネルの概要欄にSNSのリンクが貼られていて、それをクリックすれば普段オタ活でよく利用するSNSのアカウントも作成されていた。自分の目を疑いたいことに、おすすめのトレンドには「#吉良紡」の四文字が入っている。背筋がゾッとして、恐怖が全身を走る。たまらなくなって、僕はぎゅっと自分の体を抱きしめた。
『応援してます』
『紡くんの歌が好きです』
『アカウント作ってくれて嬉しい』
そこに記されているのは純粋な好意のはずなのに。自分のあずかり知らぬところで、みんな、中の人が僕だと思ってコメントをしている。僕に向けて、メッセージを送っている。それがすごく怖かった。同時に、少しの怒りも覚えた。そもそも僕はこんな風に応援してもらえる立場ではないし、どうしてこんなにコメントが書かれているのかは理解できないけれど、誰かを応援したいという気持ちはよく分かっているつもりだ。
オタクをしているからこそ、虚偽に塗れたアカウントに喜んでいるひとがいることが腹立たしくて、そんな人たちの気持ちを踏み躙っていることが許せない。ぐっと唇を噛んで、画面を閉じた。こんな風に晒されるようなこと、望んでいない。チャンネルなんて、作ろうと思ったこともない。JTOには仕方なく参加したけれど、そもそも不特定多数の前で歌うつもりはなかった。自分が表舞台に立ちたいわけじゃなく、僕はただ律のオタクでいられればそれでよかった。
一体、誰が何のために……。宇田は危なっかしいところがあるけれど、なりすましなんて本当にするだろうか。犯人が宇田じゃなかったときの真犯人にまるで見当がつかなくて、僕はしばらくベッドの上で放心していた。
◇
「顔色わる」
過保護に迎えに来た奏は、僕の顔を見た途端開口一番にそう言った。それに反論する力も今は持ち合わせていなくて、力なく笑うことしかできなかった。冷静になればなるほど、恐怖が湧いてくるのだから無理もない。奏もそれを察したのだろう。それ以上何か言うことはなく、重たい沈黙が僕らを包んだ。
いつもの大講義室に入ってお目当ての人を探せば、目立つ彼はすぐに見つかった。後方の席で友達と談笑している宇田の元まで歩いていけば、向こうから話しかけてくる。
「吉良、動画サイトとSNS見たぞ!」
「宇田……」
「作るなら先に言っとけよ、俺が宣伝してやったのに。まぁ、フォローはしておいたから安心しろよな」
宇田じゃなかった。いっそのことお前であってほしいという望みは叶わなかった。喉元に冷たくて重たい何かが詰め込まれているみたい。声が出せない僕の代わりに奏が問う。
「あの動画って宇田が撮ったやつじゃないの」
「撮影は俺だけど、いろんな人にちょうだいって言われたからもう今は誰が持ってるか分かんねぇよ」
多分、収集のつかないところまで拡散されてしまったのだろう。この調子だと、宇田も犯人を知っているわけではなさそうだ。嗚呼、目眩がする。あのアカウントが自分のものじゃないと世間に向けて否定する術を持たない僕はどうすることもできない。次に何が投稿されるのか見当もつかず、ただ見ていることしかできない。そんな現状が更に苛立たしさを増幅させる。
最近はJTOに出演したというのもみんなの頭から抜け落ちて、注目も落ち着いてきたのに。これじゃ、また逆戻り。数ヶ月前よりも遠慮のない視線が僕を貫く。
「まだ投稿をするようなら、弁護士に相談しよう。俺もいろいろ調べておくから」
「うん……」
アカウントを作った人は、カラオケの動画の他に僕の動画でも持っているのだろうか。頼りになる幼なじみの言葉を聞きながら、新たな不安が芽生えてくる。だけど無理に笑顔を作って、家まで送ってくれた奏を見送った。
――パタン。
ドアを閉じて、僕はずるずるとその場にしゃがみこむ。もうこれだけ広まってしまったのだ。カラオケ動画だけで終わるならいい。なりすましの犯人は、僕を貶めるようなことをするつもりなのだろうか。
顔を埋めていれば、玄関に着信音が鳴り響く。体がびくりと過剰に反応して、恐る恐る鞄からスマホを取り出した。画面を見て、一気に緊張の糸が弛んだ。どうして貴方はこんな時に。落ち込んでいるのを見透かされているみたい。いつもなら躊躇ってしまうけれど、今はただその声に癒されたくて、僕は立ち上がって靴を脱ぎながら電話に出た。
