第1話 最弱判定、転校生
 霧ヶ丘異能中等部。その名のとおり、丘の上は一年中、薄い霧に包まれている。
 天候のせいではない。ここでは生徒たちの“異能”が常に空気を震わせているからだ。
 朝の校門をくぐった瞬間、篠崎カイは肩をすくめた。
 ざわめき。視線。何十もの好奇の眼差し。
「転校生、らしいよ」「どこから?」「また実験区の奴じゃね?」
 ——まあ、こうなると思ってた。
 カイは内心で苦笑した。制服の袖を少し引き下ろす。右手首の包帯。
 誰にも見せられない“印”がそこにある。
 “封印”なんて言葉は、現代では誰も信じていないけれど。
 教室のドアを開けると、空気が一瞬、凍った。
 背筋を伸ばした教師が振り向く。鋭い目をした担任、八代。
「転校生、自己紹介を」
「篠崎カイです。よろしくお願いします」
 淡々と頭を下げた瞬間、クラス中がざわつく。
 ざわめきの理由は、すぐにわかった。
 黒板の後ろに浮かぶ“適性測定ウィンドウ”——入学者や転校生は初日に自動で測定される。
 そこに、無情な文字が浮かんだ。
【異能適性ランク:F】
 ひゅう、と誰かが口笛を吹いた。
「Fとか初めて見たんだけど」「マジで雑魚じゃん」「ここ、異能中等部だぞ?」
 八代は腕を組みながらも、優しい笑みを崩さなかった。
「焦らなくていい。適性はあくまで“現時点”のものだ。成長で変わることもある」
「……ありがとうございます」
 その声が空回りするように、笑いが漏れた。
 最前列の少年が椅子をくるりと回す。金髪が光を弾いた。
 霧ヶ丘のエース、“雷の鷹”こと鷹羽レンジ。
「おい転校生、空気だけでも発電してみ? ほら、雷でピカッとさ」
「……残念。節電モードなんで」
 教室に笑いが起こる。自分でもわざと軽口を返す。
 挑発を受け流すのは、前の学校で学んだ生存術だ。
 ただ、一人だけ違った反応を見せた少年がいた。
 後ろの席で、何やら小型の端末を分解している生徒が顔を上げる。
 ごつごつした指。レンズ付きゴーグル。無造作な茶髪。
「お前、回路いじれるタイプ? それとも感応系?」
「え、いや、どっちでも……」
「じゃあ俺と同じ無所属か。工藤ミナト。よろしくな」
 差し出された手は油で汚れていた。だが、妙に温かい。
 カイは少し救われた気分になった。
 昼休み。校庭の片隅。
 カイは弁当を食べながら、空を見上げた。
 霧の向こう、太陽がぼんやりと滲んでいる。
 ——また、“最弱”か。
 記憶の奥が疼く。
 何度も繰り返された“評価”。どこの世界でも、いつも同じ結果。
 だが、今回は……何かが違う気がした。
「篠崎くん、規律書、読んだ?」
 突然背後から声。
 振り向けば、きっちりした制服姿の少女。白石リラ。風紀委員長。
 目は氷のように冷たく、だがどこか整っている。
「風紀違反は容赦しないから。工藤くんと一緒に爆発でもしたら即反省文」
「……しませんよ、そんなこと」
「ほんとに? あなた、妙に落ち着いてるのね。初日なのに」
「緊張してないだけです」
「ふうん」
 リラはそれ以上何も言わず、去っていった。
 残ったのは、胸の奥の、言葉にならないざわめき。
 その日の放課後。
 体育館では、上級生たちの能力訓練が行われていた。
 雷光が床を走り、空気が焦げる。
 その端で、ミナトが機材を片付けていた。
「お、カイ。帰る? ここの放電データ、見てく? 結構面白いぞ」
「いや、いい。今日は——」
 言いかけた瞬間、体育館の床が“鳴った”。
 ゴウン……と鈍い音。
 次いで、床板の隙間から黒い線が走る。ひび割れ? いや、何かが“滲み出ている”。
「……おい、これ」
 ミナトの声が掠れる。
 次の瞬間、雷属性の生徒が悲鳴を上げた。
 電磁波が暴走し、天井の照明が弾ける。
 青白い稲妻が弧を描いて突き刺さる——!
「ミナト、下がれ!」
 反射的にカイが叫ぶ。
 しかしミナトは足がもつれて倒れかけた。
 カイはその肩をつかむ。
 その瞬間——胸の奥で、“軋む”音がした。
 ——解除条件、接触、保護行動。
 誰の声だ? 頭の中で、金属音のように響く。
 視界の端に、金色の輪が浮かんだ。
 淡く光り、音もなく回転する“術式”。
 気づけば、指先から“風”が生まれていた。
 風というより、真空の“圧”。
 無音の衝撃が雷の軌道をわずかにずらし、稲妻は床をかすめるだけで消えた。
 ——静寂。
 雷鳴が止み、空気だけが震えている。
 周囲の生徒たちは呆然と立ち尽くす。
「い、今の……」「風紀違反だぞ」「何したんだ、あいつ……」
 リラが駆けつけた。
 彼女の目が、カイの背中を捉える。
 制服の隙間から覗く、薄い文様——まるで封印の一部のような刻印。
 リラは小さく息を呑んだ。
「まさか……」
 だがカイ自身は何も覚えていなかった。
 気づけば膝が震え、床に手をついていた。
 医務室。
 暴走した生徒は安静状態にある。
 その横で、白衣の天城先生がカイの脈を測っていた。
 若い女性で、どこか妖しげな雰囲気をまとっている。
「脈が二重に流れてる……珍しいわね」
「二重?」
「ええ。封印のタイプ。——あなた、いつ解くつもり?」
 カイは瞬きをした。
「何を、ですか?」
 天城は微笑んだだけで、答えなかった。
 ただその笑みの奥に、何かを知っている光があった。
 帰り道。夕焼けの窓ガラスに、赤と金の光が混ざる。
 カイは立ち止まり、空を見上げた。
 ——あの瞬間、見えた金の輪。
 あれは一体なんだったんだ。
 脳裏に閃光のように、知らない記憶が流れ込む。
 崩れ落ちる塔。黒い翼。誰かの叫び。
 そして、自分が誰かを抱えていた感触。
「……誰を、守ろうとしたんだ」
 息を吐く。
 霧が肺の奥にしみ込むように、冷たかった。
 その夜。
 誰もいない体育館の床に、まだ黒いひびが残っていた。
 それはゆっくりと形を変え、やがて“鍵穴”のような紋様を描く。
 誰も知らない。
 その“鍵”が、学園の中心に眠ることを。
 そして、その封印が再び開かれる日が——近いことを。


第2話 保健室の視線と、見えない術式

 翌朝の霧ヶ丘は、霧が薄い。代わりに、視線が濃い。
 登校路の角を曲がるたび、スマホを掲げる生徒たちの気配がざわざわと寄ってくる。
 学内SNS〈KiriLink〉のトレンドは未明からずっと同じ見出しを回していた。

【Fラン転校生が偶然HEROった件】【偶然? 必然? 風紀的にアウト?】

 記事はまともに読んでいない。ただ、見出しの横で再生回数が跳ねているのは見えた。
 コメント欄で飛び交う“最弱”“運だけ”“演出”の文字列は、どれも軽い。
 軽いのに、妙に重い。
 カイは胸ポケットの中でスマホを黙らせ、息を一つ落とす。

「おーい、カイ!」

 工藤ミナトが駆けてきた。ゴーグルは額、手には工具。今日も平常運転だ。
「朝から炎上トップだぞ、スター。気分は?」
「炭にならない程度に、あったかい」
「火傷する前に消火したいんだが。……とりあえず、今日の“再測定”は断ろうぜ」

 ミナトの視線が、校門の先に立つ男へ向かう。
 金髪を朝日に跳ねさせ、ポケットに手を突っ込んでいる。鷹羽レンジ。
 彼は口元だけで笑い、顎を軽く上げた。

「よお、“偶然”のヒーロー。今日、放課後に再測定な。正面からだ。風、吹かせられるなら吹かせてみろ」

「レンジ、勝手に決めるな。公式の手続き踏めよ」
 ミナトが眉をひそめる。
「公式は遅い。俺は早い」
 レンジは肩をすくめ、踵を返した。
 残された風圧が、言葉より雄弁だった。

 カイはミナトに向き直る。
「……やるよ。逃げないって決めた」
「馬鹿。昨日のあれ、偶然だとしても——いや、偶然じゃないとしても、いきなりは危険だ。お前、身体のどこかが鳴ってるだろ?」

 鳴っている。胸の奥で、昨夜からずっと。
 錆びついた歯車が、わずかな遊びを求めて擦れ合うみたいに。

「じゃあ、先に寄り道しようぜ。医務室。天城先生の機材なら、レンジよりずっとマシな“測り方”をしてくれる」

 *

 保健室のドアを開けた途端、甘いハーブの匂いが鼻先をぬらした。
 白いカーテンが揺れている。窓辺の鉢に挿したローズマリーが朝の光を吸って、銀糸のような輪郭を見せた。
 天城先生はカルテの束から顔を上げ、微笑に近い何かで迎える。

「早いわね、篠崎くん。工藤くんも。朝の巡回?」

「いや、先生、ちょっと相談。こいつ、昨日——」
「“風を鳴らした”」
 天城は言い当てるように言い、机の引き出しから薄い紙の束を取り出した。
 羊皮紙を思わせるざらりとした手触り。角に青い小さな紋章。
「〈術式観測紙〉。旧型だけど、嘘はつかない。能力者の“見えない回路”を浮かべる紙よ。湿度の高い霧ヶ丘では、なぜかこっちの方が反応がいいの」

「旧型って、骨董品?」
「最新式はノイズが多いの。最新であるほど良いとは限らないわ。——篠崎くん、左手を」

 カイは指先を紙にそっと置いた。
 瞬間、紙面の地紋がふっと息を吸い込むように沈み、金の埋線が浮いてきた。
 六つの円環が、蜂の巣のように規則正しく並ぶ。
 五つには小さな錠前の意匠。残り一つだけが、心臓の鼓動に同調するように鈍く明滅している。

「……何だ、これ」
「封印、六連式」
 天城の声が細くなる。
「一般的な自己制御の封。けれど、この設計は“学校の教本”には載っていない。誰かが、あなた個人のために設えた高度な封印よ」

「封印、なんて。俺、そんな——」

 言いかけて、紙面の縁がさらさらとほどけ、古い文字列が走った。
 注釈。あるいは、封印術者の“置き手紙”。
 読めないはずの古語が、何故か意味を結んで流れ込む。

【過去リセット、観測時に副作用軽減】

 カイの喉が乾く。
 過去リセット。
 胸の奥で冷たい波が立ち、昨日の既視感が連鎖反応で映写機のように回り始める。崩れる塔。叫ぶ誰か。黒い翼。

「誰かが——あなたを守るために施したのよ」
 天城は視線を伏せた。
「……解除条件の注記、見える?」
 紙面の図の右下。小さく、しかし確かに三つの言葉が刻まれている。

【保護行動】【真名の呼応】【契約の再接続】

「起点は昨日、あなたが友を助けた時に一つ噛み合った。だから——」
 天城はそっと紙からカイの手を離し、包むように押さえた。
「——焦らないこと。“観測”そのものが鍵穴を擦る行為になる時がある。勢いで回すと、鍵は折れる」

 カイは息を吸い、吐いた。
 封印。六連式。
 自分の中で、言葉が新しい重みを持つ。
 知らないはずの“過去リセット”という文字だけが、どうしようもなく馴染んでいた。

「失礼します。——事情聴取」
 乾いた声がカーテンの向こうから落ちてきた。
 白石リラ。風紀委員の腕章が朝の光を切る。
「篠崎カイ。昨日、能力を使用したなら申請が必要。風紀規約第七条、臨時使用届」

「書類なら後で——」とミナトが割って入るが、リラは視線だけで制した。
「即日。事故でも、使用は使用」
 天城が軽く咳払いをして、リラと視線を交わす。
「事故対応として私が記録して提出しておくわ。状況は医務室で把握済み。篠崎くんは“暴走を逸らすための反射的対応”。ね?」
「……はい」
 リラの瞳がわずかに揺れた。
 昨夜、彼女だけが見たという“背中の文様”。確信と疑いの境界に立っている目。

「わかった。——ただし、次からは必ず申請。風紀は公平であるために厳格なの。個人の事情は、救済の対象でも、免罪符でもない」
 言い切って、踵を返す。
 ドアノブにかけた手が、一瞬だけ止まり、彼女は振り向かずに言葉を足した。
「それと、篠崎くん。……あなたが“誰を守ったか”を忘れないで」
 扉が閉まり、静けさが戻る。

 ミナトが頭をかきむしった。
「相変わらず、言葉が刃物だな、あの人」
「うん。でも、正しい」
 カイは観測紙から視線を上げる。
 円環は、もう光っていない。
 霧の薄い午前の日差しに、ただ静かな紙の色だけが残った。

 *

 昼休み。
 校庭の端。人工芝の継ぎ目から、乾いた砂がかすかに覗いている。
 弁当の紙をたたもうとして、カイはそこで動きを止めた。

 ——耳鳴り。

 最初は、風の擦過音かと思った。
 違う。鼓膜の裏側から、小さな金属球を転がすみたいな音が鳴っている。
 地面の下。もっと深いところ。
 階段を二十段降りた先の、さらにその先で、誰かが低く囁いた。

 ——カイ。まだ起きるな。

 誰の声だ。男か女かも判別できない。
 けれど、声の質感だけは知っている気がする。
 骨の奥に残った温度。眠りの最深部に沈めておいた何かが、浮き上がってくる。

「どうした?」
 ミナトがペットボトルを差し出した。
「いや……ちょい、頭の奥で誰かが囁いた。ラジオのチューニングみたいな」
「ノイズ拾い? 電磁的な耳鳴りは雷系の訓練後にあるけど——」
 言いながら、ミナトの視線が遠くのグラウンドに引かれる。
 夕方の放課後、そこを埋め尽くすことになる群衆の形が、もう薄く見えているかのように。

 *

 放課後。
 半公式、いや明らかに“非公式”な観客が集まった。
 グラウンドの白線の内側。対峙する二人の間に、風が溜まっている。
 レンジは上着を脱ぎ、肩を回した。
「実況も来てるぞ、転校生。数字ならお前の味方だ。——中身を見せろ」
「実況なんて呼んだのか」
「呼んでない。数字が勝手に来る」
 レンジは指先で空を弾いた。
 瞬間、空気が乾き、毛穴が収縮する。
 雷の前兆。世界から湿度が盗まれる。

「始めっから全力でいく」
 宣言が落ちると同時に、紫電が走った。
 レンジの異能は“壁”だ。
 壁は前のみならず、上にも横にも現れる。視界に入る予測線の全てが雷で塗られ、逃走経路が消される。
 網のような連続面が迫り、音が置いていかれる。

 カイは一歩、踏み出した。
 足の裏が、影に沈む。
 その瞬間——胸郭の内側で、確かな音が鳴った。

 ——カチャ。

 一本、鎖が外れる音。
 温度が反転し、足元に落ちていた自分の影が薄い膜になって広がる。
 黒は、柔らかい。
 雷の衝撃は膜に吸われ、指の間から零れる水みたいに散った。

「っ……今の、何だ?」
 レンジが眉を上げる。
 電撃の縁が影の上を滑って、地面に伏せた葉を焦がすだけで消える。
 カイの耳の奥で、どこかの誰かが小さく笑った気がした。

 ——封印解除:1/6。

 言葉にならない表示が、皮膚の裏を走る。
 呼吸が浅くなるのを、意識して深く変える。
 勝つ必要はない。
 負けない範囲で、守る。
 観客席へ視線をやる。柵の向こうに、無邪気な一年生。スマホを高く掲げる二年。顎を引いて黙っている三年。
 雷の“壁”は通過後、余波が渦を巻いて外へ流れる特性がある。
 横なぐりの軌道が看板に反射する——その瞬間を、カイは待った。

「——今」

 足元の影を伸ばす。
 薄布のひさし。
 「衝撃吸収」の概念を、ただ“そうだ”と思い込む。
 影は、信じた形で働いてくれる。
 余波がひさしにぶつかり、熱が軟化し、棘が丸くなる。
 観客席の手前、灰の粉だけがぱらぱらと降って、誰も悲鳴を上げない。

 レンジが笑う。
 初めて見る顔だった。
 挑発も、見下しもない。純粋な、競技者の顔。
「面白くなってきたじゃねえか、最弱」

「俺は——」
 息を吸う。
「勝ちを狙ってない」

 網目の雷が再び編まれ、角度を変えて迫る。
 カイは後退しながら、影のひさしを連続して張る。
 吸い、受け、返す。
 反撃はしない。
 ただ、守る。
 守ることが、封印の歯車を無理なく回す唯一の方法——そんな直感が、身体の底に灯っている。

 周囲がざわめく。
「攻めないのかよ」「ビビってんだろ」「いや、観客守ってるんだって」
 声の層を貫いて、金属音のような拍手が一つ、規則正しく打ち鳴らされた。
 観客席の最前列。
 担任の八代が、無表情のまま手を打っていた。
 その目はわずかに細められ、別のものを観察している。
 ——足運び。重心。影と地面の接触角度。
 監督の目だ。教師というより、もっと古い職業の。

 レンジが攻勢を緩める。
 肩で息をし、額の汗を腕で拭った。
「終わりにしよう。これ以上は“授業料”がかかる」
 軽口に戻った笑みで、電荷がほどけていく。
 グラウンドの空気が、やっと湿度を取り戻した。

 拍手とも溜息ともつかない音のあと、群衆は蜘蛛の子を散らすように解けた。
 誰も勝敗のことを言わなかった。
 カイもレンジも、勝ち負けに触れなかった。
 ただひとつ、確かだったのは——“見せ方”を知っている連中の前で、守ることを選んだという事実だ。

 レンジは去り際、肩越しに言った。
「次は攻めろ。俺は守らない」
 その背中に、火花の残り香が漂った。

 ミナトが駆けてきて、カイの肩を叩く。
「バカ! 心臓止まるかと思った……でも、すげえ。影の張り方、データ化したい。今夜、俺んちで再現実験」
「休ませて」
「三十分だけ」
「短っ」

 二人の軽口の外側で、八代は最後まで立ち尽くしていた。
 やがて、ポケットからメモ帳を取り出し、何かを書き留める。
 内容は見えない。
 ただ、彼が去る足取りにも“古い訓練”の癖が刻まれているのは見て取れた。

 *

 陽が落ちる。
 廊下の照明が一瞬だけ落ち、直後にぱちりと点く。
 電圧の揺らぎ。誰かが配電盤を触ったのか、それとも——
 掲示板に貼られたポスターが、点滅の間にだけ奇妙な光を放った。
 七色の箔押し。大書された文字。

【七曜文化祭 前哨戦:能力演武】

 その下、印刷時には存在しなかったはずの極小フォントが、冷たい銀で滲む。
 カイは無意識に息を止め、顔を近づけた。
 読み取れないほど小さな点が、ゆっくりと並び替わり、意味を結ぶ。

——鍵は七つ。祭が開くたび、ひとつ、はずれる。

 背中の皮膚が、すっと逆立つ。
 観測紙の円環。六。
 鍵は七。
 数が合わない。
 では——もう一つは、どこに。誰に。

 耳鳴りが、また遠くで鳴った。
 さっきより深く、さっきより静かに。
 眠れ、と誰かが言う。
 起きるな、と誰かが笑う。

 どちらの声も、懐かしい。
 名前が出てこないほど、懐かしい。

 カイは目を閉じる。
 呼吸を数える。
 胸の内側で、外れた鎖の端がぶらぶらと揺れ、次の歯車を探っているのがわかる。
 それは焦っているわけではない。
 ただ、約束の時刻を正確に待っている。

 ——保護行動。
 ——真名の呼応。
 ——契約の再接続。

 天城の指先の温度。
 リラの硬い声。
 ミナトの油の匂い。
 レンジの雷の匂い。
 八代の無表情の奥。
 すべてが次の“鍵穴”に向かうための配列であるかのように、日常の輪郭が少しだけ輝度を変える。

 廊下の向こうから、スピーカーのテスト音が響く。
 「文化祭委員よりお知らせ。前哨戦・能力演武の出場申請は——」
 放送はそこで途切れ、霧の中へ吸い込まれた。
 窓の外、丘の上の空は薄い紫。
 遠くで雷が鳴った気がしたが、音は来なかった。
 音のない風だけが、校舎の角を曲がって、カイの頬を撫でた。

 今は、まだ起きない。
 けれど、次には——

 掲示板のポスターは動かない。
 ただ、箔押しの七色のどれかが、目に残像を描き、消えた。

 その夜、霧ヶ丘の地下で、鍵穴はまた一つ、わずかに形を変える。
 誰も知らない。
 ただ、眠りの底で、カイだけが、微かな“軋み”を数えた。

 ——1/6。
 ——そして、7つ目の場所は、まだ地図の外に。

第3話 七曜文化祭・前哨戦

 七曜文化祭の前哨戦——通称〈能力演武〉。
 クラスごとに三名が出場し、模擬対戦と防御演習、救助想定の三パートで競う。勝敗は派手さよりも「被害想定の低さ」「統率」「観客の安全意識」まで採点される、霧ヶ丘らしい行事だ。

 当然、Fランの篠崎カイは候補外——のはずだった。

「すみません……僕、熱が」

 当日の朝、代表予定だった体術のエースが保健室で沈んだ顔をしてそう告げた。
 教室はざわつく。替えのメンバーは? 補欠は? が、名簿の穴はきれいに空白だ。こういう時に限って、頼みの綱は別部署の練習試合に駆り出されている。

「代打に、アイツ」

 窓際でレンジが顎をしゃくった。
 十数の視線が、同時にカイに刺さる。

「は?」「無理だって」「昨日のアレは偶然でしょ」「演武は遊びじゃない」

 批判は分厚い。だがレンジは表情を変えない。
「偶然でも止められるなら、お守りにはなる。こっちは攻めは俺がやる。守りは——最弱にやらせる。対戦相手、硬化系だろ? 機材倒れたらまずい。影でひさし張れるやつ、他にいねえ」

「勝手に決めないで」
 白石リラが立ち上がる。風紀委員の腕章が、朝の光を切った。
 反対派の期待が一瞬で彼女に集中する。
「リラ、言ってやれ」「規定違反だ」

 リラは淡々とプリントを一枚掲げた。
「——規定上は問題ない。出場は“クラス内多数決または担任裁量”で可。今回は時間がない。八代先生、判断を」

 八代担任は席から立ち上がらず、ただ視線だけを上げた。
 黒板の粉を払うように、短い言葉が落ちる。
「出す。全員で守るなら、誰が最弱でも関係ない」

 教室の空気が歪む。
 承認ではなく、通達。
 反対の声は残響だけになり、やがて沈んだ。

 休み時間、工藤ミナトがカイを廊下の物置へ引っ張り込む。
 油と金属の匂い。
 ミナトはダンボールから黒いベストを引っ張り出した。胸元には見慣れない繊維の格子。

「小型の安全装置。衝撃を熱に逃がす。軽い低温やけどはするかもだけど、骨は守れる。俺の自作。名前は——“ミナベス”」

「ダサい」

「命名は後回しでいい! いいから着ろ。サイズは……合うな」

 ベストは薄いのに、心臓の鼓動を一枚かすかに遠ざける感じがした。
 冷えた鉄板が胸の前に差し出されたような安心感。
 ——守るための服。そんな言葉が自然に浮かんだ。

「ありがとう、ミナト」
「礼は終わってから。……カイ、怖いか?」

 正直にうなずく。
 怖い。
 けれど——逃げる方が、もっと怖い。
 昨日、影でひさしを張った時に、何かが噛み合った感触があった。あれを“偶然”のままにしておく方が、よほど落ち着かない。

 *

 体育館の天井は高く、ライトリグが組まれ、放送部のカメラが三脚の上で緊張している。
 観客席は保護者と生徒で埋まり、MCが軽妙に喋って熱をあおる。

『それではA組対C組の演武、第一パート・模擬対戦! A組は雷撃の鷹羽レンジ、補助にFラン……おっと、話題の転校生・篠崎カイ!』

 ざわめき。
 〈KiriLink〉のコメント欄が一斉に弾けるのが視界の端で見える気がした。
 C組の代表、黒石マコトが前へ出る。
 短髪で肩幅が広い。目は静か、拳は重い。
 “硬化”。筋骨だけでなく外部の金属まで同調して硬くする特異系。守りに回れば隙がないが、攻めに回ると視界ごと押してくる圧が凄い。

「レンジ、序盤は様子見で——」
「様子は見ない。俺はいつも最短距離を落とす」

 レンジが笑い、指を鳴らす。
 青白い稲妻。
 MCの声が上ずる。

『おおっといきなり高出力! 硬化の盾、食い破れるか!?』

 打ち合いが始まる。
 雷の矢が、黒石の前腕で火花を散らす。
 黒石は足を一歩も引かない。床材が悲鳴を上げるように軋む。
 ——“硬い”。見ているだけで分かる。彼は今、筋肉だけでなく空間の“角”までも硬くしている。雷の軌道が角に弾かれ、反射の角度が荒れ始める。

 嫌な予兆。
 レンジも気づいたのか、舌打ちした。
「審判、止めろ。硬化、制御外れて——」

 その時だった。
 黒石の首筋の紋が赤く光り、硬化の“層”が一段、深く潜る。
 音が消え、照明の光が白い板のように固まる。
 審判の制止は一拍、遅れた。

 ライトリグの支柱が、硬化の影響で振動を吸い上げられず、共振域に入った。
 天井から細い金具がチリ、と鳴り、観客席の上に設置されたフレームが歪む。

 ——来る。

 胸の奥が、昨夜の音を思い出す。
 もっと深く、もっと確かに。

 ——カチャ。

 鎖が、二つ目。
 外れる音が、体内で澄んだ金属音になった。

 封印解除:2/6。

 目の前の世界の線が、突然「未来」を帯びた。
 床は木目のままに、しかしその上に三次元の細いホログラム線が何百と展開し、どの支柱が、どの角度で、何秒後に、どこへ倒れ込むのか——倒壊予測が網目になって走る。
 同時に、観客の身体の重心が矢印になって浮き、最短で安全域へ逃がす“流れ”が見える。

 カイは——走らない。
 代わりに、“線の未来”へ指を伸ばし、一つずつ、弦をはじくみたいに軌道を弾いた。
 支柱の接合部、あのボルトのゆるみ。今、ここで一ミリ。
 見えない風が、手のひらの動きに遅れて立つ。
 影が床に薄く溶け、そこに「柔らかい面」を描く。
 支柱が倒れる角度が変わり、照明の光が観客席ではなく、無人の通路に落ちるよう修正される。

 レンジは雷を絞り、黒石の前進だけを釘付けにする。
 ミナトが袖で機材の電源を次々と落として回る。
 リラは走路を空けるため、観客間に腕を広げて声を飛ばす。
「左側の通路へ——押さないで、前を見て!」

 観客の足が、カイの張った影の“ひさし”に沿って動き出す。
 カイはさらに、空気の層へ意識を滑らせた。
 押し出す風。吸い込む風。
 どちらでもない、“向きを作る風”。
 体重の軽い子どもから順に、さざ波のように外へ導かれていく。

 大きな音が、ひとつ。
 空のリグが通路に倒れた。
 誰も下敷きにならず、金属音だけが体育館の空気を震わせる。

 審判の笛が悲鳴のように鳴った。
 硬化の暴走が切れ、黒石が膝をつく。
 レンジは最後まで雷を点滴のように細く保って制御し、ふっと流した。
 スポットライトが復帰する。
 客席に、安堵の笑いが波紋になって走った。

