夜が祈りと嘲笑を呑み込んだあと、ただ銀色の残響だけが広がっていた。
 崩れかけた聖塔の頂で、ノクス・イシュメエルは足を止めた。彼の指先から編まれる紋章が、空間に円環を描く。封印の術式〈終の秩序〉――静寂の理を形にする儀。

 風は止まり、音は閉ざされた。時間すら呼吸を忘れたかのようだった。
 「ノクス……貴様も、僕を裁くつもりか」
 アィーアツブスの声は、もう怒りではなかった。血のような光をまとった“情理ノ裁断”がゆっくりと膝を折り、紅の輝きが地に滴っていく。

 ノクスはわずかに瞼を伏せたまま、手を止めない。円環は完成へと近づき、その中心でアィーアツブスの影が揺らめいた。
 「私は裁かぬ。ただ、均すだけだ。理はお前を断罪しない」
 銀光が幾重にも重なり、塔を包み込むように渦を巻く。その光は炎ではなく、冷たい雪のように世界に降り注いだ。

 ノクスは最後の印を描き、静かに告げた。
 「お前の理は、すでに誰かの情に救われた」

 その言葉に、アィーアツブスの瞳が微かに揺れた。
 レツィナの祈り、グリモの嘲笑、それらすべてが胸を貫いて流れ込む。彼の手から剣が滑り落ち、銀の鎧が音を立てて崩れる。

 「……あぁ、そう…か――」
 笑みが零れた。血に濡れた唇が、かすかに穏やかさを取り戻す。

 封印の光が完成し、世界はひとつの息を吐いた。
 銀の巡回者はその腕に抱かれるように沈み、やがて光の粒となって空に溶けていった。

 夜が明ける。
 誰の心にも“感情の波”は残らず、ただ、どこかで風が静かに微笑んだ。