小御門遠の演繹法 〜双子の僕らが恋をしたなら



 幸いというべきか、慧くんと僕との友人関係は、これ以上ないほど順調に進んでいった。
 その日も僕ら(慧くんと、その後に知り合った岬くんと佐々木くんを加え、すっかりいつメンとなった学部の同じ四人組である)は、午前の授業を終え、混雑する学食で昼食をとっていた。

「ごめんて。遠、機嫌直してよ」

 昼休みの学食は混雑していて、どうにか四人席を確保して座ったところで、慧くんが頭を下げてくる。僕はカレーをつつきながら苦笑した。

「いやだから、機嫌悪くないって。ダメージ受けてるだけで」
「それがさ、だって、俺のせいだろ?」
「違う……いや違うとも言い切れないのか……?」
「ほら」

 昼食をとりながらぼそぼそ言い合いをしていると、「どしたの」と向かいの席から岬くんが声をかけてくる。

「痴話喧嘩? 浅霧、遠のこと怒らせたの?」
「なにやらかしたんだよ」

 岬くんは見た目の若干のオタクみのとおり僕と同じオタク男子で、文芸部に入っているせいか妄想力が高く、僕と慧くんの仲の良さを変なふうに解釈するのがブームらしい。慧くんに彼女がいないらしい今はまだいいけれど、もし出来たら『彼女に失礼だからやめろ』って言わないとなあ……。にやにやと尋ねてくる岬くんの隣で、大柄で生真面目な面立ちの佐々木くんが生真面目に聞いてくる。僕は「だから違うって」と苦笑した。


 ──僕らが仲良くなったのは、学部有志の企画による親睦バーベキューがきっかけだった。
 数少ない女子と見るからにカースト上位な男子陣とによるその企画に、僕と慧くんはなぜか企画側として参加することになった。……今思うと、まず僕に声をかけてきた女子の目当ては当たり前に慧くんだったのだが、僕はまるでそれに気付かず二つ返事で助力を引き受けた。お祭りごとはそもそも嫌いじゃないのだ。僕は簡単なアプリを作って出欠確認と集金管理を行い、当日は買い出しにも行ったりして、わりと楽しく企画を遂行した。

 ……問題が起きたのは、その楽しい当日のことだった。

 バーベキュー自体は特に問題なく楽しく進み、僕と慧くんは隅っこで楽しく肉をつついた(当日の進行は主催である女性陣がやってくれて、たくさん肉を食べられたのは普通に嬉しかった)。小さな集団で自己紹介や雑談が交わされ、ミニゲームのような企画もほどほどに盛り上がり、親睦会も成功した後、「企画陣で打ち上げに行こう」と女性陣が誘いにきて──それを慧くんが断って、そこで空気が少し気まずくなった。
 彼女たちの狙いは、そこに至れば流石に明らかだった。慧くんは彼女たちのだれとも連絡先を交換していなくて、僕はもはや「それとなく」を超えた熱心さで彼の連絡先を聞かれていた。僕も疲れていたので二次会は断り、彼女らが引き下がった後、ゴミ袋を持って紙皿やコップのゴミを集めて回っていたところで──聞いてしまったのだ。メイン会場の河原から少し外れたプレハブの影、ゴミ捨て場などがある一角で、「期待はずれすぎ」と、企画の中心になった美人な女の子が愚痴っているのを。

「浅霧くん、ガード硬すぎ。そんな警戒しなくても良くない? 別にあんたに興味あるわけじゃないんだってこっちは」
「いやあのビジュに興味ない瑞希も理想高すぎだけどね?」

 僕らに向けていた愛想の良い笑顔から一転し、どこか疲れたような顔の美人──そう、瑞希ちゃんだ──が言う。いやほんとに、慧くんに興味ないとか本気で言ってる? ツッコミを入れている子に思わず内心で同意しながら、僕は咄嗟に彼女たちから隠れるようにプレハブに寄った。せめて打ち上げの会場までその愚痴我慢できなかったのかなあ、いや立ち聞きしてる僕も悪いんだけどさ。思う間にも、慧くんの塩対応が余程気に触ったのか、瑞希ちゃんの愚痴は止まらない。

