秩序なくして国家なし。痛みは必要悪。
——ガシャバ
感情は不純物。恐怖は最も純度の高い情報だ。
——アディシェス

一、冷却区画
統制局第七冷却区画。壁は銀灰、温度は人肌を拒む設計。照度は意図的に一段低い。
アディシェスは光沢のない防護服の襟に手を当て、端整に分けられた白髪を指先で整えた。白い虹彩は、反射した天井灯を淡く細工品のようにとらえる。
対面の観察窓には、刈り上げの白髪と白い瞳を持つ巨躯の男――ガシャバ。無表情の威圧は、部屋そのものを追加の拘束具に変えていた。

「遅いな、銀警官」
低温の空気の中でも、ガシャバの声だけは冷えを受けつけない。短く、重い。

「遅延は誤差です、長官。恐怖の生成には時間が熟成を要します」

アディシェスは、銀糸の刺繍が施された袖口から、細長いケースを机に置く。ケース内には解体メスと、曲線のリングが連なる精神共鳴拷問具――リサージュ・カッター。

「ここは研究室ではない。秩序のための部屋だ」

「研究と秩序は矛盾しません。より精密な秩序のために、より精緻な恐怖が必要です」

二人の視線が交差する。ひとつは冷徹な使命、もうひとつは冷却された狂気。室温がさらに一度、下がったように感じられた。

二、対象零一三
拘束椅子に座る反体制運搬屋、対象零一三は唇を噛みしめ、視線を泳がせていた。
アディシェスが歩み寄る。足音は規則正しい。白い虹彩が対象の瞳孔の開き、脈拍線、皮膚温の微細な変化を逐一拾っていく。

「恐怖は、あなたの体内でどの器官から最初に立ち上がるか、ご存じですか?」
穏やかな微笑。淡々とした声。
対象の喉が鳴る。ガシャバが観察窓の陰から、短く命じる。

「必要な情報だけを取れ。時間は三分」

アディシェスは首を傾ける。
「三分は充分でしょう。恐怖が成熟している」

リサージュ・カッターのリングが、極小の音で共鳴を始める。その音は鈴の音にも似て、対象の記憶の底部を刺激する。その瞬間、室内の光が一段深く沈み、影がわずかに伸びた。温度も揺らめく。
アディシェスの呼吸は静かに整い、皮膚の色相から体温が引いていく。恐怖吸引――Fear Assimilation。
ガシャバはその変化を見逃さない。壁のインジケーターが微かにノイズを走らせた。

「運搬ルート。潜伏拠点。合図は?」
ガシャバの声は硬い鋼板のようだ。対象は唇を震わせる。
アディシェスは答えの前に、対象の瞳の奥の「恐怖の形」を観察する。恐怖は液体ではない。結晶でもない。情報だ。純度と密度に比例して、世界の輪郭は凍っていく。

「北環状、廃冷却塔。第二周期の零時。合図は灯り二つ……」

答えが漏れるたび、アディシェスの胸中で静かな高揚が広がる。冷たさが彼の内側を磨き、余計な感情を削り落とす。
ガシャバは短く頷いた。だが観察窓から視線を外さない。その静謐は、警告にも似ていた。

三、境界線
情報が揃い、ガシャバは扉を開けた。重厚なロックが外れる音が、室内の空気圧をわずかに揺らす。

「もう十分だ。止めろ」
命令は短い。反論の余地はない。

アディシェスの手は止まらない。白い虹彩に反射する対象の恐怖——その波形はまだ収束していない。収束前の恐怖は、最も純度が高い。彼はそれを逃したくなかった。恐怖が彼を研ぎ澄まし、理性の刃がさらに薄く鋭くなる快楽が、自身の中で音もなく広がる。

「銀警官」

一語。だが、ガシャバの声は室内の温度制御に勝る効果を持っていた。
アディシェスはゆっくりと顔を上げる。
二人の距離は数歩。ガシャバの白い瞳には、揺らぎはない。無表情の仮面。その下に沈められた古い傷跡は、この男の命令に血の匂いを混ぜない矜持だった。

