僕と慧くんの共通の友人、妄想力に定評のある岬くんが「また痴話喧嘩?」と尋ねてきたのは、いつもの四人でのいつもより気まずいランチタイムが過ぎ、慧くんがインカレサークルに、佐々木くんが講義に行ったあとのことだった。
僕のバイトの時間までの暇つぶしにと、岬くんと二人カフェテリアで各々課題をしたり、おすすめの本やゲームについてだらっと語り合ったりするこの時間が、僕はもちろん嫌いではなかった。けれども今は──僕は思わず半眼になって岬くんを見る。
岬くんからしてみたら、一度も慧くんと視線を合わさず、話を振られてもまともな返事もしなかった僕の態度は、さぞかし不審に思えただろう。
「……岬くん、よくそれ言うけどさ」
知ってたの、と。
流れのままに尋ねそうになり、既のところで口を閉ざす。もし岬くんのこれが単なる冗談なら、僕は意図せずアウティングをしてしまうことになる。それはよくない。口を閉ざして視線をそらした僕に、「うーん」と岬くんは小さく唸った。
「何があったの……って、聞いてもいいやつ?」
「わかんないから困ってる」
「なるほど。じゃああれだ、一般論の体で話してみるとかはどう? 具体的事象としてではなく」
一般論の体で? 例えば、「普通に考えて、告白の時『顔が好き』って言ってくるやつについてどう思う?」とか聞いてみたら良いのだろうか。その聞き方だと普通に「ナシ」って返ってきそうだな。
「もしくは、よくあるやつ……『友人の話』の体で話してみるとか」
「どっちにしろ、『体』って最初から言ってたら意味なくない?」
「それはまあ、建前よ、建前」
大事だろ、と岬くんは重々しく言って、僕はちょっとだけ気が抜けて笑った。いい友人を持った、というこだけがわかる。僕は「うーん」と少し考えてから言った。
「じゃあまあ、一般論として聞くんだけど」
「うん」
「『僕のどこが好きなの?』って聞いて、『顔』って返ってきたら、その『好き』って信用できると思う?」
「…………いや顔だったのか!? 意外すぎる……!」
「いや建前! 一般論って言ったじゃん!?」
ていうか、やっぱり知ってたんだ。安堵するような気恥ずかしいような、奇妙な居心地の悪さとともに軽く睨むと、岬くんは「ごめんごめん」と片手をひらひらさせた。
「一般論な、一般論。うーん……そう言われると……一般的にはあんま歓迎されない理由な気はする、たしかに」
「だよねえ!?」
「でも、俺がそう言われたら、わりと嬉しいかも」
「え、そうなの?」
「いやだって、見た目が好きって強いだろ、もし付き合って一緒に過ごすことを思えばさ。相手が自分の顔見て嬉しくなってたら嬉しくない?」
「い、いわれてみれば……たしかに……?」
目から鱗の意見だが、言われてみれば一理ある、気がする。そしてたしかに、慧くんはよく僕の顔を見てにこにこしていた気がする。……でも。
「でも、僕はさ」
双子だからさ──と言いかけて、いや一般論! と気付いて口を抑える。岬くんはさらっと「そうだよな~、遠はな~」と同意混じりに流して、「どちらにせよ」と軽く笑った。
「それだけじゃちょっとな、え~ってなるよな。普通は」
「……だよね? 普通は」
「うん。だから、言っていいと思うよ、普通に。『信用ならない』って」
「え」
「そしたらさ、もし相手が本気なら、もっと信用できそうな理由を言ってきてくれるでしょ。それで判定したら良いと思う、本気度を」
「な、なるほど……?」
たしかに、いますぐ答えを出さなければならない理由はない、信じられないならちゃんと聞けば良いのだ。拗ねて会話を拒否するのではなくて。岬くんはすごい。目から鱗をぽろぽろ落としている僕に、「まあ」と岬くんは肩を竦めた。
「ゆーて全部、机上の空論だけど」
「えっ」
「いや『えっ』じゃないよ。見ろよお前俺を、どこに出しても恥ずかしくないテンプレオタクだぞ。あるわけないだろ恋愛経験」
「……な、仲間だ~~!」
「えっ!?」
僕は思わず岬くんにとびつき、肩に手を回してぎゅうぎゅう抱いた。
「い、いや待て遠、俺は友人を裏切りたくないというか、え? いやお前モテるだろその顔で!?」