「顔が良くても、K高出てウチ程度の大学とか、ぶっちゃけ落ちこぼれでしょ? だから、友達紹介して貰いたかったのに……」

 K高。ド田舎出身の僕でも知っている、中高一貫の有名男子校だ。慧くん、K高出身だったのか……。たしかに、東大進学ランキング常連の高校からと考えると、一応難関国立大学であるはずの我が大学も多少の見劣りはする……のかもしれない。東大進学者なんて数年に一度出ればいい方の所謂『自称進』出の僕からすると、正直よくわからない世界である。

「私は浅霧くんでもいいっていうか、うちで充分だけどな学歴。とにかく、将来有望な理系学生を在学中に捕まえとくのが目標でここに来たからさあ」
「堅実ー!」
「いやでもわかる。実際、真面目そうな人多いなって思った今日」
「将来考えるならそういう人が一番だもんね」

 ……なるほど。
 つまり彼女たちにとって、大学は早くも婚活市場、将来を見据えたバートナーの選別の場でもあるということか。シビアすぎる。僕なんてまだ誰かと付き合ったことさえないのに?? 恋愛というものに対する幻想が目の前で打ち砕かれていくのを感じながら、僕はひょこっと顔を出し、ことさらに軽い声で「ねえ」と声をかけた。

「紙ごみここ? 捨てていいかな」
「……!」

 女子たちがぱっとこちらを向いて、気まずそうに顔を見合わせる。聞いていないふりは無理だろうし、する気もなかった。僕はにこにこ笑ったまま言う。

「あ、いや、いいよ。どんな目的でも、今日の企画は楽しかったし、……女子に話しかけられなくて困ってたやつ、普通にいっぱいいたと思うから、みんな今日に感謝してるよ多分。だから、そういう目的でも全然いいと思う」

 僕自身はほぼ慧くんと一緒にいたので、女子とはほとんど話していないが、周りはそれなりに男女交流もしていたようだった。彼女たちの意見が女子学生の総論というわけでもないだろうし、この場自体の真の目的はぶっちゃけどうだっていいのだ。
 ただ──と、僕は、あからさまに敵意をはらんだ目でこちらを見ている瑞希ちゃんへと視線を合わせた。

「言い出しっぺって大変だから、リターン求める気持ちもわかるよ。でもさ、慧くんは別に『報酬』じゃないし。……あと、自虐するのも、全然好きにしたらいいと思うんだけどさ」
「……自虐?」
「自虐でしょ? 『ウチ程度の大学』の学生なのは君もじゃん」

 東大生と知り合いたかったのなら、自分も東大に入るのが一番手っ取り早い。僕は軽く肩をすくめた。

「ともかく、来たくて必死になってどうにか入った僕みたいなのもいるわけだからね、こんなとこでも。あんまり貶さないでほしいなと。……いやでも、みんなもう先のこと考えててすごいな。見習わないとな……」

 最後のつぶやきは別に嫌味ではなく、ごく純粋な感心だった。『学生のうちに将来有望な彼氏を捕まえておきたい』という願望は、きっちり将来設計ができていないと出てこない。そして僕には、そんなものは欠片も存在していなかった。彼女たちからしたら『お気楽でいいね』と言われても可笑しくない……けど、そうだとしたって、友達をむやみに下げられるのは看過できない。言いたいことを言ってスッキリした僕は、手にしていたゴミ袋をゴミ集積場のかごへと突っ込んで、「まあ、それだけ」とひらひら手を降った。
 そうして、気まずげな女性陣を置いてその場を離れたところで──どうやら一部始終を少し離れたところで観測していたらしい岬くんと佐々木くん、そして慧くんに囲まれたのだった。


 ……以来、何故か僕に一目置いてくれたらしい岬くんと佐々木くん、そしてあの日から更に距離が近くなった気がする慧くんと四人でつるむようになり、またこの懇親会で学部のみんなにゆるっと顔が知られたことにより、大学生活は一気に楽になった(ちなみに、瑞希ちゃんはインカレサークルに入り、元気に他校の学生と交流しているらしい。ブレなくて強い)。講義がかぶる者同士で一緒に講義を受け、ランチを食べ、軽く駄弁り……というサイクルが完成し、そのうえ、サークルや他の授業を通しての知り合いも増え、いくつかのライングループに加入してからは、講義やサークル、大学周りの美味しい飲食店についてなど、いろいろな情報も入ってくるようになった。
 かつて夢見ていたそのままの楽しい大学生活が、ここにある。そんな日常の一幕──僕は僕と慧くんの言い合いともつかない会話を明らかに面白がっている岬くんに視線を向けて、「痴話喧嘩じゃない、というか、そもそも喧嘩してないから」と訂正した。

