わあー、と、僕は間抜けにその高い建物を見上げた。
「……田舎者なこと言っていい?」
「どうぞ?」
「タワマン、はじめて見た……」
慧くんはあははと楽しそうに笑った。
「そんな大したもんじゃないよ、狭いし。でもまあ、いらっしゃい」
「お邪魔します」
そもそも敷地内に入るまでの門で鍵が必要で、建物に入るためにも鍵が、そして広いエントランスを抜けてエレベーターで上がって各部屋にも当然鍵が、家に入るために一体いくつ鍵が必要なんだ。僕はお上りさんそのままの顔でこっそりあたりを見回しながら慧くんについていき、慧くんは「どうぞ」と僕を家に通した。
東京・湾岸エリアのタワマンから見える景色は、僕には、すごいのかどうかもよくわからなかった。知らない世界だ、という気だけがひしひしとした。出される飲み物が普通の麦茶じゃないなんだかお洒落なお茶であることも、ふかふかのソファーも、大きな壁掛けテレビも、それこそテレビの中の世界みたいだ。
(……どうして、こんなことになったんだっけ?)
今日はなんの予定もない日曜日で、別に、元々慧くんと遊ぶ約束をしていたわけじゃなかった。けれどもなんだか話の流れで。
「謎解きイベントだっけ?」
そうだ、謎解きイベントだ。僕ははっとして頷いた。
「そうそう。永くんがさ、うきうきして出かけて行っちゃって」
橘先輩と。
という部分は口にせず、僕は小さく溜息を吐いた。別に、永くんとだって約束していたわけじゃなかった。というかそもそも、僕らは『約束』みたいなことをあまりしない。しなくてもお互い暇ならお互いを遊び相手にする、そういう習慣がついているからだ。
そして今日は、永くんのほうが暇じゃなかった。ただ、それだけのことなんだけど。
「……正直、慧くんに誘ってもらって良かったよ。課題のことも忘れてたし」
「そうそう、課題な。ノーパソ持ってきた?」
「持ってきた。もーさくっと終わらせよ……」
慧くんと一緒にとっている選択授業で来週提出のレポートがあって、ひとり部屋でだらだらしていた僕のもとに『暇ならうちで一緒にやろう』と連絡が来たのが、永くんがうきうきと出かけていった直後のこと。僕は二つ返事で慧くんの誘いに乗ってここにやってきた、というわけなのだ。
「で、終わったら遊ぼう僕らも」
「謎に対抗してるな。別にいいけど、何して遊ぶ?」
「スマブラとか?」
「いいね」
このおしゃれな家にあるのかわからないけど、と思いながら言ったら慧くんがさくっと頷いてくれたので、僕は俄然やる気になった。スマブラは永くんとやり込んだゲームのうちひとつで、まあまあ自信があるのだ。「よし」と気合を入れてパソコンを立ち上げ、書きかけのレポートのファイルを呼び出し、持参してきたレジュメを広げる。慧くんは準備よく『大学で借りてきた』という参考文献を机の上に置いてくれて、それからしばらくは真面目に課題をこなす時間になった。授業の内容を思い起こし、たまに「~って~っていう意味だっけ?」みたいな確認を入れていきつつ、二時間程度でどうにか形を仕上げる。お互いに一読して軽いツッコミを入れあい、言い回しや誤字脱字を修正し、僕は大きく体を伸ばした。
「……よーし、できた! ってことで!」
「はいはい、お疲れ。珈琲でも淹れる?」
「淹れるって、え、まさかのハンドドリップ!? あらゆるお洒落なものがある家だ……」
「いやごめん、コーヒーメーカーだけど」
「十分お洒落だよそれでも。いただきます」
慧くんは一旦キッチンに引っ込み、僕はファイルがきちんと保存されていることを確認してパソコンを閉じる。そしてちらりとスマートフォンを見る──連絡は、ない。今頃橘先輩と楽しくやっているんだろうな、と思うとなんだか憂鬱になり、僕は小さく溜息を吐いた。
