部屋に駆け込んだ僕を出迎えたのは、慧くんではなく永くんだった。
「遠くん、……ごめん」
失敗しちゃった、と小さな声で言う彼は見るからに落ち込んで──はいなくて、まるで親の仇でも見るみたいに(永くんの親の仇なら、それは僕の親の仇ってことでもあるんだけど)慧くんを睨みつけている。慧くんに脅迫まがいのことを言われたこと、そしてそれに取り乱してしまったことが、彼のプライドをいたく傷つけたのだろう。僕は思わず苦笑して、「ううん」と首を横に振った。
「いいよ。こっちこそごめん、……こんなことしちゃいけなかったんだ、きっと」
「それは」
「永くんが悪いんじゃない。僕が悪い、全部」
慧くんのことを信じられなかったこと──以上に、『もっと大事なこと』から目を背けていたこと。僕は永くんの頭をよしよしと撫でて、それから、慧くんへと向き直った。
「慧くんも、……ごめん」
小さく言うと、慧くんは軽く片眉を上げた。「それは」と言いかけて、「いや、」とすぐ首を振る。
「ちゃんと話をするんだもんな。……永くん、悪いけど席外してくれる?」
「……お前に『永くん』とか呼ばれる筋合いないんだけど」
「それは呼び捨てでいいってこと?」
「良いわけないだろ! てか、そもそもここは僕の部屋でもあるんだけど!?」
まるで慧くんから僕を守るみたいに立った永くんが、がるがる威嚇するみたいに慧くんに噛みつく。永くん、呼ばれるのも嫌なのか……。でもなんかやっぱり、いい感じに会話してるようにも聞こえるんだよなあ。思いながら、「ごめん」と永くんの背中を軽く叩く。
「僕からも、お願い。……一人で、ちゃんと話せるから」
永くんがぱっと僕を見て、じっと、確かめるみたいに僕の目を見た。双子の視線はばっちり噛み合う──僕以外とは目を合わせられない永くんも、僕とはいつだって見つめあえる。そうして永くんは、不承不承という感じで頷いた。
「……なら、いいけど」
それから、永くんが慧くんに向き直る。
「今回の件、主犯は僕だから、遠くんのこと責めたらだめだからね。あと、遠くん泣かせたらマジで出禁だから!!」
『主犯』という表現を使っていながら、少しも悪いと思っていない口調だなと思う。そうして永くんは言いたいことを言いたいように言って、ぷいっと顔を背けて部屋を出て行った。
……沈黙。
「ええと……なんかごめん、永くんが」
としか言いようがないというか。なんとも気まずい。そんな僕に、慧くんはごく軽く「いいよ」と笑った。
「気持ちはわかるし。保護者だもんな」
「保護者……かなあ……」
一応向こうが定義上の『兄』ではあるけれど、当たり前に同い年なんだけどな、僕ら。ラグの上に座った慧くんがぽんぽん己の隣を叩いて示し、僕は大人しくその指示に従って慧くんの隣に座る。……さっきまで、永くんがここに座っていたんだろうか。こんなに近くに? 考えながら、最初の言葉を探す僕に、「いやあ」と慧くんは朗らかに言った。
「まさか、生で『双子入れ替わりトリック』を見る日が来るとは思わなかったな」
出会った日の会話を思い出した。ノックスの十戒。ミステリに双子を出してはいけない。僕は小さく呟いた。
「……見抜かれちゃった」
「見抜きましたね。気持ちよかったな、わりと」
永くんの顔面白かったし、と呟いている慧くんは、まるでいつもと変わりがないみたいに見えた。僕らの悪事なんて、大したことじゃないみたいに。彼がちっとも気分を害しているように見えないのがいいことなのか悪いことなのかがわからないまま、まずは種明かしをしてもらおう、と僕は尋ねる。
「目でわかったの? やっぱり」
見つめ合って五秒──慧くんは、少なくとも五秒を数えていた。僕の問いに、慧くんは「うーん」と軽く首を捻った。
「まあ、確かめるために目は見たけど。最初から、違和感あるとは思ってたよ」
「…………そうなんだ?」
「そもそも、いきなり髪の色変えてるのが怪しいしね」
それはそう。慧くんは僕の髪に手を伸ばして軽く摘んで、「まあ、これも似合ってるけど」と言う。いつもの距離感。僕は床に向けていた視線を上げて、ちらりと慧くんの方を見た。
慧くんは、いつもと同じ、ちょっと面白がるみたいな、楽しそうな顔で僕を見ていた。
「……怒ってないの?」
「うん? なんで」
「なんでって、……僕、試したんだよ。気づくかどうか試したの」
汝試すなかれ、は『神を』試すなかれ、だけれど、所謂『試し行為』は人間関係に罅を入れるにふさわしい理由だ。ましてや双子入れ替わりだなんて。
「怒ってほしいの?」
「……欲しいわけじゃないけど」
「じゃあいいじゃん。怒ってないよ、俺」
「なんで?」
「いやだって、『試す』ってことはさ、信じたかったってことでしょ。だからまあ、むしろ光栄というか、ねえ?」
慧くんは手のひらで少し口元を隠した。その目元が、明らかに緩んで見える。……にやにやしている? なんで?