「僕が勝手に落ち込んでるだけ」
「だからさ、それが、俺の不注意だろ?」
「違うって」
「うーん……ここだけ聞くとなんか浮気疑惑に謝る彼氏と落ち込んでるのを隠す彼女みたいな会話に聞こえなくもないんだよな……」
「それはもうそう聞きたいだけでしょ、岬くんが」

 僕が冷静にツッコむと、岬くんは「バレたか」と肩をすくめた。もしかして腐男子なんだろうか……。肯定されたところでサービスも出来ないので聞かずにいる疑問が頭に浮かび、僕は苦笑してネタばらし(というほどの真相でもない)をした。

「借りた本が趣味に合わなかったってだけ。イヤミス苦手って伝えるの忘れててさ」
「あ、なるほど」

 『イヤミス』というのはミステリのジャンルの一つで、後味がスッキリしないというか、謎が解けてもじっとりとしたイヤさが残るような内容のものを指す。僕はミステリもホラーもサスペンスも好きなのだけど、ことミステリに関しては、できればスッキリ爽快に、後味良く終わって欲しい派閥に属しているのだ。
 とはいえジャンルが『ミステリ』である以上、内容、こと『読後感』という『オチ』を明かすことはネタバレに当たるわけで、僕の嗜好をまだそこまで知らない慧くんが、おすすめミステリとしてイヤミスを渡してくることは、ちっとも悪いことではなかった。僕に合わなかったというだけで、その本が傑作であることに変わりはないし。僕は──実はまだその本の余韻が頭に残っていて胸のあたりがもやもやしているのだけど──なんでもない顔を作って笑う。

「ラストに落ち込みすぎて、一晩ラインに付き合わせちゃって。むしろ申し訳なかったぐらい」

 ほんとは通話をしたいくらいだったのだけど、永くんも寝ている部屋でそれはできない。明かりを落とした部屋で、二段ベッドの下の段に潜り込み、ひたすら慧くん相手に『どうしてあんなことに……』みたいな話を送りまくっていたのだ。今思い返すと『むしろ』どころか普通に大迷惑だっただろう。どう考えてもこっちが謝るべきだ、と反省する僕の前で、「なるほど?」と岬くんは首をひねった。

「それはそれでなんか……まあ、結果オーライなのか……?」

 岬くんはちらりと慧くんを見て、僕のとなりの慧くんが「そういうのも読書の醍醐味だもんな」と爽やかに頷く。

「だから、迷惑じゃなかったよ、全然」

 僕に付き合って寝不足のはずなのに、その顔はいつもどおり、輝くみたいなイケメンだ。あらゆる意味で人間が出来すぎている。申し訳無さでその顔を直視できずにカレーに視線を落とし、「ならいいんだけど」ともごもご言った僕に、「でも」と慧くんはなぜか顔を寄せてきた。

「それと、俺の『嫌な読書体験をさせてほんとごめん』って気持ちは別。……ってことで、スタバ行かない? 今日」
「え?」

 スタバ。僕の地元には存在しなかった、超有名コーヒーショップだ。突然の話題転換に目を瞬く僕に、慧くんは言った。

「飲んでみたいって言ってたじゃん、フラペチーノ。最近出た新作、俺も飲んでみたかったからさ。奢るよ」
「え、ええ……?」

 ……たしかに『一回飲んでみたいんだよね』とは言った、気がする。慧くんは根っから都会っ子のタワマン育ちで、僕の田舎者トークを過剰に馬鹿にすることなく楽しんでくれるので、ついついあけすけな『都会への憧れ』を口にしてしまうのだ。
 そしてそのとき、たしかにこうも言ったのだ──『でも、貧乏学生がドリンク一杯に払える値段じゃないよあれは』と。
 慧くんはもしかして、そんな僕の嘆きまでコミで覚えてくれていたのだろうか? いやでも、奢られる理由には全然足りない。流石に遠慮しなきゃ──と断り文句を探す僕の前で、佐々木くんが「なるほど」とボソリと言った。