 MCが震え声で、それでもプロとして言葉を繋ぐ。
『……事故、ゼロ。ゼロです! 今の、転校生の……いや、あれは……“神守(かみもり)”ってやつだな、転校生! 派手さはないが、守り切った——!』

 神守。
 観客席のどこかで、その言葉を繰り返す小さな声。
 リラは胸の奥がきゅっと縮むのを、表情に出さないように背筋を伸ばした。
「……やるじゃない」
 誰に向けてでもなく、吐息のように言う。

 審査員席が互いに目配せを交わす。
 「救助想定に準ずる対応」「安全導線の可視化」「被害抑制」。
 評価項目のペン先が慌ただしく紙を走るのが見えた。

 合図のゴング。
 前哨戦の第一パートは、「勝敗なし・演武成立」で幕を閉じた。

 *

 ステージ裏。
 カイは影を畳むように意識を戻し、そこで膝を折った。
 ミナトが支える腕を差し入れるより早く、視界が暗く狭くなっていく。

「カイ! おい、持つか——」

 遠のく音。
 代わりに、意識の底に“過去の断片”が開く。
 煤けた図書塔。
 白い外套の自分。
 泣いている誰かの輪郭だけが、やけに鮮明だ。
 真っ暗な空に、塔の頂でページが羽のように千切れて舞い、黒い翼が——自分の背ではなく、誰かの肩に生えている。

 呼吸が浅くなる。
 胸のベストが小さく熱い。ミナトの“ミナベス”が、衝撃を受け止めて熱へ変換した余熱だ。

「——大丈夫。過換気じゃない、ただの消耗」
 天城先生の声が遠近両用のように響く。
 いつの間に来たのか、彼女はカイの手首に指を当て、脈を測っていた。
 瞳はいつもより深い色を帯び、何かを確かめるようにゆっくり瞬きをする。

「今日の解除条件は“集団保護”。二つ目の錠が外れた。残り四つ」
「……先生」
 カイは舌が重い口で、どうにか言葉を押し出す。
「俺、何者なんです?」

 天城は視線を逸らした。
 ほんのわずかに。
 その仕草は、答えを持っている人の仕草に見えた。

「——今は、まだ」

 返事とも拒絶ともつかない言葉。
 だがカイの胸に、奇妙な温度を残すには十分だった。

 ふいに、控室の扉の外で金属音が鳴る。
 誰かが何かを拾い上げ、硬いポケットにしまう小さな音。
 ミナトが眉をひそめるが、天城は首を横に振った。
「行かなくていい。今は彼に酸素を」

 ——廊下。
 八代担任が、観測紙の“端切れ”を指先でもてあそぶ。
 羊皮紙色の隅に、金の埋線がまだ消えきらず、微かに燻っている。
 八代の口元は笑っているのに、その笑みは温度を持たない。
 彼はポケットにそれをしまい、立ち止まらずに歩いた。

 *

 夜。
 霧ヶ丘の屋上は、文化祭の前夜らしい騒音が下から届き、風がそれを薄く均していく。
 フェンスの向こう、街の灯が霧を底から照らしている。
 八代は携帯を耳に当て、短く、無機質に告げた。

「——第2鍵まで進行。想定より速い」

 受話口の向こうの声は聞こえない。
 八代は視線を空へ上げる。星は少ない。
「いいや、彼はまだ何も思い出していない。だから“速い”のは外部条件だ。祭りの構造か、介入者か」
 間。
「……ああ。“七つ目”については、別経路で探る。鍵穴が六で、鍵が七なら、どこかに“外部鍵”がある」

 通話が切れる。
 八代はしばらくフェンスにもたれ、目を閉じた。
 風がネクタイの端を持ち上げ、すぐに落とす。
 下の階では、ミナトがカイのベストを外し、リラが氷の袋を用意し、レンジが誰にも見られない場所で拳を一度ずつ開いて閉じていた。
 天城はカルテに小さく丸をつけ、意味のない雑談で緊張を散らし、最後にカイの髪を一度だけ、そっと撫でた。

 ——鍵は七つ。祭が開くたび、ひとつ、はずれる。
 体育館のポスターの極小文字は、昼と同じ形で夜の照明を返し、ただのインクとして沈黙している。
 だが、学園のどこかで確かに、見えない鍵穴がまたわずかに形を変えた。

 眠りに落ちる直前、カイは夢の底で、泣いている誰かの手を確かに握る。
 白い外套の袖口。煤に染まった図書塔。
 名前を呼ぼうとして、声が出ない。
 ただ、手の温度だけが、封印の錠前よりも確かな現実感で残った。

 封印解除:2/6。
 そして、七曜文化祭の前哨戦は、誰も見ていない場所で、もう一つの勝敗を分けた——“思い出すか、思い出さないか”。
 今は、まだ。
 だが風は、確かに、鍵穴の縁を撫でている。

第4話 風紀委員の条件

 前哨戦の翌朝、霧ヶ丘は祝賀のざわめきに包まれていた。
 〈KiriLink〉のトップには「事故ゼロで演武成立」「“神守(かみもり)”転校生」といった見出しが踊り、保護者向け配信は柔らかいBGMで編集されている。
 けれど、教室の空気は晴れない。廊下の端で誰かがひそひそ声で言った。

「——ここ数日、他のクラスでも“暴走”が出てるらしい」
「観測紙が変な反応をするって。霧が薄い日の方がやばいって噂」

 噂は軽い。だが、軽いまま全身にまとわりつく。
 カイは窓の外の霧を見た。薄い。昨日よりも、ひと層分。

 チャイムの代わりに、ドアが二度ノックされた。
 白石リラが立っていた。腕章。背筋。視線は、まっすぐ。
「篠崎カイ。風紀委員室まで」

 教室に広がる“またか”の空気を背に、カイは立ち上がった。
 風紀委員室は、職員棟の北側、図書室と保健室の間。匂いだけが落ち着いていて、机の並びは軍隊のように整っている。
 ドアが閉まる音で、雑音が切れ、リラの声だけが残った。

「——条件付きの庇護を提案する」

 最初の一言が、刃物のように明確だった。
 リラは机に両手を置き、言葉を重ねる。
「あなたが“無申請で”能力を使うなら、風紀委員として同行する。監視と記録は私。緊急時の責任は、私がとる」

 想定の外側から来た提案に、カイは目を瞬いた。
「庇護……? 監視じゃなく?」
「どちらも。霧ヶ丘では“監視”は“保護”と同義。コントロールされない力は、本人にも周囲にも危険だから。私はそれを整理する。あなたの影、“未来線の指弾”と、私の“列制(ライン・オーガナイズ)”は相性がいい」

 聞き慣れない単語が、リラの口から滑らかに出てくる。
 列制。
 カイが首を傾げると、リラは「実演」と短く言って扉を開けた。

 校舎裏は、文化祭準備の資材置き場になっていた。パイプ椅子、ロープ、ベニヤ板。雑然、の一言。
 リラは一歩踏み出し、指先で空を撫でる。
 ——見えない線が走った。
 視界の端から端へ、何十本もの白い補助線が“整列”し、椅子の向きを厚みのある矢印で揃え、ロープの張力を均し、ベニヤ板の角を人の動線から外へ寄せる。
 最短距離で安全な通路が編まれ、散らかった裏庭に、ひとつの“道”が浮かび上がる。

「列制(ライン・オーガナイズ)。見えない導線を“並べ直す”。物理干渉の最適化、動線管理の最短化。——あなたの“未来線”は予測。私の“列制”は整頓。間に“風”が入れば、動きはもっと滑らかになる」

 カイは喉の奥がわずかに熱くなるのを感じた。
 今まで、守る時はいつも独りだった。影を張り、風を置き、未来の線を弾く。その全部を、ひとりで同時にやらなければならないと思っていた。
 けれど、今——彼女の線は、自分の線と“同じ方向”へ並び替わる。

「……分かった。頼む」
 短い沈黙のあと、カイは頷いた。
 その返事に、リラはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「では、条件。訓練。申請。——それと、こういう時に忘れがちな“合図”。合図がない連携は、事故の第一歩」
「了解」

 そこへ、工具箱を抱えたミナトが顔を出した。
「話は大体聞いた。遠隔支援、入れるぞ。前哨戦で気づいた。カイ、お前の“ひさし”の縁、空中でも結べる。だから——」

 ミナトは鞄から掌サイズのドローンを三機取り出した。
 楕円形の筐体。側面に小さなファンが四つ。レンズは魚眼。
「〈線導(ライン・ビーコン)〉。列制の基準点になるビーコンだ。リラの“線”を可視化して固定し、カイの“風”を通す球面通路を保つ。三機で小さな“迷路”を浮かべられる」

「名前、いちいちダサくない?」
「次の予算が下りたらネーミング業務委託する」
 ミナトはさらりと返し、リラに使用許可を求める視線を投げた。
 リラは少し考え、うなずく。
「風紀の監督下でのみ運用。ログは全て提出」
「はいよ。——じゃ、簡易訓練いくぞ」

 三人は校舎裏で、合図と動線の確認を繰り返した。
 リラが線を引き、ミナトのビーコンが光の粒を吊り、カイは自分の影を薄く伸ばして“風の面”を張る。
 合図は三つ。
 ——「張る」「受ける」「外す」。
 簡単な言葉で、複雑な動きを縫い合わせる。

 数十分後、リラが汗を拭いながら言った。
「……悪くない。むしろ、気持ちが悪いくらい噛み合う」
「いい意味で、だよね?」
「もちろん」

 午後。購買の前はいつも以上に混んでいた。文化祭の試作メニューが出ると聞きつけた生徒が列を作り、〈KiriLink〉のライブが飽和気味に回る。
 そのとき——。

 カイの耳の奥で、金属球が転がるような音が鳴った。
 昨日から続く、あの“耳鳴り”。
 同時に、鼻先を焦げた匂いがかすめる。
 次の瞬間、購買のレジ横の棚で、小さな火花が弾けた。

「下がって!」
 リラの声が先に走る。
 ミナトがドローンを投げた。
 カイは影を薄く床へ溶かしながら、人の波の中をすり抜ける。
 パッケージの隙間で何かが“増幅”している。
 棚に山積みされた新商品——勉強用の〈記憶補助シール〉。
 あれ自体はただの“注意喚起デバイス”のはずだ。だが、裏面に貼られた回路が、電磁を拾って増幅し合っている。意図的に、仕込まれた“共振”。

 ドン、と鈍い音。小規模爆発。
 棚板が外れ、支柱がぐらりと傾く。
 カイの内側で、また1本、鎖が外れた。

 ——カチャン。

 封印解除:3/6。

 視界の線が、さらに深い“層”を露出する。
 今度は、波形。
 爆発の“波”が、どの角度で反射し、どこへ抜けるかが細波となって浮かぶ。
 同時に——遅れて、頭蓋の奥で“自分の声”が二重に反響した。

 ——守れ。守れ。今度こそ。

 自分の声なのに、自分ではない。
 胸の奥の古い扉が、内側から叩かれる感触。
 頭痛が額を焼く。
 カイは奥歯を噛んで、声を飲み込んだ。

「合図——張る!」
 リラの線が走る。一直線ではない。波を“逃がす”迷路の青写真だ。
 ミナトのビーコンが三点、コの字に浮き、薄い膜のトンネルを吊る。
 カイは影でその膜に“柔らかさ”を足す。
 風は押すのでも、吸うのでもない。“向きを作る”。
 波形の角を丸め、爆風の矢印をそっと逸らす。

 シール棚の上段が、ぱらぱらと崩れた。中身は紙。軽い。
 波は通路に逃げ、レジのガラスが一枚、無人の側へ倒れて割れる。
 人のいる方向へは、一切行かない。
 リラは列制で“立つ人/座る人/転ぶ人”の線を整え、進路の交差を消していく。
「押さないで、斜め左、通路を空けて——“受ける”!」

 爆発の二波目が弱く来る。
 カイは耳鳴りの上から、自分の呼吸だけを拾い上げた。
 影の縁で少しだけ“冷やす”。
 熱へ逃がすミナベスが胸でじくじくと熱い。
 ミナトの指が早口のようにリモコンを叩く。ビーコンが微調整され、膜の厚みが均一になる。

 数秒の長い長い時間が、やっとひと息でほどけた。
 白い煙が棚から立ちのぼり、購買の人が消火器を持って戻ってくる。
 誰も怪我をしていない。
 足を捻った生徒が一人、リラに肩を貸されて壁際へ移動しながら笑った。
「うわ、びっくりした……シール、怖」
「自主回収します」購買のおばちゃんが青い顔で言った。「メーカーに確認するから、今日は販売中止!」

 MCはいない。祝賀のBGMもない。
 ただ、そこかしこから“助かった”という息の音だけが漏れ、笑いへ移っていく。
 ミナトが胸に手を当てる。
「……ゼロ。被害、ゼロ」
 リラは短く頷き、カイに向き直る。
 風紀委員の声ではなく、個人の声で。
「——ありがとう」

 その一言に、カイの頭痛はまだ消えなかったけれど、痛みの輪郭がほんの少しだけ和らいだ気がした。
 自分の声の反響は、しつこく耳の奥で続く。
 ——守れ。今度こそ。
 ——今度こそ。
 リフレインは、祈りに似ていた。

 風紀の記録として現場検証が行われる間、ミナトはシールの裏面を拡大鏡で覗いた。
「やっぱり変だ。規格外のトレースがある。誰かが“共振”を意図してる配線。犯人は……分からん」
 リラが頷き、証拠品袋へ収める。
「生徒会にも共有する。技術局と保安局で解析を依頼」

 夕方。
 校門までの帰り道は、風がよく通った。霧が細かく砕け、頬に涼しい湿度が乗る。
 カイは歩調を落として、リラに聞いた。

「——俺、誰かと“契約”してたのかな。封印の条件に“契約の再接続”ってあった。契約って、具体的には何だろう」

 リラはすぐに答えなかった。
 十歩ほど黙って歩き、言葉を選ぶように口を開いた。
「“真名(まな)”って言葉、聞いたことある?」
「うっすら。昔話で」
「信じる相手にしか教えない名前。本当に呼ばれたい名前。——真名で呼び合う契約は、信頼の最小単位。あなたが昔、誰かに呼ばれていたのかもしれない。だから“再接続”。途切れた契約を繋ぎ直す。……それが、鍵のひとつ」

 真名。
 その言葉が、胸の奥の古い扉に触れる感触がした。
 誰かに、呼ばれた記憶。
 ——カイ。
 それは、つねに自分自身の声で上書きされる“二重の響き”に紛れてしまう。

 校門の影は長い。
 そこに立つ人影は二つ——いや三つ。
 八代担任が腕を組み、その隣に、見慣れないバッジの男子生徒。
 銀の鎖を胸に斜めがけ、制服の襟は正確な角度で折られている。目は笑っているのに、どこか寸法を測っているような視線。

「生徒会戦術長、真壁シオン。——風紀の記録、拝見した」

 名乗りは簡潔、口調は穏やか。
 それでも、言葉の端々が“テスト”という語の形をしている。
 シオンはカイに薄く笑った。
「祭の本番で、君をテストする。もちろん、規定の範囲で。学園は“偶然の英雄”を本当に必要としているのかどうか——ね」

 リラが半歩、前に出る。
「風紀委員として同行する。監視と責任は私」
「それは心強い」
 シオンはひるまずに、足音さえ整ったまま踵を返す。
 八代は一言も発さず、カイの足運びを一瞥し、灰色の瞳にわずかな皺を寄せた。
 “観察”。
 その目は昨日と同じ、教育の名に紛れた古い訓練の目だ。

 彼らが去ったあとも、校門の影はしばらく揺れていた。
 カイはリラに頭を下げ、ミナトと別の方向へ歩く。
「工房、寄る? ベスト、冷却用のパッドを足せる」
「お願い。——それと、今日の記録、もう一回見直したい。耳鳴りの波形、何か拾えるかも」

 *

 ミナトの工房は、校外の古い商店街のはずれにある。
 シャッターは半分だけ開き、奥の作業台には古いラジオと半分解のPCと、金属の匂い。
 ドローンの充電器が規則的に点滅している。

「そこ、工具箱の下のケース、取って」
 ミナトに言われてしゃがみこんだカイは、埃を払って小さな木箱を引き出した。
 蓋を開けると、古い写真が数枚、乾いた紙の匂いをまとって重なっていた。
 そのうちの一枚——端が焦げ、色が褪せた写真に、見覚えのない二人の少年が写っている。
 片方は、外套を羽織った細身の少年。顔は横を向いて、目元が影に落ちている。
 もう片方は、その肩に手を置いている。
 ところが——その顔だけ、塗りつぶされていた。黒い筆で乱暴に。いや、意図的に“隠すために”。

「……何だ、これ」
「うちの倉庫、元は学校の備品置き場だったらしくてさ。引き継ぎ書類も何もなくて、時々こういう“遺物”が混じってる」
 ミナトは写真の裏面をそっとめくった。
 そこには、たった一言、インクが残っていた。

 ——「カイ」。

 指先が、少しだけ冷たくなる。
 自分の名前。
 見知らぬ外套の少年の背に、見覚えのない誰かの手。
 塗りつぶされた顔の黒が、写真の紙をじわりと貫いて滲んでいる。

 耳の奥で、声が二重に鳴った。
 ——守れ。今度こそ。
 ——カイ。

 頭痛がまた戻り、視界の端に金色の輪が一瞬だけ浮かぶ。
 六連式の封印。
 そのうち三つが外れ、残り三つ。
 そして、七つ目の“外部鍵”。

「……俺、やっぱり、“誰か”と契約してたんだろうか」
 誰に問うでもなく零した声が、金属棚の隙間で反響して、少しだけ低く戻ってくる。
 ミナトは黙って頷いた。
「答えは急がなくていい。けど、準備は急ごう。祭の本番は、テストの本番でもある」

 工房の天井の裸電球が、かすかに明滅した。
 外では、霧がまた一段、薄くなっている。
 見えない鍵穴が、学園のどこかでまた形を変えた。
 写真の黒い塗りつぶしは、夜の色よりも濃い。
 けれど、裏面の一文字だけは、確かに明るい。

 ——カイ。

 その文字は、封印の錠前よりも重く、しかし、手のひらに収まるほど小さな“合図”だった。
 合図は三つ。張る、受ける、外す。
 きっと、自分にも、誰かにも、まだ告げていない四つ目がある。
 呼ぶ、という合図が。
 呼ばれる、という合図が。

 耳鳴りはもう収まっていた。
 だが、静けさの底で、風だけが細く鳴り、次の呼吸の置き場所を指し示していた。


第5話 契約の再接続

 七曜文化祭・本番の日は、霧がやけに澄んでいた。
 朝の鐘が三度鳴り、校内放送が軽やかな効果音で“開始”を告げる。
 校舎は丸ごと競技会場に変貌する。各クラスは自分たちの“守るべき核”を一点に定め、相手クラスは侵入・無力化を狙う。勝敗は核の保持時間と被害抑制率、統率、来場者保護の四項目で決まる。

 A組の核は、理科棟二階・科学室の隅に据えられたミナトの〈試作炉〉。
 拳ほどの球体の中で、低温プラズマが穏やかに脈動する。
 “核”と呼ぶには頼りない光だが、ミナトは胸を張った。

「これはただの実験装置じゃない。〈線導(ライン)〉の基準点にもなる。俺らの“道”の灯りだ」

 役割分担は明確だ。
 リラが統括。レンジが遊撃。ミナトは炉のメンテ兼補助演算。
 そして——Fラン、篠崎カイは“神守”。核の最終防衛。

「合図は三つ。“張る”“受ける”“外す”。昨日と同じだ」
 リラが短く言い、手首の端末で校内マップを呼び出す。
 視界に薄い線が浮かぶ。列制の“道筋”。
 点在する教室、廊下、階段、非常口。そこを糸で縫うように“安全経路”が引かれていく。
「レンジ、北廊下の遅延役はあなた。正面衝突は避けること。——私の線から外れないで」
「了解。線が俺の雷より速けりゃな」

 レンジはニヤリと笑い、手袋を鳴らした。
 ミナトはカイのベストの留め具を調整しながら顔を覗き込む。
「熱変換は昨日より効率上げた。お前の影の膜と干渉しにくい波長で組んである。——“怖い”は置いとけ。怖さは考えの助走だ」
「……置いとく」
 小さく返して、カイは自分の掌を一瞥した。
 あの観測紙の円環は、目に見えないはずの線を、確かに“生き物”のように感じさせた。
 封印、六連式。
 いま、外れているのは——三つ。

 開始の合図と同時に、校舎が“戦場”の音に切り替わる。
 歓声、足音、実況の声、ロッカーの金属音。
 C組とD組の連合がすでに侵入経路を二本敷き、E組の遊軍が体育館側から回り込む。
 A組の前線はレンジが抑え、リラの列制が安全導線を保つ。
 カイは科学室のドア横に立ち、耳の奥で鳴る微かな金属音に意識を細めた。

 最初の二十分は、教科書通りだった。
 来場者の導線は乱れず、侵入側も規定の“当て止め”を守っている。
 ミナトは試作炉の出力を最適化しながら、端末で〈KiriLink〉のライブチャットを横目で眺めた。

「“A組の守り鉄壁”“神守はいるだけで守りになる説”……視聴者、甘いな」
「甘いなら甘いままでいい」カイが返す。「甘い方が、守りやすい」

 しかし、“甘さ”は、そこで破られた。

 廊下の向こう側で、一瞬だけ空気が窪んだ。
 規定外の温度差。
 リラの列制の線が、見えない指で撫でられたように歪む。
 カイの皮膚が、冷たい汗でざわりと逆立つ。

「リラ——」
「見えてる」
 リラは素早く指を走らせ、歪みを補正する。
 だが、次の瞬間、北廊下の角に“黒”が立った。
 顔をフードで覆い、身体の輪郭が霧に溶ける。
 校章はない。生徒会のバッジも、風紀の腕章もない。

「第三勢力……?」
 レンジの口元の笑みが、初めて消える。
 黒は動かない。動かないのに、周囲が暗くなる。
 学園の結界の内側に、外側の夜が一歩、踏み込んできたような違和感。
 壁の掲示物の端がひらりとめくれ、床の境界線が薄く曇る。

 ——破られている。

 リラの列制が、外部からの“闇”に触れてきしんだ。
 線は線であることを強いられ、均し棒で押された粘土のように滑りそうになる。

「レンジ、止め——」
 言い切るより早く、EMP(電磁パルス)の波が科学室側へ走った。
 空調が咳込み、蛍光灯が瞬きを繰り返す。
 ミナトの端末がブラックアウトを起こし、彼自身が「あ」と短く声を出して膝をつく。
 ベストの留め具が耳障りな音を立て、試作炉の出力ログが欠けた。

「ミナト!」
 カイが抱え起こす。
 ミナトは意識がある。だが、顔色が悪い。
「直流機器、全滅……バッテリーバイパス回路に切り替える。三十秒、いる……!」

 リラの線がさらに押される。
 廊下の闇の外縁から、見えない“鍵穴”がじわりと広がる。
 これまでの小規模事件で刻まれた“穴”が、今日ここで“鍵”を待っている。
 祭が開くたび、ひとつ、はずれる。
 あの極小文字が、頭の奥で冷たく光る。

 レンジは孤軍で“闇”と斜めに打ち合っていた。
 雷撃は光るが、届かない。
 距離が殺され、力が飲み込まれる。
 彼の足が半歩滑り、空気だけが焦げる。

 ——行くしかない。

 科学室のドアを閉め、カイは核のそばへ踏み込んだ。
 胸の奥で、鎖の冷たい感触がふっと軽くなる。
 音は、静かだった。
 だからこそ、くっきり聞こえた。

 ——カチャ。

 四つ目の錠が、外れた。

 封印解除:4/6。

 視界の“層”が、もう一段、深く開く。
 科学室の空間に、まるで古い塔の心臓部を重ねたような柱が現れた。
 現実の机や試験管の向こう、半透明の巨大な“契約の柱”。
 そこに、白い“それ”が縛られていた。

 狼——いや、“狼の形をした光”。
 毛並はなく、線と粒でできた“輪郭”。
 瞳も口もないのに、確かな視線がこちらを射抜く。

 声は、喉からは出ていなかった。
 音は、脳の深部から届いた。

 ——わたしの真名を忘れたのは、君自身の選択だ。

 白い狼は、口を開かずに告げる。
 声は白く、そして冷たい。
 叱責ではない。報せだ。

 ——君は最強だった。だから封印した。救うために。
 ——“最弱”であることを、君は選んだ。

 カイは狼へ手を伸ばした。
 指先は白い輪郭を通り抜け、空を掴むだけだった。
 代わりに、掌の皮膚が熱を帯び、細い痛みが走る。
 焼印ではない。刻印でもない。
 “印”が刻まれた。
 契約の再接続の、合図のように。

 現実の音が戻る。
 レンジの雷が閃き、ミナトの息が震える。
 リラの列制は辛うじて“道”の形を保っているが、闇の指が線をなぞって破ろうとしている。
 黒いフードの“第三勢力”は、一歩も動かず、なのに世界のほうが歪んで近づいて来る。

 ——どうやって。

 狼が柱に縛られている。
 柱は塔のそれと同じ構造。
 過去の断片で見た“書架の心柱”。
 燃え落ちる前に、誰かを抱えて走ったあの塔。

 塔は遠く、狼はここに。
 比喩ではなく、構造として——重ねられる。

 カイは振り返り、ミナトの〈試作炉〉を見た。
 掌ほどの白い光。
 あれは“灯り”だ。
 そして、“核”だ。
 柱と重ねるための、現世側の“座標”。

「ミナト。炉を“柱”に見立てられる?」
「……柱?」ミナトが瞬きをする。「何を見てるんだ、お前」
「“光の狼”の回路。ここにある。柱に繋げば、契約の回路が閉じる。ミナト、お前の装置で“擬似的に補完”できるか」

 ミナトの眼が一瞬、本気の色になった。
「できる。——やる」

 彼は震える指で端末の復旧を急ぎ、別電源へ切り替える。
 バッテリーバイパスが通り、試作炉の光がわずかに息を吹き返す。
 リラが列制で“道”を一段“狭く”した。
 安全のための道は時に、細いほうが強い。
 通路を一本に絞り、余分な枝を断ち切る。

「カイ、“張る”」
「受ける」

 カイは影を広げ、科学室の床に薄い“台座”を置く。
 その上に、リラの線を重ね、ミナトのビーコンを三点、三角に浮かべて固定する。
 現実の三点と、見えている“柱”の三点が、ぴたりと重なる位置を探る。

 掌の“印”が疼き、白い狼の輪郭が微かに瞬いた。
 契約回路に“現世の端子”が噛み合う。
 狼は吠えなかった。
 ただ、目のない顔でうなずいた気がした。

 闇が、身を乗り出してくる。
 黒いフードの影が一歩、空気の境界を越える。
 レンジの雷が壁を張り、リラの線が門を作る。
 そこへ、科学室の白い光が——一段、強くなった。

 “契約の柱”と“試作炉”の重ね合わせが完了した瞬間、白い円環が室内に広がる。
 音が吸われ、闇の端が白に触れて、じゅっと焼けるように退いた。
 壁の色が戻り、床の境界線が元の濃さを取り戻す。