「もしもし」
『もしもし、紡?』
いつもと変わらない、甘いキャラメルを溶かしたような優しい声にほっとしてなんだか泣きそうになった。
「りつ……」
『どうしてるかなぁと思ってさ。まぁ俺が声聞きたかったっていうのも勿論あるけど』
「…………」
『あのアカウント、紡じゃないんでしょ?』
神さまは耳が早い。単刀直入に切り出された話題が現実を突きつけてきて、胃の中に重たいものが積み上げられる。だけど、律の確信めいた口調がそれを少しずつ取り除いていく。
『紡はそういうことするタイプじゃないと思ったから』
「誰かが勝手に作ったみたい」
『やっぱりそうか……』
律が僕のことを分かってくれている。ただそれだけで無限に勇気が湧いてきて、僕は前を向ける。
『紡』
「ん?」
『全部が嫌になってどうしようもなくなった時は俺のところに逃げてきていいからね』
不特定多数に注目されるのは僕にとっては恐怖でしかなくて、今まであった居場所がどんどん失われていみたいだった。そんな暗闇を裂いて、神さまは光を導く。春の陽気のような、ぽかぽかして心地良い陽だまりのよう。じーんと熱いものがこみ上げてくる。泣いているのがバレないよう、僕は声を抑えることに必死だった。
『本当はすぐ傍で守ってあげたいけど、今は難しいから……。ちゃんと周りに気をつけるんだよ。夜道は特に』
「うん」
『俺はいつでも紡の味方だからね』
「……っ」
耐えきれなくて漏れてしまった嗚咽が律に届いていなければいい。そんなことを考えながら通話の切れた電話を枕の横に置いて、僕はごろんとベッドに横になった。
◇
その日の夜、また新たに動画がアップされた。思っていたよりも動向が早くて、気が滅入りそう。これから毎日のように動画をアップするつもりなのだろうか。でも、もしかすると僕とは関係のない動画かもしれない。そんな一縷の期待を抱いて、僕は『過去』と付けられたタイトルのそれを再生した。
少し手ぶれをしている画面は粗っぽくて、素人が撮影しているとよく分かる。学校の外階段に座り、ギターを抱えた少し幼い僕が映し出される。それが高校一年生の頃の自分だとすぐに分かった。
『ちゃんと聞いててくださいね』
優しい風が僕の前髪を攫うように遊ぶ。穏やかな春の日差しがスポットライト。カメラを構えた人にそう言った僕はギターを弾いて歌い出す。お世辞にも上手いとは言えないレベルの粗末な出来。そんなことは気にも止めず、一生懸命に指を動かして瞳を輝かせている自分。あの人に向けてこんな顔をしていたのだと、今になって初めて知った。教えてもらうこと全てが新鮮で、どんどん自分のものになっていくのが嬉しかった。歌もギターももっと上手くなりたくて、純粋に音楽を楽しんでいたあの頃。そんな懐かしさと共に蘇るは何よりも苦い記憶。僕の人生において、最大の汚点。
『やめて……』
『紡』
『先輩、お願い……』
自分の歌う姿を見ていたはずなのに、脳裏を過ぎるのは消してしまいたい過去。
「ど、して……」
今になってどうして。もう五年は経っているのに。この後に起こることをまだ何も知らない、純粋無垢でいられたあの頃の自分を最後まで観ていられなくて、僕は途中でスマホの電源を落とした。トラウマは簡単に消えてくれない。心臓がぎゅうっと掴まれているみたいに痛む。荒い呼吸音が静かな部屋に響く。今でもはっきりと覚えている。その場所に誰がいたのか。誰が撮影していたのか。
消したくても消せない過去。忘れられるはずがないだろう。彼につけられた傷は未だに癒えていない。相手があの人じゃなければ、最早何だってよかった。分かりたくないけれど、分かってしまった。このチャンネルを作った人も、その目的も。
漣弦。五年前に姿を消した、一番仲の良かった先輩。僕の音楽の礎を築いた人。そして、僕のファーストキスの相手。姿を消したあの日から、もう二度と交わることはないと思っていたのに。