「モテる顔っていうのは慧くんみたいなののことでしょ……俺程度じゃ全然だよ……いや良かったあ、都会の人はみんな恋愛経験豊富なんだと思ってた……」
「偏見がすぎる……!」
岬くんはわたわた手を動かし、それから、「俺まだ死にたくないわ」と言ってべりっと僕の体を引き剥がした。流石に抱きしめ潰せるほどの腕の力はないんだけどな。そうして僕の顔を見て、岬くんはなんとも言い難い顔になった。
「でもまあ、それがほんとなら、なんというか」
「なんというか?」
「……同情するかも。相手が悪いというか……どう見ても百戦錬磨だもんなあ、向こうは……」
「建前!!」
あまりに今更ではあるが、一応形式としてツッコんでおく。岬くんは律儀に『しまった』の顔をして、それから、ぽんぽん激励するみたいに僕の肩を叩いた。
「ええと、うん、まあ、頑張れ。まずは会話だ。会話は大事だぞ」
「うん。あ、いや、一般論だけど、うん、そうだね。会話は大事だね!」
「でもなんだ、自分の意志を見失わないようにというか、言いくるめられないようにというか、流されないようにというか……いや遠がいいようにすればそれでいいんだが……!」
「……待って、僕なんかチョロいと思われてない?」
「実は思ってる」
「そんなことないが!?」
どちらかというと意志ははっきりしている方……と、自分では思っているのだが。よほど不服そうな顔をしていたのだろう、岬くんは「チョロいっていうか」と苦笑した。
「優しいっていうか。身内にベタベタに甘いタイプだろ、遠って。だからさ」
「…………」
……それは、全くもって否定できない。
そして慧くんは、たしかにもう、僕にとって『身内』でないとはとても言えない存在だった。僕は渋々さを隠さずに「……気を付けて会話します」と言い、岬くんは重々しく「そうしてくれ」と言ったのだった。
* * *
といっても、その日はバイトがあったので、すぐに慧くんを問い詰めるというわけにはいかなかった。どんなことがあっても仕事はあるってなんか大人になった感じがするなあ、と思いながら黙々と見本誌の廃棄をしている──と、気になる一文が目に入ってきて思わず手が止まる。
──『気になる彼の、気になるサイン』。
よくある女性誌の隅っこにある、全面に押し出されているわけではない恋愛特集のタイトル。ぱらぱらめくって中を眺めると、予想していた通り、『こんな仕草/様子があれば脈アリ!』というような、男性が女性に好意を抱いている場合にとりやすい行動例が記載されている。僕はなんとなく……というには少しばかり熱心に、そこに書かれている内容を熟読した。
(……これはつまり、『一般的な命題』だ)
なんてことを思ったのは、先ほど受けたばかりの論理的思考の授業が、頭の片隅に残っていたからだろうか。
(ここに書いてあるのが、『恋をしている人間は、こういう行動をする』という命題なら……これに慧くんの行動が一致すれば、それは、慧くんがたしかに『僕』のことが好きだと、そういうふうに言えるんだろうか)
なんだっけ、演繹法だっけ。考えながら、僕はもちろん、この論理が穴だらけであることを理解している。演繹法には、重要な条件が──『前提が正しいこと』──あるからだ。
雑誌の恋愛特集なんて、ソースもなにもあったものじゃない、一番『正しさ』からかけ離れている言説の寄せ集めだ。故に論理は破綻している。……だけど、参考にしてみるぐらいならいいんじゃないか? 思いながら内容を読み進めていた僕は「遠くん、レジ応援お願い!」の声に、慌ててバックヤードを飛び出した。うっかり普通にサボってしまった。
気付けば時計は夕方を回り、帰宅ラッシュのさなかの、一番レジが混む時間帯になっている。僕はレジについて「お並びの方こちらにどうぞ」の定型文を口にして、差し出された本を受け取った。そのままレジに通そうとして──ふと、ほんの一瞬だけ、手が止まる。
(あ。……この本、僕がポップ書いたやつだ)