 黒いフードが、はじめて動いた。
 首がわずかに傾き、次の瞬間、影そのものが“弾かれる”。
 外側へ。
 結界の外へ。
 校舎の壁に溶け、霧の向こうで形を失う。

 レンジの肩から力が抜け、彼は深く息を吐いた。
「……おいマジか。今の、俺の雷じゃないな」
「契約回路の閉鎖」とミナトが息も絶え絶えに笑う。「俺の装置、初めて“神話”に使われた」
 リラは列制を緩め、観客導線の整列を保ったまま、カイの横顔を見た。
 彼女は何も言わなかった。
 代わりに、ごく小さく頷いただけだった。
 その頷きが、言葉よりも多くを伝えた。

 結果として、前半戦の“勝敗”は意味を失った。
 放送は“機材トラブル”として一時中断され、審判団は協議の末「競技続行可能」と発表した。
 外部者の侵入については、公式には“無し”。
 〈KiriLink〉のトレンドからも、該当する単語は綺麗に消えていた。

 ——隠蔽。
 けれど、現場にいた者の骨は知っている。
 今日、学園全体が一歩、外の闇に触れたことを。

 撤収後の理科棟で、真壁シオンがひょっこりと姿を見せた。
 生徒会戦術長。銀の鎖。寸分違わない襟。
 彼は微笑で礼をした。

「個人的に、ありがとう。これは“街を守る一手”だった」
「俺は、核を守っただけだ」
「核は街だ。気づいていようが、いまいが」

 シオンは耳打ちするほどの近さで、声を落とした。
「君の契約獣——白い狼だろう。真名(まな)のヒントなら、提供できる」
 リラの目がぴたりと動く。
「彼は風紀の管轄下で動くわ。情報提供は歓迎するけれど、テストは“規定内”で」
「もちろん」
 シオンは柔らかく笑い、掌をひらひらと振って去った。
 その背中を見送りながら、カイは自分の掌の“印”をそっと押した。
 焼けてはいない。ただ、鼓動と同じテンポで淡く脈打っている。

「真名のヒント、って」
 ミナトが道具箱を抱え直しながら、半分冗談で言う。
「“ワンコ”とか“シロ”とかじゃないよな」
「安直すぎる」
 リラが小さく笑って、すぐ真顔に戻る。
「真名は、名前ではないこともある。“呼びかた”が名になることがある。——呼ぶ準備をして」

 夕方の光が廊下を浅くなでて、擦りガラスに白い狼の“面影”を一瞬描いた。
 カイは立ち止まり、鼻の奥に冷たい空気を溜め込む。
 耳鳴りは、しない。
 かわりに、遠くのどこかでページが捲れる音がした。
 図書塔の、あの音。

 夜。
 職員室の灯りは、昼間より低い位置で薄く燃えている。
 八代は誰もいない机に腰をかけ、古い紙束を静かに開いた。
 上端に墨のしみ。余白に年代不明の朱印。
 タイトルは、かすれて読めない。

 彼は一枚ずつ、指腹で紙の繊維を確かめるようにめくった。
 六連式封印の図。
 その右下に小さく、読めないほど小さく、注釈。
 眼鏡をずらし、古語の辞書を横に置く。
 鉛筆の芯がうすく紙を鳴らし、やがて、彼は短く息を呑んだ。

「——施術者不明、ではない」

 彼の声は、笑っている。
 なのに、温度がない。

「施したのは——」

 紙の端が、空調の風にぱらりと揺れる。
 廊下で、誰かの靴音が止まった気がした。
 八代は視線を上げない。
 ただ、薄く笑みを保ったまま、指先で次のページへと進む。

 その頃、理科棟の暗がりでは、ミナトの〈試作炉〉がわずかに脈打ち続けていた。
 白い光は、狼の息のようにゆっくりと膨らみ、縮む。
 契約の柱は見えない。
 けれど、掌の印は、眠りの底でも確かに、カイの呼吸に合わせて点滅を繰り返していた。

 ——封印解除:4/6。
 そして、誰も知らない“七つ目”は、まだどこかで鍵穴を探している。
 呼ばれるのを。
 呼ぶのを。
 ただ、その順序を——間違えないように。

第6話 誰が封印したか

 文化祭の余熱はとっくに冷めているのに、学園はいつもより騒がしかった。
 壊れた器具の回収、備品の返却、会計処理、アンケートの集計。〈KiriLink〉には「最高だった!」「最後の白い光、演出?」と能天気な感想が並ぶ一方、裏掲示板には小さな不安が澱のように沈んでいる——“結界の薄さ”“見えない足音”“鍵穴の形をした影”。

 そんな喧噪から切り離されたみたいに、保健室は静かだった。
 白いカーテン、ローズマリー、光の粒。
 天城先生が机に広げた古い紙束は、空気ごと時代を巻き戻す。羊皮紙色の厚紙、角に欠け、余白に朱印。紙の中央には、整った行書で二つの枠がある——術者の署名欄と、受術者の“真名”欄。

「——誓紙(せいし)。封印契約の原本」

 天城の指が、署名欄の“空白”をなぞる。
「術者の名前は、書かれていない。空白のまま。けれど——」

 別の指が、真名欄の黒い塗りつぶしに触れた。
 黒はインクであり、煤であり、爪の痕のようでもあった。紙の裏まで少し滲んで、筆圧の凹凸が残っている。

「この塗りつぶし、あなたの筆圧」
 天城はできるだけ冷静に言ったけれど、指先は微かに震えていた。
「——封印したのは、あなた自身」

 轟音が、耳の奥で膨らんだ。
 保健室の静けさごと、内側から砕ける。
 塔の崩落。灰の匂い。
 白い外套の袖口。
 自分の手で“狼の首輪”を締め、真名を書き捨てる瞬間だけが、やけに鮮明だ。
 喉の奥に鉄の味が戻る。指が震える。視界の端で金色の輪が回り、現実の輪郭が紙の角のように尖る。

 扉が二度、静かに叩かれた。
 八代が入ってきた。いつもの無表情が、ほんの少しだけ崩れている。
「ようやく半分まで来たか」

 彼は誓紙に目を落とし、短く息をついた。
「君が“最強”だったことは事実だ。だが——最強であるほど、世界を壊す」

 淡々とした口調の背後に、砂利のような重さがある。
 八代は机の端に腰かけ、腕を組んだ。
「私は神祇庁の出向者だ。……肩書きは“封印の監督者”。君の封印に関する監視と、再発時の収束。それが私の職務だ」

「先生が……監督者」

「同時に、私は“見届ける役目”も持たされている。君が再び守れるようになることを。矛盾しているだろう?」
 八代は自嘲気味に笑った。
「封じる者と、育てる者。両立させるには、ずいぶんと古い呼吸が必要でね」

 天城が言葉を継ぐ。
「八代先生は、最初から“敵”じゃない。——ただ、制動の手綱を握ってるだけ」

 “手綱”という言葉に、胸の奥で何かがざらりと擦れた。
 狼。首輪。柱。誓紙。
 全部が一本の線に繋がりそうで、最後の一点だけが掴めない。

 その時、保健室のドアが勢いよく開いた。
「大変だ!」

 ミナトだった。額に汗、肩で息。ゴーグルがずり落ち、工具袋が音を立てる。
「校舎裏のグラウンド、地面に……でっかい“鍵穴”が開いてる! 測地の波形がバグってる。破鍵団(ブレーカー)が集まってて、生徒の暴走を煽って“基幹鍵”を外そうとしてる!」

 八代の目が鋭くなった。
「風紀は?」
「リラが押さえてたけど、持久戦で倒れた。真壁シオンも、別ルートの陽動で遅らされてる」
 ミナトはカイを見た。
 言葉はいらない、という顔だった。

 カイは誓紙を一度だけ見た。塗りつぶしの黒。空白の署名。
 掌の印が脈打つ。
 怖い。
 ——でも、行かなきゃ。

「行く」
 カイが立ち上がると、八代は一歩だけ進み出て、肩に手を置いた。
「私の役目は、君を止めることと、君を見届けることだ。今日は——見届ける」

 短い言葉が、背骨に火を灯した。
 三人は駆け出す。廊下を、階段を、空気の斜面を滑るように。

 *

 グラウンドは、空の一部をくりぬいたみたいに“暗かった”。
 校舎裏の芝の中央、直径二十メートルはあるだろうか、地面に“鍵穴”の形をした影が開いている。
 影は凹みではない。実際には“薄い”。
 しかし、見ているだけで足が吸い込まれそうになる“向き”を持っている。
 これまで校内に散らばって刻まれた小さな穴が、今日ここでつながり、一つの“鍵穴”に合流したのだ。

 黒いフードの“破鍵団”が、周縁で小さな火花を散らしている。
 彼らは暴走の手法を知っている。
 感情の端を掻き、観測紙をノイズで満たし、列制の線を指で乱して笑う。
 その中心に、ひとりの少年がいた。
 見覚えのある顔。下級生。眼鏡が斜めにずれて、呼吸が荒い。
 彼の周りだけ、風が破れ、音が歪む。
 暴走の渦。
 鍵穴はそこに“鍵”が来るのを待っている。

 リラはもう倒れていた。
 芝生の端で、風紀の腕章が泥にまみれている。
 真壁シオンの姿はない。
 レンジが単独で周縁を削り、雷の壁で観客を下げているが、数が悪い。

「合図、なし。……直で行く」
 ミナトがドローンを飛ばそうとして手を止めた。
 EMPのうねりが渦の中を往復している——機器は死ぬ。

 カイの中で、何かが小さく軋んだ。
 視界の周りが緩慢になっていく。
 世界の線が、一本の束に集まる。
 足音が遅く聞こえ、瞬きが長い。
 時間が、一瞬だけ、遅くなる。

 ——カチャ。

 五つ目の鎖が、静かに外れた。

 封印解除:5/6。

 鍵穴の輪郭に、過去の塔の柱が重なる。
 契約の柱。
 狼はいない——いや、見える。白い線の集合が、渦の中心でふわりと揺れ、こちらを見ている。
 口はないのに、声は鮮明だ。

 ——怖さは合図だ。行け。

 掌の印が熱を帯びる。
 カイは息を吸い、渦の中に歩を進めた。
 空気の粘性が変わり、足が何か柔らかいゼラチンに沈む感覚。
 少年の瞳がこちらを掠め、すぐまた虚空へ泳いでいく。
 怖い。
 怖い、という言葉が、胸の奥の扉を叩く。
 最強だった自分。
 最強を嫌った自分。
 狼の首輪を自分で締め、真名を書き捨てた自分。
 思い出したくない。思い出したら——また、壊すかもしれない。

 指先が震える。
 それでも、手を伸ばした。
 少年の手首を、そっと掴む。
 熱い。軽い。
 その瞬間、口が勝手に言葉を整えた。
 ——かつて、誰かに言った言葉と同じリズムで。

「大丈夫。俺は君を守るために、最強をやめた」

 言った瞬間、暴走の渦が、ひと呼吸ぶんだけ“躊躇”した。
 少年の肩から力が抜け、鍵穴の縁に立つ影が薄くなる。
 狼の白い線が、穏やかに波打った。
 鍵穴の黒は、湿った紙のインクのようにじわりと後退し、芝生の緑が少しずつ戻る。
 破鍵団のフードがいっせいにこちらを見る。
 次の瞬間、彼らは一歩、引いた。
 撤退の気配は、誰よりも早い。
 彼らは勝利よりも“開口”を好む。鍵穴が開かなければ、其処にいる意味はない。

 レンジが壁を解き、真上へ雷を放って合図に変える。
 観客のざわめきが戻り、教師たちの駆け足が遅れて到着する。
 ミナトが泥の上を滑りながらカイと少年に駆け寄る。
 リラは腕をついて起き上がり、まばたきを二度して、それから笑った。
 涙目で、しかし整った笑い方だ。
「……今の台詞、ずるい」

 カイは照れ笑いで返すしかない。
 自分が一番ずるい。
 怖さを隠すのに、守るという言葉を使った。
 けれど、狼の声はそれでも肯定していた。
 ——合図だ、と。

 八代が現場に到着した時、鍵穴はもう“影”に戻っていた。
 ただ、そこにあったものの輪郭だけが、地面の勾配をわずかに変えて、違和感の縁取りを残している。
 教師たちは“トラブル収束”のテンプレートに沿って淡々と処理を進め、〈KiriLink〉から関連のタグが静かに消えていく。
 真壁シオンは、遅れて到着し、被害ゼロの報告を受けて薄く笑った。
「間に合わなかった。“偶然の英雄”は、やはり偶然じゃないのかもしれないね」

 リラが立ち上がって制服の砂を払った。
「彼は風紀の管轄で動く」
「分かっている」
 シオンは短く会釈し、動線の滞りを解くようにその場を離れた。

 “勝敗”はない。
 ただ、“外”が一歩、引いた。
 それだけが現実だ。

 *

 夕方、医務室で少年の脈が落ち着くのを見届けると、カイは廊下に出た。
 窓から差す淡い光が、床のタイルに薄い格子を置いている。
 掌の印は、まだ温かい。
 誓紙の黒。空白の署名。
 “封じたのは、自分”。
 その事実は、思っていたよりも静かに胸に沈んでいた。
 狼の声がささやく。

 ——最後の鍵は“真名”。
 ——呼ぶこと。呼ばれること。順序を間違えるな。

 足音。
 八代が隣に立ち、空を見上げた。
「期末演武大会。——あれが“最終条件”になる」
 彼の声は、未来のカレンダーを静かに示す。
「規定の下で最大の“解放”が許される舞台だ。君がそこで何を選ぶか、それを監督し、見届けるのが私の役目だ」

「……怖いです」
「怖さは合図だと、誰かが言っていたろう」
 八代は珍しく、口元だけで笑った。

 *

 夜。
 部屋に戻ったカイは、机の引き出しを開けて、息を止めた。
 差出人不明の封筒が入っていた。
 白ではない。灰色、煤の色。
 封は蝋ではなく、黒い糸。
 糸を解くと、中から一片の黒い羽根がすべり出た。
 軽いのに、冷たい。
 指に乗せると、見えない風でかすかに震える。
 羽根の下に、小さな紙片があった。
 手書き。癖のない字で、たった一行。

 ——壊したのは、君じゃない。君を“封じた”のは、君だけど。

 目の奥の奥が熱くなった。
 喉が詰まる。
 塔の崩落、図書の灰、白い外套、狼の首輪、誓紙の黒。
 すべてが並び直され、最後のピースの形だけが、はっきりした輪郭で空いたままそこにある。

 誰が壊した?
 誰を守るために?
 誰と契約して?
 真名は、どこに?

 窓の向こうで、霧が薄く呼吸している。
 掌の印が、心臓と同じリズムで点滅した。
 封筒の匂いは、煤とも、紙とも、風とも違う。
 ただ、懐かしい。
 “呼ばれ方”の匂いがした。

 ベッドの端に腰を下ろす。
 狼の声は、今夜はしない。
 かわりに、遠い誰かの笑い声が、塔の上から、ほんの短く降ってきた気がした。
 最強をやめた夜の、自分の笑い声に似ていた。

 ——封印解除:5/6。
 期末演武まで、あと少し。
 鍵は七つ、穴は六。
 外部の鍵は、いまもどこかで微かな金属音を立て、呼ばれる順番を待っている。
 そして、真名は——呼ぶ者と呼ばれる者のあいだで、明日の発音を静かに選んでいる。

第7話 真名の欠片

 七曜文化祭の喧騒が去った学園は、逆に音がよく響く。
 黒板消しのかさついた往復、廊下を行く生徒の靴のすれる音、誰かの笑い声。
 ——世界は穏やかだ。けれど、耳の奥の“反響”は止まない。

 ——守れ。守れ。今度こそ。

 そのリフレインは、授業の板書の余白にも、空席の椅子の影にも、うっすらと滲んでいた。
 封印は五つ目まで外れている。残るは、最後の一点だけ。
 そこだけが、氷のように冷たい。

 放課後、風紀委員室。
 白石リラは、標本箱みたいに整理された資料束を机に置くと、カイの正面で椅子を引いた。
「“真名”は、本来、本人と契約獣だけが知る。でも——手掛かりはある。あなたが前に使っていた“符号名”。どこかにログが残ってるはず」

「符号名?」
「真名そのものじゃない。“外”に記録を出す時に使う“影”の名前。危険を避けるための仮の呼び名」

 ノックもなく、真壁シオンが顔を出した。
 襟を指で整え、無駄のない動作で端末を机上ポートに繋ぐ。
「生徒会戦術局より、結界のアクセスログを提出。——学園の結界に“白狼(ホワイト・ウルフ)”の痕跡がある。七曜文化祭当日の21:27、科学室周辺。君が“柱”を重ねたタイミングだ」

 スクリーンに粒子状の記録が再生され、白い尾のような軌跡が瞬いて走る。
 シオンが細い笑いをのせる。
「白狼の正式呼称は“RA-D1-OS”。ラディウス、と読める。RA(守護)、D(距離)、OS(円環)。“半径”。——君の力は距離管理と予測線の制御。相性が良すぎる」

 胸が跳ねた瞬間、内側の鎖がきし、と小さく軋んだ。
 五つ目まで外れている感覚の奥、最後の一点だけが硬質に冷たい。
 天城先生が、カップのハーブティーを置きながら静かに口をはさむ。

「真名は“外から”当てるものじゃない。けれど“呼ばれ方”は、思い出の入口になる」

 リラが紙袋を机に置いた。
「購買の奥の棚で見つけた古い校章ピン。裏に刻印。“守半径(モルディウス)”。読み違いかもしれないけど、ラディウスに近い」

 ピンは指先に冷たく、裏の刻印は指腹に小さく引っかかった。
 守半径——守る、半径。
 言葉の輪郭が、胸の印に触れて灯る。

 シオンは腕を組み、端末の画面を切り替えた。
「期末演武の選抜が明日発表される。そこで私は“白狼系の術式対策”を全校に共有するつもりだ。カイ、協力してほしい。広く“守る”ために」

 逃げないと決めてから、足は後ろを向かなくなった。
 カイはうなずく。
「俺はもう“最弱”のままにはいられない」

 リラの目が、ほのかに緩む。
「じゃあ今夜、簡単な検証をしましょう。半径、届く範囲の確かめ方」

 *

 ミナトの工房。
 天井の裸電球が低く唸り、ドローンの充電器が一定の間隔で点滅する。
 試作炉は白く脈動し、薄い呼吸をするみたいに光を膨らませては縮める。

「“半径”って概念は、目に見えないからな」
 ミナトが言い、机に小さなキャンドルを六つ並べた。
「これ、火じゃなくて“熱感知”。俺の自作。炎の代わりに熱の粒が立つ。消し飛ばしたら負け。——カイ、お前の“守半径”がどこまで届くか、目で見よう」

 リラは〈線導(ライン・ビーコン)〉を三基浮かべ、列制で薄い円環の線を描く。
 天城は非常用の消火スプレーを脇で構え、シオンは無言でストップウォッチを掲げた。
 練習なのに、どこか儀式めいている。

「合図は——張る、受ける、外す」
 リラの声が落ち、ビーコンが三角に瞬く。
 カイは影を床へ薄く溶かし、胸の印へ指先をあてた。
 耳の奥の反響が、ふっと遠のく。

 ——守れ。今度こそ。

 影の縁を丸くし、空気に“向き”を与える。
 ミナトがスイッチを入れると、工房の端で小さな扇風機が不規則に回り、紙吹雪のような軽い破片がふわりと舞い始めた。
 破片は“熱の粒”の上に向かって落ちて来る。
 カイは影に柔らかさを足し、目に見えない“ひさし”をキャンドルの上に並べた。

「半径、上げられるか?」
 ミナトの声に、カイは頷く代わりに息を深く吸った。
 胸の印が軽く脈を打つ。
 影の縁が、指先の意志に合わせて少しずつ広がる。
 紙片はひさしの端でふわりと方向を変え、床へ落ちた。
 ——届く。
 六つすべての“火”が、残る。

 ストップウォッチが鳴る。
 シオンがわずかに目を細めた。
「今の円環、半径は——理科準備室から体育館通路の一部まで。規格外だ」

 リラが無表情の奥で、言葉にならない満足を一瞬だけ浮かべた。
「充分。演武大会の“救助フェーズ”なら、これで勝てる」

 勝つ——その単語が胸に落ちた瞬間、耳の奥の反響がまた戻る。
 守れ。
 守れ。
 今度こそ。
 鎖はもう一枚しかないのに、最後の一枚が、やけに重たい音を持っている。

「——もし俺の真名が“守ること”そのものだったら」
 カイは、試作炉を点検するミナトの横顔に、ふと声を落とした。
「俺はまた、最強をやめられるのかな」

 ミナトはネジを回す手を止め、ニヤリと笑う。
「やめるやめないは後だ。まずは“届く範囲”を広げる。ほら、半径ってやつ」
 リラが頷く。
「守るために、強さをやめたのなら。——守るために、強さを一度“借りる”のも、許される」

 天城がハーブの香りを立て、カイの肩に軽く手を置いた。
「真名は“外側の言葉”じゃない。君が君にかけた“約束”の呼び名。思い出す前に、選び直すこともできる」

 窓の外で、薄雲に月が滲む。
 耳の反響が、一瞬、静まった。

 *

 翌朝。
 選抜発表の掲示板の前に、人が層をなして集まっている。
 ざわめき。ため息。歓声。
 紙の中央に、黒々とした文字が並んでいた。

 ——篠崎カイ。鷹羽レンジ。白石リラ。真壁シオン。

 自分の名のインクは、他の誰のものとも同じ濃さなのに、なぜか濃く見えた。
 視界の端が明るくなり、胸の印が一拍、強く脈打つ。
 隣でレンジが口角を片方だけ上げる。
「やっと肩並べたな、最弱」
「そこは卒業したい」
 リラが息をつく。
「最弱って、最初に言ったのあなたでしょう」

 その時、掲示板のガラスに、墨を含ませた筆の一閃のような影が走った。
 破鍵団の符丁。
 人の目にはただの光の反射にしか見えない速さで、けれど“知っている目”には、確かに読める線。

 ——Rを、外す。

 シオンの目が細く笑う。
「“半径”からRを外せば——ただの“半”と“径”。中心の定義を奪い、径を乱す。破鍵団らしい挑発だ」

 挑発は、警告でもある。
 中心をずらせば、守るべき範囲はたちまちぼやけ、一番弱いところに風穴が開く。
 カイは、ガラスに映る自分の顔と目を合わせた。
 昨日見た校章ピンの小さな刻印が、耳の奥で金属音に変わって鳴る。
 守半径。
 半径は、中心があって成立する。
 その中心に、誰を置くのか。

 リラが囁く。
「“呼ばれ方”を、決めよう」
 天城の声が、背後の廊下から届く。
「真名は、呼ぶ側と呼ばれる側の“合図”。順序を間違えないで」

 カイは、うなずいた。
 耳の反響は、確かにまだ残っている。
 ——守れ。守れ。今度こそ。
 けれど、その奥で、別の小さな響きが混じり始めていた。

 ——呼べ。お前の言葉で。

 選抜の名簿の下で、紙の端がわずかに浮き、風がそこを通り過ぎる。
 Rは外されない。
 中心は、勝手に奪われない。
 自分で置く。
 自分で決める。
 半径を、広げるために。

 昼休み、理科準備室の窓からさし込む日差しは、粉塵の粒に光の円環を描いた。
 ミナトが新しいビーコンの試作を見せ、レンジは無言で電荷の角を丸め、リラは廊下の導線を一本だけ修正する。
 どれも、小さな動き。
 けれど、それらが繋がると、見えない“守半径”が、確かに一段広がった気がした。

 放課後。
 風紀委員室の扉を出ると、掲示板のガラスに、もう一度、影が走る。
 破鍵団の符丁の下に、別の誰かの字。

 ——“半径”は、広げろって言ってる。

 黒は、すぐに消えた。
 けれど、言葉だけが、しばらくガラスの内側に残像を刻んでいた。
 夜風が吹き、校門の旗がひとつだけ、円を描くみたいに回った。
 掌の印が、静かに、しかし確かに、次の拍へと歩調を合わせる。

 残るは、最後の一枚の錠。
 真名は、欠片を集めれば勝手に名乗ってくれるものではない。
 呼ぶのは、自分だ。
 呼ばれるのも、自分だ。
 その順番だけは、間違えない。

 そして——期末演武の舞台が、静かに近づいてくる。
 “半径”は、広がるために在る。
 中心は、守るために在る。
 呼び名は、選ぶために在る。

 霧ヶ丘の丘の上で、風は薄く鳴り、鍵穴の縁を一度だけ撫でて消えた。

第8話 列制と雷、共同戦線

 期末演武の朝は、霧がよく晴れていた。
 校庭の掲揚台で旗がひとつ鳴り、空気の表面だけが薄く震える。
 教室のざわめきは浮足立っていて、〈KiriLink〉の“実況席”はすでに賑やかだ。だが、耳の奥の反響は静まらない。

 ——守れ。守れ。今度こそ。

 封印は五つ目まで外れている。最後の一枚は、まだ冷たく沈黙している。
 朝のホームルームで八代が淡々と連絡を終え、「楽しめ」とだけ短く言った。
 楽しめ、は命令ではないのに、命令より背骨に効く。
 リラは資料ファイルを閉じ、レンジは手袋を鳴らし、真壁シオンは襟元を指で整える。
 各々の呼吸が、同じ一点へ収束していく——三部構成の舞台へ。

 一次試験は“守備編成テスト”。
 即時判断で最適の布陣を組めるか、を見る。
 扉の向こうは暗い。入ると同時に視界が開け、壁一面に街区の俯瞰が投影された。ビル、橋梁、交差点、学校、駅前広場。
 床には細い格子のマーカー。天井にはセンサーの群れ。
 模擬市街は静かにこちらを見ている。

「配置、宣言開始」
 シオンの声が落ちる。その声音はアナウンスにも命令にも聞こえないのに、全体を自然に束ねる。

「統括、白石。前線動線、私が引く」
 リラが両手を広げ、列制の線を走らせる。
 補助線は幾何学の教科書みたいに正確で、だが冷たくない。安全と効率が同時に乗っている。

「遮蔽、鷹羽。雷で窓面を“鈍く”する。敵の視線と飛翔を潰す」
 レンジの掌から生まれた稲妻は尖りを捨て、薄い板状になって窓の縁をなぞる。
 光は柔らかく、しかし触れれば火傷する硬さを秘める。

「トリガー管理、真壁。フェールセーフは三段。最終中断権は僕が持つ」
 シオンの指が端末を泳ぎ、表示の隅に“緊急停止”が三つ、違う色で灯る。

「民間人誘導、篠崎。——未来線、お願い」
 リラがこちらを見る。
「了解」
 カイは深く息を吸い、投影都市の“倒壊予測”にアクセスする。
 視界に細い線が立ち上がり、橋梁の共振点、ビルの外壁の浮き、看板の支柱の疲労が淡く色付く。
 同時に、一般人役のドローンが十数機、街路で青い光を瞬かせ、ランダム歩行を開始した。

「合図は——張る、受ける、外す」
 リラが短く確認し、一次試験、開始。

 開始三十秒は教科書通りだった。
 リラの線に沿って避難路が組まれ、レンジの雷がバルコニー柵の“刃”を丸め、カイは“押す風”でドローンをナナメに流して横断歩道を安全に渡らせる。
 シオンのトリガーが危険閾値を先読みで切り替え、リラの線が即座に“更新”を反映する。

 ——三十秒、を過ぎた瞬間、空気が歪んだ。

 予定にないログが端末の右下に滲み、数字の粒が荒れ始める。
 レンジが舌打ちした。
「外から干渉してきてる。破鍵団か?」
 シオンの眼光が鋭くなる。
「この室は物理遮断下にある。なのにデータが乱れる。——内部協力者?」