「狙ってたわけだ、浅霧は。虎視眈々と」
「……え?」
「だよなー。遠、奢られとけって。どうせこいつ坊っちゃんなんだから、スタバの一杯ぐらい誤差だよ誤差」

 慧くんより更に大きい佐々木くんは、無口で無表情ながら、時折挟んでくる一言が妙に核心を突いてくる男だ。それにしても、……狙ってた? 慧くんが? 何を? 僕に奢るタイミングを?
 ……なんで?
 というように、僕の頭上にはおそらくたくさんのはてなマークが浮かんでいただろうに、三人の中の誰ひとりとして、それ以上の説明はしてくれなかった。慧くんはただ、僕を説得するみたいに岬くんの言葉に頷く。

「そうそう、奢られてくれていいからさ。……ほら、遠、バイト中に腹減って困るっても言ってただろ。カロリー入れていきなって」

 スタバの話といい、僕のちょっとした愚痴も覚えている慧くんは、イケメンなだけじゃなく頭もハイスペックだ。「なんでも覚えてるね、慧くんは」と、僕は思わず笑ってしまった。

「うーん……じゃあ、奢られとこっかな、今回は。……あ、あと、貸してって言ってた本持ってきたから、それもそのとき渡すね」
「了解」

 僕の同意を勝ち取った慧くんが、なんだかとっても嬉しそうな顔でにこにこ笑う。……なんで慧くんのほうが嬉しそうなんだろう? 不思議になりながらも、僕もなんだか嬉しくなってにこにこ笑う。すると「平和な世界……」と岬くんが突然僕らを拝みだし、「流石にそれは奇行すぎる」と佐々木くんが岬くんを嗜める。岬くんの様子がおかしいのにもだいぶ慣れてきていた僕は、新作フラペチーノなんだったっけかな……と検索しながら、カレーの残りをもそもそ口に押し込んだのだった。



 そしてそう、先の会話に出たとおり、僕の大学生活には、もうひとつの『大学生らしさ』が加わっていた。──アルバイトだ。
 僕らは奨学金で学費と寮費を賄い、生活費の不足分を仕送りとして貰ったうえで、『遊ぶ金は自分で稼ぎなさい』と親から通達されていた。スタバをはじめとした『大学生らしい娯楽』を楽しむためにも、アルバイト探しは急務だった。
 そして、僕がアルバイト先に選んだのは、大学近くの大型チェーン書店だった。

「小御門くん、ちょっとこの段ボール、バックヤードに運んでもらえる?」

 昼間話したとおりに慧くんにスタバの新作を奢ってもらったのち(値段相応の美味しさとカロリーだった。甘党の僕にはたまらない味だったし、たしかにこれを飲んだらバイト中は空腹を覚えなくて済みそうだとも思った)出勤した僕は、初心者マークのついた名札を胸につけ、閉店時間である九時までのシフトに勤しんでいた。

「はい。全部ですか?」
「うん。重たくて悪いね」
「いえ、全然」

 笑って答えて、言われたとおりに段ボール箱を裏の事務室に運ぶ──と、言葉でいうほど容易くはない。紙の詰まった段ボール箱というものは、見た目以上に重いものだからだ。黙々と三箱運び終えるともう腕が怠くて、運動不足というか筋力不足を痛感する。
 同じ学部の先輩から紹介された、『代々うちの大学の学生が交代で支えている』書店であるという、面接もそこそこに即採用されたそこでの勤務は、まあまあ順調な滑り出しを見せていた。やはり、好きなものに囲まれているというのはそれだけでテンションが上がる。そして何より、バイトであっても社割が使える。電子書籍と違って安く買うことがほぼ不可能な紙書籍においては、二割引はかなり魅力的な条件だった。