ベッドに入って横になっても、なかなか眠りにつくことができなかった。目を閉じると過去がフラッシュバックして動悸が激しくなる。眠ろうとすればするほど余計に眠れなくて、気がつけばカーテンの向こう側が明るくなっていた。ぼーっとする頭で自分が何をすべきか、一晩中考えていた。会わない間もずっと、彼は僕のことを恨んでいた。これは復讐なのだろう。だけどもっとタイミングなんてあっただろうに、どうして今なのか。どうすれば彼の気が晴れるのか。
僕が望むのは、なりすましをやめてもらうこと。そのためには、彼にコンタクトを取るしかない。連絡先なんて当然知らないから、僕はSNSのアカウントを作ってメッセージを送ることにした。
『吉良です。弦先輩ですよね。話がしたいです』
回りくどいことはやめにして、単刀直入に切り出した。投稿数ゼロでプロフィールすら編集していない捨て垢からの連絡なんて無視されるかと思っていたけれど、すぐに返信がきた。
『久しぶり、紡』
『俺もお前と話がしたいと思ってたんだ』
あの頃と変わらない呼び方が懐かしくて、胸の奥が悲鳴を上げる。目頭が熱くなって、鼻先がツンと痛む。なんだか無性に泣きたくなった。まるで今でも先輩後輩の仲が続いているかのような、僕らの間には何ひとつ問題なんてなかったかのような。ありもしない幻影を追いかけそうになる。
僕は弦先輩を嫌いにはなれない。はっきりとそう自覚した途端、涙が一粒零れ落ちた。弦先輩は僕を救ってくれたヒーローで、唯一無二の居場所だったから。与えてもらったものがあまりにも多すぎる。こんな嫌がらせをされたって、心の底から恨んだり憎んだりすることはできそうになかった。もう二度と会いたくないと思っていたのに、こうして連絡を取ってしまえば心が揺らぐ。僕らは何を間違えてしまったのだろう。あの頃に戻れるなら、一からやり直したい。そんな叶わない夢を抱いたところで、僕らは過去に戻れない。
もう一度、これから……。だけど未来を願ったって、それは僕の独り善がり。弦先輩はこれからなんて望んでいない。だから、偽善者だって嗤われるんだ。
◇
漣弦の話をしよう。彼は紛うことなき原石だった。彼の才能は磨けば磨くほど輝きを増すはずなのに、本人はそんなことには無頓着。努力をしなくたって、何でもできてしまう。ただ自分が楽しければいいという快楽主義者。だけど選ばれし者の運命か、何をやっても上手くいくし、周囲の注目を集めてしまう。それが少し窮屈なときもあるんだよと、彼は眉を下げて笑っていた。
確かに自分の通う高校という狭い世界だけではなく、近隣の高校でも彼を知らない人はいないだろうというぐらい有名だった。着崩した制服、派手なピアス、整った容姿。大人びているのに、どこか破天荒。そんな姿を鮮明に覚えている。先輩は所謂問題児というもので、よく先生に呼び出しを食らってはけろりとしているところを見ていた。ちっぽけな世界のくだらないルールに縛られるような人じゃなかった。先輩はいつだって僕なんかとは比べものにならないほど、広い世界を見ていた。
関わることなんてなさそうな僕らの線が交わったのは、部活がきっかけ。律に恋に落ちてからずっと音楽を始めてみたいと思っていた。だけど中学には女子ばかりの吹奏楽部しかなくて、臆病な僕は入部しようという気持ちにもなれなくて。だから、高校に入ったら軽音楽部に入ることを楽しみにしていたんだ。
桜が散り始めた頃、部活見学の時期がやってきた。奏は小学生の頃からやっているサッカーを続けていたから、僕は緊張で震え上がりながら軽音楽部の部室の前に佇んでいた。昨日までは確かに存在していた勇気やワクワクなんて、どこかに消えてしまった。閉ざされたドアを開けることがこんなに怖いなんて。どうしようと躊躇っていれば、背後から声をかけられる。
「入んないの?」
ぎこちなく振り向けば、訝しげにこちらを見ている派手な男。ほんの少しだけ、今より少し尖っていた頃の律に雰囲気が似ていると思った。
「すみません……」
「いや、別に怒ってないけど。入部希望者?」
「一応……」
「ふーん。じゃあ、おいでよ」
