「ねえ、カイツール。今日ね、家族ごっこしよう?」

アクティナ・ライトは、陽光をその瞳に映していた。机の上に整然と並ぶ暗号書類の山を指先で押しやり、代わりに小さな木の人形を置いていく。母、父、子ども。どれも丸く削られ、素朴な匂いをしていた。

カイツールは手を止めた。仕掛け杖の先端で机を軽く叩く。
「……なぜだ。取引条件でもあるのか?」

「ちがうよ!」
アクティナは首を振った。
「ただ遊びたいだけ。わたしがお母さんで、カイツールが——」
わざと間を取りながら、微笑む。
「お父さん」

その言葉に、沈黙が生まれた。冷たい空気が部屋の隙間を這う。
「……お父さん、だと? 僕の名をそのように呼ぶつもりか」

「そう!」
少女は楽しげに小皿を並べる。砂糖菓子を水に浮かべたような即席の“スープ”。
「ごはん作ったんだから、ちゃんと帰ってきてね。“お仕事おわった”って言って」

カイツールは、思考の網を一瞬だけほどく。
「仕事を終える、とは報告の意味か? ……いや、そうではないな」
彼の白瞳がわずかに和らぐ。その変化に気づかぬまま、アクティナは両手を広げる。

「ただいま、って言ってみて?」

その提案は、まるで毒のように穏やかだった。
カイツールは息を吸い込む。そして、ぎこちなく言う。
「……ただいま」

アクティナは満面の笑みを返す。
「おかえり、お父さん!」

その瞬間、部屋の構造が変わった気がした。
冷たい石壁に反射する光が、ほんの少し柔らかい。蜘蛛の紋と蛇の意匠を纏う男は、小さな木の人形を手に取り、無意識のうちに位置を整えていた。

「次は?」と彼は問う。
「次は、絵本読んで、子どもが寝るまで見守るんだよ。優しくしてね」

カイツールは、わずかに片眉を上げる。
「……優しさとは、演技の一種か?」

アクティナは笑って答えない。ただ隣へ座り、肩が触れる距離に近づく。
男の心の奥で、計算式が崩れる音がした。
その時間だけ、誰も欺かず、何も奪わない。彼にとって、それは世界の構造にない“誤差”だった。

やがてアクティナが、瞼を閉じて言う。
「ねえ、お父さん。“おやすみ”って言って」

カイツールは黙したあと、ほんの少しだけ口角を動かす。
「……おやすみ、アクティナ」

その声は柔らかく、毒を失った。
そして、部屋の時計が静かに刻む音だけが、夜を連れてきた。