「……そんなに気になるなら、ついていけばよかったんじゃない? 遠も」
こと、と、ソファー横のサイドテーブルに珈琲のカップが置かれて、慌てて視線を上げる。
「うーん……僕、謎解きあんま得意じゃないからさ。結構高いし」
「ふうん? まあ、楽しめないものに金払いたくはないよな」
「それ」
慧くんはこの部屋が示すとおり僕とは別世界の住人なのだけど、普段それがあまり気にならないのは、金銭感覚の根幹の部分が──少なくとも、『かけたくないところにはかけたくない』という最低限の部分が──共有できるという理由もあるよなと思う。僕はしみじみ頷きながら珈琲を一口飲み、それから「うまっ」と目を見開いて慧くんを見た。
「え、美味しい。すごい、家でこういうの淹れられるんだ?」
ソファーのとなりに座った慧くんが、「親が好きなんだよ」と苦笑する。
「だから多分、豆がいいんじゃない? 知らないけど」
「ええー、それ、勝手にいただいちゃって大丈夫なの……てか、手土産とか用意するの忘れてた完全に」
「いらないって。今日はそもそも帰ってくるの夜中だし」
「……そうなの?」
両親が留守にしている、という話は事前に聞いていたが。僕が首を傾げると、慧くんは軽く頷いた。
「観劇が趣味なんだけど、夫婦揃って。大体そのあと飲んで帰ってくるから」
「……お洒落だー!」
そしてラブラブだ。出てくる情報ぜんぶフィクションみたいだな、と感心する僕に、慧くんが笑う。
「遠、今日だけでそれ何回言うの? ……まあ、お洒落なのは家と親であって、俺じゃあないけどね」
「慧くんだってお洒落、っていうか、格好いいよ」
この空間に馴染んでいる──いや、彼の家なのだから当然なのだけど──慧くんが、僕にとっては一番お洒落で格好いい。お世辞も忖度も抜きで、相変わらずの甘そうなミルクティー色の髪とスマートな黒のシャツとの慧くんの姿は、そのまま雑誌から抜け出してきたかのようだった。僕も慧くんに紹介してもらった美容室で髪だけは手入れしているけれど、とても彼みたいに格好良くは見えないだろう。ほんと、なんでこんなスマートな人が、僕の友達なんてやってるんだろうな。思いながらまじまじ慧くんを見ていると、ふと、彼の目が真っ直ぐに僕を見返してきた。
「……?」
なんだろう。なにかついてる……わけではなさそうだ、ばっちり目があってるし。まさか目になにかついてるってわけでもないだろうし。慧くんはすっきりと精悍な一重の目をしていて、綺麗な黒目に自分の姿が映っているのを見ると、なんだか妙にどきどきとした。特別童顔というつもりはなかったけれど、慧くんに比べると子どもっぽいような気がする、どこか間抜けにも見える自分の顔。……慧くんには、僕の顔は、どんなふうに見えているんだろう? 急にそんなことが気になって軽く瞬くと、ふと、息を漏らすみたいに慧くんが笑った。
「……遠って、真っ直ぐ人の目を見てるよね。いつも」
「え。……そ、そうかな?」
「そうだよ。……やっぱ、永くんがいるからなのかな。目線、合わせ慣れてる?」
「えー……?」
そうかな? 僕はちょっと考えて「そんなことないと思う」とはっきり言った。
「永くん、わりと伏し目がちな気がする、僕と話す時以外は。シャイなんだよね」
「そうなんだ。じゃあ、遠の特徴っていうか、個性なんだ、この目は」
慧くんがぴたりとこっちを見たまま、感心したような声で言う。
「個性……って言うほど特別かなあ? 『目を見て話しましょう』って言わない? 普通」
「いや、普通『目を見て話す』って言ってもさ、大体は眉間とか鼻とか口元とか見て話すだろ」
「……そうなんだ?」