ガラガラ、僕が躊躇っていたドアを遠慮なく開ける。そのまま手を引かれて、僕は知らない世界に飛び込んだ。引っ込み思案な僕は入部してもうまく周りに馴染めなくて、孤立することが多かった。そんなときに救いの手を差し伸べてくれるのはいつも弦先輩で、何度助けられたか分からないほど。
「漣くん、前まで滅多に部室に顔出さなかったのに。吉良くんのおかげだね」
「いえ、僕はそんな……」
他の先輩たちにもセットで扱われるほど、自然と弦先輩との距離は縮まって、第一印象で感じた怖さはすぐになくなっていた。先輩も初対面のときから放っておいたらまずい、鈍臭い奴だと思ったのか、事ある毎に僕に構うようになった。
見た目も考え方も、何もかもが正反対。だけど、一緒にいると心が落ち着く。不思議な関係のようにも思えた。派手な先輩と地味な僕は周りから見ても異質の組み合わせだったようで、先生からは時々心配の声をかけられていた。首を振って否定する僕、怠そうに返事する先輩。そんな僕らを疑いの目で見ていた先生は、今思えばやっぱり間違っていなかったのかもしれない。
先輩に懐くまで時間はかからなかった。音楽に関しては何よりも博識な先輩はいろんなことを教えてくれて、僕はずるずると彼の世界に引き込まれていった。特にギターに関しての腕前は抜群で、僕も彼に追いつこうと必死になって練習した。季節を巡るうちに、いつしか先輩と一緒にいる時間が奏よりも長くなった。空き教室で先輩とお弁当を食べて、放課後は一緒に帰る、そんな日常。素行は不良っぽいけれど実は成績上位の先輩には、テスト前には分からないところを教えてもらうこともあった。
あの頃、僕の一番近くにいたのは間違いなく弦先輩だった。何をしても許される先輩の隣は居心地がよくて、甘やかされていることを自覚していた。平凡な自分が、彼の隣にいると特別になれたような気がして浮かれていたのかもしれない。だけど、僕は勘違いしていた。仲のいい先輩と後輩、そんなありきたりな関係が続くと思っていたのは僕だけだった。
だんだん気温が低下して肌寒くなってきた頃、冷たい風から逃げるようにして、僕らは外階段から旧校舎で過ごすようになった。運動部の部室棟がすぐ近くにあるから話し声は聞こえてくるけれど、部活が始まってしまえば僕ら以外の気配は感じられなかった。
そんな冬のある日のこと、事件は起きた。あの日は朝から雲行きが怪しくて、今にも泣き出しそうな薄灰色の雲が空を覆っていたのを覚えている。
「ねえ、紡」
「はい」
名前を呼ばれて、ギターを弾く手を止める。大切な相棒を横に置いていつものようにじいっと見つめ返せば、先輩の目から光が消えて濁っていることに気がついた。
「……お前はいつもそうだね」
「え?」
「音楽は楽しい?」
「はい、おかげさまで歌うのもギターも楽しいですよ」
唐突な質問に首を傾げながら素直に答えると、先輩は口角を無理矢理上げて歪な笑みを浮かべた。
「ふ、むかつくなあ」
「え?」
「自分の才能に気がつかないところ、隣で見ていて反吐が出そうなほど腹が立つ」
昨日まで、否、数秒前まで仲がいいと思っていた人に突然向けられる純粋な悪意。何を言われたのか、すぐには理解が追いつかなくて、じんわりと遅効性の毒のように染みてくる。
「お前といると、自分がどれだけちっぽけな存在か思い知らされる」
「そんなこと、」
「鈍感は黙ってろ」
僕なんかより、先輩の方が歌もギターも上手いのに。心からそう思っているからこそ否定しようとすれば、荒々しい口調の先輩はそれすら許さない。
「お前の歌を聴く度に、心の中が醜い感情で塗り潰されていく。まるで怪物にでもなったみたいだよ」
「……」
「どんどん自分を嫌いになるのに、人を疑うことを知らないお前はいつもそうやって無垢な瞳で見上げてくる。その度に湧き上がってくる感情を抑えるのに必死だった」
「……」
「どうして俺じゃないんだ。何度そう思ったか。お前の才能が花開くのを隣で見ているのは地獄だったよ」
「せんぱい」
次々に降り掛かってくる言葉の矢を止めてほしくて、僕は震える手で先輩の手を掴んだ。その刹那、ぎりっと唇を強く噛んだ先輩はその手を乱暴に振りほどき、衝動のままに僕を押し倒した。