「俺が入れ替わりを見抜けるか試したかったのはさ──俺が好きなのが『永くん』じゃなくて『遠』だって、確信したかったってことだろ?」
それは──そうだ。……そうだとしたら?
「そして、それがわかればもう、遠だってわかってるだろ。『なんで』確かめたかったのか」
僕が無意識に目を背けていた『いちばん大事なこと』を、慧くんは容赦なく突きつけてくる。僕はごく小さく「……うん」と頷いた。
「わかってる、と、思うよ。……確かめたかった。慧くんが好きなのが、『僕』であるって確かめたかった」
双子入れ替わり作戦のどちらが『成功』かなんて、最初から当たり前に決まっていた。
「『僕』が好きだって、永くんじゃなくて僕が良いんだって、確かめたかった。……君に、好きでいてほしかったから」
にやり、と、少し悪い感じに慧くんが笑う。
「好きでいてほしかった、のは?」
「……それ言わせるの……」
「そりゃ言わせるよ。──『入れ替わり』を見抜いたんだから、ご褒美ぐらい貰えてもいいだろ?」
慧くんの指が伸びてきて、僕の髪を軽く掻き上げる。指先が、ほんの少しだけ肌に触れる──そこだけがぽっと熱を持ったみたいになって、じわじわ顔中に広がっていって、僕は「うう」と恥ずかしさに呻いた。
けれども、彼の言い分は正当だった。僕はすっかり真っ赤になっているだろう顔で、ヤケクソのように口を開いた。
「……慧くんが、好きだから。慧くんが好きなのが『僕』じゃなきゃ、嫌だった」
よく言えました、みたいな顔で、ひどく満足そうに慧くんが笑う。僕はその顔を見てまた「……うう~~」と呻く。
「は、恥ずかしいよ~~……助けて永くん、戻ってきて……!」
「いやここで他の男の名前呼ぶか普通? ……いやまあ、『普通』じゃないか、遠たちは。良いよ別に」
「……いいの……?」
「仕方ないだろ、双子の片割れを好きになったんだからまあ、それぐらいの覚悟はするよ。……あ、でも」
「でも?」
慧くんが、僅かに苦笑する。
「入れ替わりはもうナシな。多用されると面倒だし、練度上げられて見抜けなくなって面倒なことになったらもっと面倒だし」
「……ハイ」
たしかにありそうな展開だ。僕はしおしおと頷いた。そもそも、人を試すなんて失礼なことはしちゃいけないのだ。僕が頷くと、よろしい、と言いたげに慧くんが僕の頭をわしゃわしゃ撫でる。僕は撫でられるがままになりながら、じっ、と慧くんの顔を見つめた。
慧くんと。
このまま恋人同士になったら──僕は少しは、永くんのいない世界が怖くなくなるだろうか? 答えは考えるまでもなかった。
そんなことはない。
そんなことはないし──そもそも、前提が間違っているのだ。
永くんは別に、いなくなってなんていなかった。
誰か、僕じゃない他の誰かを好きになったって、永くんにとっての僕が大事であることに変わりはなかった。僕のために無茶をして、僕のために怒ってくれる永くんは、なんにも変わっちゃいなかったのだ。慧くんのことが好きになった僕が、変わらず永くんのことが誰より大事で、その存在を頼りにしているのと同じように。
恋と双子は別腹──とか、そういう話でさえないのだった。もっとずっと単純な話だ。
いちばん大事なものは、別に、ひとつじゃなくたってかまわないのだ。
僕はじっと慧くんを見つめて──それから、小さく微笑んだ。
「慧くん」
恋をしなよ、と、慧くんは言った。
「僕はさ、これがはじめてだから、なんにもわかんなくて、困らせることもあると思うんだけど」
あの時の僕は、『恋』がどんなものかもわからなくて──今の僕も、わかっているとはいい難いのかもしれないけれど。
「君と、恋したい、から……ええと、よろしくお願いします」
でも、この気持ちは、本当だ。そのままぺこりと頭を下げると、慧くんはつかの間、呆気にとられたように目を見開いて──それからまるで堪えかねたみたいな勢い任せの動きで僕の頭を掻き抱いて、ごく小さな声で、「こちらこそ」と言ったのだった。

