ゆうに二百人は入りそうなだだっ広い講義室で、僕は欠伸を噛み殺した。
学部に知り合いはまだいない。周りを見ても、みんななんとなく周りを伺っている感じで、二三人で談笑している姿は見られたが、グループのようなものが形成されている気配はなかった。情報工学部は一学年五十人程度だが、この講義は複数の理系学部で必修だからかなりの人数だ。一応情報は全員ここにいるのだろうけど、その中で誰が情報かはわからないし、選択科目となれば人は減るだろうけど学部はさらに混沌としそうだし…そこまで考え、僕ははたと気付いて目を瞬いた。
(……ていうか)
根本的な問題がある。
(友達って、どうやって作るんだっけ?)
なにせ僕は小中は一学年一クラスしかないようなド田舎の出身で、高校時代は『目立つ双子』扱いで周りから人が寄ってきたから、自分から友達を作った経験がないのだった。えっ、僕らの対人経験、なさすぎ……? いや流石に古すぎるなこのミームは(田舎の学生の楽しみなんてインターネットしか存在しなくて、僕と永はもれなくオタクだったので、無限にネットミームで会話してしまう……がゆえに古いミームも知っているのだ。まあ今はその会話の相手すらいないわけなんだけど)。一人でいても脳内でノリツッコミしてしまうさみしい僕は、そのままひとり机に突っ伏した。
(……あーあ。永くんが居てくれたらなー……)
思わず内心で嘆いたのは、永くんが僕に比べてコミュ強だから──というわけではなく、というかなんなら永くんのほうが僕より人見知りなのだけれど、片割れといるときの万能感みたいなものが恋しくなったからだった。そもそも、二人でいれば、さみしくなんてならないわけだし。
……とはいえ、もちろん情報工学部の僕と経済学部の永くんの授業がかぶるわけはなく、というか校舎そのものがだいぶ離れているので、大学で顔を合わせる機会自体おそらくあまりないはずだ。それこそ、先日の誘いに乗って新歓に顔を出し、ふたりで入ることに決めたボードゲームサークルの部室で会うぐらいがせいぜいだろう。いやまあ、僕と永くんは学生寮の二人部屋で暮らしているので、朝と夜とは普通に一緒に過ごしてるんだけど……それでも、昼間じゅうずっと顔を合わせない日もある、というのは結構新鮮で、僕はやっぱり、なんだか落ち着かない気分になった。
これから、お互いにバイトをはじめたり、研究室に所属するようになったりしたら、顔を合わせない日さえ出てくるようになるのだろうか?
永くんに言ったら『気が早い』と呆れた顔をされそうだけど、僕は正直、その可能性を考えるだけで、胸の奥に小さな穴が開いたみたいな、その穴からすうすう空気が漏れていくみたいな、心許ない気持ちになるのだ、どうしても。やっぱり、僕も文系に進むべきだったかなあ。でも僕は永くんみたいに地元の過疎化に興味があるわけじゃないし、ちまちまツールを作ったりするのが好きだしな。うつ伏せてもだもだしていたら、不意に、誰かが隣に座る気配を感じた。
顔を上げる。
気付けばそこそこ埋まってきた講義室で、その『誰か』は、後ろ寄りの空席を探して僕の隣を見つけたらしい。仄かに何かさわやかな香りが鼻を擽り、視線を上げると、ミルクティー色の髪に目を奪われた。
(……きれいないろ)
少し長めの前髪を真ん中分けにしているから、整った顔がよく見える。テレビや雑誌でしか見たことのないような、すっと通った鼻筋と、柔らかな目元の、『雰囲気』じゃないイケメンだ。着ているものも持っているものも垢抜けているように見えるのが、彼の顔面の力によるものか、はたまた実際におしゃれなのかは、僕には残念ながらわからなかった。
(ハイトーンの髪をあんな風にサラサラに保つの、結構大変なんだよなあ)