 解析を言い終える前に、画面上の橋梁モデルが不自然に揺れた。
 列制の線が波打ち、橋上の民間人ドローンが中央に取り残される。
 リラの指が追いつかない。線が“触られている”。
 橋の固有振動に、誰かが偽の位相を注入している。

「カイ!」
 リラの声と、耳の反響が重なる。
 ——守れ。今度こそ。
 足元の影が薄く伸び、橋の“共振線”の一点に触れた。
 胸の印が熱を帯びる。封印は五のまま——けれど、使い方を、身体が知っている。

「封印解除:5/6——同期加速」

 世界がわずかに“粘る”。
 時間が伸びたわけではない。周囲の動きが“遅れて見える”。
 その“余白”に、カイは列制の線を指先でなぞり、レンジの雷の遮蔽をその上へ薄く重ねる。
 ドローンへ吹く風の角度を一度だけ変え、橋の中央——ではなく、斜め下の支柱基部へ“落とす”。
 怪我はするが、死なない角度。
 その一点を、選ぶ。

 ブザー。
 一次試験クリアのランプが緑に跳ねる。
 橋梁は健在、民間人役の損耗ゼロ。
 シオンが息を吐き、リラは胸の前で指を一瞬だけ重ねた。
 レンジが肩を叩く。
「お前、やっぱ反則だわ。いや、好きだけど」
「反則じゃない。ルールの中で、一番外側を走っただけ」
 自分で言いながら、胸の印が小さく脈を打った。
 “好きだけど”と笑う雷。
 “共同戦線、悪くない”というリラの微笑。
 シオンの“フェールセーフを減らさない”という無言の頷き。
 四角い室内に、薄い温度が戻る。

 休憩十分。
 廊下に出ると、観客席シミュレータの後方ブロックが静かに開閉していた。
 八代がそこに立っていた。
「内部協力者の線は?」
 シオンが短く答える。
「少なくとも“教師ID”が一つ混じっていた。ログは残る。——あとで、監督局へ提出する」
 八代は頷くだけで、何も言わない。
 “監督者”の顔と“見届ける者”の顔が、短く一つに重なり、また分かれる。

 二次試験は“異能相性ミックス”。
 相反する能力を混ぜて協働できるか。
 くじ引きの結果——カイはレンジと“逆位相コンビ”を組むことになった。
 雷と影。暴と守。
 シミュレーションの敵役は、変則の“音波散弾”。
 不可視の弾丸が風圧と共振で膨らみ、ぶつかれば“破裂音”として観客席(の想定)に被害が走る。

 レンジが低く笑う。
「俺の雷で位相を乱せるが、弾が爆ぜりゃ終わりだ。派手に散るぞ」
「なら、まとめて“受ける”」
 カイは言った。
「受けるって、お前——」
 レンジが目を丸くする。

 カイは床に影の“受け皿”を作る。
 フロア全体に薄い膜として広げず、腰の高さに“二段目”の皿を浮かせる。
 レンジの雷をその皿で一度“反転”させ、音波散弾の位相に重ねる。
 理屈は単純だ。
 “動いている空気の形”を、影の膜で指定する。
 指定した形へ雷の波面を合わせ、音波の“山”に雷の“谷”を、音波の“谷”に雷の“山”を滑らせる。
 打ち消し合う“静かな泡”を作る。

「行くぞ、雷」
「おう、影」

 二人の合図は、短いのに無駄がない。
 レンジの掌から発した雷は、影の皿で一度方向を変え、音もなく“泡”になって散弾の群れに潜った。
 静寂。
 見えない弾丸は泡に吸い込まれ、泡は泡のまま消える。
 観客席は無傷。
 拍手の音が、遅れてやって来た。

 リラが観客導線の線を引き直し、避難の教示パネルが“正解例”の位置に自動的に収まる。
 シオンはストップウォッチを止め、記録を保存した。
「——二次、満点。コンビの相性、合格」

 控室に戻ると、シオンが端末を差し出してきた。
「内部協力者の件、仮説がある。——教師IDでの不正ログインだ」
 呼吸が一拍、硬くなる。
 天城先生? 八代? 脳裏をよぎった名を、シオンが首を振って否定する。
「医務は違う。あの人は命の側。……疑うなら、監督側の誰か。今日の一次、橋梁の位相に触れた“手”は、訓練済みの手だ」

 疑うことは、嫌いだ。
 だが、守るためには、ときに疑いも必要になる。
 拳を握る。掌の印が、そこにあることを忘れないように。

 その時、廊下の端で黒い羽根がひらりと落ちた。
 誰も気づかない。
 カイが拾い上げると、指先が一瞬だけ“痺れた”。
 羽根の裏に、細い字。

 ——期末の決勝戦、会いにいく。
 ——壊れた神話より。

 喉の奥で、鈴のような音が鳴った。
 写真の黒塗り、誓紙の黒、フードの黒、羽根の黒。
 黒は、いつも“隠す”ための色だった。
 けれど、それは時に“合図”でもある。

 リラが羽根を見て、すぐに視線を外した。
「三次は“対外危機対応シミュレータ”。街の結界ダウンを想定。模擬市街で一般人役を守り抜く。——ここからが本番」
 レンジが拳を鳴らす。
「もう本番ずっとやってる気分だがな」
 シオンは淡々と付け加えた。
「三次では“外部からのノイズ”が正式に入る。破鍵団の模倣信号や、結界の揺らぎ。一次の混乱が予告編なら、今度は本編になる」

 カイは羽根をポケットにしまい、深く息を吸う。
 耳の反響が、少しだけ音程を変える。
 ——守れ。今度こそ。
 ——呼べ。お前の言葉で。

 扉の向こう、三次試験の室内は、夜の街を模した光で満ちている。
 信号機がまばたきし、ビルの窓に人影の映像が揺れ、遠くで救急車のサイレンが淡く鳴る。
 リラが列制で通路を一本、すっと描いた。
 レンジが雷で視界の鋭利を丸め、シオンが緊急停止を一段階、遠ざける。
 カイは影の“受け皿”を浮かべ、胸の印に指を触れた。

 ——半径は、広げろって言ってる。

 誰の言葉でもない、掲示板のガラスに残ったあの残像が、ここで意味を持つ。
 中心を奪われる前に、自分で置く。
 呼び名は、外から当てられる前に、自分で選ぶ。

「配置、宣言」
 シオンの声に、三人がうなずく。
 合図は、張る、受ける、外す。
 一次も、二次も、三次も。
 きっと、この先も。
 たった三語で、世界を繋ぎ直す。

 開幕のブザーが鳴り、夜の模擬市街がこちらを飲み込む。
 結界の境界が揺らぎ、最初の“悲鳴”が脚色なしに走る。
 羽根の黒はポケットで静かに冷え、掌の印は胸の拍動に足並みを揃える。
 雷が薄く笑い、列制が道を描き、影が風を置く。
 共同戦線は、もう始まっている。

 ——封印解除:5/6。
 最後の一枚へ、半径は、静かに、確実に、近づいていく。
 “壊れた神話”の差し出す決勝戦が、こちらに来るよりも早く、こちらから歩み寄るために。
 守るために。
 呼ぶために。
 選ぶために。

第9話 ラディウス、呼応

 夜の屋上は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
 風は冷たく、街の灯は遠い。校舎の輪郭が黒い紙の切り絵みたいに空へ貼りつき、フェンスの影が床のタイルの上に細い格子を落としている。
 カイは一人、掌の印を見つめていた。触れれば少し温かく、離せば鼓動と同じリズムで淡く脈を打つ。耳の奥の反響は、今日もまだ消えない。

 ——守れ。守れ。今度こそ。

 扉が小さく開いて、湯気の匂いが風に混ざった。
 白石リラがマグカップを二つ持って現れる。湯気の先に、控えめな甘さ。ミルク多めの紅茶。
「眠れない?」
「ちょっとだけ」
 マグを受け取ると、指先が温度でほどける。
「……羽根のこと、聞く?」
 問いかけるより早く、リラは黙って頷いた。聞く体勢。冷やさず、煮詰めず、ただ置く。
 カイはポケットから細い封を取り出し、黒い羽根の質感を思い出しながら断片を並べた。差出人不明。裏の文字。「壊れた神話より」。そして、決勝戦で会いに来るという宣言。
 言い終えたとき、リラは短く息を吸って、「怖いね」とだけ言った。

「でも——」
 夜の風に混ぜて、リラは言葉を置く。
「あなたの半径の中にいる限り、私は怖くない」

 胸の奥で、最後の鎖がかすかに震えた。
 最弱と呼ばれた最初の日から、ずっと遠くに見えていた“中心”が、一歩だけ近づく感覚。
 カイはマグの縁に唇をあて、軽く笑う。
「責任、重いな」
「風紀委員の条件よ。——“合図”を忘れないこと」
「張る、受ける、外す」
「それと、呼ぶ。応える」
 リラはフェンスの向こう、街の淡い光をしばらく見つめ、視線を戻して小さく頷いた。

 その背後で、空気がうっすらと明るむ。
 白い光が、何かの形を選ぶ前の粒子みたいに集まり、やがて四肢の輪郭をとった。
 狼——しかし毛並みはなく、線と粒と輪郭でできた“白”。
 その目には月光が宿り、声は音ではなく意味で降りてくる。

 ——やあ、契約者。

 リラは驚かなかった。驚かなかった、というより、構えなかった。
 風紀委員の身体が一瞬で“守る姿勢”に入り、そのまま固くなりすぎない地点に留まる。
「見えてるの?」とカイが問うと、リラは頷いた。
「“呼応”が起きてる。あなたの半径の内側だから、私にも少し」

 白い狼は、夜気を揺らさず首を傾げた。
 ——君は私の名を忘れた。だから私は“呼ぶ側”に回る。
 ——ラディウス。

 口に出してみる。
「ラディウス」
 風が変わった。屋上の鉄柵の影が円環を描くように曲がり、遠い街の灯がひと呼吸遅れて点滅する。

 狼は言う。
 ——それは“私の呼ばれ方”であって、“君の真名”ではない。
 ——君が君自身を呼び戻す名は、もっと近くにある。

 近く。近くとはどこだ。
 カイは胸の印を親指で押し、溜めていた空気を細く吐き出す。
 リラが静かに訊ねた。
「あなた、誰かに“半径”って呼ばれてた?」
 その言葉が、記憶の表面張力を破る。
 声が蘇る。子どもの声。
 ——“カイの半径、ここまで!”
 狭い路地裏の隅。段ボールの影。冷たい雨の匂い。
 小さな手が、カイの手を強く引く。
 “ここから先は、カイの。”
 あの夜の音、段ボールが擦れる音、空き缶が転がる音、誰かの足音が遠ざかる音。
 脳裏に閃光。
 鎖は——外れない。あと一押しが足りない。

 狼は続けた。
 ——真名は“自傷の道具”ではない。君は昔、自分を罰するために名を捨てた。
 ——だから今度は“守るために名を持て”。

 罰するために捨てた、名。
 最強をやめた夜、自分を“匿名”にして、狼の首輪を固く締め、誓紙の真名欄を真っ黒に塗りつぶした。
 その黒は、いまも指腹に凹凸で残っている。

「俺は——」
 声が喉の途中でほどけたとき、階段の扉が開いた。
 真壁シオンが姿を現す。襟の角度は狂いなく、息は上がっていない。
「破鍵団の通信を拾った。明日、二次・三次試験の間で“鍵穴”を開く気だ。場所は——購買前広場」

 リラの睫毛が一瞬だけ揺れた。生徒が最も集まる、昼休みの中心。
 カイは即答する。
「迎撃する」
 リラが続ける。
「風紀委員として許可する。動線は私が引く。——シオン、生徒会のバックラインの封鎖を」
「了解。教師IDの監督ログも別回線に逃がす。内部協力者の余地は潰す」

 狼は消え際に囁く。
 ——君の名は、君の“選択”の中にある。
 白い粒子は夜の端に溶け、月光だけが屋上に残った。

 屋上を降りる直前、カイはリラのマグカップの耳を指で軽く弾いた。
 カチャリ、と小さい金属音がした。妙に胸に残る、合図の音。
「——俺の半径、広げるよ」
 言い終えたとき、風が一度だけ方向を変え、フェンスの影が円の中心に収束した。

 *

 夜半、理科準備室。
 ミナトが机いっぱいに広げた配線図の上でペンを走らせ、〈線導ビーコン〉の新ファームを書き換えている。
「昼休みは、ドローン禁止区域が増える。だから“人”を基準点にする」
「人?」
「風紀と生徒会の腕章にビーコンを仕込む。列制の線が“人を通す道”の精度で同調できるように。——君の“半径”を可視化する目的でもある。名前が呼ばれる前に、形を置いとく」

 ソケットから抜いた古い校章ピンが机の端で反射する。裏の刻印は“小さすぎるラディウス”。
 カイは掌の印を軽く押して、ミナトの横顔を見る。
「俺の真名、もし“守ること”そのものだったら、また最強をやめないといけないのかな」
 ミナトは笑って肩を竦める。
「順序が逆。守るために呼ぶんだろ。やめるか続けるかは“呼んだ後”。合図は三つ。張る、受ける、外す。四つ目は、自分の名前を呼ぶ。——五つ目は、他人の名前を呼ぶ」

「五つ目?」
「いつまでも“白狼、来い”じゃ、関係が片道だ。お前自身が、誰かを呼ぶ。昨日の下級生みたいに。半径は“誰を中心に置くか”で広さが変わる。……って俺は思う」

 言葉が、掌の内側に落ちる。
 “呼ぶ”。
 今まで外から呼ばれるばかりだった自分が、初めて“こちらから呼ぶ”イメージを持った。

 *

 翌昼。二次と三次の狭間、購買前広場。
 シミュレーション室ではない、本物のざわめき。本物の行列。パンの匂い。紙袋の擦れる音。
 空には昼光色の薄い雲。霧は引いて、代わりに人いきれの熱が立ちのぼっている。
 リラは風紀の袖を軽く捲り、列制の線を足場に“見えない柵”を準備する。
 ミナトは配布要員に紛れて腕章ビーコンを配り、シオンは生徒会のインカムへ暗号化指示を飛ばす。
 レンジは飄々と缶ココアを飲みながら、いつでも雷を“丸められる”位置にいる。

「来るよ」
 最初に言ったのはカイだった。
 耳の奥の反響が一瞬止み、代わりに広場の空気が“薄く鳴る”。
 地面のタイル目地の一本が、そこだけ濃度を変えたみたいに見える。
 黒いフードの影は、目に見えるより先に“向き”で分かる。
 鍵穴の縁だけが先に置かれ、後から黒が満たされる。

「合図——張る」
 リラの声。
 列制が床に網のような軽い力場を敷き、観客の足の置き場所を半歩だけずらす。
 「受ける」
 カイは影の皿を三段、低く高く、手前に浮かせる。
 「外す」
 レンジが雷の板で、視線の刃を丸く削る。
 シオンの端末が短く鳴り、「監督IDの介入痕、なし」を告げた。

 鍵穴が開きかける——が、そこで“異常”が割り込む。
 予定にない、数字の波。
 一次試験の時に見たのと似ているが、質が違う。もっと粗い、もっと乱暴な“手”。
 生徒ではない。教師でもない。
 結界そのものの“古い層”に触る、酷薄な手つき。

 黒いフードの一人が、わずかに顎を上げた。
 羽根の裏に走った文字。“壊れた神話より”。
 ——壊したのは、誰だ。
 ——封じたのは、誰だ。
 問いが胸の内で重なり、鎖が内側でひときわ強く震える。

 その時、広場の端で小さな子の泣き声がした。
 低学年の見学。手を離した親の慌てた声。
 列制の線はその親子を“安全側”へ誘導しようとするが、鍵穴の縁が歩幅の一歩を奪う。
 レンジの雷が刃を失っている間に、黒い影の一本がひゅっと伸びた。

 ——呼べ。お前の言葉で。
 ミナトの昨夜の声が、耳の奥で別の音に変わる。
 子どもの声。
 “カイの半径、ここまで!”

 カイは胸の印に指を押し当て、一歩、中心へ出た。
 “呼ばれる”のを待たない。
 “呼ぶ”。

「——来い」

 誰の名でもない呼び声。
 けれど、その声に応じて“白”が生まれた。
 狼は吠えなかった。
 ただ、半径の内側に現れ、影の皿の縁に沿って“円周”を走った。
 白い輪が鍵穴の縁を一周し、黒の向きを半歩だけ遅らせる。
 時間が粘る。
 カイはその余白に、リラの線を重ね、レンジの雷を滑らせ、ミナトの腕章ビーコンに“道”を繋ぐ。

「こっち!」
 風紀の声が、親子の耳へ最短で届く角度に変わり、足が“正しい失敗”を選ぶ——転ばない転び方。
 雷の板が、観客の視線の刃から恐怖を剥がす。
 白い輪は黒の飲み込みを一瞬遅らせ、鍵穴は“開ききらない”まま縁だけを残して揺らぐ。

 破鍵団のフードが一斉にこちらを見る。
 その視線には、苛立ちが混じっていた。
 開口に失敗した猟犬の、次の手を探る目。
 そして、撤退。
 今日も、彼らは勝利より“開くこと”を選ぶ。開かれない場所では、長く遊ばない。

 静けさが戻る。
 リラの肩から緊張がひとつ抜け、レンジは缶を握った手で軽くガッツポーズを作る。
 シオンは腕時計を見て、端末へ報告を送った。
「臨時の干渉波、ログ確保。……“古い層”に触るIDはやはり存在する。学校の創設時、いや、前身施設の時代から残された“鍵”。」

 親子の無事を確かめてから、カイは空っぽになった胸の中心で、もう一度、小さく呼んでみた。
 ——来い。
 白い狼は応えない。
 かわりに、胸の印が一度だけ強く脈打ち、すぐ静かになった。
 呼ぶことはできた。
 だが、呼び名は——まだ、ない。

 *

 夕方。屋上に戻ると、風は昼よりも柔らかかった。
 リラはカイの隣に立ち、紙コップの紅茶を差し出す。
 さっきの親子が無事に帰っていったこと、購買のおばちゃんが“今日のパンは何も爆発しない”と冗談を言ってくれたこと、そういう小さな出来事が、半径の内側に積み重なっていく。

「さっきの、『来い』——よかった」
「名前がないのに、呼べた」
「呼び方は、名の前に来ることもある」
 リラは、屋上のフェンスの影が描く同心円を指でなぞった。
「あなたの“中心”は、もう置けてる。……あとは、呼び名」

 カイは風をひとつ吸い、吐いた。
 遠くでレンジの笑い声がして、下の階ではミナトが誰かにビーコンの充電のやり方を教えている。
 白い狼の気配はない。けれど、空気の粒は確かに“呼応”の形で揺れている。

「俺の真名が、“守ること”そのものだったら——」
「だったら」
「俺は、やめない。最強をやめたのは、守るためだ。今度は“守るために”強さを借りる」

 リラは、マグの縁をこちらのマグにそっと当てた。
 カチ、と小さな音。
 合図の音。
「風紀委員として、同行する。監視と責任は私」
「よろしく、監督」
 言った瞬間、胸の印が微かに笑った気がした。

 扉が再び開いて、シオンが顔を出す。
「明日。三次試験の“市街”。破鍵団はまた来る。……“壊れた神話”は、決勝戦を待たない」
「待たせない」
 カイは応え、フェンスの向こう、薄い月へ視線を上げた。

 夜は深く、街の灯は遠い。
 けれど半径は、昼よりも確かに広がっている。
 呼べば来るもの、呼ばなくても隣にいてくれるもの、呼んで初めて手が届くもの。
 それぞれが、それぞれの位置で“呼応”している。

 最後の鎖は、まだ外れない。
 だが、もう冷たくはなかった。
 名は、選ぶためにある。
 半径は、守るためにある。
 呼ぶ声は、今、ここにある。

「——俺の半径、広げるよ」

 屋上の風が、一度だけ嬉しそうに回り、フェンスの影で小さな円をひとつ描いた。
 その円は、やがて夜へ溶け、明日の舞台の中心へと静かに続いていく。

第10話 購買前の鍵穴

 昼休みの鐘が三度鳴り終える前から、購買前広場は熱でふくらんでいた。
 焼きそばパン、カレーパン、揚げたてコロッケ。油とソースの匂いが空気の層に残り、紙袋が擦れる音が絶えない。〈KiriLink〉のライブは軽口で埋まり、「今日は爆発しないよね?」みたいな冗談にスタンプが跳ねる。
 世界は、穏やかだった。——次の瞬間までは。

 地面のタイルの目地が、陰の方向へゆっくり“濃く”なった。
 最初は、誰も気づかない。人影だと思う。雲の加減だと思う。
 だが、影は濃くなるより先に“形”を選ぶ。
 鍵穴のかたち。
 目地の濃淡が、そこだけ“不自然な規則性”で並び替わり、芝とタイルの境界までもが半拍遅れて従う。

「——始まった」

 リラの声は乾いていない。けれど、余分がない。
 風紀の腕章がわずかに光り、彼女の“列制(ライン・オーガナイズ)”が広場の床にふわりと薄い網を敷いた。
「合図。張る」
 列は一列ずつ“半歩”ずれ、通路が一本、余計に現れる。
 レンジは缶ココアをベンチに置いて、手袋を鳴らした。
「威嚇、入れる」
 雷は尖らず、板になって空へ滲む。見えない壁。空気の厚みだけが増える。
 ミナトのドローンは三十度の角度で上空に上がり、金属的な“注意喚起ボイス”を広場の輪郭へ沿わせた。
『落ち着いて移動ルートに従ってください! 走らない! 押さない!』

 鍵穴の縁が、呼吸をするみたいに膨らんだ。
 黒い“手”が伸びる。
 それは影でできているのに、温度があった。わずかに冷たい。指の数は五本、指紋はない——けれど、触れれば“掴む”。
 最前列の一年生の踵が、ぐいと引きずられ、悲鳴が生まれる。
 紙袋が飛び、パンが転がる。
 カイは飛び込んだ。
 自分の影を“上書き”する。
 影の手と自分の影が同じ“層”で重なるよう、指の角度をなぞる。
 掴まれた足首の“掴まれ方”そのものに、別の“向き”を与える。
 影は、影に“上書き”される。
 ぐっと力が抜け、一年生の足が自由になる。

「——封印解除:5/6」

 胸の印が、明確な温度で応える。
「同期、確保」
 小声で言う。それだけで世界の“粘度”が半拍だけ変わる。
 周囲の動きがわずかに遅れて見える“余白”が生まれ、その余白にリラの線を増線し、レンジの雷板を重ね、ミナトの音声が届く角度を微調整する。
 人の流れが“間違った方向へ賢く”動くのをやめ、“正しい失敗”の方へ転ぶ——転ばない転び方。

 その時、鍵穴の縁の“向こう側”に、鳥の頭が覗いた。
 鳥ではない。鳥の仮面。
 黒いコート、指先に黒い羽根。仮面の“目”は穴ではなく、光を吸う黒。
 破鍵団の“使い”だ。
 彼は、影に沈まない。鍵穴の“縁”の上を歩く。

「久しいな、崩塔の守」
 声は若いとも老いともつかない。高くも低くもない。
 ただ、よく通る。
「……俺を、知ってる?」
「知っているとも。お前は塔を守り、塔を封じ、塔を壊した。真実はひとつではない。君の物語はいくつもある。——選べ、最弱。封を解くか、守りを続けるか」

 言葉と同時に、仮面の男は鍵穴へ手を沈めた。
 地面の“下”に手を伸ばすのではない。
 “内側”へだ。
 彼の指先が何かを掴み、引く。
 結界の基幹キーの一枚——を、抜こうとしている。

「レンジ、右から回り込め! リラ、通路二つ目の列を締めろ! ミナト、上空から合図弾!」

 シオンの声は、昼の人いきれの熱を切り裂いた。
 レンジは言われるより早く動き、雷の板を手前で一度反らせて男の側面に“重い空気”を作る。
 リラは列制の網を二目ずつ小さくし、可動式柵のように鍵穴の手前で“猫の背”をつくる。
 ミナトのドローンからは色温度の違う光弾が三発、低く弧を描いて上がって落ち、合図のパターンを広場全体へ映し出す。

 カイは視界の線を束ね、鍵穴の縁に“反発楔(ウェッジ)”を打ち込んだ。
 影で作った細い楔。
 抜く力に対して直角ではなく、斜め。
 力を“逸らす”。
 引き抜かれるべきキーは、楔の面で半歩よじれて、指の形から逃げる。

 仮面の男の口元が、仮面の縁の隙間からわずかに見えた。
 笑ってはいない。
 ただ、確かめている。
「迷っている限り、届かないぞ」

 胸の中の最後の鎖が、冷たく鳴った。
 ラディウス。
 白い狼。
 半径。
 呼び方はもう持っている。
 ——なのに、鍵は落ちない。
 もう一押し。何が足りない。

「——ラディウス!」

 呼んだ。
 白い光が、鍵穴の縁をかすめて走る。
 狼は、円環を描く。
 空気が一度に“内側”へ収束し、鍵穴は指先一つぶん、縮む。
 仮面の手がわずかに滑る。
 だが、狼は言った。
 声は月光と同じ硬さで、断ち切るように。

 ——違う、契約者。私ではない。
 ——君だ。

 その瞬間、購買の屋根の上から、声が降ってきた。
 聞いたことのある、子どもの声。
 雨の夜、段ボールの匂い。
 指の温度。
 ——「カイ!」

 振り向けない。
 けれど、胸の印がその声に“合図”で応えた。
 ミナトの手が肩を掴む。
「行け!」
 レンジが雷の板をさらに厚くし、リラが列制で“人の間の隙間”をほんの半歩だけ広げ、シオンが監督回線へ“中断不可”の札を投げる。

 カイは視界の全線を束ねた。
 倒壊線、共振線、避難線、雷の板面、列制の導線、ドローンの合図弾の軌跡。
 それら全部が、一本の“道”に見える。
 鍵穴の中心。
 そこへ、影の杭を打ち込む——“中心杭”。

「——俺の半径は、ここまでじゃない!」

 杭は音を立てない。
 ただ、鍵穴の“内側”の空気を固め、外側の空気と繋ぐ。
 内と外の境界が“丸く”なる。
 丸くなった境界は、飲み込む力を持てない。
 鍵穴は崩れる。
 黒い羽根が数枚、風に舞う。
 仮面の男は一瞬だけ“こちらを見た”。
 視線は冷たい。
 言葉はない。
 彼は、撤退を選ぶ。
 鍵穴の縁を三歩で渡り、黒の“向き”の方向へ落ちた。

 広場の音が戻る。
 パンが紙袋へ戻り、笑い声が恐る恐る続きの位置を探す。
 ミナトのドローンは「危険はありません」を三度繰り返してから低空で周回を解き、レンジは缶に戻ったココアを見て「ぬるい」と笑う。
 リラは列制の網を畳み、最後の一本を“外す”。
 胸の印は静かだ。
 白い狼は現れなかった。
 ——来い、と呼ぶ前に、来ていたから。
 円環は、杭と杭で、自分で閉じられた。

「……今の声、聞こえた?」
 カイが屋根を見上げると、リラは視線を同じ場所へやって、首を横に振る。
「“呼応”の層。あなたの半径の内側だけ。——それでいい」

 その時、校内放送のトーンが変わり、低く重たいブザーが響いた。
 規定より二十分早く、三次試験のアラームが鳴る。
 〈対外危機対応シミュレーター〉、緊急開始。
 スピーカー越しの声が、淡々とした口調で「システム障害のため開始時刻を前倒し」と告げた。
 シオンが短く息をつき、誰にも聞こえない声量で呟く。
「……連戦だ」

