街の中央広場。
銀色の光が降り注ぐなか、デウスエンプレス。通称:銀は静かに佇んでいた。
その足元には、膝をつくアィーアツブスの姿。乱れた白髪、白濁した瞳は、今日も光と影のはざまで揺れている。

「アィーアツブス」

銀の声が広場に響く。
それは命令でも非難でもない。まるで事実を告げるだけの、透きとおる音色だった。

「はい、神帝」

アィーアツブスはゆっくり顔を上げた。
その表情には、いつもの暴力衝動も、慈悲の微笑もなく、ただ深い疲弊の色だけが宿っている。

「お前の名を、呼びにくいと感じている」

銀の言葉に、アィーアツブスは驚きに息を呑んだ。
だがすぐに視線を落とし、小さく頷いた。

「……承知しております。この名を口にするたび、何かが引っかかるのです。まるで、自分ではない何者かを呼んでいるようで」

「その通りだ」

銀は静かに頷いた。

「名とは、存在の核だ。呼びにくい名は、存在そのものを曖昧にする。お前は今、自分が誰なのかを見失っている。それは名が、お前の本質と乖離しているからだ」

アィーアツブスは震える手で胸を押さえた。
そこには「二つの仮面」の紋章――笑顔と涙、喜びと憤怒、秩序と混沌――が刻まれている。

「僕は……何者なのでしょうか」

「それを、いま定めよう」

銀が右手を天へとかざした瞬間、周囲の空気が凍りついた。
静寂の結界が展開され、街の喧騒も風の息吹も、すべてが消える。
この空間には、ただ二人の存在だけが許された。

「お前の本質を見よう」

銀の瞳が光を放つ――神鏡の視座。
過去も未来も、そして真実すらも見通す眼。

銀が覗いたのは、アィーアツブスの魂の深層だった。
そこには、無数の感情が渦巻いていた。喜び、悲しみ、怒り、恐怖、慈愛、憎悪――それらは確かに本物であり、自身そのもの。だが、その感情を束ねる「核」がなかった。

「お前には中心がない。だから感情に翻弄され、名もまた定まらぬ」

「では……僕はどうすれば」

「名を変えよ」

銀の声は、律そのもののように空間へ刻まれた。

「新しい名は中心となる。感情を否定せず、それらを統べる器となる名を。呼びやすく、覚えやすく、そしてお前自身が愛せる名を選ぶのだ」

アィーアツブスは静かに目を閉じた。
心の奥底へと沈み込み、揺らめく感情の渦のなかを探る。
やがて彼はひとすじの光を見つけた。それは、すべての感情が生じ、還る場所――源泉。

「……リヴェル」

小さくその名を呟く。
その響きは、川のように流れ、鏡のように世界を映す。

「リヴェル――川のように流れ、映し、そして自由であること」

銀は微笑んだ。それは宇宙の深淵を宿す、稀なる微笑だった。

「良い名だ。リヴェル――感情の川を統べる者よ」

銀がリヴェル(かつてのアィーアツブス)の頭に手を置く。
瞬間、彼の身体は光に包まれた。
白髪は銀の光を帯び、白濁していた瞳には透明な蒼が宿る。
胸の紋章は変化し、「二つの仮面」は「流れる水面」となった。

「これより、お前はリヴェルだ」

銀の声が降り注ぐ。それは命令ではなく、祝福だった。

「感情を恐れるな。それらは力だ。だが流れに溺れるな、導くのだ。川はときに荒ぶれど、必ず海へと帰る」

リヴェルは静かに立ち上がった。
その内で、何かが確かに変わっていた。
感情の波は相変わらずそこにある――だが今、その流れは整然としている。

「ありがとうございます、神帝」

深く頭を垂れる。

「これから僕は、リヴェルとして生きます。感情の川を統べ、この街に静寂ではなく、調和をもたらします」

「期待している」

(お前へ……剣を手放すな)

銀は踵を返し、歩み去った。
静寂の結界が消え、街の喧騒がゆっくりと戻ってくる。
人々は何が起こったのか知らぬまま、いつもの時を過ごしていた。

だがリヴェルは知っていた。
自分がようやく、本当の名を得たのだと。

彼は大剣リヴァレインを手に取る。
刃は穏やかに青白く輝き、もはや暴れることはない。
これからは、その剣も共に流れるだろう――彼という川のなかで。

「リヴェル……」

自らの名を呼ぶ。
その響きは不思議なほど心に馴染んだ。

微笑とともに、リヴェルは街の守護へと歩き出した。