ということを、つい最近知った僕である。すごいなあきれいだなあ、と思わずぼかんと見ていると、そんな僕の視線に気付いたのだろう、こちらを見た彼が軽く笑った。
「隣、いい?」
イケメンという生き物は、声もいいと相場が決まっているのだろうか。どきっとしながら頷く。
「あ、はい。どうぞ」
「ありがとう」
椅子を引いて座る、そんな動きさえこなれて見える。鞄からノートと筆記具を取り出したあと、彼は「学部どこ? 情報?」と僕に尋ねた。
「え。ああ、うん。一年」
「一緒だ。俺は浅霧慧。君は?」
「小御門遠」
自己紹介しながら、差し出された手を軽く握る。浅霧くんの端正な面立ちに、少しだけ疑問の色が浮かんだ。
「とお?」
「遠い、って書いて、とお」
「へえ」
珍しい名前だな、という顔だった。言われ慣れている。そうして浅霧くんが「てことは、もうひとりは『近』?」とこれまた言われ慣れていることを言うものだから、僕は思わず笑ってしまった。そこの発想はイケメンでも一緒なんだなと思う……いやまあ、顔は関係ないけど。
「よく言われるけど、違うんだなこれが。……ていうか、知ってるんだ? 僕らのこと」
「知ってるというか、入学式で見かけたというか。普通に見るでしょ、その頭」
「そりゃそうか。ええとね、白い頭のほうは、永くん。永字八法の永で『なが』ね」
「絶妙にわかりにくい紹介の仕方するな……」
「『墾田永年私財法』の『永』でもいいよ」
書道やってないと知らない表現を知っている浅霧くん、幼少期書道仲間と見た。どや、と付け足すと「面白いな、君」と彼は笑って、それから「あー」と感心したような声を出す。
「……てことは、セットで『永遠』? すごいセンスだな」
その声が本当に純粋に感心していたので、僕はちょっと嬉しくなった。この名前、キラキラネームとか厨二病とか言われがちなのだ。いや、僕もそう思うけど、人から言われるのは嫌なんだよね。僕はにこにこ笑って「でしょ」と言った。
「ずっと仲良くして欲しいって願いを込めたんだって」
「大成功じゃん」
「そうなんだよね」
浅霧くんが嬉しいことばかり言ってくれるものだから、僕はすっかりご機嫌になった。『その年になってまで兄弟べったりなんておかしい』とか言ってくる人もまあまあいるのだ。にこにこしている僕を眇めた目で見て、浅霧くんは「てか」と僕の髪を指差す。
「その髪、一ヶ月後にもう一人と交換したりする?」
「え?」
なんで? きょとんと目を瞬く。そんな予定は全くないが。頭上にハテナを浮かべる僕に、浅霧くんが軽く笑う。アイドルのグラビアみたいにキラキラした微笑みだ。
「双子ってさ、ほら、なんか、入れ替わりのイメージあるじゃん」
「……ノックスの話ししてる?」
「うん。ミステリ好きなんだ、俺」
「その顔で?」
「いやどの顔? てか、すぐ『ノックス』が出てくるってことは、そっちもミステリ好きなんだ?」
『ノックスの十戒』はまあ今となっては誰でも知っているようなミステリのお約束ではあるけれど、僕がミステリ好きなのは事実だったので「うん」と頷く。それに浅霧くんはうれしそうに笑みを深め、「俺も」と言って続けた。
「だからさ、リアル入れ替わりトリックが見られる? と思って」
「いやそれは……どうだろ、できるかな……?」
「顔、似てる方?」
「入学式で見たんじゃないの? ……一卵性だからまあ、それなりに似てるとは思うけど……」
僕らはずっと狭い社会で生きてきて、周りはみんな僕ら双子のことをよく知っていたから、入れ替わりが通用すると思ったことがなかった(子どもの頃母親相手にやって、すぐに見抜かれたことがトラウマになっている可能性もある)。……でも、環境が一変し、誰も僕らのことを知らない今ならどうだろう? 僕が少し考え込むと、「お」と浅霧くんが面白そうな顔になる。
「する?」