「運びました」
「ありがと」
「小御門くん、こっち来て。ブックカバーの折り方教えるから」

 書店員のメイン業務はもちろんレジ、と思いきや、ブックカバーを折ったり、売り出し中の本につけるポップを考えたり、万引き防止のため棚整理をかねて巡回をしたり、その業務範囲は多岐にわたる。レジに列がないところを見計らってそれらの業務を教わりながら、僕はむずむずとした違和感にひっそりと耐えていた。

(……『小御門くん』だって)

 大学に入ってから、最も慣れることができないでいるのは、この『小御門くん』という呼ばれ方だった。名字で呼ばれる都度、僕は「この人たちは、僕が双子だって知らないんだな」という、なんだか心許ないような気持ちにさせられる。ここでは僕は双子ではない──ただの、小御門遠という個体なのだ。
 それが不安になるということそのものが、僕が『双子であること』に、『永とセットで扱われる』ことにアイデンティティを依拠していたことを意味している。僕はほんのりと自己嫌悪に陥った。

(大学では……友達はみんな、僕が双子だって知ってるから、僕のことを『遠』って呼んでくれるから、あんまり感じたことなかったけど)

 岬くんも佐々木くんも、入学式での赤白頭には見覚えがあったみたいで、「双子って楽しそうだよね」と、僕にとって一番うれしい言葉をくれた。
 けれども、ここでは違う。もちろん雑談をしないわけじゃないし、そのうち話す機会もあるかもしれないけれど、別にそれは必須の情報じゃない。──必須の情報じゃなくなっていくのだと、僕はここで、はじめて知った。
 学校で過ごす時間も、こうしてアルバイトをする時間も、僕はただの『小御門遠』だ。僕の中の、『愉快な双子の片割れ』である時間は、どんどん少なくなってしまっている。……僕はふと、バーベキューの帰り道、慧くんと交わした会話を思い出した。


『遠って、わりと言う方だったんだ』

 と、からかうみたいに慧くんが言うから、僕はちょっと憤慨した。言い過ぎたかな、と自分でも思っていたからかもしれない。むっとして、僕は言った。

『いつもあんなきつくは言わないよ。ただ、……』

 ただ、そう、僕はたまに攻撃的になる──たとえば、永くんが毀損されたときなんかは。今までは機会がなかったけれど、どうやらそれは永くんだけでなく、親しい友人が害されたときにも適用される判定だったらしい。僕が口ごもった内容などすっかりわかっている、という顔で、慧くんは目元を柔らかく緩めて笑った。そうして、軽く肩を竦めて、ちょっとした告白の口調で言う。

『……東大落ちたのはさ、まあ、事実だからいいんだけど』
『あ、そうなんだ。すごいな、僕とか東大とか受けようとか考えたことすらない……僕の学校だと、僕レベルでも神童なのに……』
『そうなんだ?』
『……いやごめん、ちょっと盛った』

 もちろん成績上位のほうではあったが、ぜんぜん神童ではなかったし、むしろ悪童だったかもしれない。慧くんは『だよな流石に、これが神童はなあ』とからかうように笑うから、僕はわざと『これ? とか言う??』と軽くむくれてみせる。

『もしかして庇わないほうがよかった? これ』
『……いや、ごめん』

 僕が軽く頬を膨らませて怒った顔を見せると、慧くんは軽く片手を挙げて、ちょっと気まずそうに視線を反らした。

『照れ隠しだ、これ。ごめん』

 ……照れ隠し? 僕がきょとんと目を瞬くと、慧くんの手が伸びてきて、わしゃわしゃ僕の頭を撫でる。

『わ、何!?』
『……浪人したくなかったし、入りたい研究室もあったし、だから、ここにしたんだけど』

 そうなんだ。入りたい研究室なんてもちろん考えたこともなかった僕は、ここにもちゃんと将来を見据えている人がいる、とちょっと焦ったような気持ちになった。そんな僕に再び視線を向けて、慧くんはちょっと目を眇めて笑った。

『……悪くない選択だったと思ってる、今は』
『……なんで?』
『言わせる? それ』

 慧くんはわしゃわしゃ僕の頭を撫でて、結局なにも言わなかった──いや、流石にわかるよ、言われなくても。顔が赤くなるのがわかって、撫でられているのをいいことに俯いて顔を隠した。
 そんな、大したことをしたつもりじゃなかった。
 けれども、慧くんがもし、少しでも嬉しかったなら、言いたいことを言ってよかった──あの時の僕はただ、そう思っただけだけれど。