「何も手に入らないなら、いっそお前のことを汚して、壊してやりたい。才能ごと食い散らかして、全て俺のものにしたい」
泣きそうな顔をしているように見えたと思う。だけど、今となってはもうはっきりと思い出せない。跡が残るほど痛いぐらいに手首を掴まれて、噛み付くようにキスをされる。舌で唇をこじ開けられて、今まで感じたことの無い感覚に口内が荒らされる。何の情緒もない、呆気なく奪われた最悪なファーストキスだった。唇が解放されて、荒い息を吐きながら戸惑っていられたのもつかの間、濡れた唇を拭った先輩が無表情のままシャツの首元を掴んだ。
「やめて、先輩、お願い」
殴られると思って抵抗すれば、先輩は全てを諦めたみたいに生気のない顔で笑った。身長も年齢も体格も負けている僕は、その手を止める術なんて持ち合わせていない。顔を歪める僕を見て、先輩は美しく笑った。
「いつかお前は俺のことなんて捨てて、もっと広い世界に飛び立つんだろうね」
「……ぁ、しらな、」
「そんなの、許さないよ」
遠慮なく突き刺される言葉のナイフが心を抉る。息が詰まる。こわい、苦しい、痛い。何をされるのか分からない。助けがほしいのに、ここにいるのは僕らだけ。心から信頼して、兄のように慕っていたのに。関係が崩れるときは一瞬なのだと、この時初めて知った。
何にも持っていない平凡な自分。物心ついた時からずっとそう思って生きてきた。だからこそ言葉の意味がわからなくて、そんな僕にまた先輩は苛立つのだろう。それは堂々巡りで、終わりがない。嗚呼、どこで何を間違えたのだろう。あんなに優しかった人を壊してしまった。その事実だけはちゃんと頭で理解できた。酷く悲しくて、申し訳なくて、涙が止まらない。
「愛してるよ、紡」
「…………」
「お前は俺の罪を背負って生きていくんだ」
偽りと悪意に塗れた愛の言葉。聞きたくないと耳を塞いでしまいたいのに叶わない。しかし、微かに窓を叩く雨の音がした。その音に混じって、ざわざわと人の声が聞こえてくる。グラウンドで練習していた運動部が慌てて戻ってきたらしい。
今しかない。その人がいるかどうかも分からないけれど、腰が抜けて自分ひとりで逃げ出すことは不可能に近かった。それなら数パーセントの可能性に縋りたい。
「奏! 奏、たすけて!」
今までこんなに必死に名前を呼んだことなんてないんじゃないかっていうぐらい、自分でも驚くほど悲壮感の漂う掠れた声は静かな旧校舎に響いた。
「無駄だよ、誰も来ない」
そんな僕の姿を見て、先輩は嘲笑う。先輩の手に力が入って、首が絞まる。絶望から目を背けたくてぎゅっと瞳を閉じれば、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「紡……?」
「っ、」
「チッ」
間一髪だった。少し前に先輩との練習場所が旧校舎に変わったのだと話しておいたのが役に立ったのかもしれない。必死に手を伸ばす僕を見て目を丸くした奏は、珍しく狼狽えた表情を浮かべた後、すぐに先輩を僕から引き剥がした。
「あーあ、終わりか」
意外にも先輩は抵抗の意思さえ見せなかった。俺を心配する奏越しに見えた先輩の顔が脳裏にこびりついて離れない。
「お前に出会わなければよかった」
「せんぱい、」
「紡、お前は人を不幸にする天才だよ」
ぐさり、最後に突き刺された言葉は癒えない傷として今でもよく痛む。
その後、奏が呼んだ先生に連れられた先輩は僕の知らない間に学校を退学していた。噂ではこの街を出ていったらしい。もう弦先輩とは会わない。綺麗にぴったりと重なっていた線は、もう二度と交わることはない。そう思うとほっとした。だけど、心残りのような凝りが僕を時々過去に引き戻す。
先輩はまた僕を痛めつけたいのだろうか。あの日を思い出して身が竦んだけれど、いい加減前に進みたい。過去に怯えずに、胸を張って律の隣にいたい。律のことをちゃんと考えたいから、過去と向き合わないといけない。
本当はこのまま目を逸らしていたいけれど、僕はもう逃げない。その時が来たんだ。約束は今週土曜日の十四時。決心したはずなのに、その日が近づくにつれて胃がキリキリと痛み出した。



