夕暮れのカフェ「木崎屋」。窓から差し込む橙の光が、テーブルやカップの縁を静かに染めている。
昼のざわめきが少しずつ沈み、学生たちの笑い声もやがて柔らかくなっていく頃、店内には夜への気配がゆるやかに満ちていた。

カウンターでは木崎逸美が新しいシフトの準備を進め、佐々木糊竹は最後の学生客と談笑しながらテーブルを片付けている。奥では新人の柏木俊太郎が、ドリンクピッチャーを抱えて慌ただしく動いていた。

そのとき、扉の鈴が澄んだ音を立てた。
音の方へ顔を向けると、夕暮れの光の中に一人の男が立っている。屈強な体躯に銀の装飾をまとった鎧、静かな白髪、そして曇りを帯びた白銀色の瞳。銀の秩序機構の「銀の調律者」、アィーアツブスだった。

彼は守護者を思わせる穏やかな気配を纏い、胸元では「二つの仮面」の紋章が淡く光っている。その光は、喜びと悲しみがひとつに融け合うようであった。
アィーアツブスは窓際の席へ静かに歩み寄り、深く息を吐きながら腰を下ろす。

「……何か、心を静かにしてくれる飲み物を頼むよ」
その低い声は祈りにも似て、店内の空気を柔らかく震わせた。

木崎は軽く微笑んで答える。
「アィーアツブスさん、今日は一段と落ち着いてるね。ラベンダーティーに蜂蜜を入れるのはどう? 心がほぐれるよ」
「それがいい」

ティーポットを準備する木崎の手元を見つめながら、アィーアツブスは小さく頷く。
「この場所は、人の律動が調和している。……穏やかだ」

湯気とともに漂うラベンダーの香りが、彼の呼吸をゆるやかにする。
木崎がカップを差し出すと、アィーアツブスは丁寧に受け取り、香りを吸い込みながら言った。
「……いい香りだ。ありがとう、木崎。この穏やかさが、僕の心を整えてくれる」

彼は一口啜り、瞳を細める。
(喜びも悲しみも、ここではただの律動だ。……この場所は、僕を赦してくれる)
心の中で囁くその言葉が、ラベンダーの香気とともに静かに溶けていった。

テーブルを片付けていた糊竹がふと顔を上げる。
「おっ、アィーアツブスさん! その鎧、めっちゃ神秘的っすね! 癒しオーラ全開じゃないですか!」
アィーアツブスは柔らかく笑む。
「……君の明るさは、いい律動だ。場の空気を軽くしてくれる」
「え、なんか詩的な褒め言葉!? 照れるじゃん!」
糊竹が声を上げ、店内に小さな笑いが広がる。

その時、俊太郎がドリンクを補充しながら近づき、緊張した面持ちで言った。
「あ、あの……他にご注文はありますか?」
アィーアツブスは彼に視線を向ける。
「新人か。……緊張も、君の心の律動だ。無理に抑えず、ありのままでいい」
「は、はい! ありがとうございます!」
俊太郎の顔がぱっと明るくなり、胸の奥で何か温かいものが広がった。

木崎はその様子を見て、カウンター越しに微笑む。
「アィーアツブスさん、俊太郎くんに優しくしてくれてありがと。ほんと、場を穏やかにしてくれるよね」
「……この場所が、僕の心を調律してくれるんだ。君たちのおかげだよ」

その一言に、俊太郎はまた勇気をもらったように背筋を伸ばす。
ラベンダーティーの残りを口に含んだアィーアツブスの胸中には、わずかな葛藤がまだ残っている。
(人の感情を調律するのは、僕自身の贖罪だ。……だが、この場所では、ただ在るだけでいい)

やがてカップは空になり、夕暮れの橙が薄紫に変わる頃、アィーアツブスは立ち上がった。
「木崎、いい時間をありがとう。……この場所の律動、また感じに来るよ」
彼の白銀の瞳がカフェの灯を映し、柔らかく光る。

「いつでも待ってるよ、アィーアツブスさん。次も心ほぐしに来てね」
木崎が微笑み、糊竹が手を振る。
「また癒しオーラ撒き散らしてくださいね!」
俊太郎はその背中を見送りながら、小さく呟いた。
「す、すごい人だった……」

アィーアツブスは静かな足取りで夜の街へ消えていく。
背に輝く二つの仮面が、喜びと悲しみの調和を宿したまま、静かに光を放っていた。