(……『遠に』って、慧くんは言った。ただの『遠』)

 永くんを知らない慧くんにとっては、僕は僕でしかない。そんなあたり前のことが、どうしてか奇妙に──居心地悪くさえ感じられるときがある。単純化してしまえば、おそらく僕はまだ、『双子』以外のものとして認識されていることに慣れていないのだ。
 双子じゃない僕。ただの『僕』は、はたして、どんな人間なのだろう? ……そう考えてしまうのが、裏返しだということはわかっている。

 双子じゃない、ただの僕は──ただの『小御門遠』は、すこしも特別ではない、面白みのない人間なんじゃないだろうか?

 慧くんが僕を買いかぶるほど、僕はどうしても、そんな風に考えてしまうのだ。僕は小さくため息を吐いて、「小御門くん、ヘルプ頼める?」とやはり慣れない名字でこちらを呼ぶ先輩の声に、「はい!」とどうにか大きな声で返事をしたのだった。


 バイトを終えて寮の部屋に戻ると、永くんはラグの上に座ってスマホを眺めていた。
 この部屋に永くんがいるのを見ると、世界が『いつもの形』を取り戻したような気がしてなんだかほっとする。扉を開けて一瞬立ち尽くした僕に視線を向けて、「おかえり、遠くん」と永くんは笑った。

「バイト順調? ……あ、なんか食べる?」
「ただいま。……バイトはまあ、ぼちぼちかな。ご飯は食べてきたから大丈夫」

 答えながら鞄を机に置いて、そのまま、永くんの隣にちょこんと座る。永くんは見ていた動画──たぶん、ゲームのプレイ動画──を止め、労わるように僕の頭を撫でてくれた。慣れた手つきだ。僕は永くんに寄りかかってありがたくそれを享受しながら、「永くんは?」と軽く尋ねる。

「バイト決めた?」
「……あー、それなんだけど」

 永くんは僕から手を離し、膝の上のスマホへと視線を落とした。なにやら検索画面に打ち込みながら言う。

「橘先輩が塾講師やってて、紹介してくれるって言いうから、そこにしようかなって。……こういう、小中学生相手の集団塾なんだけど」

 橘先輩。
 永くんは、最近本当によくその名前を口にする。入学式の日に僕らに声をかけてくれた先輩、橘宗一(たちばなそういち)。ちょっとびっくりするぐらいにきれいな顔をした彼は、なんと、永くんと同じ経済学部の三年生だったのだ。
 結局学部であまり友だちができなかったらしい永くんは、空き時間のほとんどをボードゲームサークルに入り浸るようになった。同じ学部の同期も数人いたらしく、そちらで大学生活の基盤を築くことにしたということらしい。ある意味合理的な選択である。

(……それにしても、また、橘先輩かあ)

 なんだかもやもやする、と思いながら、僕は「塾講師?」と首を傾げた。塾講師や家庭教師は、大学生バイトのテンプレではあるし、書店員よりよほど高時給だが、事前準備など大変さもその比ではないと聞く。てか、そもそも永くん、人に勉強教えるの得意だったっけ? 不信感が声に出たのだろう、言い訳のように永くんは言った。

「最近さ、サークルでTRPG教えてもらったんだけど」
「TRPG? あ、クトゥルフのやつだっけ?」
「クトゥルフ以外もあるけど、今回はそうだね」
「え、あれ、僕もやってみたかったんだよな。やるなら言ってよ~」
「言ってよっていうか、遠くん最近バイトばっかじゃん」

 「言えば誰かしら回してくれると思うよ」と軽く言うその口調から、サークルが永くんにとってすっかり気安い場所であることが伺える。僕の知らない永くんがどんどん増えているみたいな感じがして、もやもやはどんどん大きくなっていく。そんな僕に気づかず永くんは続ける。

「それ教えてもらってやってたら、『声がハキハキしてて喋りも情報の整理も上手いし、向いてるかも。バイト探してるんだよね?』って言って、橘先輩が誘ってくれて。まあ面白そうかもと思って」
「面白い……かなあ?」
「反対?」
「反対じゃないけど」