「秩序は終端を知る。必要な痛みは境界線を越えない。ここで終わりだ」

「境界線は、定義の問題です、長官。より安定した秩序のために、もう一歩だけ深く」

「その一歩が体制を腐らせる。恐怖だけで支えた塔は、最初の風で崩れる」

アディシェスはほんの一瞬、笑みの角度をわずかに変える。
彼の信条が、ガシャバの信条と鋭い角度でぶつかる音が、室内の無音をきしませた。

「貴方の秩序は、感情への赦しが混ざっています。混濁は誤差を生みます」

「誤差は人間だ。国家は人間でできている」

沈黙。
やがてアディシェスは、リサージュ・カッターの電源を切った。リングの微音が消えると同時に、影は元の長さに戻り、温度も規定値に復帰する。
対象零一三は、浅い呼吸でうなだれた。ガシャバが手振りひとつで看守を呼ぶ。

四、廊下の会話
区画外の廊下は、白く、長い。歩幅の異なる二人の靴音が、規律的に交互へ重なる。

「長官。あなたはなぜ、その仮面を被るのです?」
アディシェスが問う。口調は柔らかいが、刃の裏のような冷たさがある。

「仮面ではない。空席だ」
ガシャバの視線は前を向いたままだ。
「僕は自分を空けておく。職務を置くためにな」

「それは、僕と何が違いますか?」

「お前は自分を削いでいく。僕は自分を退かせておく。似ているようで、終わりが違う」

アディシェスの白い虹彩が、わずかに収束する。彼の内部で、冷却がもう一段進む感覚。恐怖吸引の残滓が、思考の淵に薄い氷を張る。

「終わり…ですか」

「崩れる前に止まれ、銀警官」
ガシャバの言葉は忠告にも脅しにも聞こえない。ただの命令。だが、その裏に微かな人間の温度があることを、アディシェスは観測してしまう。
それは彼の理論では説明しにくい種の温度だった。

五、灯り二つ
その夜、廃冷却塔周辺で一斉検挙が行われた。灯りが二つ上がる前に、街路は封鎖され、通信は絞られた。
作戦中、アディシェスは後方から全体の恐怖分布を観測する。恐怖が生じるたび、世界の輪郭線が薄く凍る——だが彼はその氷を踏み抜かないよう、自らの足取りを制御する。
ガシャバは先頭で短い命令を連ね、必要な力だけを使う。無駄はない。倒れる者たちに、彼は視線を落とさない。落とすべき書類にだけ落とす。

作戦は成功した。報告書の欄は埋まり、インクは乾き、街は翌朝も同じ顔を装った。

六、残響
夜更け、アディシェスは執務室で「無表情の仮面」の紋章に指先を置く。
恐怖は最も純度の高い情報。だが、それだけで秩序は完成するだろうか。
彼はその問いを、自分の中の冷えた空洞に投げ入れる。返ってくるのは、透き通った無音だ。論理は欠けない。欠けないことが、かえって不吉だった。

扉がノックされる。
ガシャバが入る。相変わらずの無表情、白い瞳。だが、室内に漂うわずかなコーヒーの匂いに、彼の過去の欠片が一瞬だけ触れた気がした。

「次の対象は?」
アディシェスが問う。

「明朝。準備は同じだ」

「境界線も、同じですか」

ガシャバは少しだけ、間を置く。

「守れ」

アディシェスは微笑む。淡く、冷ややかに。
恐怖は吸える。秩序は設計できる。だが、人間という誤差は、どのモデルにも最終的には残る。
その誤差をゼロにするのか、許容範囲内に収めるのか。二人の答えは違う。
それでも今夜は、同じ報告書に同じ署名が並ぶ。

外では、冬の風が街角の旗を鳴らしていた。音は規則的で、しかし決して完全には整わない。
アディシェスは、その僅差を美しいと感じかけて、思考を冷却した。
そして仕事に戻った。