アクティナ・ライトは、春の午後のような笑顔で言った。
「ねえ、カイツール。おままごとしよ！」

何の冗談かと、男は眉をわずかに上げた。白い瞳の奥で、感情の計算が働く。「ままごと」などという単語が、彼の語彙に存在した試しがない。
「……戯言だな。どこの情報収集に繋がる？」

少女はくすりと笑い、小さな手で布を広げる。机の上、壊れかけた地図と報告書の隙間に、それは置かれた。花びらと砂糖菓子の小皿。
「そういうのじゃないの。わたしがお母さんで、カイツールがお父さん。はい、これお茶ね」

彼は一瞬、沈黙した。
室内に鳴る歯車の音さえ止まったようだった。

「……お父さん、だと？」
言葉の温度が、微妙に崩れる。彼は自分でも気づかぬうちに、その小皿を眺めていた。花びらは毒草のような形をしている——だが、匂いは驚くほど甘かった。

少女は彼の返答を待たず、楽しげに続ける。
「みんな幸せに暮らしてるの。お仕事はほどほどにしてね。あ、今日のごはんはね——」

「ありえんな」
低くも、完全な拒絶の声。だがその瞬間、アクティナの手が彼の杖の上に重なった。指先があたたかい。どこか、焦点が狂うような感覚がした。

「ありえないことほど、楽しいんだよ？」

沈黙が落ちる。蜘蛛の巣のように張り巡らされた思考が、少しだけほつれる音。
彼はついに、息を吐いた。
「……では、"父親"役に相応しい立ち居振る舞いというのは、教えてもらう必要がありそうだな」

アクティナはうれしそうに頷いた。
「うん！ じゃあまず、“ただいま”って言うの。それから、“おかえり”って笑うんだよ」

彼の唇がわずかに動く。
「……ただいま」

たどたどしい声音。それは報告ではなく、宣言でもない、意味すら曖昧なひとこと。
アクティナは顔をほころばせた。
「おかえり、カイツール」

部屋の空気が変わる。冷たい計測の空間に、なにか人間的な温度が灯る。
カイツールは笑わなかった。ただ、視線を逸らせなくなった。
彼の頭の中には、さまざまな解析と拒否反応が走っていたが、そのどれもが、少女の笑みの前に融けていった。

そして、誰にも見せぬほど微かな声で、彼は呟いた。
「……一度きりの実験だ。次はない」

アクティナ・ライトは無邪気にうなずく。
「うん、じゃあ次はお散歩しよ、カイツール“おとうさん”」

蜘蛛の紋が刻まれた杖の影が、彼女の手を守るように垂れた。
その時間だけ、世界の入り組んだ罠は止まっていた。