うちの店ではバイトもポップを書くことが推奨されていて、採用されるかは店長の胸先三寸、もしポップをつけた本の売れ行きが良かったら店長になにか奢ってもらえる──というルールがなんとなく施行されている。別に奢りはどうでもよかったのだけれど、ポップを書くという作業がやってみたくて、終業後にちまちま書いたうちの一枚、唯一採用され店に置かれていた本が、今まさに買われているのだった。僕はなんだか嬉しくなりながらレジに通し、「890円です」と言いながら顔を上げた。
ら。
「…………え」
そこにいたのは、慧くんだった。
「……ペイペイで」
慧くんのほうも、まさかレジ応援で僕が来るとは思っていなかったのだろう。なんだか気まずそうな顔をしながらスマホを差し出す彼に、僕ははっとして電子決済の手続きを行う。慧くん、そうか、サークルの帰りか。……というか、慧くんがバイト中にここに来るのがはじめてというわけでもなく、暇な時間はちょっと喋ったりすることも普通にあったのに、今更なんでこんなに緊張してるんだろう? 思いながら急いでカバーを掛けて、僕は慧くんへと商品を差し出した。
指先が、触れる。
「……ありがとうございました」
僕の笑顔は、ぎこちなくなってはいないだろうか。彼の顔は? どうにか視線を合わせていると、慧くんが、困ったように軽く笑った。
「今日はごめん。……また、LINEするから」
手が離れる。
レジ前はまだ混雑していて、会話をする余裕は存在しない。慧くんが返っていくのを横目で見ながら、僕はついさっき見た恋愛特集の内容を思い出していた。
──『わざわざバイト先に顔を出してくれる』。
──『好きだって言ったものを覚えていて、さり気なく話題に出したり、買ってくれたりする』。
あの本がおすすめだという話は慧くんの前でもした記憶があるし、毎日一緒に講義を受けている慧くんは多分、僕の文字に見覚えがある。だから。
……だから?
(……『顔が好き』、だけで)
するだろうか、そんなこと。
機械的にレジ業務をこなしながら、僕の頭の中は慧くんのことで一杯で──それでも笑顔で接客をこなせる自分は成長したなと、何故かそんなことを考えたのだった。
* * *
寮の部屋はがらんとしていた。
永くんのバイト先は少し遠くて、終わる時間が同じでも帰ってくるのは永くんのほうが少し遅い。大体の場合残業もしてくるから尚更だ。僕はひとりでぼんやりベッドに座り込んだ。
「うわ、なにしてるの」
「永くん……」
来て、の空気を感じ取ったのだろうか。永くんがこっちに来てくれて、僕は永くんの顔を遠慮なくぺたぺた触った。
「おんなじ顔だよね」
「何なのいきなり」
「一卵性だし」
「まあ、その中でも似てるとはよく言われるよね、僕ら」
「……うん」
「じゃあさあ、……」
なんだか、ひどく弱々しい声が出た。怖くて仕方がない、みたいな。永くんが僕の手を握り、僕はその手に縋るみたいにしながら尋ねた。
「僕の顔が好きな人がいたらさ、それって、永くんの顔も好きってことだよね?」
永くんが、大きく目を見開く。
「待って。……最初から聞いていい? 告白されたってこと?」
「…………うん」
「顔が好きだって?」
「うん」
永くんは露骨に顔をしかめた。
「ふざけてるの? 浅霧慧」
「待って」
僕まだ誰からとか言ってない……言ってないよな? というかフルネームで覚えていたのか。僕は永くんの前に片手を掲げ、永くんは「合ってるでしょ」とさらりと言った。
「……合ってるけど」
「だよね。そりゃ、もちろん遠は可愛いけどさ」
「待って。僕と永くんって基本おんなじ顔だし、永くん、そんなこと普段言わないよね?」
「同じ顔でも遠のほうが可愛いよ。……でも、それは俺だからわかるわけだし」
『永くんそんなこと思ってたんだ』という気持ちと、『でも橘先輩のほうが綺麗じゃん』という気持ちとが混ざりあって複雑な気持ちになって、そんな自分が嫌になった。少なくとも、今の永くんは、僕のことだけを考えてくれているのに。
「そもそも、僕らが双子とか関係なく、最初に出てくるのが『顔』って、真面目に受け取れっていうほうが無理」
「だよねえ!?」
永くんの断言に、僕は我が意を得たりと頷いた。やっぱそうだよね!
