銀警察訓練場に轟いていたチェーンソーの咆哮が途絶え、白銀の粉塵が静かに落ちていく。灯りは冷たく、消毒液の匂いが微かな鉄香と混ざって鼻を刺した。粉塵の幕が薄れてゆく先で、二人は向かい合って立っていた。
オジェはべフロールを肩に担ぎ、灰色の眼差しを細める。
「……君の『正義演算』は、未だに鈍いな、アディシェス」
銀の仮面を外したアディシェスは、雪を溶かしたような白い瞳を静かに開く。
「鈍いですと? 教官、僕は常に最適解を選んでいます」
「最適解?」
オジェは口端で笑うと、手の中のコルタンを軽やかに回した。
「先の訓練で君は部下三名を敢えて負傷させた。計算上は全体の生存率98.7%。——けどさ、戦場の現実は数字じゃ割り切れない。君の演算は『人間』を抜かしすぎる」
アディシェスは指揮剣シルバーストライドの柄を握りしめ、わずかに視線を落とす。
「秩序とは犠牲の上に成り立つのです。僕は……『守るべき多数』を選んだまでです」
オジェの瞳が鋭い光を宿した。
「その考え方が君を殺す。いずれ周囲も巻き込む」
言い終えるより先に、チェーンソー斧が再び唸りを上げる。銀粉を蹴散らしながら、オジェは一歩詰めた。
「『恐怖制約』——その結界、今日は十三分四十二秒持続したな。限界は十五分。なぜ止めた?」
アディシェスの眉がかすかに動く。
「計算上、それ以上は戦術效益が低下すると判断しました。それだけの——」
「嘘ついてるな」
オジェは低く切り捨て、一層近づいた。刃先が喉元で呼吸の浅さを測るように留まる。
「君はまた『あの時の少女』のことを考えていたんだろう? 救えなかった者の記憶が——演算を乱す」
アディシェスは仮面をゆっくりと腰に装着し、淡々と告げる。
「……教官こそ、感情的な推測をなさった。僕はただ——」
「黙れ」
べフロールの刃先がひやりと肌を撫で、すぐに離れた。オジェは刃を収め、背を向ける。
「君の『弱点』を自覚しな。秩序に殉じる前に、まず己の命の重さを測る。でなければ——このオジェ=ル=ダノワは二度と君を教官とは認められない」
白光の瞳がわずかに揺れた。アディシェスは仮面の下で小さく息を吐く。
「……そうですか。ですが教官。僕は『最後の秩序』となる覚悟でいます。たとえ——その光が僕一人を残さず消え去るとしても」
扉へと歩み出しながら、オジェは振り返らない。
「……バカめ」
去り際の声は低い。
「明日の訓練は『集団混乱下の指揮』だ。君——生き残れよ、『銀光の守護者』」
アディシェスは静かに立ち尽くした。銀の仮面が訓練場の灯りを冷たく返す。
特殊訓練区画には、冷たい機械音が絶え間なく流れている。消毒液の匂いはさっきより濃く、銀粉のざらつく感触が床に残っていた。
予備斧マルシュヴァレーを整備しながら、オジェは背を向けたまま言う。
「……君の新記録だな、アディシェス。先週の訓練で被験者十七名が精神崩壊、うち三名が自殺企図。統制局は歓喜してるらしいが——」
彼はチェーンソーをアイドリングにかけ、振り返った。
「君の『恐怖吸引』は、もはや訓練じゃない。ただの人体実験だ」
アディシェスは白い瞳にうっすらと笑みを浮かべる。手の中のリサージュ・カッターが呼吸に合わせて微かに揺れた。
「実験ですらありません、教官。これは『純化』です。恐怖こそが人間の本質。僕はただ、その核心を抽出しているだけですから」
べフロールが床を打ち、乾いた衝突音が区画中に散った。銀粉がまた舞い上がる。オジェは一気に間合いを詰める。