「……うーん。いや、やっぱナシかなあ」
一瞬、『面白そう』と思わなかったと言えば嘘にはなるが。
「面白がられたいだけで、信用されたくないわけじゃないからね」
まだ個人としての認識が薄いだろう段階で髪の色を交換するのは、ただお互いのフリをするという以上に、明らかに周囲を騙しに行っている。僕らが創作物あるあるの『悪戯好きの双子』属性を持っていないとは言わないけれど、ちゃんと時と場合は弁えているつもりだ。……と。
「……まあ、永くんならそう言うだろうし」
「あ、それ、永くんのほうの基準なんだ。判定外出し?」
「む。その言い方だと僕に判断力がないみたいな……外出しじゃなくダブルチェックと言って欲しい」
僕が暴走しそうになれば永くんが止めるし、永くんが暴走しそうになれば僕が止める。僕がダメなときは永くんが、永くんがダメなときは僕が頑張る。僕らはずっとそうやって、お互いを補い合いながら生きているのだ。冗談半分で抗議すると、「ごめんごめん」と浅霧くんは笑った。
「なるほど。いいね、人生のダブルチェック。便利そう」
「でしょう。便利なんだよ、双子は」
「いくら便利でも、今からは入手できないからなあ」
「うーん、かわいそう……」
「本気で同情された」
いやこれは本当に、僕は僕たち以外の『双子じゃない』ひとたちのことを、結構真面目に可哀想だと思っているのだった。永くんがいない生活なんて──永くんがいない人生なんて、考えられない。そこまで話したところで、初回から少し遅刻したらしい教授がやっと壇上に現れるのが見えて、僕は前へと視線を向けた。
「……小御門くん」
「そろそろはじまりそうだよ? あと、名字じゃなく遠って呼んで」
「じゃあ、遠」
なにせ僕らは双子なので、今までだって、ずっと名前でばかり呼ばれてきた。
それなのに──どうしてだろう、その時呼ばれた『遠』の響きは、今までの誰とも違う、そっと耳元に触られたみたいな、奇妙な擽ったさを持っていた。いきなり呼び捨てだからかもしれない。そうしてちょっとどきっとした僕に、彼は言った。
「その髪、ちょっと触ってみてもいい?」
「……え?」
突然の申し出に目を瞬き、たしかに自分も最初に目を引かれたのは彼の髪だったな、と思い出す。
「いいけど……浅霧くんみたいにサラサラじゃないよ」
「俺も『慧』でいいよ」
「……慧くん」
「呼び捨てでもいいけど……まあいっか、相方も『永くん』呼びなんだもんね」
言いながら、浅霧くん、改め慧くんは、遠慮のない手つきで僕の前髪に触った。
「……きれいに染まってる。どこの店?」
まじまじ見られて、指先が額に触れそうで、ほんの少しだけどきっとした。永くん以外が入ったことのない範囲だなと思いつつ、別に嫌ではなかったので、なるべく平然として見えるようにと祈りながら答える。
「地元で染めたの。だから、こっちでまた美容室さがなきゃ」
「地元どこ?」
「秋田」
「遠いな。美容室、俺の行ってるとこで良ければ紹介するよ?」
「うーん……ありがたいけど、高そう……」
「初回は紹介割引効くし。似合ってるから、そのままがいいよ。君が赤のほうが断然いい」
きらきらした顔で、あんまりストレートに「似合ってる」なんて言われて、僕はさすがに照れて視線をそらした。
「……僕も、そう思うけど」
でも、慧くんはちゃんと僕らを見比べたことなんてあるわけがなくて、どっちがどっちの色がいいなんてわかるわけがないのだ。実は調子のいいやつ……なのかもしれない。そう思ったところで、広い教室にやっとレジュメが行き渡り、教授がマイクの電源を入れる音がした。
僕は改めて前を向き、ノートを開く。隣の慧くんもちゃんとレジュメに視線を落としていて、僕はなんだか安心して、その後はきちんとはじめての講義に耳を傾けたのだった。

