午後九時。
昼間は学生や教員たちで賑わう木崎屋も、夜になると静かに息を潜める。灯りは柔らかく落とされ、艶やかな琥珀色の空気がカウンターを包んでいた。
木崎逸美が銀のシェイカーを振り、氷の音がわずかに響く。その向こうで蜂須賀貝磨は無言でグラスを磨き、柏原心太朗は常連の教員客と陽気に談笑している。

扉の鈴が控えめに鳴った。
入ってきたのは、銀警官団・戦略情報部の男──カイツール。
白髪を整然と束ね、制服の線一つ乱れていない。白い瞳は穏やかに光るが、その奥には繊細な思考の刃が潜んでいた。彼は静かにカウンター席に腰を下ろし、木崎に軽く会釈する。

「いつもの、頼む」
低く落ち着いた声には、かすかな疲労が滲んでいた。

木崎は微笑み「了解、カイツールさん。今日はハードな一日だった?」と問う。
シェイカーを軽やかに操る手元を、カイツールは無言で追う。

「まあ、いつもの計算と駆け引きさ……ただ、少し静かな場所が欲しかっただけだ」
そう言って唇の端をわずかに上げ、彼は肘をカウンターに預けた。

彼は日々、「蜘蛛の巣と蛇」の紋章を背負い、情報戦の最前線に立つ。
部下の信頼、民の安全、敵の謀略。それらすべてを同時に秤にかけ、時には嘘をも正義の道具とする。その重圧の影が、常に彼の背中に貼りついて離れることはない。

だからこそ、木崎屋の夜は、彼にとってささやかな逃避地だ。

木崎が差し出したジンライムの透明な液面が、灯の下で静かに揺れる。
「はい、カイツールさん好みのキリッとしたやつ」
彼は受け取り、口をつける。
「……悪くない」
短い言葉のあとに、わずかな安堵がその表情を緩めた。

その頃、心太朗が客を見送り、カイツールに気づく。
「お、カイツールさん! 今日はリラックスモードっすか?」
軽口を叩く彼を、貝磨がすかさず一瞥でたしなめる。

貝磨は内心でつぶやいた。
(見た目は紳士でも、あの手の客は一言多いと面倒だから……これ以上は勘弁。訳? 前にやってた飲食店で、ごまんと相手してきたから)

しかしカイツールは小さく笑い「いや、構わん。この騒がしさも悪くない」と応じる。
──計算せずに済む場所、か。彼の胸の中で、静かな独白が浮かぶ。

閉店準備の音が静かに響くころ、新人・柏木俊太郎がバーカウンターに入ってきた。
カイツールに気づくと、緊張の面持ちで「こ、こんばんは!」と声を上げる。

「新人か。……緊張しなくていい。木崎の店だ、安心して働ける」
柔らかな声色に、俊太郎は頬を赤らめて「は、はい!」と返す。

木崎が笑いながら言う。
「俊太郎くん、カイツールさんは見た目怖そうだけど、いい人だからね。ね、カイツールさん?」
「怖そう、か。まあ、誤解されるのには慣れている」
そう言って微笑むその表情には、言葉では伝わらない温かさが宿っていた。

──民を守るためなら、嫌われ役にもなる。
だが、こうして素直に会話できる場所がある。それだけで、まだ前を向ける──。

彼はジンライムをもう一口含み、静かに息を吐いた。

グラスを空け、彼は立ち上がる。
「木崎、いつもいい時間をありがとう。……また来る」
静かに会釈して、夜の闇へと姿を消す。

「いつでも待ってるよ!」
木崎の明るい声が、去りゆく背中を柔らかく照らした。

貝磨は無言でグラスを片付け、心太朗が感嘆の息を漏らす。
「カイツールさん、めっちゃカッコいいっすね」
俊太郎も小さく呟く。
「なんか……すごい人だった」

木崎屋の夜は今日も穏やかに更けていく。
戦いの合間、彼の心を癒やす小さなオアシスとして。
カイツールの静かな信念は、また新しい明日へと灯をともすのだった。