 八代が広場の端に現れた。
 視線は購買の屋根と、崩れた鍵穴の輪郭に落ちるわずかな“違和感”へ。
 彼は何も言わない。
 ただ、視線だけで「見届ける」と言った。
 カイは頷き返す。

 リラが袖を捲り、腕章ビーコンのスイッチを入れ直す。
「風紀、移動。動線は私が引く。——合図はいつも通り」
「張る、受ける、外す」
 レンジが立ち、肩を回す。
「雷、丸める準備OK。——最弱、今日はよく喋るな」
「卒業するって言っただろ」
 ミナトはドローンのバッテリーを交換しながら笑う。
「“半径杭”、名前ダサいけど、最高だ」

 胸の印が、ふっと軽く笑った。
 白い狼の名を呼ばずに、白い輪を作れたこと。
 呼び名がまだ無くても、“自分の中心”を置けたこと。
 最後の鎖はまだ外れていない。
 けれど、もう“冷たくは”ない。

 シオンが手首の端末を上げ、短く、しかしはっきりと言った。
「総員、第三試験へ。目標は——“街を守る”。」

 カイは一歩、先に出る。
 フェンスの影が昼の色で円を描き、広場の熱とパンの匂いが背中へ押し風をくれる。
「——上等だよ」

 夜のための試験が昼に始まる。
 だが、半径の中心はもう“夜にしか見えない場所”ではない。
 列制が道を描き、雷が刃を丸め、影が杭になる。
 合図は三つ。張る、受ける、外す。
 四つ目は、呼ぶ。五つ目は、応える。
 そして、最後のひとつは——選ぶ。

 広場の端で、黒い羽根がかすかに転がり、風に乗って路地の影へ消えた。
 仮面の男は去った。
 けれど“壊れた神話”は、次の頁をもうめくり始めている。
 鍵穴は閉じられた。
 ——だから、開こうとする“誰か”が必ず来る。

 その“誰か”のために、半径をもう一段、広げる。
 胸の印は、その拍に合わせて、静かに、確かに、鼓動した。

第11話 三次試験・模擬市街戦

 体育館の床が鳴り、壁が割れて、舞台機構が入れ替わる——という生易しい変形ではなかった。
 天井のリグが沈み、鉄の骨がせり出し、巨大な折り紙が展開するようにモジュール壁が連結していく。白い幕は街路のファサードに変わり、黒い幕はトンネルの闇になった。信号機が吊られ、横断歩道が塗られ、バス停のベンチは本物の木肌で、貼り紙に「落とし物:青い手袋」と殴り書きまである。
 音響は街の音へ切り替わる。遠くのサイレン。風に鳴る旗。開きっぱなしのガラス戸のかちゃり、という癖。——演出ではなく、誤差まで忠実に再現するための執念。霧ヶ丘の模擬市街は、試験に優しい顔を決してしない。

「三次開始。優先順位は一般人の保護、次に基幹配電の維持、最後に敵性ユニットの排除」
 生徒会戦術長・真壁シオンの声は、相変わらず落ち着いていた。息は上がらない。抑揚も無駄がない。だが、冷たくはない。

 リラが風紀の腕章に軽く触れ、列制(ライン・オーガナイズ)の線を床へ落とす。
 白い補助線が、歩道の縁に沿って“可動防壁”の骨格へ変換された。視界の端で、鉄柵が“そこにあったはず”みたいな自然さで立ち上がる。
 レンジは手袋を鳴らし、電荷の角を丸める癖のある笑い方をした。
「前へ出る。雷、芯だけ炙る」
 彼の雷はもう、いきなり刺さない。板状になって空気の薄い所を這い、可視化されない“芯”を撫でて浮き彫りにする。

 ミナトは配電ボックスへ飛び込み、工具を握った。
「非常系統、バイパス。擬似結界、起動……三、二、一」
 配電系の脇に組まれた彼の仮設回路が白く点滅し、街角に薄い“膜”が宿る。万一の時に“落ちる方向”を柔らかく指定する膜だ。
 カイは一歩退いて全景を取り込み、最短で事故が起こりうる交差点を“選ぶ”。そこへ“静かな泡”を展開する——空気の向きと密度が音の代わりに仕事をする“無音の緩衝地帯”。

 開始の合図と同時に、路地の影が三つ、ほつれた。
 破鍵団が紛れ込ませた“黒影(ブラック・スペクター)ユニット”だ。黒い人影のようでいながら、人ではない。溝と溝の“間”を歩き、直角に曲がる。足音はないが、床は鳴く。
 レンジが前へ出る。雷が空気を裂く代わりに、その“芯”だけを白く炙る。輪郭が生まれた二体が薄くよろめくが、三体目は壁抜けのような擬態で側道へ滑り、無人バスへ“触る”。

 ルートが乱れた。
 自律走行の微細な補正が一拍遅れる。横断歩道へ向かう角度が半度だけズレる。半度で充分だ。
 バスは縁石の上に噛み、スリップする——はずだった。

「封印解除:5/6——同期加速」
 カイは小さく告げ、肺の奥で拍をひとつ合わせた。世界が、また少し“遅く”なる。
 床に溶かした影を縁石に沿って伸ばし、タイヤの接地面に“半径制動”をかける。回転の角度を滑りの角度に変換し、“転ぶ方向”だけ選ばせる。
 無人バスは歩道の手前で止まり、白い横断歩道の一本手前で静かに息を吐いたみたいに揺れを収める。

 リラが息を吐くのが聞こえた。
 シオンはすぐさま次の指示を飛ばす。
「残り二体、サンドイッチで挟め! 雷、右から流し、列制は前へ出して“噛ませ”ろ!」
「了解」
 レンジの雷が空気の層を二枚、ズレた角度で差し込み、リラの可動防壁が人の流れを“挟む”形に変わる。黒影二体は動線の“角”に引き寄せられ、動きを失う。
 そのときだった。天井の照明が“だけ”明滅し、——ふっと消えた。

 暗闇の一秒は、長い。
 長さは時間ではなく、心臓の数だ。
 一秒の間に、カイの背後に“誰か”が立つ気配がした。
 音ではない。
 影の“向き”。空気の“暗さ”。
 耳元へ、囁きが落ちる。

「選べ、カイ。名を持つか、名を捨てるか」

 同時に、胸の印が痛いほど明るくなり、鋭い冷たさで鎖の最後の一点が鳴った。
 明滅が戻る。
 黒影ユニットは消えていた。ロギング上では“退去”。形式上のクリア。
 だけど、どの端末にも残らない“影の手触り”が、皮膚の裏に残っている。
 観客席(の想定)の拍手音が遅れて流れ、審判の旗が挙がる。スピーカーから「あらゆる被害想定、ゼロ。三次試験、完遂」とアナウンスが落ちた。

 控室に戻るまでの廊下は、やけに明るかった。
 いつもより白い。
 いつもより、音がよく伝わる。
 ミナトが肩を回しながら言う。
「今の消灯、電源系は落ちてない。照明系“だけ”。誰かが“昔の回路”に触った感触……嫌な精度だ」
 リラは頷き、腕章のログをシオンに渡す。
「“古い層”はやっぱり残っている。破鍵団の模倣か、あるいは——」

 控室の扉が開いた。
 八代が立っていた。
 いつもの無表情なのに、どこか“戦闘の前”の空気をまとっている。
「いい戦いだった」
 それは評価ではなく、観察の報告のような口調だった。
「……だが、試験はまだ続く。期末演武の決勝、相手は“学校”そのものだ」

 レンジが眉をひそめる。
「どういう意味だよ。“学校そのもの”って、壁とか机と殴り合うのか?」
 八代は小さく笑った。笑みは形だけで、温度はない。
 それでも、その笑みの出所は“教師”の顔に見えた。
 彼は古い鍵束を掲げる。黄銅の鈍い光。一本は先端が羽根の形をしていた。
「学園基幹の“管理者決闘”。封印の監督者としての権限だ。——勝てば、君は“名の意味”を自分で選べる」

 シオンが目を細め、問いを二つに割って投げる。
「それは、試すのか。守らせるのか」
 八代は答えない。
 代わりに、控室の長机に黒い羽根を一本置いた。
 羽根は軽いのに、置かれた部分の空気だけがわずかに重く沈む。

「これは、君の“罪悪感”の形だ」

 羽根は、あの夜の匂いがした。
 煤でも、鉄でも、紙でもない。
 ——雨の匂い。
 塔が崩れた夜。首輪を締め、真名欄を塗りつぶした指。その指で、自分の胸を叩いて“最弱”と名乗った夜。
 胸の中で、最後の鎖が静かに軋む。
 白い狼の声が遠くなる。代わりに、子どもの声が近づく。
 “カイの半径、ここまで!”
 記憶の中の路地裏が、控室の白い蛍光灯の下に重なった。

 レンジが低く言う。
「つまり、学校の“心臓部”と殴り合うってことだな。上等」
 ミナトは工具袋を引き寄せ、図面をかき集める。
「配電の中枢、通信の母線、非常シャットの階層……ぜんぶ“相手”になる。こっちはビーコンを人間基準で回す。——“人を中心に”」
 リラは羽根から視線を外し、カイを見た。
「私が動線を引く。監視も、責任も私。あなたは——選んで」
 選べ、という言葉は、命令ではない。
 けれど、命令より重い時がある。

 八代は鍵束を回し、一本を外してカイへ差し出した。
 鍵の頭には小さな円環の刻印。
「決勝は明日だ。準備時間は短い。だが、君にはすでに“合図”がある」
「張る、受ける、外す」
 カイが言うと、八代は首を横に振った。
「呼ぶ。応える。——そして、選ぶ」

 黒い羽根が視界の隅で揺れ、テーブルの上で軽く震えた。風はない。
 胸の印が、それに呼応する。
 白い狼は現れない。
 現れなくても、そこにいる。

 控室の隅で、シオンが端末に短い文を打った。
「“壊れた神話”への返書?」とミナトが覗き込む。
「いいや。……学校の“古い層”にいる誰かへ。こちらからも“管理者決闘”の条件通知を出す。逃げ道をふさぐ」
 レンジが笑う。
「相変わらず容赦ねえな、戦術長」
「容赦は“外”に対しては贅沢だ。内には、必要ならする」
 そのやりとりの間にも、カイの視界には細い線が立ち上がっていた。
 倒壊、共振、避難、遮蔽、列制、擬似結界——それらの線が一本に束ねられる未来線が、確かに見える。
 未来線の先で、自分は自分の名を呼ぶ。
 呼ばれるのを待たず、呼ぶ。
 呼び名は、罰ではない。
 守るための“約束の発音”。

 黒い羽根は軽い。
 けれど、胸の真ん中につかえた石の形をしていた。
 それを“置いていく場所”が、明日、与えられる。
 “学校そのもの”との決勝で。

 八代はドアへ向かいざま、ふと振り返った。
 目はいつも通りの灰色なのに、奥にわずかな火がある。
「篠崎。——君が“最強をやめた理由”を、私は知っている」
 言い切らない。
 教師の癖で、教えきらない。
「だからこそ、君が“もう一度選ぶ”のを見届けたい」

 扉が閉じる。
 控室は静かになり、蛍光灯の唸りが細く戻ってくる。
 カイは黒い羽根を掌にのせ、指で軽く押した。
 重さはないのに、手のひらの線が押し返す感覚がある。
 罪悪感の形。
 なら、置く場所は——。

 息を吸い、吐く。
 白い狼の気配が、廊下の向こうの空気から伝わる。
 “呼べ”
 “選べ”
 言葉にならない言葉で、合図だけが来る。

 リラがマップを広げる。
「決勝の想定は、校内全域。“学校そのもの”が相手なら、私たちの動線は校舎の“骨”に沿わせる。……カイ、中心はあなたの“半径”。端は、生徒全員」
 ミナトが笑う。
「半径、また広げるのか。——いいじゃないか。広場の杭、名前は相変わらずダサいけど、上出来だ」
 レンジが拳をコツンと当ててくる。
「卒業だろ、最弱。——いや、元・最弱」
 カイは笑って拳を返した。
 胸の印が、静かに、しかし確実に拍を合わせる。

「……決勝で、終わらせる」
 それは、脅しでも宣言でもない。
 自分への約束。
 真名は、罰するためではなく、守るために持つ。
 学校という巨大な“鍵穴”に、杭を打ち込むために。
 黒い羽根を、もう羽根のままにはしておかないために。

 体育館の天井は、日暮れの色を映していた。
 模擬市街の建て込みは回収され、信号機の光は箱に収まり、横断歩道の白は床の木目に戻る。
 それでも、足の裏は“街”の固さを覚えている。
 列制の線は目に見えないまま机上のマップへ移り、雷の板は指の骨の中へしまわれ、擬似結界の膜はハーブの匂いと一緒に保健室へ帰った。
 残ったのは、半径と、呼ぶ声と、黒い羽根。

 “学校そのもの”が相手なら——これは、きっと個人戦では終わらない。
 みんなが“中心”を一つずつ持って来る試合になる。
 合図は三つ。張る、受ける、外す。
 四つ目は、呼ぶ。
 五つ目は、応える。
 そして最後に、選ぶ。

 黒い羽根が、まだテーブルの上にある。
 カイはそれを封筒に戻し、ゆっくりと引き出しにしまった。
 しまうのは逃げるためじゃない。
 ——持って行くためだ。決勝の中心へ。
 そこで、置く。
 もう一度、守るために。

 白い狼は、姿を見せない。
 見せないまま、胸の印といっしょに脈を打つ。
 ——明日。
 ——選べ。
 それだけが、はっきりと分かっていた。

第12話 名の試合(しあい)

 決勝の会場は講堂だった。
 ステージの床一面に、白金の円環紋が沈むように描かれている。観客席は満員。教師も生徒も、拍手のかわりに息をのみ、声を呑んだ。
 壇上に立つ八代は、いつもの無表情の奥にわずかな火を宿し、古い鍵束を掲げる。

「学園基幹を守る資格の試合(しあい)を行う。対戦は——篠崎カイと、学園結界“七曜”」

 瞬間、床が低く唸って震え、円環の紋から七本の光柱が立ち上がった。
 それぞれが違う色で、違う温度で、違う律動で脈を打つ。
 月(つき)は蒼白、火(ひ)は橙、 水(み)は藍、木(き)は緑、金(かね)は淡金、土(つち)は土黄、日(ひ)は無色の白。
 光柱は形を持ちはじめ、細い糸が束ねられて式神の容(かたち)をとる。学園の“管理式神”、七体。
 その名は、曜日に刻まれた校舎の呼吸だ。

 円環の縁に立つカイは、一度だけ深呼吸した。
 掌の印は穏やかに脈打ち、耳の奥の反響は——まだ、消えない。
 ——守れ。守れ。今度こそ。
 けれど、その奥に微かな別の声が重なる。
 ——呼べ。選べ。

 八代が手を下ろすと同時に、第一節が開く。



 第一節、月——“記憶”の試合。

 講堂の壁が、崩れた。
 崩れる、というより“退く”。現実が薄幕のように引き、代わりにあの塔が“現れる”。
 煤にまみれた階段。スプリンクラーの水で濡れ、冷たい煙が腰に絡む。
 天井が沈み、書架が歪む。泣き声。誰かの咳き込み。
 カイは走った。影を薄く床へ伸ばし、“ひさし”を瓦礫に被せて逸らし、階段を滑るように駆け上がる。
 呼吸の拍に合わせ、未来線が細く立つ。倒れる棚、崩れる梁、割れるガラス。——全部、先に“少しだけ”見える。

 踊り場の上、段ボールの影の奥に、小さな背中があった。
 震える肩、濡れた襟。こちらを振り返る。
 「カイの半径、ここまで!」
 ——聞いたことのある、子どもの声。
 だが、顔は思い出せない。輪郭が白い靄に沁みて、瞳の場所だけが空白のように抜ける。
 胸が裂けるように痛んだ。掌の印が灼ける。

「俺は……守ったのか。守れなかったのか」

 問いは空気へ溶け、塔の階と階の狭間へ落ちる。
 月の式神は答えない。記憶は問うだけだ。
 円環の外、現実の観客席で、リラが手すりを握りしめた。
 ミナトが祈るように唇を噛み、レンジは拳を震わせて「戻ってこい、相棒」と低く吐く。
 その声は届かない場所にいるのに、不思議と足場の端を固める。

 カイは影のひさしをもう一段厚くし、少年の肩に手を伸ばす。
 指先は空を掴む。
 靄が白い輪になって、するりと離れていく。
 塔が、また一段沈む。
 記憶の節は、答えのないまま、終わらない問いを胸に残して去った。



 第二節、火——“衝動”の試合。

 床が赤く熱を帯び、空気が甘い鉄の匂いを吐きはじめる。
 破鍵団。黒い羽根。仮面の男。
 脳裏でその輪郭が膨張し、怒りが体を焼く。
 影が暴れて、円環の床に黒い亀裂が入る。
 拳を握れば、砕ける。殴れば、収まる。——そんな“最短”の快楽が、喉を蛇のように撫でる。

 遠くで、八代の声がした。
「衝動は力だ。だが“選ばない衝動”は破壊だ」

 カイは拳を下ろした。
 指の関節が白くなったまま、深く息を吸う。
「俺は“選ぶ”。……“守るために最強をやめた俺”を、もう一度、選ぶ」

 燃える床が一度だけ呼吸し、赤が橙へ、橙が白へ、白が透明へ薄まる。
 火の式神は、短く首を垂れた。



 第三節、水——“恐怖”の試合。

 夜の屋上。
 フェンスの向こうに落ちていく街の灯。風が薄い刃になって頬を切る。
 足がすくむ。膝が笑う。
 恐怖は消えない。生き延びるための古い合図だから。
 カイは深く息を吸い、胸の印を指で押した。

 ——怖さは合図だ。行け。

 狼の声が胸から湧く。
 白い粒子の気配が背中を支え、足は、出る。
 恐怖を抱えたまま。
 “抱えたまま行く”という選択が、身に馴染む。
 水の式神は、静かに路(みち)を開けた。



 第四節、木——“希望”の試合。

 講堂の空気がふっと軽くなる。
 緑の光が天井から滴り、細い芽が円環の縁へ沿ってわずかに“生える”。
 リラの笑顔。ミナトのピース。レンジの拳。
 保健室のハーブ。工房の裸電球。購買前のパンの匂い。
 希望は、未来線の中にある——“事故ゼロ”の結果ではなく、“事故ゼロへたどる線”。
 今も見える。
 木の式神は、芽を一つだけ残して消えた。
 それは踏めば潰れるほど弱いのに、視界からは消えない強さでそこにある。



 第五節、金——“代償”の試合。

 塔の崩落映像が、無慈悲な正確さで再生される。
 白い外套の自分。首輪に手を添える白い手。
 観測紙の真名欄を真っ黒に塗りつぶす指。
 救えたもの。救えなかったもの。
 捨てたもの。——真名。

 カイは映像に背を向ける。
 見るべきものは背中にはない。
「自分を罰するためじゃない。届かせるために捨てた」
 言葉は、誰かへではなく、自分へ。
 金の式神は微かに笑ったように見え、代償の天秤を水平に戻す。



 第六節、土——“責任”の試合。

 円環の外側、講堂の扉の隙間から、黒い影がにじむ。
 購買前の鍵穴が、また口を開きかける。
 破鍵団の符丁が空気の層から浮いては消える。

 リラが観客席の端から端まで、目に見えない線で“柵”を編む。
 ミナトは腕章ビーコンを起動し、擬似結界の“人基準”を走らせる。
 レンジは雷の板を観客席の前面に重ね、視線の刃を丸める。
 シオンは教師席の端末へ“緊急停止権限の重ね掛け”を送る。
 責任は、今ここにある。
 カイは円の中心に立ち、呼吸を合わせた。
 半径を、講堂いっぱいに広げ、杭を一本、天井へ打つイメージ。
 土の式神は、頷いた。それは「準備は整った」という合図だ。



 第七節、日——“選択”の試合。

 円環が、白く燃える。
 熱はない。けれど、光はある。
 八代の声が透明になって、講堂のあらゆる場所に同じ輪郭で届く。

「選べ、篠崎カイ。——名を取り戻し、力を“全開”にして全てを救うか。あるいは名を秘し、半径を限定し、届く範囲で“確実に”救うか」

 静寂が落ちた。
 呼吸の音までが丸い器に入れられたように、同じ形で響く。
 誰も喋らない。
 誰も動かない。
 選ぶことが、ただの力の大小ではなく、自分の物語の“文法”を決めると、全員が知っているからだ。

 カイは目を閉じ、ゆっくりと開く。
 背後で、白い光の狼——ラディウスが静かに立った。
 狼は、ときどき、月の光を飲んだ氷のような目をする。今がそれだ。
「契約者。私はどちらでも、君の“半径”で走る」

 観客席で、リラが小さく頷く。
 ミナトの上着のポケットで、試作炉の確認ランプが一つ、きゅっと灯ってまた消える。
 レンジが低く唸る。「行け」
 シオンは何も言わず、腕時計のベゼルを指で一度だけ回した。秒針が、選択の起点に“合わせられる”。

 ——選ぶ。

 カイは一歩、前に出た。
 掌の印が熱い。
 胸の奥の最後の鎖が、細く震える。
 塔の階段の濡れた手すり。路地裏の子どもの声。購買前のパンの匂い。風紀委員室の紙の手触り。保健室のハーブの香り。工房の金属の匂い。雷の板の乾いた音。列制の線のすべり。
 全部が、ここへ収束する。
 名は罰ではない。約束の発音だ。
 呼ばれるのを待つのではなく、自分で呼ぶためにある。

「俺の名は——」

 その瞬間、講堂の空気がわずかに変わった。
 床の円環が震え、七体の式神の輪郭が同時に“こちらを見る”。
 封印の最後の錠が、——まだ、外れない。
 カイは唇を閉じる。
 言えば外れるのではない。
 “言い方”で外れるのでもない。
 選ぶことは、発音より先だ。
 選んだ“後”に、発音は勝手に名乗る。

 八代がわずかに目を細める。その視線は、教育の目と監督の目の、ちょうど真ん中。
 リラの指が手すりを離れ、ゆっくり開く。
 ミナトはペンを握り直し、レンジは顎を一度だけ上げる。
 シオンは端末のログを止め、余白に「選択」とだけ打って保存した。

 円環の白が、さらに強まった。
 呼吸が一拍、遅れる。
 カイは、胸の中の石を両手で持ち上げるイメージを選んだ。
 罪悪感の形——黒い羽根。
 それを、円環の中心へ置く。
 置く場所は、ここだ。
 塔の夜に持ち出した罰を、今日の昼に“約束”へ置き換える。

「……俺は、“届く範囲で確実に救う”を選ぶ。——けれど、その半径は、俺が決める。広げ続ける」

 言った瞬間、胸の印が笑った。
 ラディウスが、低い音のない息を吐く。
 式神・日が、白い瞳をすっと細めた。

 円環が震え、白が、講堂の隅々まで滑らかに広がる。
 外側の扉の隙間から覗いていた黒い影が、ひとつ、またひとつと剥がれ落ちる。
 七曜の光柱が順にひと息ずつ明滅して、元の高さへ戻る。
 封印の最後の錠は——まだ、外れない。
 けれど、形が変わった。
 冷たい鉄ではなく、呼吸する木の留め具みたいに、手のぬくもりで外へ柔らかく開く“予告”の形へ。

 八代が低く宣言する。
「第一段階、合格。——“名の試合”、続行」

 床の円環は白のまま、しかし線の幅がほんのわずか広がって、舞台の袖へ、客席の端へ、講堂の天井の梁へと細い枝を伸ばした。
 選択は、その瞬間に“結果”を連れてくる。
 鍵穴は今、講堂にはない。
 だが、学園のどこかで、誰かが次の穴を刻もうとしている。

 ラディウスが横に来て、肩が触れない距離で並んだ。
 音ではなく、意味で囁く。
 ——契約者。君の名は、次の拍で、君が君を呼ぶときに“開く”。
 ——その拍は、君が選んだ。ここだ。

 観客席の最前列で、リラが口の形だけで「おかえり」と言った。
 ミナトの膝の上の図面に、小さな円が手の汗で滲んだ。
 レンジは笑った。「ったく、焦らすのだけは一丁前だな」
 シオンは、薄い笑みを一瞬だけ浮かべ、すぐ消した。
 八代は鍵束を握り直し、講堂の上手へ視線を送り——誰にも聞こえない声量で呟いた。
「……ここからが、本当の“管理者決闘”だ」

 ブラスバンドのいない講堂で、ブザーの音だけが静かに鳴る。
 円環の白は消えず、封印の最後の錠は、まだ外れない。
 次の節の合図が、無色の風で頬を撫で、舞台袖の黒幕を一枚揺らした。