「核心? …君が吸い上げてるのは『恐怖』じゃない。人間の弱さを食い物にした自己満足だ」
空気が軋むほど冷えた。アディシェスの体温が落ち、周囲の光が歪む。
「面白い。教官ご自身が……今、僕に『嫌悪』という恐怖を供給していますよ」
彼は解体メスを拾い上げ、銀の刃先で光を砕いた。
「分析させてください。貴方の斧の振りは〇・三秒遅い。もしかすると、僕への『恐れ』でしょうか?」
オジェは肩で笑い、コルタンを抜いた。
「……恐れ? とんでもないな。君はな、アディシェス——自分がどんだけ脆いかわかってない」
笑みが凍る。アディシェスの指先が、刃の柄で短く軋んだ。
「……脆い、ですと?」
「ああ」
オジェはナイフの先でアディシェスの左胸を軽くつつく。そこに刻まれた見えない痛点を、正確に。
「恐怖で強くなるって? ならば——君が一番恐れてるものは何だ? 『感情なき君』が、唯一吸い込めない恐怖を」
温度がさらに急降下する。白い息が二人の間に淡く溶けた。
「……黙らっしゃい」
アディシェスの手の中でリサージュ・カッターが微かに震える。
「僕は完璧なまでに感情を排除した。この仮面が——」
「仮面?」
オジェは唐突に笑い、すぐに笑いを殺した。べフロールのエンジンを止め、刃を静かに下ろす。
「だから言うじゃんか——君は脆いってな。その仮面は、君が『感情に呑まれる恐怖』から必死に逃げてる証だ」
硬質な音がした。アディシェスの無表情な仮面に、髪の毛一本ほどの亀裂が走る。それは光を細く裂き、彼の頬に影を落とした。
オジェは背を向け、去り際に投げた。
「楽しみにしてる、実験官よ。いつか——『吸えなかった恐怖』が君を食い尽くす日を」
静寂が戻る。アディシェスは仮面の縁に指を当てる。冷たい笑みはたちまち再構築されたが、その指先だけは、ほんのわずかに震えていた。
オジェはべフロールを肩に担ぎ、灰色の眼差しを細める。
「……君の『正義演算』は、未だに鈍いな、アディシェス」
銀の仮面を外したアディシェスは、雪を溶かしたような白い瞳を静かに開く。
「鈍いですと? 教官、僕は常に最適解を選んでいます」
「最適解?」
オジェは口端で笑うと、手の中のコルタンを軽やかに回した。
「先の訓練で君は部下三名を敢えて負傷させた。計算上は全体の生存率98.7%。——けどさ、戦場の現実は数字じゃ割り切れない。君の演算は『人間』を抜かしすぎる」
アディシェスは指揮剣シルバーストライドの柄を握りしめ、わずかに視線を落とす。
「秩序とは犠牲の上に成り立つのです。僕は……『守るべき多数』を選んだまでです」
オジェの瞳が鋭い光を宿した。
「その考え方が君を殺す。いずれ周囲も巻き込む」
言い終えるより先に、チェーンソー斧が再び唸りを上げる。銀粉を蹴散らしながら、オジェは一歩詰めた。
「『恐怖制約』——その結界、今日は十三分四十二秒持続したな。限界は十五分。なぜ止めた?」
アディシェスの眉がかすかに動く。
「計算上、それ以上は戦術效益が低下すると判断しました。それだけの——」
「嘘ついてるな」
オジェは低く切り捨て、一層近づいた。刃先が喉元で呼吸の浅さを測るように留まる。
「君はまた『あの時の少女』のことを考えていたんだろう? 救えなかった者の記憶が——演算を乱す」
アディシェスは仮面をゆっくりと腰に装着し、淡々と告げる。
「……教官こそ、感情的な推測をなさった。僕はただ——」
「黙れ」
べフロールの刃先がひやりと肌を撫で、すぐに離れた。オジェは刃を収め、背を向ける。