「良かった、永くんが同意見で。……岬くんはさ、『真意が気になるなら本人に直接聞けばいい』って言うんだけど、なんかそんな気持ちにもなれなくて」
バイト中に会ったのは偶然で、尋ねる時間なんてもちろんなかったけれど、その後も連絡を入れていないのは僕の意志だ。
「それも当然だよ。だって遠くんはさ、傷ついてるんだから」
「……傷ついてる?」
「うん。からかわれたって思ったら、嫌な気持ちになって当然だし」
なるほど、と僕は自分のことなのになんだか納得した。なるほど、僕は傷ついていたのか。言われてみれば、なんだか胸が痛む気もした。告白されて、割と本気で困りはてて理由を聞いたら、あまり本気とは思えない回答が返ってきた。たしかに、傷ついたり怒ったりする理由としては十分だ。永くんはやっぱり僕より僕のことがわかってる、となんだか感動する僕の前で、永くんは「てか」と嫌そうに眉を寄せた。
「……遠が嫌がるってわかってて言ってるもんな、明らかに。好きな子いじめて楽しむとか、今どき子どもでもやらないのに」
「え?」
「ちょっとは、協力してやってもいいかなー、とか思ってたけど、もう完全に無理になった。無理無理」
「……えーと、永くん……?」
永くんがなんだか不穏な言葉を低く呟いている。僕がその真意を問うより前に、永くんは、「じゃあ、確認してみよっか?」とにこりと笑った。
「……確認?」
「うん。慧くんが、ほんとに『遠くんの』顔が好きなのか、確認」
「……どうやって?」
「そりゃ入れ替わりよ」
「へ?」
入れ替わり。ノックスの十戒。初対面の時の慧くんとの会話を思い出した。『リアル入れ替わりトリックが見られる?』と言った彼に、僕は『やらない』と回答した。わざと人を騙すような真似をして信用を失いたくない、と。
……でも。
「髪、同じ色に染めてさ。いや同じ色じゃなくてもいいんだけど、とにかく、僕も遠くんも違う色にして」
もうちょい明るめの色までならオーケーらしいし、と、ほとんど黒に近い色になっている髪をつまみ上げながら永くんが言う。
「で、僕が遠くんのフリして慧くんと会うから、慧くんが気づくかどうか確認しようよ」
悪魔のささやき、としか言いようがなかった。
それは、あまりに魅力的な提案に思えた。双子を見抜く、というのは、古今東西の恋愛モノに置いて鉄板のネタと言っていい、「僕が好きなのは『君』である」ことの証明方法である。
もし──もし慧くんがそれに成功したら、もしかしたら僕は、慧くんのことが信じられるようになるんじゃないか。その瞬間のことを思うと、それだけでなにか、胸の奥が熱く痛くなるような気さえした。あまりに気が早いことに。
「…………うん」
だから僕は頷いた。
「やりたい、それ。……確かめたい。永くん、協力してくれる?」
もちろん、と、にっと唇を曲げて永くんは笑った。よく知っている顔で、よく知っている表情で、だから僕は、その顔を見るだけで早くも心が軽くなった。
確かめたい。──永くんと僕となら、それができる。僕は無邪気にそう信じた。
だから僕は。
そんなことより、もっと大事なことがあるということに──ついに、気づくことが出来なかった。