 カイは一歩、さらに前へ。
 選択は終わった。
 発音は、次の瞬間に——。

第13話 黒羽の真実
 翌朝の講堂は、まだ試合(しあい)の熱の名残を抱いていた。
 ステージの床には白金の円環の焦げ跡が薄く残り、客席の通路には靴跡が綺麗に二列、戸惑いの方向に向きを揃えて刻まれている。誰もいない空間は、かえって音を増幅する。冷房の微かな唸り、舞台袖で布が擦れる気配、天井のリグから垂れたワイヤの鳴き。——昨夜の白が、まだここにいる。
 誰もいない教室に移って、カイは机の上へ“それ”を置いた。黒い羽根。
 軽い。なのに、置いた瞬間だけ空気が沈む。
 指先で触れるたび、胸の奥に小さな波紋が広がる。水紋みたいに輪を描いて、数拍遅れて印へ届く。それは痛みではない。ただ、合図のように脈と重なる。
 ドアが鳴り、白衣の裾が視界に入った。
 天城先生だ。ハーブの匂いが、朝の冷たさをほどく。
「——もう聞いたかしら。昨日の決勝、“試合”の最中に、結界の中へ外部信号が侵入したわ」
「破鍵団(ブレーカー)ですか」
「ええ。でもね」
 天城は羽根を覗き込み、机に置かれた観測紙の上へそっと移した。紙面の端から金色の微粒子が立ち上り、羽根の輪郭に沿って細い数式の帯が走る。
「この黒い羽根、観測結果では“外”の物質じゃないの。——あなた自身の“記憶データ”の結晶だった」
「……俺の?」
 天城は頷いた。声に棘はない。ただ、慎重だ。
「過去のあなたが、塔を封じるとき、“自分の記憶”の一部を切り離して、封印の鍵にしたの。罪の象徴ではなく、警告の印。間違えないための“目印”よ。——『ここに置いたものを、いつか正しい順序で取りに来い』って」
 胸の印が一拍、強く脈を打つ。
 羽根の手触りが、昨夜の円環の白と、路地裏の子どもの声と、塔の煤の手触りを、一本の線に束ねた。
 そのとき、雷鳴みたいなノックが教室の空気を揺らした。
 勢いよくドアが開いて、レンジが滑り込む。手袋はすでに嵌っている。
「外結界、破鍵団の反応あり! 街区三番地の地下通路、南側シャフト!」
 言いながら、彼は一瞬だけ机の羽根を見る。
 眉が僅かに動いただけで、何も訊かない。
 カイは椅子を引き、立ち上がった。
「行こう」
 天城は頷き、棚から緊急用の医務箱を取り出して差し出す。
「これを。——それと」
 彼女はカイの掌の印へ視線を落とし、低く続けた。
「“真名”を思い出しても、すぐには“開けないで”。体は覚悟より遅い。順序を間違えたら、戻るのに余計な代償が要る」
 “順序”。
 あの文字が喉の奥で硬い粒になって、のみ込まれずに残った。
 *
 地下通路は冷たく湿っていた。
 街区三番地の古い避難ネットワーク——地図上でだけ生きている管路が、今日に限って本当に息をしている。蛍光灯が一定の間隔で“ブン”と鳴り、薄暗い壁面に“鍵穴”の模様が浮き出たり消えたりする。
 破鍵団が刻む符丁は、見慣れてしまえば同じだ。だが、今日のは少し違う。輪郭が粗く、なのに中心だけ“合っている”。
 通路の先、冷気が逆流する曲がり角に、仮面の男が立っていた。
 鳥の仮面、黒いコート、指先に挟まれた黒い羽根。
 鍵穴模様は男の背後の壁で脈打ち、中心だけ“向こう側の温度”を漏らしている。
「ようやく来たか、崩塔の守」
 声は昨日と同じ、若くも老いともつかぬ、よく通る“平坦”。
 カイは一歩踏み出し、首を横に振った。
「その呼び方、やめろ」
「では、“半径”」
 仮面が、微かに笑ったように傾く。
「君はまだ半分しか戻っていない。残りは“あの夜”に置いてきた」
「……」
 胸の印が重くなり、喉が乾く。
 男はそれを愉しむでもなく、ただ事実を読み上げるみたいに言うと、仮面に触れた。
 指が仮面の縁を押し、磁石が外れる乾いた音がひとつ。
 現れた顔は——白い髪、琥珀の瞳。目の下に薄い影。
 輪郭。高さ。呼吸のリズム。
 “よく知っている”。
 鏡より正確に、最近の自分をなぞる顔。
「俺……?」
「私の名は“カイ・アーク”。」
 男は静かに笑った。「君が封印した“最強だった側”だ」
 天井のコンクリが、きしんだ。
 鍵穴模様が脈を早め、壁の裏から“闇”が噴き出す。
 男が手をかざすと、黒い羽根が無数に舞い上がり、空中で束になって“獣”の輪郭を取った。
 影の獣は咆哮し、音は少しも漏れないのに鼓膜が痛んだ。
 破鍵団の符丁が獣の背に走り、翼の位置に“鍵穴”が浮く。
「昨日の“試合”で、君は選ばなかった。“全開”も“秘すこと”も。半径を広げる、とだけ言った」
 男は淡々と続ける。「なら、今ここで選べ」
 背後から風の切れる音。
 リラとレンジが駆け込んでくる。
 リラが瞬時に通路の幅を“線”で分割し、レンジが雷の板で空気の鋭利を丸める。
 合図は自然に口から落ちた。
「張る」
 リラの列制が床に薄い網を敷く。
「受ける」
 カイは影の“受け皿”を二段、通路の高低差に沿って浮かべる。
「外す」
 レンジが雷の板を鍵穴模様の縁へ斜めに当て、目の“向き”を鈍らせる。
 カイは前へ出た。
 リラの腕が反射で伸びる。「カイ、下がって——」
「……俺の影は、俺が責任をとる」
 影と影が衝突する。
 冷たい。
 音がない。
 空気の“向き”だけがぶつかって、火花を散らす。
 黒の獣の咆哮が通路の圧を増やし、カイの“静かな泡”がそれを内側に押し戻す。
 刹那の均衡。その中央で、白い光がひらいた。
 ラディウス。
 白い狼は影の縁を舐め、獣の喉を“無音で”噛み止める。
 狼の目は、氷の色でも、炎の色でもなく、ただ“約束”の色だ。
 ——この男は“君の断片”。
 狼の声は、意味で届く。
 ——封印を解けば、再び“一つ”になる。だが同時に——最強に戻る。
「それで、世界を壊す?」
 問いは刺すためではない。確かめるためだ。
 ラディウスは答えない。
 沈黙が、答えを濁すのではなく、問いの形を変える。
「なら——」
 カイは、男を真正面から見た。
 白い髪、琥珀の瞳。
 自分の“向こう側”。
「俺が“最強を使って、壊さない”選択を見せてやる」
 男の口角がほんのわずか、上がる。
 それは嘲りではない。
 “興味”。
 鍵穴模様が一斉に“呼吸”を早め、床下の封印陣が薄く光りはじめる。
 *
 地下の冷気が、通路の肌を撫でる。
 足場は滑りやすい。天井は低い。逃げ場は少ない。
 不利な要素を数えるより先に、動線が頭の中で“勝手に”線になる。
 リラの線。レンジの板。ミナトの、いない——。
 次の瞬間、耳の奥で“ビー”と鳴り、ミナトの声が挟まった。
『上空ドローン、通路入口をマークした。擬似結界、弱いけど“人基準”で貼ってる。——カイ、聞こえるか』
「聞こえる」
『通路南の終端、古い配電ハブに直通。破鍵団はそこで“古い層”へアクセスしてる。鍵穴は“地図”じゃなくて“鍵”だ。——杭を打つなら、中心じゃなく“支点”を狙え』
 支点。
 胸の印がうなずく。
 狼は横で肩を並べ、無言で歩調を合わせる。
 レンジが空気の縁を削り、リラが“人の隙間”を開ける。
 合図は繰り返す。張る、受ける、外す。
 そして——呼ぶ。
「来い」
 白い輪が、足元にひとつ。
 円環は薄い。だが、向きを持つ。
 黒い獣がそれを踏むと、足の“次の置き場”だけが半拍ずれる。
 小さな乱れが、積もる。
 カイは前へ。男の間合いへ。
 白い髪が揺れ、琥珀の瞳が笑っていない笑みで細くなる。
「“半径”、選ぶ気になったか」
「選んだ」
 言葉は短い。
 男は仮面なしの顔で、手を翻した。
 天井の梁が小さくきしみ、封印陣の光が一段増す。
 黒い羽根が舞い、獣が二つ三つと分裂する。
 符丁がそれぞれに走り、背中の鍵穴が別々の向きで開閉する。
「——レンジ」
「分かってる」
 雷が板になって、影の獣の背に“重み”を落としていく。
 刃は立てない。押すだけ。
 列制の“柵”が、獣の視線を迂回させる。
 ミナトの擬似結界が、足の失敗を“正しい失敗”に誘導する。
 カイは“支点”を探す。
 鍵穴は“地図”じゃない。
 ——鍵。
 壁面の脈動。天井の梁の“わずかな”たわみ。床下の封印陣が描く幾何。
 線が、束ねられて一点を示す。
 通路の曲がり角。
 そこで“白い声”が、昔の調子で呼んだ。
 ——“カイの半径、ここまで!”
 振り向かない。
 けれど、合図は受け取る。
 胸の印を押し、影の杭を一本、そこへ打つ。
 観客席も実況もない地下通路で、杭は音を立てない。
 ただ、力の向きを変える。
 鍵穴の“支点”が半拍遅れて崩れ、獣の足が一斉に“空振り”する。
 レンジの板がそこで重さを増し、リラの柵が道を狭め、獣は“外へ”向けない。
 逃げ場を奪う戦いではない。
 ——“開き場”を奪う戦い。
 男——カイ・アークは、はじめて眉をわずかにひそめた。
「支点を見抜くか。……半分の君にしては、上出来だ」
「半分で十分。半径は、広げながら走るものだ」
「そうか」
 男は羽根の束を一つ握りつぶし、粉末にして指先から零した。
 粉末は床に触れる前に文字列へ変わり、封印陣の縁をなぞる。
 光が強くなる。
 天井の向こう、旧配電ハブが目を覚ます。
「だったら——“最強の使い方”を見せてみろ。壊す以外で」
 挑発でも、試しでもない。
 ただ、事実を差し出す手。
 カイは頷き、掌の印に触れる。
 胸の奥の最後の鎖が、薄く軋む。
 外さない。
 まだ、外さない。
 外す前に、選んだやり方で“届かせる”。
「リラ、動線——“人基準”で通す。レンジ、板を二重に。ミナト、支点にビーコン打てるか」
『打てる。破鍵団の模倣波に“逆向き”の位相で上書きする。君の半径杭に同調させる』
「ラディウス」
 白い狼は、何も言わない。
 ただ、円環の外側を一周し、戻ってくる。
 それが「準備できた」の合図。
 カイは一歩だけ前に出て、男と同じ高さに目線を合わせた。
 琥珀の“自分”は、真っ直ぐ見返す。
「——俺は、“半径を使って最強を通す”。壊すためじゃない。届かせるために」
 影の皿を三段、通路の高低に合わせて浮かべ直す。
 白い輪をそれぞれに通し、雷の板の“谷”と“山”を音のない泡で整える。
 封印陣の光が呼吸を一拍遅らせ、支点の杭が強度を増す。
 列制の柵が“人の間”を広げ、擬似結界が転び方の角度を指定する。
 全部を、一本の線に束ねる。
 塔の夜から続いてきたすべての線を——“今ここ”へ縫い合わせる。
「——半径、展開」
 言葉は短い。
 だが、地下通路の空気は明確に“向き”を持った。
 白い輪は広がりすぎず、黒い鍵穴は縮みすぎない。
 “ちょうどいい”の中点。
 最強を通すパイプ。
 暴走ではなく、合奏。
 黒い獣の背に、白い輪が“乗る”。
 影は消えない。白は飲み込まない。
 相殺ではなく、調律。
 鍵穴の向きは、半拍遅れて“こちら寄り”になる。
 男の指先で粉になった羽根が、床に届く直前、ふっと消えた。
「……そうか」
 男の目が、僅かに細くなる。
 嬉しさでも、悔しさでもない。
 “納得”。
「半径は、刃でも楯でもない。“道”だ」
「そう。俺の半径は“道”。——だから、君も通す」
 カイは影の杭から一段“緩み”を抜き、白い輪の内側へ“こちら側”の空気を一握り移した。
 男の輪郭が、半拍だけ滲む。
 白い髪の一本一本が、こちらの風で震える。
 琥珀の瞳が、はじめて“揺れた”。
「……“最強だった側”まで、こちらに引く気か」
「違う。——合流点を、こちら側に置く」
 カイは、胸の印へ最後の問いを投げた。
 答えは、鼓動。
 ラディウスは一歩前に出て、影と白の境目を舐める。
 封印陣の光は、一段深くなった。
 男が、笑う。
 今度は明確に。
「いい。——その選び方なら、壊さない」
 天井のコンクリから、粉がふわりと落ちた。
 通路の先、配電ハブの蓋が“内側から”開き、古い配線が低い音で唸る。
 破鍵団の符丁は、そこで力を失った。
 黒い獣は、輪郭を失い、影の粒にほどけて床に吸われていく。
 男は仮面も何もない顔で、羽根の束を手の中で潰し、灰にして吹いた。
 灰は、黒ではなかった。
 薄い銀。
 天城の言葉が胸の奥で鐘みたいに響く。
 ——罪の象徴ではなく、警告の印。
「君は、よく選んだ。“半分”を恥じる必要はない。“半分”で道を作れるなら、“一つ”でも壊さない」
「お前は、破鍵団なのか」
「違う」
 男は首を振る。
「私は、君の“置いていった側”。破鍵団は“開ける”ことに酔う。私は“開けないために開ける”側にいた。……もっとも、あの夜、私は“選び方”を間違えた。だから、こうして切り離された」
 彼は視線を落とし、足元の薄い銀の粉を指で掬った。
「黒羽は、君の“忘れてはいけないこと”の目印だ。誰かを罰するためではなく、君が君に“順序を守らせる”ための」
 リラが小さく息を吐いた。
「なら、彼は——敵ではないのね」
「敵でも味方でもない。君らの言葉で言えば、“証人”だ。——カイ」
 名を呼ばれる。
 呼ばれ方が、胸に収まる。
 男は片手を上げて、もう片方の手で自分の胸を軽く叩いた。
「君が選んだ“合流点”は、悪くない。だから、最後に忠告する。——“名”を呼ぶ時、罰の声で呼ぶな。約束の声で呼べ」
 それだけ言うと、男の輪郭は音もなく薄くなり、通路の空気に溶けた。
 黒い鍵穴模様は完全に消え、封印陣の光は地下の奥へゆっくり引いた。
 残ったのは、冷たい湿気と、古い配線の終わらない唸りだけ。
 レンジが肩で息をしながら、壁に背を預ける。
「……意味わかんねえけど、勝ったってことでいいのか」
「勝ち負けじゃない」
 カイは笑って答える。「“決め方”の確認だ」
 リラは頷き、袖口で汗を拭いながら、控えめに笑った。
「学内の“古い層”の鍵、ひとつ閉じた。動線に“余白”が生まれた。……良い選び方」
 その時、ポケットの中で小さな振動。
 ミナトからのメッセージが短く表示される。
《支点ログ確保。——“杭の同調率、94%”。残りは“名”。》
 胸の印が、笑った。
 ラディウスは姿を消し、けれど、足元の白い輪だけが一つ残っていた。
 白は、鍵ではない。
 “道”。
 半径の道。
 *
 地上へ戻る階段は、思ったより短かった。
 昼の光は薄く、校庭の風は、昨夜より柔らかい。
 講堂の扉の前には、まだ白い焦げ跡が残っている。
 天城が廊下の角に立っていた。
 彼女は羽根の観測紙を一枚、差し出す。
「解析、来たわ。黒羽の素子構造、“記憶の結晶”。——“名の器”に丁度いい」
「器?」
「名は、言葉だけじゃない。“入れ物”が要る。あなたは昔、それを“首輪”にした。今回は違う形にして。……例えば、“杭”。」
 杭。
 胸の印がそれに応え、薄く熱を持った。
 リラが横から覗き込み、ミナトの短文を見せる。
《杭の同調率、94%》。
「あと六パーセント」
「最後の六パーセントは“声”だ」
 天城の言葉は、いつも通り柔らかいのに、芯が強い。
「——約束の声で」
 講堂の扉の隙間から、八代がこちらを見ていた。
 目は灰色。温度は——昨日より少しだけ、暖かい。
「次の“管理者決闘”の準備を始める。今度は、学園の“前身施設”が相手だ。……古い層と、新しい層の“統合試験”。」
 レンジが首を鳴らして笑う。
「おいおい、ボス戦がチェーンで続くタイプかよ。嫌いじゃないけど」
 リラは真面目に頷く。
「準備の“順序”が肝心。——カイ、名はいつでも呼べる。でも、呼び方は今、作っている最中」
 カイは羽根を見た。
 黒ではあるが、昨日ほど黒くない。
 指先で持ち上げると、羽根の縁に細い文字が浮いた。
 読むことはできない。
 だが、その文字は、読まれる日を待っている。
 胸の印に、人差し指を当てる。
 鼓動が、いつも通りの速さで、しかしいつもより確かな音で返ってくる。
 地下で聞いた声が耳の奥で反響する。
 ——“罰の声で呼ぶな。約束の声で呼べ”。
 講堂の床の焦げ跡は、昼の光で薄く見える。
 だが、消えてはいない。
 円環の線は細く広がり、天井の梁へも、ステージ袖の暗闇へも、客席の一番後ろの席へも、見えない糸でつながっている。
 そこに杭を打つ。
 名は、そこに据える。
 封印解除:5/6。
 最後のひとつは、呼び方と順序が揃ったとき、自然に外れる。
 レンジが肩を組んできて、いつもの調子でからかう。
「で、元・最弱。——昼メシ、購買間に合うと思うか?」
「走れば」
 リラが咳払いをひとつ。
「走る前に、風紀的に必要な報告を。……“地下通路の封鎖措置と、古い層の監視強化”。それから——」
「それから?」
「……放課後、屋上で、もう一度“呼び方”の練習。あなたの半径の中で」
 カイは笑った。
「了解。合図は——」
「張る、受ける、外す」
 返事は三人で重なり、天城が小さく肩の力を抜く。
 八代は鍵束を指で操り、一本だけ輪の外へ置いた。
 その鍵の頭には、円環の刻印。
 “名の器”に似た形。
 校庭の旗が、昼の風に一度だけ丸くなった。
 羽根はポケットで軽く震え、胸の印は少しだけ温かい。
 地下で見た白い髪の自分は、完全に消えたわけではない。
 だが、向きが変わった。
 “敵”ではない。
 “証人”。
 そして、次の試合の観客。
 もしかすると、審判。
 階段を降りる足取りは、昨日より軽い。
 講堂の扉は、昨日より柔らかい音で閉まった。
 ——名は、呼ぶためにある。
 ——約束の声で。
 合図は三つ。張る、受ける、外す。
 四つ目は、呼ぶ。
 五つ目は、応える。
 最後に、選ぶ。
 昼の鐘が三度鳴った。購買は混む。
 それでも、半径は、広げられる。
 杭は、打てる。
 封印の最後の錠は、まだ外れない。
 けれど、次に外れる時、そこに“罰の声”はない。
 あるのは——約束の発音だけだ。

第14話 封印の再起動
 鉄骨が鳴り、空気の密度が反転する。
 地下通路のコンクリは波打つ薄皮みたいにめくれ上がり、代わりに白い壁面が“内側から”伸びてきた。光は一定の角度で降り、埃は舞わないのに、吸い込む息だけが懐かしい匂いを覚えている。
 ——塔。
 あの夜、世界の重さが一人に偏った場所。
 地下は、記憶に“形”を借りられ、塔の内部の幻影へ切り替わった。
「ここ、あんたの記憶なんでしょう!? 出口はどこ!」
 階段を駆け上がる途中、リラが振り向きざまに叫ぶ。足取りは軽いのに、眼だけが鋭い。
「塔の頂上。——あの日、俺が封印を完成させた場所」
 言った瞬間、胸の印がうなずくみたいに熱を帯びた。
「先導は俺に任せろ!」
 レンジが前へ出る。雷は刃を捨て、帯になって階段の踊り場へ広がる。黒い影獣が壁から剥がれるように這い出てきた瞬間、雷帯はその“芯”の所在だけを焼き、形を奪う。
「暴れさせねぇ。——丸めて流す」
『照度、上げる。ドローン一号、二号、三号、天井に沿って配置!』
 ミナトの声が耳奥の回線に飛び込み、天井のリブに小さな白色灯が次々と点る。影は長さを失い、“向き”だけが残った。
 壁面に影の揺らぎ。そこに、昔の自分が映る。黒外套の少年が、泣きながら狼の首輪を締め、白い塔に鍵を打ち込んでいる。
 拳の震え。歯の噛み合わせ。汗の塩辛さ。——全部が、いまの自分の皮膚に“逆再生”で乗って来る。
「なぜ、あんなに苦しそうなんだ」
 問うつもりはなかったのに、喉が勝手に声を押し出す。
 天城の声が頭の内側で柔らかく響いた。
『あなたは“最強であること”に怯えていたのよ、カイ。だから、封印を自分で起動した。——誰かのために、あなた自身を“鍵”にした』
「じゃあ、今の俺が“最強に戻っても”……」
『今度は、違う形にできる』
 天城は短く、しかし強く言い切った。
『前の封印は“ひとりで背負う鍵”。今度は、編むの。——複数で支える“織り”に』
 階段は終わらない。けれど、前より短く感じる。
 踊り場を一段抜きで飛ぶたび、耳の反響はひと拍だけ優しくなる。
 張る、受ける、外す。
 小声で合図を繰り返し、身体の奥に“順序”を染み込ませる。
 塔の心臓部——螺旋梁が集約する吹き抜けの先、記憶の空に横一文字の裂け目が走った。
 黒羽が竜巻のように渦巻き、中央に“過去のカイ”が立つ。白い髪、琥珀の瞳。仮面はない。
 彼は、昨日地下で見た“カイ・アーク”と同じ顔で、しかし表情だけが少し違った。
 ——泣いたあとの目。
 乾いて、澄んだ目。
「もう一度問う。名を思い出すか?」
 声は塔の骨を通って胸に入る。問いは強制ではない。しかし、逃がさない。
 カイは頷く。
「思い出す。ただし、俺の意思で」
 過去の自分が、わずかに微笑んだ。
「なら、受け取れ」
 階段の最後の段が、いつの間にか“道”に変わっていた。
 二人のカイの間に距離はなく、ただ一枚、薄い“合図”の膜があるだけ。
 指先が触れた瞬間——閃光。
「封印解除:6/6」
 胸の印で、最後の錠が音もなく外れた。
 白い輪が背骨から立ち上がり、影の皿は自動で三段、四段と増え、雷板の“山と谷”が息を吸う。
 力は——戻る。
 いや、“戻る”という語は弱い。
 “合流する”。
 過去と現在、影と白、狼と人、半径と名。
 全部が一つの管に集まり、巨大な圧で“今”へ流れ込む。
 次の瞬間、床が崩れ、天井が落ちた。
 力は従順ではない。
 制御の域からはみ出た余剰が、記憶の塔を“演出”として破砕する。
「カイ!」
 リラの声が響く。列制の線がカイとレンジとミナトの足場を“可動足場”へ変換し、金属梁が一時的に“人の体重を最優先で支える”法則に塗り替えられる。
「下がれ!」
 カイは叫ぶ。叫ぶより早く影を床下へ伸ばし、崩落の“向き”を一度だけ変える。
 それでも、押し返す力は足らない。
 空が裂け、白い輪が暴れ、黒羽が斜めに降る。
 巨大な円環が空に浮かび、あらゆる線がそこへ吸われていく。
 ラディウスが現れた。
 白い狼は躊躇わない。走り、飛び、カイの背中へ——
 ——飛び込む。
 “完全同期”。
 声にならない声が胸腔で爆ぜ、世界が白く塗り替えられた。
 音は消え、温度は“意味”になる。
 影は輪郭を捨て、光は境界を捨て、残るのは“向き”だけ。
 天城先生の声が、白の中でやわらかく輪郭を持った。
『最後の選択よ、カイ。——力を“この世界に戻す”か。それとも“新しい封印”を編み直すか』
 白の中で、カイは目を開いた。
 目を開いた先に、もう一人の自分がいる。
 光のカイと、影のカイ。
 罪と可能性。
 どちらでもあり、どちらでもない。
「お前は俺の“罪”か?」
「違う」
 光は笑って言う。
「お前の“可能性”だ。——“罪悪感の形”に閉じ込められた可能性」
「なら、一緒に行こう」
 影の手が、光の手を掴んだ。
 指先のかたさも、掌の温度も、寸分違わない。
 “同じ手”。
 握る力だけが、今朝より強い。
 融合の瞬間、足元の封印陣が“再起動”する音がした。
 塔の外壁に刻まれた古い文字が次々と書き換わり、硬い直線は織物の経糸(たていと)と緯糸(よこいと)にほどけていく。
 ——“守る力を、分け合う”。
 新しい文字は、そう読めた。
 白が薄くなり、音が戻る。
 崩れた床は“崩れきらず”、落ちた天井は“落ちきらず”、悲鳴は“悲鳴の直前”で止まる。
 完全同期の余韻が、塔の内側で“適量”に分配される。
「……息、できる?」
 リラが一歩、カイの半径の内側へ入ってきた。額に汗はあるが、目は笑っている。
「できる」
 カイは笑い、胸の印を押さえる。「まだ、いける」
「じゃあ、続きだ」
 レンジが雷板をもう一枚生み出し、揺れる梁の“刃”を丸める。
「上へ。頂上でケリつける」
『照度、最大。——……おい、すげえ』
 ミナトのドローンが塔心の吹き抜けを見上げ、思わず本音を漏らした。
 白い輪が塔の内面に沿って幾重にも重なり、規則ではなく“合意”で並んでいる。
 ——分け合われた力の輪。
 それぞれの輪の中に、小さな印の“空き”がある。
 人の手で、いつでも“支え足せる”余白。
 階段はもう、階段ではない。
 半径の道。
 列制の柵が身長の違う三人をそれぞれ“最短で安全な歩幅”へ誘導し、雷板が風の向きを“疲れにくい角度”へ撫でる。
 カイは重さを前に掛け過ぎないように影の皿を一段低くし、半径の“中心”を自分の胸ではなく“隊の真ん中”へ置いた。
 頂上に着く。
 記憶の空は裂け続け、その裂け目から黒羽が、いまは“白銀”の粉に変わって降る。
 中央に、過去のカイ——いや、可能性のカイが立つ。
 彼はもう泣いていない。
 首輪はない。
 代わりに、胸に薄い輪の刻印が光った。
「確認だ、契約者」
 ラディウスの声は、もう“背中にいる声”だった。
 狼は外側から支える者ではなく、“内側で一緒に走る伴走者”になっている。
『力を戻せば、君は“最強”に戻る。封印を編み直せば、君は“分配者(ディストリビュータ)”になる』
「戻すだけじゃ、前と同じ過ちの可能性に甘えることになる」
 カイはゆっくりと周囲を見る。
 リラは小さく頷き、ミナトは親指を立て、レンジは顎で空を示す。
 塔の外壁には、別の小さな輪が見えた。——観客席にいる誰かの手のひらの上にも、小さな印が灯っている。
 天城。シオン。八代。
 それぞれが、それぞれの場所で“支える足”になる準備をしている。
「俺は——“編む”」
 決めると、胸の印が軽く笑った。
「戻すんじゃない。分け合うために、織り直す。中心をひとつに固定するんじゃなく、半径を“共有可能”な輪にする」
 可能性のカイが静かに微笑む。
「そう言うと思った。——だから、これは返す」
 彼の手から、黒羽がふっと浮いた。
 しかし、黒ではない。
 白銀の薄羽。
 天城が言っていた“名の器”。
 カイはそれを受け取り、軽く息を吹きかけた。
 羽根の縁に、細い文字が浮かぶ。
 読めない。
 でも、読める。
 ——約束の発音の“型”。
「合図は三つ」
 リラが隣で小さく言う。「張る、受ける、外す」
「四つ目は、呼ぶ」ミナトが続ける。
「五つ目は、応える」レンジが笑う。
 カイは頷き、最後の一語を置いた。
「そして、“編む”」
 白銀の羽根を塔の中心——あの時、鍵を打ち込んだ穴へそっと差し込む。
 鍵の形は変わっている。
 硬い舌はない。
 柔らかな羽根の“繊維”が、穴の内側の古い刻字へ絡み、ほぐし、結び直す。
 封印は“起動”ではなく、“再起動”する。
 動詞の前に“再”が付くということは、前とは違う軌道に入るということだ。
「——封印、再起動」
 カイが言うと、塔の内壁に描かれた古文が一斉に光り、消え、別の文へ変わる。
 読める。
 今度は読める。
 ——守る力を、分け合う。
 ——中心は循環し、責任は分配され、決定は合意の上で行う。
 その瞬間、足元から“音”が上がってきた。
 鼓動の音。
 塔全体が心臓になり、学園の基幹と細い血管でつながる。
 封印は、心臓として再起動した。
 ひとりの胸ではない。
 みんなの胸で、満遍なく拍を刻む心臓だ。
 裂け目は閉じる。
 黒羽の渦は散り、白銀の粉は輪の縁へ吸い込まれる。
 可能性のカイは薄くなる。
 けれど、消えない。
 彼はこちらへ歩み寄り、肩が触れない距離で並んだ。
「では、行こう。——“一緒に”」
 融合は二度目でも、痛くない。
 胸の印が“余白”を残して彼を迎え入れ、ラディウスはその余白に丸くなって座る。
 内側に“場所”ができた。
 可能性の席。
 狼の席。
 約束の席。
 塔の外壁の文字は完全に書き換わり、最後の一行だけがゆっくりと形を定める。
 ——“半径は、共有するほど広がる”。
 読み終えた瞬間、塔は音もなく“地下”へ戻った。
 講堂への連絡路が開き、天井のリグの唸りが現実の厚みを戻す。
 階段を降りると、天城が待っていた。
 白衣の袖をまくり、額に汗。
「脈、貸して」
 カイは手首を差し出す。
 天城は触れ、薄く笑った。
「拍は早いけど、乱れてない。——よく、編んだわ」
 シオンが側壁にもたれ、端末から視線を上げる。
「結界ログ、“古い層”と“新しい層”の統合作用、安定。管理者決闘のフェーズ2、先に進める」
 八代は講堂の扉に寄りかかり、鍵束を回した。
「……選んだな」
「はい」
 カイは答え、ポケットの中の羽根——いまは白銀へ色を変えた“器”を指で確かめる。
「封じるためじゃなく、つなぐために」
 リラが肩で息を整えながら、ふっと笑う。
「半径、また広がったわね。——風紀としては、監視範囲が広くなって困るけど」
「それは頼りにしてる」
 ミナトがドローンを肩に乗せ、レンジがハイタッチの角度を合わせる。
「最強、うまく“丸めた”じゃん」
「丸めるの、得意だから」
「最弱卒業の次は“最強、手懐け”か。肩書き増えるな」
 笑い合う間にも、講堂の床には白い円環が薄く残り、観客席の端から端まで見えない糸がかすかに震えている。
 拍は広がる。
 分け合われた力は、誰の胸でも同じリズムで鳴る。
 ふと、どこからか小さな声がした。
 ——“カイの半径、ここまで!”
 振り返ると、空の椅子の背に白銀の粉が一粒、また一粒と降りて消えた。
 あの夜の子どもの声は、もう“罰の声”ではない。
 ——約束の声だ。
 天城が言う。
「“名”は、呼んでもいい。でも、今日じゃなくてもいい」
「分かってます」
 カイは胸の印に指を当て、深く息を吸う。
 封印解除:6/6。
 封印再起動:1/1。
 その二つの表示が、見えない板に並んで、やがて消える。
 残るのは、言葉の代わりに置かれた“順序”。
 張る、受ける、外す。
 呼ぶ、応える、編む。
 そして——選ぶ。
 講堂の扉が開く。
 昼の光は、昨日より白い。
 風は、昨日よりやわらかい。
 それでも、鍵穴はまた誰かに描かれるだろう。
 だから、半径はまた広げる。
 杭はまた打つ。
 でも、今度は——ひとりじゃない。
 白い狼が内側で尻尾を一度振り、可能性のカイが同じ景色を見て微笑む。
 レンジが肩でぶつかり、リラが前を歩き、ミナトのドローンが“先導灯”として小さく瞬く。
 八代は鍵束から一本を外し、円環の刻印が付いたそれを講堂の卓上に置いていった。
 シオンは腕時計のベゼルをカチリと合わせ、次のフェーズの秒針を始動させる。
「——行こう」
 カイは言う。
「守る力を、分け合うために」
 風が合図で応え、校章旗が午後の光で小さく円を描いた。
 新しい封印は、心臓として動き始めた。
 そして、心臓は——いつだって、“みんなの真ん中”にある。