「君の『弱点』を自覚しな。秩序に殉じる前に、まず己の命の重さを測る。でなければ——このオジェ=ル=ダノワは二度と君を教官とは認められない」
白光の瞳がわずかに揺れた。アディシェスは仮面の下で小さく息を吐く。
「……そうですか。ですが教官。僕は『最後の秩序』となる覚悟でいます。たとえ——その光が僕一人を残さず消え去るとしても」
扉へと歩み出しながら、オジェは振り返らない。
「……バカめ」
去り際の声は低い。
「明日の訓練は『集団混乱下の指揮』だ。君——生き残れよ、『銀光の守護者』」
アディシェスは静かに立ち尽くした。銀の仮面が訓練場の灯りを冷たく返す。
特殊訓練区画には、冷たい機械音が絶え間なく流れている。消毒液の匂いはさっきより濃く、銀粉のざらつく感触が床に残っていた。
予備斧マルシュヴァレーを整備しながら、オジェは背を向けたまま言う。
「……君の新記録だな、アディシェス。先週の訓練で被験者十七名が精神崩壊、うち三名が自殺企図。統制局は歓喜してるらしいが——」
彼はチェーンソーをアイドリングにかけ、振り返った。
「君の『恐怖吸引』は、もはや訓練じゃない。ただの人体実験だ」
アディシェスは白い瞳にうっすらと笑みを浮かべる。手の中のリサージュ・カッターが呼吸に合わせて微かに揺れた。
「実験ですらありません、教官。これは『純化』です。恐怖こそが人間の本質。僕はただ、その核心を抽出しているだけですから」
べフロールが床を打ち、乾いた衝突音が区画中に散った。銀粉がまた舞い上がる。オジェは一気に間合いを詰める。
「核心? …君が吸い上げてるのは『恐怖』じゃない。人間の弱さを食い物にした自己満足だ」
空気が軋むほど冷えた。アディシェスの体温が落ち、周囲の光が歪む。
「面白い。教官ご自身が……今、僕に『嫌悪』という恐怖を供給していますよ」
彼は解体メスを拾い上げ、銀の刃先で光を砕いた。
「分析させてください。貴方の斧の振りは〇・三秒遅い。もしかすると、僕への『恐れ』でしょうか?」
オジェは肩で笑い、コルタンを抜いた。
「……恐れ? とんでもないな。君はな、アディシェス——自分がどんだけ脆いかわかってない」
笑みが凍る。アディシェスの指先が、刃の柄で短く軋んだ。
「……脆い、ですと?」
「ああ」
オジェはナイフの先でアディシェスの左胸を軽くつつく。そこに刻まれた見えない痛点を、正確に。
「恐怖で強くなるって? ならば——君が一番恐れてるものは何だ? 『感情なき君』が、唯一吸い込めない恐怖を」
温度がさらに急降下する。白い息が二人の間に淡く溶けた。
「……黙らっしゃい」
アディシェスの手の中でリサージュ・カッターが微かに震える。
「僕は完璧なまでに感情を排除した。この仮面が——」
「仮面?」
オジェは唐突に笑い、すぐに笑いを殺した。べフロールのエンジンを止め、刃を静かに下ろす。
「だから言うじゃんか——君は脆いってな。その仮面は、君が『感情に呑まれる恐怖』から必死に逃げてる証だ」
硬質な音がした。アディシェスの無表情な仮面に、髪の毛一本ほどの亀裂が走る。それは光を細く裂き、彼の頬に影を落とした。
オジェは背を向け、去り際に投げた。
「楽しみにしてる、実験官よ。いつか——『吸えなかった恐怖』が君を食い尽くす日を」
静寂が戻る。アディシェスは仮面の縁に指を当てる。冷たい笑みはたちまち再構築されたが、その指先だけは、ほんのわずかに震えていた。