特に意識したことはなかったけれど、言われてみれば、向こうも目を見ていたなら今みたいに視線がバッチリ合うはずだ。そういう経験はたしかに少ない。……でも、だからなんだって言うんだろう? 話の行き先がわからず目を瞬くばかりの僕に、「だからさ」と慧くんは悪戯っぽく続けた。
「普通はさ、なかなか目って合わないもんだから。……四秒以上見つめ合えたら、それはもう、『脈アリ』のサインなんだって」
「……は?」
いやいきなり何の話だ。脈アリ? わけがわからないままの僕を、ふと真面目な顔になった慧くんが見る。
「いやでも、ほんとに目逸らす気ゼロとは思わなかったな。……心配になってきた」
「いや何が??」
「学部ではいいけどさ、俺がいるから。サークルとかバイト先とか、大丈夫?」
「だから何が」
「実は、俺の知らないところですごいモテてたり、っていうか、周りのこと誑かしてたりしない?」
「は」
予想外すぎて息が止まった。
「……ふ、」
「ふ?」
「風評被害~~~~!! いや目が合うだけでモテたら苦労しないが?? てか僕より慧くんのが絶対圧倒的にモテるでしょ!! 僕なんて『誑かす』どころか誰かと付き合ったことも告白されたこともなにひとつないけど!?!?」
立て板に水で思わず捲し立てると、慧くんはびっくりした顔で目を瞬いて、「……ない?」と困惑したように首を傾げた。
「なにひとつ?」
「なにひとつ!」
「そうなんだ……」
「そうなんです! ……いやそんな意外? てことは慧くんはさぞ経験がご豊富であられるんでしょうねえ!」
他人の経験のなさに驚くということは、慧くんにとってはそれらの経験が『ごく当たり前に』存在していることを意味している。まあそりゃこの顔ならな。なんだか無性にムカついて食って掛かると、「いや普通だけど」とさらっと返されてさらにイラっとした。普通じゃないから言ってるんだが? 僕は「そもそもさあ」と眉を寄せた。
「目が合ったってさあ、慧くんぐらいカッコよくないと気持ち悪いだけでしょ」
「遠は可愛いよ?」
「そういうのいいから。……サークルでもバイト先でも、まあ、別に楽しくやってはいるけど、わりと空気っていうか。誰かが僕のこと好きになるとかまずないと思うよ?」
自分で言っていて悲しくなってくるが、純然たる事実である。はあ、と溜息を吐いてから、「別にいいんだけどさ」と僕は肩を竦めた。
「モテたら苦労しない、とか言ったけど、正直モテたいわけじゃないしな……。モテるほうが圧倒的に苦労しそうというか。そうじゃない?」
「え、それ、俺に聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。だってそれこそバーベキューの件とかさ、モテてるからこそあんな好き勝手言われる羽目になったわけでしょ」
もはや遠い記憶ではあるが、慧くんの見た目の良さが伺い知れるエピソードとしての価値は色褪せない。それに、と僕は思いついて続ける。
「サークルにもさあ、すごいモテる先輩がいて。ビジュがいい上にいつも楽しそうで面倒見もよくて」
こうして並べ上げてみるとモテる要素しかないな、橘先輩。慧くんも「そりゃすごい」と感心したように頷いて、スマホで橘先輩の画像を探しながら僕は続ける。
「で、なんか、その先輩にフラれて去年何人か辞めたらしい。って話を思い出した、今」
「サークラじゃん」
「こういう場合もサークラって言うの?」
先輩自身はむしろ被害者のような気がするのだが。思いながら、自分のカメラロールには当然先輩の写真など存在しないので、永くんとのラインの履歴から写真を探す。たしか夏休みのバイトのときのやつがなにか送られてきていたはず……あったあった。見つけた写真を「この人なんだけど」と見せると、慧くんは「へえ」と軽く眉を上げた。