第15話 最強の証明

 白が収束すると、そこは講堂だった。
 さっきまで塔の心臓だった空間が、現実の木目と鉄骨の硬さに戻る。観客席の生徒たちは息を呑み、立ち上がりかけた体をどう座らせるべきか決めかねている。ステージの床に沈む円環が、ふっと明るさを増した。白金の線がゆっくりと回転を始め——六連の封印紋に走っていた“固定”の刻印が、“循環”の矢印に書き換わっていく。

「……ここが、最初の試合場」
 カイが呟くと、天井の照明が一瞬、呼吸するみたいに上下した。

 ステージ袖から、八代が現れた。
 鍵束を掌でころがしながら、いつもの無表情。けれど目の奥の温度だけは、昨日より少し暖かい。
「君は力を取り戻した。だが、それをどう使う?」

「——守るために使う。けど、俺一人じゃない」
 カイは掌を胸の高さに掲げる。
 応えるように、印が薄く瞬いた。
 次の瞬間、彼の周囲の空気に“輪”が六つ、静かに浮かぶ。半透明の白い円環が、花弁みたいに互いの縁をかすめ合い、円を成す。
 六つのうち、三つは細い糸を伸ばしてステージ脇へ——観客席の端に立つ三人のところへ結ばれた。

「……おい、勝手に来んじゃねえよ。照れるだろ」
 レンジが肩で笑い、拳を軽く握る。雷は刃を捨て、板として彼の掌と円環を接続する。

「最短の動線、出る。——通すわよ」
 リラは風紀の腕章に触れ、列制の線を輪の縁に沿わせる。白い補助線が席と席の間に生まれ、避難路の最小単位が講堂中に広がった。

『リンク確認。ビーコン同調率、良好!』
 ミナトのドローンが二機、天井リグの間にふわりと浮き、白い微光で観客席を薄く照らす。
 カイの前の輪が、ひと呼吸分だけ大きくなる。

「半径は、分けられる」

 言葉と同時に、雷と列制の光線が交差し、観客席の照明が一斉に点いた。
 拍手のかわりに、呼吸がひとつ整う気配。
 ステージの前列では、天城が白衣の袖を捲り、視線で「いける」と合図した。
 シオンは既に端末を開き、指先を迷いなく滑らせている。

 ——その時、講堂の天井が、外側から叩かれた。
 塵が落ちる。軽い音ではない。鉄骨が鳴る。
 次の瞬間、白い天板を突き破って、黒羽の渦が再来した。夜ではないのに、暗さだけが穴の形で落ちてくる。
 破鍵団の本隊。結界の新旧境界を“外側から”まとめて撫でる、無遠慮な手だ。

 シオンの声が、通信網の全層に落ちる。
『街全域で異常反応! 奴ら、基幹鍵を一斉に狙ってる! 講堂はハブ。——ここを落とせば、他がドミノだ!』

「ここで止める!」
 カイは短く答え、円環の回転に呼吸を合わせる。
 講堂の外壁が破れ、黒影の波が押し寄せた。
 人の形ではない。影の形の“人”でもない。
 鍵穴の縁から剥がれ落ちた“向き”の波。意志の代わりに符丁だけで走る暴力。

「張る!」
 リラが叫び、列制が客席の縁に沿って“見えない柵”を立てる。足の置き場所を半歩ずらすだけで、転び方が変わる。
「受ける!」
 レンジは雷板を二重に重ね、空気の刃を丸め、波の先端の“視線”を鈍らせる。
「外す!」
 ミナトのドローンが、講堂の上空へ緊急防護フィールドを投射した。膜は薄い。だが、“人基準”で角度が最適化されている。

 カイは影で“未来線”を重ねる。
 倒壊予測、共振線、風の流れ。
 ステージ吊りのリグ、天井梁の負荷、左右出口の詰まり具合。
 全部の線が一本に束ねられ、円環の縁へ吸い込まれる。
「——来い、ラディウス!」

 狼の声が、意味で応えた。
『半径、拡張許可』

 白い輪が講堂の天井を抜け、校舎の屋根を越え、街の上空に広がっていく。
 輪は強すぎない。
 包み込むだけ。
 暴走する黒影を“中空”で包んで、地表ではなく“空”で衝突を起こし、割れ目を粉に変える。

 八代は見上げながら、口の端をほんの少しだけ動かした。
「……あれが“最強の証明”だ」

 ——敵を叩き潰す力の誇示ではない。
 ——守るために、みんなで扱える向きに“丸めた”力の証明。

 白い輪はさらに増え、街の上を幾重にも重なりながら走る。
 講堂のスピーカーからは、天城の緊急アナウンスが“落ち着いた声”で流れ、避難経路が音で描かれる。
 保健室のハーブの匂いが、なぜか風に乗って薄く届く。
 生徒たちの足音は踊らず、走るべき速さで走り、止まるべき場所で止まる。

 けれど——まだ終わらない。
 黒影の波が薄くなり、輪が掃き払った後に、一体だけ、異質な影が残った。
 波ではない。
 “人”の形に似ていて、だが違う。
 仮面の男——過去の断片。地下で向き合った“カイ・アーク”の、別角度の影。
 彼は輪の中心に立ち、荒い呼吸ひとつせず、ただこちらを見る。

「俺が消えれば、力も消えるぞ!」
 仮面は外していない。
 だが、その声はよく知っている声だ。
 カイは、ステージの縁から一歩、前へ出た。

「——いいさ。俺の半径は、もう“みんなの中”にある」

 レンジが笑う。「言うね、相棒」
 リラは静かに頷き、列制の線をカイの足場に一枚、薄く敷く。
 ミナトのドローンが、その線に光を落とし、“最短ルート”を白でなぞる。

「合図、いつも通り」
 リラが言う。
「張る、受ける、外す」
 カイは息を整え、胸の印に指を置いた。
 白い輪が肩甲骨の間から伸び、背骨に沿って“向き”を立てる。
 影は白に変わり、光は影を撫で、一本の“槍”の形になる。
 ——暴力の槍ではない。
 ——道を開けるための杭。

 走る。
 講堂の床板が軽く鳴り、次の瞬間には天井の穴の縁に立っていた。
 輪の風が頬を撫で、髪を後ろに引く。
 仮面の男が首をわずかに傾ける。
「最後にもう一度、選ぶか?」
「もう選んだ」
 返事は短く、静かだ。

 突き刺す瞬間——二人の声が重なった。
 カイの喉から、自然に出た言葉。
 仮面の奥から、遅れて重なる声。
 「——ありがとう」

 爆風。
 だけど、耳は痛くない。
 衝撃は外に逃げ、白銀の粉が光になって散る。
 黒い羽根は黒のままではいられず、次々に白へ移る。
 光は輪に吸い込まれ、輪は街の上で静かに薄くなっていった。

 講堂へ戻る風は、さっきよりも柔らかい。
 カイは天井穴の縁からふわりと降り、列制の足場に二歩で着地する。
 レンジが拳を合わせ、ミナトが親指を立てる。
 リラは一秒だけ目を閉じ、開けた。
 観客席には、まだ座ったままの生徒、立ち上がったまま固まっている生徒、泣いて笑っている生徒。
 天城は胸に手を当て、脈を確かめてから安堵の息を吐いた。
 シオンは端末のログを保存し、わずかに口角を上げる。
 八代は鍵束を鳴らし、ステージの中央へゆっくり歩く。

「……終わったわけではない」
 八代の第一声は、無慈悲なほど現実だ。
「街の外周、基幹鍵のいくつかに軽微な傷。破鍵団は撤退しながら“位置情報”を集めている。——だが、今日の“証明”は残る」

 カイは頷き、掌を開いた。
 六つの輪は、まだ薄くそこにある。
 ひとつはリラへ、ひとつはレンジへ、ひとつはミナトへ。
 残りの三つは、空いたまま浮いている。
 講堂の後方で、白衣の袖がそっと上がる。天城。
 教師席の列で、灰色の目が静かに瞬く。八代。
 通路の影から、戦術長の目が叡智の色で光る。シオン。
 輪が、細い糸を伸ばして、それぞれの胸の前に止まる。
「強制じゃない」
 カイは言う。
「でも、半径は“分け合うほど広がる”。——手を、貸して」

 答えは、言葉より早く届いた。
 天城は白衣の上から胸に手を当て、輪を受け取る。
 八代は鍵束を左手に移し、右手を輪へ。
 シオンは迷わず、腕時計の上から輪を通す。
 六つが結ぶ。
 輪の回転が一段落ち着き、円環の白が講堂の梁を撫でる。

「“最強の証明”ってのは、こういうことだ」
 レンジが笑い、肩を組みに来る。
「一人で“最強”じゃねぇ。“最強を渡せる奴”が、最強」
 ミナトはドローンのログを覗き込みながら、いたずらっぽくウィンクする。
「理科的にも証明できると思うぜ? 共有時の損失、俺が限りなくゼロに近づけっから」
 リラは咳払いをひとつ。
「風紀的にも承認。責任の分配と動線の可視化、今日の運用を基準に規定を整備する」
 カイは笑って頷く。
 内側で、白い狼——ラディウスが尻尾を一度だけ振った。
 “よくやった”。
 言葉はないのに、はっきり伝わる。

 ふと、講堂の入口で小さな影が動いた。
 下級生が手を挙げる。
「センパイ……“カイの半径、ここまで”って、ほんとに、ここまでですか?」
 会場の空気が少し和む。
 カイはその子の前に膝をつき、輪のひとつをほんの少し傾けて見せた。
「“今は”ここまで。でも、明日はもう一歩伸びる。伸ばす」
 子どもは目を丸くして、それから笑った。
「じゃ、明日は、ここまで!」
 小さな指が、輪の外側をちょんと触る。輪は静かに、記憶の中の声を反響させた。
 ——“カイの半径、ここまで!”

 八代が咳払いをし、全体へ向き直る。
「本戦の続行は一時中断。……臨時アナウンス。街外周の安全確認が完了次第、“管理者決闘”フェーズ2へ移行する」
 シオンが腕時計のベゼルを合わせ、短く補足する。
「破鍵団は“開けるための情報”を取りに来る。こちらは“閉じるための道”を先に敷く。今日は、そのための下地が整った」

 天城が近づき、カイの手首の脈を測る。
「拍は早いけど規則正しい。——ねえ、カイ。今、名を呼んでもいい。けど、呼ばなくてもいい」
 カイは、白銀に変わった羽根——“名の器”に指を沿わせ、胸の印を軽く押す。
「呼ぶよ。……でも、それは勝ち名乗りじゃない。道の名前だ」

 講堂の天井は、もう穴を閉じかけている。
 そこへ残るわずかな空白へ、白い輪が一つ、最後の拍で昇っていった。
 黒羽はもう戻らない。
 仮面の男の欠片は、光になって散った。
 けれど、彼の残した“可能性”は消えない。
 内側の余白の席に、静かに座っている。

 合図は三つ。張る、受ける、外す。
 四つ目は、呼ぶ。
 五つ目は、応える。
 六つ目は、編む。
 そして、最後に——選ぶ。

 カイはステージ中央へ立ち、ゆっくりと息を吸い、観客席を見渡した。
 友の顔。先生の目。知らない誰かの涙。
 全部が半径の内側にある。
「——“半径(ラディウス)”。」
 名を、約束の声で呼ぶ。
 胸の印が光り、円環が一度だけ強く脈動した。
 それは勝ち名乗りではない。
 “道の開通”のサイン。
 封印は心臓として拍を刻み、拍は講堂から校舎へ、校舎から街へ、街から空へ、薄く、しかし確実に広がっていく。

 白い狼の気配が、内側で満足そうに目を細めた。
 八代は鍵束を握り直し、静かに呟く。
「——証明、完了だ」

 講堂に、ようやく本当の拍手が起きた。
 雷のようでも、波のようでもない。
 “半径”の中心にいる誰かだけに届くのではなく、輪の外側の誰にでも同じ温度で届く拍手。
 天井の照明が一つ、二つ、規則正しく消えていく。
 舞台袖の黒幕が揺れ、次の幕の準備の気配が走る。

 シオンが通信を閉じ、短く言う。
「集合——放課後、屋上。次の“道”を引く」
「風紀、許可する」
 リラが即答し、レンジが笑い、ミナトのドローンが満足げに一回転した。

 円環はまだ、薄く光っている。
 その光は、もう“誰かひとり”のものではない。
 分け合える最強。
 ——それが、今日ここで示した“最強の証明”だった。

第16話 静寂のあと

 数時間後。
 街の結界は安定を取り戻し、校門の上を流れる薄白い膜は、夕陽を受けてやわらかい橙に染まっていた。救護班の車両が校庭に並び、臨時の導線テープが風に揺れる。体育館前には折りたたみベッドが臨時に敷き詰められ、保健委員と医務スタッフが黙々と包帯や冷却パックを配っている。
 さっきまで“最強の証明”が轟いていた世界は、いまは——妙に音がよく響く。包帯テープの“びりっ”という音、紙コップに落ちる白湯の音、遠くのサッカーゴールが風に鳴る音。静けさは、音を消すのではなく、丁寧に拾い上げて並べていく。

「——もう無茶しすぎ」
 医務テントの片隅で、白石リラが肘に巻かれた包帯をちらりと見下ろし、笑った。
「規律違反、山ほどよ。報告書、何枚いると思ってるの?」

「風紀委員の監督責任でお願いします」
 カイは無意識にいつもの返し方をしたあと、少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せた。
 リラは呆れた風に首を振りながらも、包帯の端をきゅっと押さえ、結び目を綺麗に折り込んでくれる。
「……次は、先に“張る・受ける・外す”の計画を出して。私の判子がいる」

「判子、持ってるの?」
「風紀委員は何でも持ってるの」
 言いながら、彼女は胸ポケットから、本当に小さなシャチハタを出して見せた。赤い。
 カイは思わず笑ってしまう。笑いの拍は、さっきよりもずっと、普通の速さだ。

「ほい、“最後の一本”。争奪戦を文字通り勝ち抜いてきた」
 ベッドの隣にどっかり腰を下ろしたレンジが、焼きそばパンを高く掲げた。包装は温もりを微かに残している。
「購買、早すぎる復旧。経営者が化け物」

「ありがとう」
 受け取った瞬間に、腹の底がやさしく鳴った。
 粉の匂い。ソースの甘辛。学校の昼休みと、戦場の余韻が、一つの紙袋に同居しているのが可笑しい。
 レンジは白湯をすすり、空をあおぐ。
「なぁ、最弱。……いや、元・最弱。今日の“輪”、あれ、ズルだよな。ずっと見てたけど、何度も鳥肌立った」

『記録したかったんだけどなぁ……』
 床に座り込んだミナトは、ばらばらになったドローンの羽根を並べ、端末にケーブルを挿している。
「データ自体は“白”の成分が強すぎて、センサーが飽和。形状のログは掠れるように飛んだ。でも、温度だけは測れた。“人間の体温”と同じだったよ」

「そうか……それなら、成功だ」
 カイは頷き、焼きそばパンにかぶりつく。
 熱すぎず、ぬるすぎず。人が安心する温度。
 白い輪のぬくもりは、確かにそんな感じだった。

 医務テントの幕が揺れ、天城先生が入ってくる。白衣の袖はまくり上げられ、額に汗が滲んでいるのに、表情は落ち着いていた。
「はい、脈」
 言われるより先に手首を差し出す。天城は親指で脈をとり、一拍、二拍——目を細める。

「真名は思い出した?」
 問いは柔らかい。けれど、鋭さも含んでいる。
 カイは短く頷いた。
「はい」

「教えて」
 天城の声は、保健室のハーブの匂いと同じ色をしている。
 カイは、胸の印に軽く指先を添えた。
「——カイ・レン。“限りを守る”」

 天城はわずかに目を細め、それから頬を緩めた。
「素敵ね。意味の選び方が、あなたらしい。……“限り”は、諦めじゃない。“輪郭”よ。輪郭があるから、守れる。輪郭を共有できるから、分け合える」

 レンジがひょいと顔をのぞかせる。
「つまり俺の雷も、輪郭を持ったから丸められる、って話?」
「そう」
 リラが横顔で微笑む。「あなたのやり方、好きよ。刃を立てない雷。規律の中で一番の“悪童”が、いちばん模範的」
「照れるわ」
 レンジは耳まで赤い。
 ミナトが咳払いをして、ドローンの電源を入れ直した。
「外周の点検、あとでまた行くよ。結界の“新旧統合ログ”、シオン先輩から借りれた。ヒューリスティック噛ませて、破鍵団の“潮目”を可視化する」

 その名前に誘われたように、テントの外から背の高い影が近づいてくる。
 真壁シオンは黒のジャケットの襟を指で整え、端末をかざした。
「統合ログ、アップリンク完了。街の基幹鍵の“呼吸”は安定。……ただ、波形にわずかに“癖”が残っている。破鍵団は退いたが、向こうも“学習”した。次はもっと巧妙に来る」
 カイはパンをもう一口齧り、グッと嚥下してから答えた。
「その前に、俺たちが“道”を引く。先に」

「それが“最強の証明”の続き、というわけだ」
 シオンは薄く笑い、しかしすぐに笑みを消した。
「——八代先生が呼んでいた。講堂のチェック。『彼の選んだ循環、教師の目で検分する』と」

 医務テントから講堂へ移動する途中、校舎の廊下には、見慣れた景色と見慣れない景色が一緒に並んでいた。
 落し物の告知。文化祭の貼り紙の上に“臨時安全指針”のプリント。
 破れた天井板はもう仮補修され、配線はカバーの下で新しい道を通る。
 歩く生徒たちは、疲れた顔で、でも、どこか誇らしげだ。

 講堂の床には、まだ白い円環が薄く残っていた。
 八代はステージの中央、円環の心臓に立ち、鍵束を片手で転がしている。
「君の“循環”。……現場の感想は——“よく通る”。だが、講師の感想は、少し違う」
「違う?」
「“よく通りすぎる”。君がいなければ、過分に流れてしまう箇所がある。だから——“流量制御”を、君以外でも担えるように」

「分かってます」
 カイは即答し、円環の縁に膝をついた。白い輪の“骨”を指先でなぞり、空気に薄いマーカーを引く。
「半径は分けられる。循環は、委ねられる。……リラ、動線の“緩衝帯”を二段増やしてもらえる?」
「承認。授業中の混雑を避けるため、休み時間ごとに“柵”の位置を微調整する」
「レンジ、雷板を常設じゃなく、巡回式に。過剰遮蔽は、疲労蓄積につながる」
「任せろ。雷は“眠る電荷”にしてポールに預けとく」
「ミナト、擬似結界のログ、共有。——後で“温度杭”を置こう。体温と同じ温度のピンで、輪の中心を校内に散らす」
「いいね。みんな触って“わかる”やつ」

 八代は目を細め、鍵束の一本を抜いて、カイの前に置いた。
 鍵の頭には円環の刻印。
「教師の感想、もうひとつ。“授業として面白い”。……守ることを、教えられる」

「先生」
 カイが顔を上げる。八代は鍵束をもう一度鳴らし、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「礼は不要だ。——私は監督者でもあり、見届ける者でもある」

 そのあと少しだけ、誰も喋らない時間が流れた。
 円環の線は呼吸し、梁の影は静かに伸び、講堂の天井は先ほどの穴を“なかったこと”に近づけようとしている。
 静寂は、怖くない。
 怖くないのだ、と身体が知りはじめている。

 *

 夜。
 屋上。
 風は昼より冷たく、街の灯は昼より遠い。
 フェンスの影が床に円を描き、そこへ白い輪が重なる。
 ラディウスが姿を現した。狼の輪郭は、もはや“外”ではない。光と影の縫い目に座るように、そこにいる。

「契約者」
 声は音ではなく、意味で届く。いつもどおり。
「君はもう封印を必要としない。だが、封印はまだ、生徒たちの心に残っている」

「うん」
 カイはフェンスにもたれ、街の灯を数えるみたいに視線を滑らせる。
「鍵穴の形に怯える視線。暴走に触れた体の震え。……あれは“封印を教えるための封印”じゃ、ほどけない」

「だから、どうする?」

「残る」
 答えは、用意していたわけじゃないのに、すぐに出た。
「教師でもなく、英雄でもなく、“転校生”として」
 ラディウスが、少しだけ首を傾げた。
「転校生は、いつか出ていく者という意味もある」

「だから、いい。『いつかいなくなるかもしれない誰か』が、毎日そこにいる——それだけで、安心する人もいる。……“いつか”を怖がる心に、今のうちから『道』を引きたい」

 狼は微笑んだように見えた。
「それが、君の選択だな」

 カイは頷く。風が頬を切る。
「俺の半径は、まだ広がり続けるから。——ひとりでじゃなく、みんなで」

「名」
 狼は一拍置いて言う。
「君は“カイ・レン”。“限りを守る”。その名を約束の声で呼べたなら、道は自然に増える」

「……ラディウス」
 呼べば、胸の印が静かに笑った。
 遠く、公園の街灯が一つ、規則正しく明滅し、また静まる。
 ラディウスが空を見上げる。
「上空の輪は、薄くなっていく。だが、消えはしない。温度杭を置けば、子どもでも触って“わかる”。——君の温度は、そこに残る」

「人間の体温」
「そう。守る力の単位は、度でも、ジュールでもない。“安心”だ」

 笑いが喉に滲んだ。
 夜の屋上で笑うのは、いつぶりだろう。
 自分の笑い声が、夜に似合うのだと、初めて思った。

 フェンスの影が風で揺れ、円環の白がそれに合わせてわずかに広がる。
 リラからメッセージ。《報告書、雛形できた。あなたの“半径”を行政用語に翻訳する地獄》
 思わず吹き出す。返す。《ありがとう。半径=可動安全半径(暫定)。訳:守りたい場所に合わせて伸び縮みする》
 レンジから写真。《焼きそばパン、第二便、確保》
 ミナトからスタンプ。《熱杭プロトタイプ、明日持ってく》
 シオンからは淡々とした文面。《破鍵団、外周で沈黙。……静けさは、次の手前。備える》

 最後に、天城から。《脈、落ち着いてる。眠れる?》
 カイは空を見上げ、狼の横顔を眺めた。
「眠れるかな」
「眠れ」
 ラディウスは短く言う。「眠るのも、守るうち」

「そうだな」
 風が少し強くなる。遠くで犬が吠え、どこかのベランダで洗濯物がはためく音がした。
 静寂は、音のないことではない。
 音が“怖がる方向”を忘れていくこと。
 その中で、眠りに落ちること。

 狼は輪の縁を回り、ふと立ち止まって振り返った。
「契約者。君が“転校生”であることを選んだなら——次に転がり込んでくる“転校生”の席も、空けておけ」

「次?」
「世界は、君の物語のために存在しているわけではないからな」
 ラディウスの目が笑った。
「君が編んだ循環には、別の物語も乗れる。……それが“分け合う”ということだ」

「——了解」
 カイは笑って、胸の印を軽く叩く。
「席は多いほうが、賑やかでいい」

 狼は影にほどけ、白い輪だけが床に小さく残った。
 その輪はゆっくりと薄くなり、夜の色へ溶けていく。
 屋上の扉が金属音を立て、風が一拍だけ強く吹く。
 遠く、講堂の梁が微かに鳴った。心臓の鼓動みたいに。

 *

 翌日の朝。
 放送で、臨時の全校集会が告げられた。
 講堂に集まる生徒たちのざわめきは、いつもより軽い。
 ステージには、円環の線がもう“薄い背景”として常設され、梁には新しい安全ハーネスが一本、目立たない角度で張られている。
 八代はいつもの灰色の目で前を見て、短く挨拶した。

「臨時の告知が二つ。——一つ、学園結界“七曜”の循環モードは、学内の合意のもと正式に運用される。責任は分配し、判断は可視化する」
「二つ、期末演武“管理者決闘”フェーズ2は、来週に延期。代わりに“循環運用実地訓練”を行う。風紀委員、技術班、生徒会は共同でプランを提出せよ」

 ざわめきが広がり、天城が保健委員の隊列に何かを囁く。
 シオンは腕時計をいじり、レンジは後ろを振り返って親指を立てる。
 リラがカイの袖を引いた。
「……あなた」
「ん?」
「“転校生”のスピーチ、頼まれてる。——“半径の説明”」
「マジで?」
「行政用語への翻訳、引き受けたの私だから」
 彼女は小さく笑い、「逃げないで」と囁いた。

 ステージ中央。
 円環の縁に立つと、不思議と緊張は薄らいだ。
 昨夜の風。焼きそばパンの温度。保健室のハーブ。雷の板の乾いた手触り。列制の線のすべり。——全部が、ここにつながっている。

