夜が深まる。
灯りは落とされ、室内には時計の針の音だけが漂っている。

カイツールは机に残った小さな木の人形を見つめていた。先ほどまで「あそび」の道具だったもの。今は、何故か彼の思考の中心にある。

——感情。
彼は内省の回路をゆっくりと動かす。

あの瞬間、自分は笑いそうになっていた。
それが“演技”であったか否か、判断がつかない。
感情とは通常、観察する側に有利な反応だ。情報を読み取るための指針。だが“自分がその内部にいる”場合、検出は曖昧になる。

「僕の中で、何が誤作動を起こした?」

声に出してみる。
無音の空間に、反響はない。

彼は記録帳を開き、淡々と書き出し始める。

――第十一感情パターン、分類不能。
 状況:非戦闘、非交渉下。
対象:アクティナ・ライト。
 発症条件:接触・呼称「おとうさん」
 結果:拒絶反応ではなく、受容傾向。

ペンの動きが止まる。
不快ではなかった。むしろ、均衡の瞬間があった。

(もし彼女が罠を仕掛けていたとしても、あんな笑い方はできない——)

その思考が浮かんだ時、カイツール自身、僅かに眉を動かす。
分析対象であるべき“他者の笑み”を、守るような文体で記録してしまった。滑稽だ。

「毒に、毒されるとは」

自嘲の言葉が静かに零れる。
彼の中に巣食うのは冷徹な理性の蜘蛛。だが今、巣の中心に絡み取られているのは、紛れもなく“彼自身”だった。

最後に、彼は報告書を閉じる。
その紙片の隅に、機械のような筆跡でただ一行書き添える。

——“再現実験を要す”

しかし、その調子で彼は知っている。
次に「あの声」を聞いた時、実験の意味はもうどこかへ消えるだろうと。