静寂。
機械の微振動と、心拍誘導機器(FEED)が刻む規則的な点滅だけが、空間を支配していた。
彼――アディシェスは、椅子に座り手帳に数字を並べていた。現実の秩序とはこの一連の演算に宿る。
感情は誤差。ノイズ。
それを排除することでこそ、秩序は保たれる――そう信じていた。
だが、その秩序の中に小さな乱流が現れる。
「アディシェス、はい、これ!」
振り返ると、アクティナ・ライトが両手いっぱいに紙束を抱えていた。小さな家の絵。笑顔の三人。
「今日は“家族ごっこ”だよ。わたしはおかあさん、あなたはおとうさん!」
おとうさん、という音が空間を揺らす。
その呼称には定義がない。文書にも、網羅データベースにも存在しない。
だから彼は問う。
「目的は?」
「いっしょに笑うことだよ」
笑う――らしき動作は可能だ、と答えようとしたが、声が喉に引っかかった。
アクティナは机の上に紙の皿を並べ、空気をすくって「ハンバーグです!」と差し出す。
その手の動きを視覚解析した瞬間、アディシェスの反応センサーが微細な温度上昇を拾った。
「君の行為は生産性がない」
「でもね、こうすると“あったかい”気持ちになれるの」
“あったかい”――熱量単位ではない意味で、その言葉を理解できなかった。
だが、なぜか自分の内部温度が上がる。
FEEDがノイズを検知する。
彼は再び彼女の手を見る。小さい、汚れている、水滴がついている。
無駄な情報のはずだった。なのに視線が離れなかった。
「僕は……なぜ、分析が乱れる」
「それはね、おとうさんだから」
「僕は父ではない。親子関係の因果が存在しない」
「でも、いま“そうだ”って思えたら、それでいいよ」
一瞬、息をすることを忘れた。
そうだ――ただ“思う”。それは認識ではなく、感覚。
アディシェスは仮面を外した。冷たい金属音が響く。
「視覚データを遮断する」
「ううん、ちがうよ」とアクティナは微笑んだ。
「ちゃんと見て。見えないものを見ようとするのが、“家族”なんだよ」
沈黙。
彼はそっと紙皿を受け取り、空をつつく。
なにもない。なにも存在しない。
だが、胃のあたりに奇妙な重みを感じた。
それは“恐怖”ではなかった。
FEEDの感度を上げても、恐怖信号は一切検出されない。
かわりに、心拍数だけが穏やかに上下している。
「……未知の感情だ」
「それが“うれしい”なんだよ」
彼は眉をわずかに動かす。
“うれしい”――その言葉の音が胸腔に残響する。
不合理。定義不能。しかし、否定する理由もない。
アディシェスは初めての意思で仮面を戻さなかった。
白色の瞳が、確かに少女を見つめた。
その日、銀警官の記録は一行だけ更新された。
――恐怖以外の反応を、初めて検出。
機械の微振動と、心拍誘導機器(FEED)が刻む規則的な点滅だけが、空間を支配していた。
彼――アディシェスは、椅子に座り手帳に数字を並べていた。現実の秩序とはこの一連の演算に宿る。
感情は誤差。ノイズ。
それを排除することでこそ、秩序は保たれる――そう信じていた。
だが、その秩序の中に小さな乱流が現れる。
「アディシェス、はい、これ!」
振り返ると、アクティナ・ライトが両手いっぱいに紙束を抱えていた。小さな家の絵。笑顔の三人。
「今日は“家族ごっこ”だよ。わたしはおかあさん、あなたはおとうさん!」
おとうさん、という音が空間を揺らす。
その呼称には定義がない。文書にも、網羅データベースにも存在しない。
だから彼は問う。
「目的は?」
「いっしょに笑うことだよ」
笑う――らしき動作は可能だ、と答えようとしたが、声が喉に引っかかった。
アクティナは机の上に紙の皿を並べ、空気をすくって「ハンバーグです!」と差し出す。
その手の動きを視覚解析した瞬間、アディシェスの反応センサーが微細な温度上昇を拾った。
「君の行為は生産性がない」
「でもね、こうすると“あったかい”気持ちになれるの」
“あったかい”――熱量単位ではない意味で、その言葉を理解できなかった。
だが、なぜか自分の内部温度が上がる。
FEEDがノイズを検知する。
彼は再び彼女の手を見る。小さい、汚れている、水滴がついている。
無駄な情報のはずだった。なのに視線が離れなかった。
「僕は……なぜ、分析が乱れる」
「それはね、おとうさんだから」
「僕は父ではない。親子関係の因果が存在しない」
「でも、いま“そうだ”って思えたら、それでいいよ」
一瞬、息をすることを忘れた。
そうだ――ただ“思う”。それは認識ではなく、感覚。
アディシェスは仮面を外した。冷たい金属音が響く。
「視覚データを遮断する」
「ううん、ちがうよ」とアクティナは微笑んだ。
「ちゃんと見て。見えないものを見ようとするのが、“家族”なんだよ」
沈黙。
彼はそっと紙皿を受け取り、空をつつく。
なにもない。なにも存在しない。
だが、胃のあたりに奇妙な重みを感じた。
それは“恐怖”ではなかった。
FEEDの感度を上げても、恐怖信号は一切検出されない。
かわりに、心拍数だけが穏やかに上下している。
「……未知の感情だ」
「それが“うれしい”なんだよ」
彼は眉をわずかに動かす。
“うれしい”――その言葉の音が胸腔に残響する。
不合理。定義不能。しかし、否定する理由もない。
アディシェスは初めての意思で仮面を戻さなかった。
白色の瞳が、確かに少女を見つめた。
その日、銀警官の記録は一行だけ更新された。
――恐怖以外の反応を、初めて検出。