「篠崎カイです」
 声は、驚くほど普通だった。
「俺の“半径”は、分け合えます。昨日、みんなと証明しました。だから——“最強”は、一人じゃない。みんなで持てる」

 ざわめきが一度だけふくらみ、すぐに収束する。
 言葉は続く。
「怖いものは、なくなりません。怖さは合図だから。だけど、怖いときに“どこへ行けばいいか”、“どの順で動けばいいか”を、俺たちは決めて、輪にして、ここに置きます。張って、受けて、外して、呼んで、応えて、編んで、選ぶ。——それを、授業にします」

 どこかの席から、拍手がひとつ。
 すぐに止む。
 反応がほしいわけではない。ただ、届けばいい。輪は勝手に広がるから。
「ルールは、縛るためじゃない。動けるようにするための輪郭です。……風紀委員が怖い顔で見てる今も」
 会場に笑いが走り、リラが肘で脇腹を小突いた。
「以上です。——よろしくお願いします」

 拍手は、昨日よりも少しだけ大きかった。
 八代は頷き、天城は白衣を揺らし、シオンは端末に“OK”のチェックをつけた。
 レンジが「よっ」と声を上げ、ミナトはドローンを小さく回転させる。
 講堂の梁が、心臓の拍に合わせて、ほんの少しだけ鳴った。

 *

 ホームルーム。
 黒板には「巡回係」「点検班」「温度杭設置」とチョークで走り書きされ、矢印で組み合わせが線で結ばれている。
 班分けのざわつきの中、クラスの後ろの方で、聞いたことのない小さな声がした。
「……転校生さん」
 振り向くと、昨日の下級生が、廊下から顔だけ出していた。
「“半径”、今日の放課後も“ここまで”って言っていいですか」
 カイは笑って頷く。
「言おう。……じゃあ、今日は、ここまで」
 指で、昨日より一センチだけ、大きく円を描く。
 子どもは嬉しそうに頷き、駆けていった。

「転校生」
 八代の声が扉の向こうからした。
「職員室へ。……報告書の“余白”、君にしか書けない欄がある」

「はい」
 立ち上がって扉へ向かうと、リラが背中を指でちょん、と突いた。
「——逃げないでよ、書類からも」

「それが一番の試練だな」
 返しながら、胸の印に指を当てる。
 そこは、もう熱すぎない。
 人間の体温。
 “道の温度”。

 廊下の窓から入る風は、昨日よりもほんの少しだけ暖かい。
 遠く、街のどこかで黒い羽根が白銀の粉になって、まだ空気の中に微量に漂っている気がした。
 封印は再起動し、心臓は動き出した。
 世界はすぐには変わらない。
 けれど、“変えられる道”は、もう引かれている。

 ラディウスの気配が、内側で尻尾を一度だけ振った。
——行け。
 短い意味が届く。
 カイは頷いて、職員室へ歩き出した。

 “転校生”として。
 英雄でも教師でもない肩書きで。
 今日の“静寂のあと”を、静けさのまま終わらせないために。

 合図は三つ。張る、受ける、外す。
 四つ目は、呼ぶ。
 五つ目は、応える。
 六つ目は、編む。
 そして、最後に——選ぶ。

 その全部を、授業に変える。
 半径は、今日もまた、ひとセンチだけ、広がった。

第17話 再会と別れ

 春の風は、冬の名残りをくるみながら、制服の裾を迷わせるように揺らしていく。桜の花弁は今年もきちんと遅刻して、始業式の拍手に追いつけずに、校舎の陰からふわりと顔を出した。
 霧ヶ丘異能中等部は復興を終え、瓦と配線と決意の並べ直しを済ませた新学期を迎えていた。講堂の梁は、もう心臓の拍には鳴かない。ただ、拍に合わせて“鳴らさない”と決めた木のように、静かにそこにある。

 チョークが黒板で浅く鳴る。
 篠崎カイは、窓際の席でノートを取りながら、いつものように片耳を外へ貸していた。校庭から吹き上がる風の温度、廊下を走る新入生の足音、誰かの笑いがフェンスで跳ね返って角を丸くして戻ってくる音。——全部、半径の中に入ってくる。

「見て!」
 右隣で、工藤ミナトが勝ち誇った顔をして、小型の筐体を机に置いた。
「半径計算機“R-6”。君の未来線を可視化できるんだ。温度杭と同調、擬似結界の薄膜ともリンク。——数式だって、今日はグラフィカルに踊る時代だぜ」

「ネーミングセンス、どうにかしろよ」
 カイは笑いを堪えきれず、咳払いに紛らせる。筐体の天面には、確かに“R-6”と刻印があった。周囲の新入生が興味津々に身を乗り出し、「すげー」「触っていいの?」と囁く。

「雷対応も追加してくれ!」
 背後から、鷹羽レンジが乱入。片手に購買のコッペパン(今日も、焼きそば)を持ったまま、もう片方で筐体をつつく。
「雷の板、位相反転で“静かな泡”に落とすとき、ログが飛ぶんだ。そこ、メモリ二枚噛ませたら“見える”だろ」

「この学校、メモリが足りないのは人のほうだよ」
 ミナトは言いながらも、にやりと笑い、「やる」と短く答えた。

「静かに」
 教壇に立った風紀委員長——白石リラが、いつもの落ち着いた声で新入生に向き直る。
「風紀委員会より。——力は誇りではなく、責任です。規律は縛るための線ではありません。動けるようにするための“輪郭”です。今日からあなたたちは自分の半径を持ちます。張って、受けて、外して。呼んで、応えて、編んで、選ぶ。その順序を忘れないで」

 新入生の中に、頷く顔がいくつもある。誰かは目を伏せ、誰かは顔を上げる。
 カイはその輪郭を見守りながら、胸の中で小さく頷いた——大丈夫だ、伝わっている。言葉は輪になる。輪は手から手へ渡る。

 *

 その日の放課後は、春の晴れ間がよく似合う実技——“循環運用実地訓練”だった。
 講堂の円環は背景の一部として薄く灯り、温度杭は廊下の角、階段の踊り場、屋外通路の風の屈折点にそっと置かれている。杭は握れば人肌、離せば空気と同じ。触る子は皆、少し笑う。「あったかい」。

 リラは全体の動線を指示し、レンジは雷板の巡回を担当、ミナトはR-6を片手に温度杭の同調率を見て歩く。
 カイは“転校生”の立場で、半歩後ろを歩きながら、輪が過不足なく回っているかを確認する。指示を出しすぎない。必要なときだけ、指の先で未来線を撫で、失敗の角を丸める。
 と、その時——

「——あ」
 体育館通用口の影から、短い悲鳴。新入生のひとりが、配布されたばかりの“記憶補助タグ”を落とし、タグの“重ね張り”が誤って作動したのだ。タグの薄い光が指に絡み、足元の影が“ちょっとだけ深くなる”。
 暴走、と呼ぶほどではない。けれど、初めて触る子には十分すぎる恐怖だ。

「張る」
 リラの声が先に届き、列制の線が床に薄い柵を立てる。
「受ける」
 レンジは雷板の角を落として、空気の刃を丸める。
「外す」
 ミナトはR-6の画面を二度叩き、タグの重ね張りの“余白”に指で印をつける。
 カイは新入生の前に膝をつき、目線を合わせた。
「大丈夫。怖さは合図だ。……ここ“まで”」
 指で小さな輪を描き、半径の“今日の限り”を示す。
 子どもは息を吸い、吐き、頷いた。タグの光が薄くなり、影は“ちょっとだけ深い”の手前で止まる。
 拍手は起きない。起こさない。——うまくいった時の音は、静けさの回復だ。

 訓練はそのあとも滞りなく進み、日が傾く頃には温度杭の頭に薄い夕陽が一つ一つ乗って、小さな灯台みたいに見えた。
 その灯りの下で、新入生たちは最後の説明を聞く。「半径は、分け合える」「“怖い”は悪者じゃない」。

 解散の空気がほどけ、各班が片付けに散っていった時、カイはふっと見上げた。——屋上の風が、呼ぶ。

 *

 屋上。夕陽。
 フェンスの影は桜の花弁と一緒に床で遊び、白い輪はもうほとんど見えないくらい薄くて、それでも“そこにある”。
 八代が、ゆっくりと現れた。鍵束は今日は持っていない。手ぶらの八代は、ほんの少しだけ教師に見える。

「神祇庁からの報告だ」
 彼は前置きもなく言った。
「破鍵団の残党は捕縛済み。外周の“古い層”に棲んでいた影も、温度杭の網で、ほぼ消えた。——ただ一人、“君の断片”の痕跡だけは、記録に残らなかった」

 西日が、彼の灰色の目を薄金に染める。
 カイは頷いた。
「……それでいい。彼も俺の中で、ちゃんと眠ってる」

「そうか」
 八代は空を見上げる。
「君はもう生徒の域を超えた。だが——卒業はまだだ」
 一拍置いて、ほとんど聞き取れない声量で続ける。
「——おめでとう」

 風が吹いた。
 校庭の旗がふっと丸くなり、教室棟の陰から、黒でも白でもない灰色の羽根が一枚、舞い上がった。
 青でも、銀でもない。光を飲むのでも、跳ね返すのでもない。——灰(はい)という名の中の、静かな色。

 カイは手を伸ばし、そっと掴む。
 指に乗せた感触は、人の体温。
 変わらない体温。
 でも、変わった意味。

「ありがとう。これで、本当に終わりだ」
 言葉は誰に向けてでもなく、ここにいる全てへ。
 八代は何も言わない。言わないまま、何かを言ったように見えた。
 しばらく並んで空を見て、二人は同時に踵を返す。階段の途中で別れ際、八代はいつもの声で背中へ投げた。
「報告書。——今日中」
「了解」
 カイは苦笑し、足を速めた。書類は、いつだって最強の敵だ。

 *

 夜。
 カイは机に向かい、報告書の“余白欄”にペンを滑らせていた。
 半径の記録。温度杭の分布。輪の回転のむら。新入生の目の高さ。
 ひとつひとつ、“授業”の形に言葉を編む。
 ふと、窓の外で風が鳴った。
 小さな足音が、記憶の廊下を走る。
 ——“カイの半径、ここまで!”
 懐かしい声が、今は罰ではなく約束の声として胸に触れる。

「……会いに来たの?」
 問いに答えるように、窓のガラスが一瞬だけ白く曇った。指で描いたような丸が消え、夜の街灯が同じ丸を描き返す。
 カイはペンを置き、目を閉じ、そして開いた。
 机の端に、灰色の羽根がもう一枚、置かれている。
 拾い上げると、羽根の縁に細い文字が浮かんだ。
 ——“いつか”。
 それだけ。
 それだけで、十分だ。

 *

 翌日。
 校門の前で、一台のバスが停まっている。
 刷り上がったばかりの招集ポスターには「地域結界課・ジュニア研修」とある。上級生の何人かが乗り込み、引率の大人が名簿にチェックを入れていた。
 真壁シオンは黒いジャケットの裾を整え、振り返る。
「行ってくる。向こうで“道”の敷き方を教えてくる。君らのやり方を、“外”へ移植する」
「無茶はほどほどに」
 リラが言い、レンジが笑い、ミナトが「新しいセンサー、渡したやつ忘れないで」と手を振る。
 シオンは短く頷き、腕時計のベゼルを回し、バスのステップを上がった。
 別れは、告げずに済ませるのが彼の流儀だ。
 でも、バスの窓から一瞬だけ視線が戻り、唇が「任せた」と動いた。
 ——任された。だから、やる。

 講堂の裏手では、保健室の窓が開き、ハーブの匂いが春の風に混じる。
 天城は窓辺で湯気の立つカップを両手で包み、通りがかったカイに顎で合図を送った。
「眠れてる?」
「昨日は、よく」
「良い報告。……なら、これも良い報告。——“転入者”が来るわ。午後から。あなたの席、ひとつ後ろの列」

「転入生?」
 言葉は自然に、少しだけ高くなる。
「うん。名前は——」
 天城が告げた名は、聞き覚えのない音なのに、耳の奥のどこかに懐かしさを灯した。
 “いつか”の文字が、羽根の縁で微かに震えた気がした。

 *

 午後のHR。
 教室の前に立つ、一人の少年。
 きちんと畳まれた制服、緊張のために肩へ乗りすぎた力、だけど目だけは驚くほどまっすぐで、逃げ場を探していない。
「転入してきました。——水城ユウトです」
 名を告げる声は、まだこの教室の空気に馴染んでいない。けれど、馴染もうとしている。
 カイは、ほんの少しだけ前に椅子を引いた。
「後ろ、空いてるよ」
 少年は一瞬だけ迷い、そして頷いて席につく。
 視線が交わる。
 “再会”という言葉の正確さは、こういう瞬間のためにあるのだと思った。初対面で、もう知っている。知らないまま、知っている。

「君、何か呼び方ある?」
 ミナトがひそひそ声で問い、レンジは「ユウト、雷平気?」と雑に訊ね、リラは「授業中に私語」と小声で釘を刺す。その全部が、校則の外縁に“余白”を作る。
 ユウトは少しだけ笑って、「平気だと思う」と答えた。

 五限の終わり、廊下の温度杭で立ち止まったユウトが、指で印をそっと触れた。
 「あったかい」
 それだけ言って、ほっと息を吐く。
 カイは少し後ろから見守り、そして心の中で——“ようこそ”とだけ呟いた。

 *

 放課後、屋上。
 夕陽が昨日より少しだけ長く留まり、風は昨日より少しだけ柔らかい。
 ラディウスは姿を見せない。見せなくても、いる。
 フェンスの影が丸くなり、床に落ちた影は輪郭を甘くしている。

「——終わった、のか」
 ひとりごとに、風が“うん”と答える。
 終わりは、始まりの形をしている。
 別れは、再会の準備だ。
 カイはポケットから灰色の羽根を取り出し、そっと空へ放った。
 羽根は風に乗り、フェンスの上で一度だけ踊り、校庭の方向へ滑っていく。
 ユウトが、あの温度杭に触れた指で、この羽根の温度にもいつか触れるのだろう。
 それなら、もう大丈夫だ。

 胸の印に人差し指を当てる。
 拍は静かに、でも確実に刻まれる。
 ——カイ・レン。“限りを守る”。
 名は、罰ではない。約束の発音。
 半径は、分け合うほど広がる。
 広がりすぎた時には、誰かの手が“緩衝帯”になってくれる。

 階段の向こうから足音。
 リラが「報告書は?」と眉を上げ、レンジが「二本目の焼きそばパンいる?」と紙袋を振り、ミナトが「R-6の固有名詞、変えたくなったら今のうち」と言う。
「変えない。——ダサいままで走るの、好きだ」
 自分でも意外な返事が出て、三人が同時に吹き出した。

「行こう」
 カイは立ち上がる。
「張る、受ける、外す。呼ぶ、応える、編む。——そして、選ぶ」
「はいはい」
 リラが頷き、レンジが拳を突き出し、ミナトのドローンが“了解”の旋回を一度。
 屋上のドアノブが軽く鳴り、春の風が廊下へ滑り込む。
 その風の中に、誰かの「ここまで!」という小さな声が紛れた気がした。
 昨日より一センチ、今日より一センチ。半径は伸びる。
 再会と別れは、同じ円の反対側。

 ——ありがとう。
 ——こちらこそ。

 灰色の羽根は、もう見えない。
 けれど、温度は残っている。
 人間の体温。
 “道の温度”。

 静寂のあとに生まれた、その温度を胸に、彼らは階段を降りていった。
 転校生として。
 英雄でも、教師でもない肩書きで。
 明日の“再会”と、次の“別れ”に、ちゃんと間に合うために。

第18話 半径の果て
 卒業式の日は、朝から風のかたちが良かった。
 冷たさと温かさが半分ずつで、どちらに倒れてもおかしくない均衡のまま、校門の旗を「ここまで」と丸くさせては、すぐにほどく。昨日までの制服も今日の胸章も、同じ布の上で別の役目を引き受けている。
 講堂の光は冬より白く、春より少し硬い。
 壇上に並ぶ卒業生たちは、黒と白と、時々涙の色。それらの間を、梁の影がゆっくり移動していく。
 篠崎カイの胸には、六連の小さなピンバッジが付いていた。円環を六つ連ねた、あの“循環”の印。温度は——人の体温。指で触れれば、少し安心する温度。
 校長の言葉は、遠くから届く波だ。
 「——卒業、おめでとう。ここで過ごした日々が、君たちの“輪郭”となり、これからの選択を支えてくれることを願う」
 語尾のひとつひとつが、講堂の壁で“やまびこ”の練習をしてから耳に入ってくる。拍手の指示のないところで、誰かがペンを落とし、その音がなぜかとてもよく響いた。
 頭の中の、もっと近い場所で、別の声が重なる。
 “——半径を、広げ続けろ”
 ラディウスの声は、祝辞よりも短く、そしてよく通る。
 カイは目を閉じ、ほんの少しだけ笑った。
 半径の果ては、地図にはない。輪郭は現場にしか現れない。だから、今日という地図の端を、たしかに踏みしめる。
 式が終わり、校歌の余韻を引き取る拍手が波となって引く。
 花道を進む在校生たちの間を、卒業生の列が二列で往く。
 天城先生の白衣は今日だけ薄い灰のジャケットに変わっていて、胸ポケットからカモミールの香りが少しだけ漏れていた。
 八代は相変わらず灰色の目で、しかし目の奥だけは春の温度を宿していた。鍵束は持っていない。持たなくても、鍵の位置がわかる人の目をしていた。
 真壁シオンは壇の脇で何か確認して、短く顎を引いた。手首のベゼルは、きっちりと“次”の目盛りに合っている。
 花道の終端で、一歩、影が寄る。
 白石リラが、風紀委員長の腕章を外した姿で立っていた。髪はすっきり結われ、目はいつも通りに鋭くて、いつもより柔らかい。
「転校生、次はどこへ行くの?」
 訊ねる声は平板なのに、少しだけ震えていた。
「さあ……どこかで、誰かの半径に入れたらいいな」
 それは本心だった。行き先は“役職”ではなく“温度”が決める。必要とされる範囲、すでにある輪に足りない“緩衝帯”、倒れやすい梁の下。
 リラは眉を寄せて、すぐに緩めた。
「風紀的には無許可移動だけど、“転校生”の特権として見逃す。——ただし、たまには報告して」
「はい、委員長」
「元・委員長よ」
 彼女は自分で言って、少し照れた。「新しい子に、うまく引き継ぐから」
 工藤ミナトが、ゴーグルを額に上げ、ふらりと現れる。
 手には掌サイズの円盤状ガジェット。天面に“R-6—final”の刻印。
「これ。お守り。通信圏外でも、仲間の声を拾えるよ。温度杭の簡易版も仕込んである。握ると、人肌の温度になる。怖いとき、呼吸が戻る」
 差し出されたそれは、軽いのに重い。
 カイは指で縁をなぞり、温度が掌に溶けるのを確かめた。
「ありがとう。——名前はそのまま?」
「うん。ダサいものをダサいまま好きって言える技術者になりたいから」
「最高の名前だ」
 鷹羽レンジは、いつも通りの乱雑な足音で来て、いつも通りの真剣な目で立ち止まる。
 拳を突き出す。
「また雷落とし合おうぜ。場所は変わっても、合図は同じだ。張る、受ける、外す。そんで、ぶつける、じゃなくて——」
「通す、だろ」
 二人の拳がぶつかる。硬い音はしない。皮膚の音だけがして、微小な電荷が笑う。
 レンジは笑って、鼻を拭った。
「ずっと“最弱”でいてくれてありがとな。……いや、元・最弱。お前が最強を“丸めた”の、ずっと忘れない」
 気づけば、周囲には何人もの在校生が集まっていた。
 下級生のユウトは、相変わらず背筋がきれいで、指先だけがおそるおそる揺れる。
 その指が、カイの“半径”の端をそっと触れた。
「ここまで、ですか」
「今日は、ここまで」
 カイは円を一センチだけ広げて見せ、ユウトは目を丸くして笑った。
 グラウンドから風の鳴きが上がった。
 空に白い雲が集まり、ゆっくりと円を描く。
 講堂の屋根の上で一羽の鳥が輪を切り取り、それが影として壇上に落ちる——白でも黒でもない影。
 ラディウスの声が、胸の印の芯から響いた。
 “契約完了。——君の名は、もう封じられない”
 名は勝ち名乗りではない。
 ここで言う名は、道の名前だ。
 カイは息を吸い、仲間たちの顔を順番に見た。
 リラの目にある“責任の光”。
 レンジの口元にある“悪童の誠実”。
 ミナトのゴーグルに映る“未来の散らばり”。
 天城の手に残る“脈の記憶”。
 八代の灰色の目の“見届け”。
 シオンの腕時計の“秒針の向き”。
「俺の名は——」
 胸の印が、やわらかく笑う。
「守半径(もりはんけい)カイ。限りある範囲で、全部守る」
 言葉にしただけで、どこかの温度杭が小さく灯いた気がした。
 名は封印ではなく、約束の発音。
 輪郭は、囲いではなく、手のひらの大きさ。
 “全部”は世界全部ではない。
 “限りある範囲”の全部だ。
 そこにいる人、そのときの風、重なる線、倒れそうな梁。
 その全部を、全部、守る。
「なにそれ、ずるい」
 リラが笑って肩を小突く。「最高」
「いいじゃん」
 レンジが笑って拳をもう一度出す。「打倒・守半径」
「名刺、作る?」
 ミナトが真顔で端末を出し、すぐ自分で吹き出す。「いや、ごめん、ダサいままでいい」
 周りの笑い声が重なり、講堂の空間を丸くする。
 式場は片付けが始まり、花は根のついたものから順に土へ戻される準備に入っていた。
 天城が静かに近づき、カイの手首を握る。
「脈。——うん、いい拍」
 それだけ言うと、「ごきげんよう、転校生」とウィンクして歩き去る。
 八代は最後に、真正面から一度だけ、頷いた。
「授業は、ここまで。——宿題は、続く」
「はい」
 返した声は、入学初日の自分とは違う響きを持っていた。
 “わからないから頷く”のではなく、“わかっていて頷く”響き。
 卒業アルバムにサインを書く列から、誰かが呼ぶ。
「写真、撮ろう!」
 レンジが肩を組み、リラが腕をからめ、ミナトが自撮りドローンを頭上に浮かべる。
 ユウトが遠慮がちに端に立ち、リラが無言で袖を引いて真ん中へ連れてくる。
 シャッター音は一度。
 紙ではなく、温度でもなく、しかし確かに残る“輪”。
 青空がわずかに色を変え、雲の円がほどけはじめた時——
 空に、黒でも白でもない灰色の羽根が一枚、ふわりと舞い上がった。
 見送る視線に気負いはない。
 羽根は風に乗り、講堂の屋根の上で一度だけ踊り、太陽へ向かってまっすぐ昇った。
 光の中で、輪郭を失う。
 粉にも、線にも、言葉にもならない“何か”に変わって、空の温度に混ざる。
 カイは手を伸ばし、空から降りてくる“残り香”を掌で受けた。
 何も掴めないはずなのに、掌はあたたかい。
 握って、開く。
 そこには何もない。
 でも、ある。
 道の温度が、ある。
 ふと、耳の奥が静かになった。
 ——反響が、完全に止む。
 守れ。守れ。今度こそ。
 ずっと鳴っていた“合図”は、もう、自分の拍と同じ速さで、同じ静けさで、同じ方向を向いている。
 合図は命令ではない。
 共鳴だ。
 講堂から出ると、校舎の影が少し伸びて、卒業式は午後の光に吸い込まれていく。
 門の前には、見送りの列。
 風紀委員は腕章を外し、規律は制服の内側の“姿勢”になった。
 温度杭は、子どもたちの手によって“公園版”へ再配置される。
 雷板は眠り、必要なときだけ瞬く。
 R-6は胸ポケットの中で微弱に光り、遠くの仲間の声を一つだけ拾って、すぐに黙った。
「カイ」
 名前を呼ばれる。
 振り向くと、ユウトが立っていた。卒業とは関係のない新入生の顔。それでも、別れのタイミングを顔の筋肉で読む賢さを持っている。
「“ここまで”、って、いつまで言えますか」
 真剣な眼差し。
 カイは少し考えてから、答える。
「言いたいだけ、言えばいい。……誰かの“ここまで”が、君の“ここから”になることもある。そうやって、輪はつながる」
 ユウトは頷き、敬礼みたいなぎこちない手つきをして、走っていった。
 その背中は、もう自分の半径に“自分で”杭を打てる走り方だった。
 バス停へは、歩いて五分。
 卒業生は誰もが違う方向へ散っていく。
 レンジは地域結界課の研修へ、ミナトは都市安全局のサンドボックスへ、リラは——校内の新しい風紀の立ち上げへ。
 シオンはすでに外で“道”を敷き始めていて、天城は新しい保健講座の枠を増やしている。
 八代は、鍵束を持たずに鍵を見つける練習を、たぶん今日もしている。
 ラディウスは、胸の内側で、ただそこにいる。
 狼は外を走らない。
 もう、伴走者だ。
 信号待ちをしていると、道の向こうで小さな事故が起きた。
 自転車が段差で滑り、買い物袋が宙に舞う。
 反射的に、カイは“張る”。
 足元の影を薄く皿にして、滑った力の向きを半歩だけ変える。
 倒れる先が、柔らかい“空気のまくら”になる。
 買い物袋は空中で一拍だけ遅れ、落ちた先は“壊れない角度”。
 自転車の少年が顔を上げ、「ありがとう」と言った。
「どういたしまして。……ここまで」
 指で小さく円を描くと、少年は訳もわからず笑い、「ここまで!」と真似して去っていった。
 信号が青に変わる。
 歩く。
 バス停の屋根の下に、白銀の粉がほんのわずかに溜まっているのが見えた。
 手で払うと、指先が一瞬、あたたかい。
 思わず笑って、顔を上げる。
 空は、高い。
 半径の果ては見えない。
 だから、今日も一センチだけ伸ばす。
 ポケットの中のR-6が、一度だけ短く振動した。
 画面には、短いメッセージ。
《道、空いてる。——また、どこかで》
 送信者は記されていない。
 けれど、何通りもの“どこか”が、同じ意味でそこにいる。
 カイは“了解”のスタンプを送り、端末をしまった。
 バスが来る。
 乗り込む足元に、温度杭の“旅仕様”が一本、さりげなく設置されていた。誰の仕事だろう。たぶん、ミナト。あるいは、ユウト。あるいは、名もない誰か。
 人の体温の杭。
 そこに触れた人だけが気づく、小さな灯台。
 席に座ると、窓の外で校門が小さくなっていく。
 講堂の梁も、屋上のフェンスも、グラウンドの白線も、全部“ここから”になる。
 カイは胸に手を当て、ゆっくりと息を吸う。
 その拍に合わせて、内側の狼が目を細める。
 ——行け。
 短い意味が届く。
「うん、行くよ」
 走り出したバスの窓に、空がひとつ、またひとつ、輪になって映る。
 黒羽は、最後に一枚だけ、ほんとうに最後の一枚だけ、空へ昇っていったきり戻らない。
 でも、温度は残っている。
 道の温度。
 人の体温。
 “終わり”は、始まりの形をしている。
 だから、今日の終わりに、明日の“ここまで”を決める。
 半径は、分け合うほど広がる。
 限りある範囲で、全部守る。
 それが——守半径カイの、名の意味だ。
 窓の外、雲が円を描き、風がその円を少しだけ広げた。
 誰かの声が、胸の奥で重なる。
 “——半径を、広げ続けろ”
 “——はい”
 返事は、拍に重ねて、静かに。
《了》