 バイト先まで一緒になったら、永くん、橘先輩一色じゃんか。という、とっさに出そうになった本音は既のところで隠して、僕は「入れ込みそうという気がする、バイトに」と二番目の懸念点を口にした。永くんが頷く。

「あー……それは気をつけてねって橘先輩にも言われた。ハマりはじめるときりがないからって」

 双子間に兄弟の概念はないけれど、一応定義上兄の永くんは、定義上兄であるからか、『面倒見がいい』と言われることが多い。

「でもまあ、何かははじめないとじゃん? 懐も心もとなくなってきたし」
「それはそう。あ、でも、髪は? 流石にその色はダメでしょ」
「あー……うん、それはそう。だから、染め直そっかなって。正直この色、維持するのキツイし」
「あー……」

 わかる、と、僕はついつい頷いた。永くんの白髪は僕の赤髪よりさらに生え際が目立ち、今の永くんは完全にプリン状態だ。

「まあもうインパクトも十分でしょ、ってことで、暗めの色にしようかなって。……遠は?」
「僕は……まあ、もう一回は同じ色にしようかな……」

 僕のバイト先は服装や髪型に厳しくなくて、そういう理由でバイト先に選んでいる人がいるせいか、派手髪派手ピアスが結構多い。僕自身この色を気に入っているし、慧くんにも似合うって言われたし、変える理由が逆にないのだ。僕の答えに「そっか」とあっさり頷いて、「まあとにかく」と永くんは話を戻した。

「塾講なら時給もいいから、シフトそんな入れなくても稼げるし」
「それは……そうかなあ……?」

 僕はわりとさくっとシフトを断れる方だけれど、永くんの性格上、人手不足とか言われたら断れないような気がひしひしとする。自分でも自覚はあるのだろう、「扶養超えないように調整しないとだから、どうせそんな働けないよ」と永くんは苦笑した。

「それに、僕が無理めなシフト組んだら入るでしょ、遠くんストップが」
「そりゃもちろん入れさせていただきますけど。永くん、すぐにキャパ超えるもん」
「人のことキャパ不足みたいに言わないで欲しい」
「違うよ。高スペだからこそ、過信して詰め込みすぎるの、永くんは」

 僕も永くんもまあまあ要領はいいほうだけど、永くんは人から頼られるタイプで、僕みたいに面倒ごとからさらっと逃げることができないのだ。……とはいえ永くんがバイトをはじめることそのものは仕方がない。僕はちいさく溜息を吐いた。 

「……あーあ。こんなふうに二人でいる時間、もっと減っちゃうんだろうなあ……」
「なんだ、それが一番の理由だったんだ」

 永くんが、僕の頭をまたよしよしと撫でる。

「慧くんだバイトだって、先に部屋に寄り付かなくなったのは遠くんのほうなのに。勝手だなあ」

 そんなこと……もあるかもしれないけれど、それとこれとは別なんです。双子だけど弟、の特権を振りかざしてむくれる僕に、永くんは、安心させるみたいに軽く笑った。

「大丈夫だよ。一緒にいる時間がちょっと減ったって、なんにも変わらないって。……現にほら、今だって、変わってないでしょ?」

 ……変わって、ない?
 はっきり言って、即座に疑義を唱えたくなる言説だった。
 変わってない? 橘先輩のことばかり口にする、ここより部室のほうが居心地が良さそうに見える永くんと、永くんとではなく慧くんと遊びに行く日が増えて、日々本に埋もれている僕とは、変わってないと言えるのだろうか。本当に?


 本当は──僕たちはもう、『僕たち』じゃなくなっているんじゃないの?


 ……そう思ったけれど、僕はそれを口に出すことはしなかった。言霊とか引き寄せとか、そういうことを信じているわけじゃないけれど、口に出した瞬間に意識されてしまうものは確かに存在する。
 永くんが『そう』思っているうちは、僕たちは今までどおり、『何も変わらない双子』でいられる。
 僕はそう信じたから、何も言わずにただ「うん」と頷いて、思い切り永くんに甘えることに集中し、その肩にぐりぐり頭を押し付けたのだった。