「なるほどね」
「それ、どういう反応?」
「いや、たしかに綺麗な人だなと」
「……ふうん」
自分で水を向けたくせに、なんだかもやっとした気持ちになる。やっぱり慧くんから見てもそうなんだ、と思うと、今まで橘先輩に抱いていたぼんやりとした苦手意識が、はっきりとした形を持ってしまったような気がした。
橘先輩は、あんなにいい人なのに。こんなふうに思うのは間違ってるのに。
「……永くんもさあ」
僕はスマホを両手で持って、ご機嫌そうな顔で写真に収まっている橘先輩を見ながら、呟いた。
「好きになっちゃったのかな、先輩のこと。……こんなに綺麗な人相手なら、ありえると思う?」
夏休みが明けてから、永くんの口から橘先輩の名前が出てくることが圧倒的に増えた。サークルもバイト先でも一緒で話題に事欠かないから、という理由だけでは説明がつかないぐらいに。そのうえ、サークルに顔を出せば橘先輩の手足みたいに従順に働いていて──今日はついに、ふたりでお出かけだ。
それでも、馬鹿なことを言っているという自覚はあった。状況証拠は十分でも、それは、橘先輩が女の人だったらの話だ。永くんの恋愛対象が男性であると感じたことは今までなかったし、普通に考えれば、面倒見のいい先輩に懐いているだけ。穿ちすぎだと自分でわかっている。
だけど慧くんは、僕の馬鹿げた呟きを笑わなかった。
「ありえるんじゃない。綺麗かどうかは関係なくて、遠がそう感じてるんだったら」
「……僕が?」
「そう。今までと違う、って思うから言ってるんだろ? なら、それが何よりの証拠だと思うけど」
そのとおりだ。
僕らは双子だ。お互いの一番近くにお互いがいる、人生の殆どを、そういうふうに過ごしてきた。だから、わかってしまう──些細な違いだって感じ取ってしまう。というか、永くんの変化はちっとも『些細』じゃないのだ。けれども僕の中にそれを認めたくない部分もたしかにあって、「でも」と心にも無い反論が口をついて出てしまう。
「永くん、女の子が好きだったと思うんだよ、普通に。そういう話はしたことないけど、……でも、わかるじゃん。ずっとおんなじ部屋で過ごしてればさ」
そう、生活空間をほぼ共有してきた僕らだから、目に入れないことが不可能なものもある。少なくとも、永くんが閲覧している『そういう』映像やら何やらは、女性相手のものばかりのはずだった。慧くんは「『普通に』ねえ」と小さくつぶやき、それから、「言わんとするところはわからなくはないけど」と前置きして言った。
「俺、そういう性的嗜好って、もっと曖昧なものというか……決まってないものだと思うんだよね」
僕は横を向いて、慧くんの顔を見た。思えばこんな話を、例えばサークルで出たみたいな『モテたい』『彼女欲しい』みたいな軽さのない恋愛の話を誰かとするのがはじめてだ、とそのとき気付いた。ごく真面目な声で慧くんがする話に、静かに耳を傾ける。
「LGBTって言うとさ、なんかきっぱり区分があるものみたいに感じるけど。でも、もっと段階的なものっていうか……別に遠だって、女の子なら誰だって『好き』ってわけじゃないだろ?」
「好き……」
思わず目を瞬く。好き? ちょっと考えて、自分で驚いた。
「……そもそも、誰かを『好き』とか思ったことなかったかも、僕。そういう意味で」
「あー……」
慧くんは「なるほど」と少し遠い目をして、「まあ、それこそ『普通』はそうでしょ。好きな子と、別にそうじゃない子がいるわけで」と説明する。たしかにそうだ、と僕が頷くのを見てから、慧くんは説明を続ける。
「だとしたら、同性に対してだって同じなんじゃないかって」
