雨が静かに灰銀の街を洗っていた。
アディシェスの住む官舎の一室に、アクティナ・ライトが傘を畳んで入ってくる。彼女の靴下は雨に濡れ、床に小さな水玉をつくった。

「ただいまー!」
「……誰の家だ、ここは」
「今から“家族ごっこ”だからだよ!」
アクティナはぱっと笑みを浮かべ、銀の机にスケッチブックを広げる。そこには拙い手描きの絵――彼と彼女、そして“子ども”らしき小さな影が並んでいた。

「わたしがおかあさんで、アディシェスはおとうさん。それでね、この子が“リト”。わたしたちのこどもなんだよ」
「……生体的関連性は存在しない」
「そんなの関係ないの。ごっこっていうのは、そう“なる”ことなの」

アディシェスは静かに腰の仮面に触れた。遊びや感情という言葉は、彼の辞書には不純物としてしか存在しない。
しかしアクティナの声は、その無機質な空気をやわらかく壊した。

「おとうさん、お仕事終わった?」
「監察業務は継続中だ。人間の行動観察も含まれる」
「じゃあ――家ではお仕事禁止ね。今は“家族の時間”!」

そう言うと彼女は彼の手を取った。小さな掌の温度。アディシェスは抵抗もなく、そのまま座らされた。
アクティナはおもちゃのナイフで空の皿に“料理”をよそう。
「はい、“ハンバーグ”。リトが好きなの」

アディシェスは解析するように指を伸ばし、空気をすくう。
「食材情報が存在しない」
「でもね、ちゃんと想えば、そこに“味”が生まれるんだよ」

彼の瞳がわずかに揺れる。それは恐怖を喰らうための反応ではない。未知――名づけられない“感覚”に対する不具合。
アクティナは彼の頬を見上げて言った。
「おとうさん、笑って」
「……模倣動作なら可能だ」
「違うよ。本当に“笑う”の」

言葉が静かに落ちる。
アディシェスは首を傾げながら、微かに口角を上げた。その動きはぎこちないが、彼の心拍が確かに上昇する。FEEDが微振動を起こし、彼自身の鼓動を測定していた。
恐怖の代わりに、何か別の信号が生まれている。

「これが……ノイズか?」
「ううん、それが“うれしい”って気持ち」
アクティナはふわりと笑い、空の皿を差し出す。
「ほら、リトも笑ってるよ」

見えない何かを感じとるように、アディシェスはゆっくりと手を伸ばした。仮面に刻まれた紋章――“無表情の仮面”が、わずかに熱を帯びたように見えた。

灰銀の部屋に、確かに小さな“家族”の形が一瞬だけ灯った。
それは虚構でありながら、彼の世界では初めての真実だった。