「えーと……同性でも、『好きになる』子がいる可能性はゼロじゃないってこと?」
「そんな感じ」
「なるほどなあ……」
たしかにそうだ、とあっさり納得できたのは、僕自身がまだ異性にさえ恋をしたことがなかったからかもしれない。いつか誰かに恋をするとして、それが異性相手であるとは限らない。頷く僕を見て、慧くんはちょっと笑った。
「だからさ、今までがどうとかって、あんまり関係ないと思うんだよな、俺は。遠からそう見えるんだったら……永くんのこと一番良く知ってる遠がそう思うんだったら、間違いないんじゃない? 今日だって、言ったらデートしてるわけでしょ、二人で」
「…………そういうことに……なるよねえ、やっぱり……」
今朝の永くんは明らかにうきうきしていたし、いつもの倍ぐらいの時間をかけて服を選んでいたし(ちなみに服の趣味は違うのでワードローブは意外と共有されていない)、いつもの外出ならたまに入るLINEも今日は沈黙したままだ。僕は「うう……」と小さく呻いた。
応援したい。
応援するべきだとわかっている。
永くんは僕よりちょっと内気で、でも僕よりずっと優しくて面倒見がよくて、彼のことを知れば知るほど好きになる、そういうタイプの人間だ。だから橘先輩も永くんを特別可愛がっているんだろうし、橘先輩だってきっと、永くんのことが好きになる。きっとそうなる。
そうなって欲しい、と思いたい。
「……あーーーーー!!」
思えない。
僕は頭を抱えて伸び上がり、背もたれに思い切りもたれかかって叫んだ。「どうしたいきなり」と慧くんがびっくりした顔をして、それも気にできずに僕は叫んだ。
「無理……!!」
「……何が?」
「永くん誰かと付き合うとか、無理、想像できない。だってそれって、永くんに、僕より優先するものができるってことでしょ?」
僕らはいつだって『双子ファースト』、お互いにとってお互いが優先順位のトップにあることを大前提として生きてきた。だけどそれを許容してくれる『恋人』なんてきっとどこにもいないだろうし、そもそも──夏休みからこっち、ちっとも僕を優先してくれない永くんを思い出すと、もやもやを通り越してもう恐ろしいぐらいの気持ちに包まれてしまう。僕は脚をじたばたさせた。
「考えるだけで無理っていうか、万人の万人に対する闘争だよそんなの!! こわすぎ!!」
「いや、その言い方だと、双子だけ自然闘争から逃れてたことになるんだけど」
「逃れてたの!! ……いやむしろ、双子じゃない人は普段こんな怖い世界で生きてるってこと? 無理すぎる……」
「いや国家とかあるから、大丈夫だから」
そもそもこの会話はリヴァイアサン的に適切なのだろうか。多分というか絶対違うだろうな。最近一般教養で受けている哲学関係の講義のせいで理系らしからぬ会話をしながら、けれども、僕の中に生まれた恐怖は間違いなく本物だった。そして、こんなふざけた言い方でも、慧くんにはきっと、僕の恐怖は違わず伝わっただろう。
永くんは、僕にとって、誰よりも大事な、絶対に裏切らない『味方』だった。世界中の誰が敵になったとしたって、永くんだけは絶対に僕を信じるだろうし、逆だって絶対にそうだった。絶対的な、無条件で信じられる存在。
けれども今、その信頼は揺らいでいた。別に永くんが誰かを好きになったとしたって、それは、僕の敵になることを意味したりしない。わかっているのにただ、可能性があるというだけで嫌だった。
例えば、僕と橘先輩のどちらかひとりしか助けられないような状況で、永くんが、橘先輩を選ぶのかもしれない──なんて。
現実には起きうるはずのない二択、無意味な思考実験だ。けれども僕は、そういうものに、本気で怯えているのだった。うう、と両手で顔を覆って呻いた僕に、不意に、なんだかひどく優しい声で慧くんは言った。
「まあ、だから恋をするんじゃない。人は」
え、と、少し驚いて僕は手のひらを顔から離した。伸ばしていた背中を戻し、座り直し、慧くんへと視線を向ける。
「いや、その言い方は正確じゃないか。『だから恋をする人もいる』ぐらいが正しいかも。……その恐怖から逃れられる場所が欲しくて、自分だけの特別な相手が、絶対に信じられるものが、どこよりも安心できる居場所が欲しくて恋をする。そういう動機もあるんじゃない」
だから遠は、今まで、恋をしなくてよかったんだよ。そう言って、慧くんはまっすぐに僕を見た。四秒───数える前に逸らしたくなった。その目に捕まるのが恐ろしい気がして。けれどもどうしてか目が逸らせない僕を、多分きっちり捕まえて、慧くんは「だからさ」と言って笑った。
そして言った。
「恋をしなよ、遠も。俺とさ」
「…………は?」
さらりとした言い方のせいで、一瞬、なにを言われているのかがわからなかった。──恋を? 理屈は正しい……正しいのか? まずそこを乗り越えるのに苦労して、だから、付け加えるように言われた『俺と』の理解に至るまでに随分時間がかかった。
恋を?
慧くんと?
「もしかして」
やっと意味がわかった。目を見開き、信じられない思いで尋ねる。
「僕、口説かれてるの、今?」
「おお、よくわかったね」
偉い偉い、と、慧くんはぱちぱち手を叩いた。いやそれ口説いてる態度かな? 即座に疑いそうになった僕に、にっこり笑って慧くんが言う。
「それで、どう?」
「……どう? とは?」
「怖くなくなった?」
その問いに、僕は呻いた。
慧くんの言い分がわからない、というわけではなかった。永くんが僕以外の誰かを見つけたのなら、僕も永くん以外の誰かを見つければいい。至極単純、明快すぎる理屈と言っていい。けれども僕は、両手で顔を抑えて言った。
「…………もっと怖くなった…………」
「えっ」
だって僕は、今の今まで、慧くんが僕を口説いてくるとかいう可能性を、少しも考えていなかった。いや普通友達に口説かれる展開なんて考えないだろうから、これは僕が悪いわけじゃないと思うんだけど。思うんだけど──だからこそ、ただでさえ得体が知れないものになりかけていた世界が、更に混沌としたものになってしまったような気がする。うううう、とうめき続ける僕に、「ほんとに?」と慧くんが、本気で驚いたみたいにいう。
「いやでも……気付いてなかった? 少しも?」
「何に」
「俺が遠のこと好きなんじゃないかって、思ったことなかった? ほんとに?」
「ええ? あるわけないでしょ」
「まじかー……」
慧くんはぱしぱし目を瞬いて、「そっか」と少しだけ申し訳無さそうな顔になる。
「それは……ええと、ごめん」
慧くんはちょっと眉を下げ、それから、「でも」と加える。
「冗談だよ、とは、言ってあげられないから。……それもごめん」
慧くんはそう言って、ほんの少し、困ったみたいな顔で笑った。それでわかった。慧くんは、どうやらほんとに、『僕が薄々察してる』と思って、ここで畳み掛けてきたつもりだったこと。そして今、僕がなんにも気付いてなかったことを知って、本気で後悔してるってこと。
慧くんはたぶん、今の状況を──僕の弱みに付け込んだみたいな状況のことを、申し訳ないと思っているのだ。
「答えはさ、急がないから」
「……答え?」
「うん」
答え。答えがいるのか? ──それはそうだ。気付いて僕は更に愕然とした。
答えが要るのだ。
慧くんは、僕に、恋人になろうと言っている。
なら、僕がそれを拒んだら──僕はもしや、永くんに続いて、慧くんまでも失ってしまうことになるのだろうか?

