廃都・夢廻の路地裏に、虹色のレインコートが揺れていた。

「……また、君か」

低く、重い声。銀の制服が月光を反射する。白髪の男――アィーアツブスが、折れた灯籠の前に立っていた。

「こんばんは、銀警官さん」

ホープ&ドリームは穏やかに微笑んだ。彼の声は、夜風のように優しい。

「君の名前……いつも呼べないんだ」

アィーアツブスの白濁した瞳が、わずかに揺れた。

「呼べない?」

「うん。アィーアツブス……舌が絡まってしまう。覚えようとしても、すぐに霧のように消えてしまう」

銀警官は無言で剣を握る。その刃が、青白く震えた。

「……それで?」

「だから、新しい名前で呼ばせてほしい」

ホープ&ドリームは、桜の灰を手のひらに受けながら言った。

「アイアス。どうかな?」

「アイアス……」

短い。明瞭。呼びやすい。

アィーアツブス――いや、これからアイアスと呼ばれる男は、初めて聞く自分の新しい名に、戸惑いを覚えた。

数日後、夢廻の中央広場で事件が起きた。

アイアスの感情が暴走したのだ。

「止めろ……止めてくれ……!」

彼の叫びとともに、周囲の人々が一斉に泣き崩れた。共感伝播が発動し、悲しみの波が街を覆う。

「アイアス!」

虹色の影が駆け抜ける。ホープ&ドリームだ。

「君の心が……街を壊している」

「分かっている! でも止められない……この感情が、僕を支配する……!」

アイアスの剣が光を帯びる。赤黒く、憤怒の色に染まっていく。

「なら、一緒に止めよう」

ホープ&ドリームは静かに、アイアスの手に触れた。

その瞬間――世界が静止した。

契約の紙片が、ふたりを包む。灰色の空間。時間が止まった場所。

「ここは……?」

「終わりの余白。夢と現実の狭間」

ホープ&ドリームは微笑む。

「ここでなら、君の感情は誰も傷つけない」

アイアスは膝をついた。涙が零れる。

「僕は……守りたかっただけなんだ。秩序を、人々を。なのに、僕自身が混沌になってしまう」

「それは、君が『感じすぎる』から」

「感じすぎる……?」

「そう。君は人の痛みも、喜びも、全てを自分のものとして受け止めてしまう。それが君の能力であり、呪いでもある」

ホープアンドドリームは、アイアスの仮面に手を伸ばした。

「でもね、アイアス。君の二面性は、弱さじゃない。それは豊かさなんだ」

「豊かさ……?」

「笑うことも、泣くことも、怒ることも。全部が君という人間を作っている。それを否定しなくていい」

その夜から、アイアスの性格が少しずつ変わり始めた。

いや――正確には、変えようとし始めた。

「感情を抑えるんじゃなく……受け入れる、か」

彼は毎晩、折れた灯籠の前で瞑想をするようになった。ホープ&ドリームが教えてくれた呼吸法を繰り返す。

「終わりがあるから、始まりがある」

「感情があるから、生きている」

アイアスは、自分の感情を「敵」ではなく「一部」として認識し始めた。

そして――名前も、変わった。

アィーアツブスという、呼びにくく、覚えにくく、距離を感じさせる名から、アイアスという、親しみやすく、温かい響きを持つ名へ。

「おはよう、アイアス」

「……ああ、おはよう」

市民たちも、彼の名を呼ぶようになった。それは小さな、しかし確かな変化だった。

ある満月の夜、ふたりは廃ビルの屋上にいた。

「ありがとう、ホープ&ドリーム」

「何が?」

「名前を変えてくれて。性格を……いや、性格を変えようとする勇気をくれて」

アイアスは、穏やかに笑った。それは、かつての彼からは想像できない表情だった。

「君はまだ、自分を知ろうとしている途中だ」

ホープ&ドリームは言った。

「それでいい。終わらない物語のほうが、美しいから」

「終わらない物語……」

「そう。君の物語は、これから始まる」

虹色のレインコートが風に揺れる。桜の灰が舞い上がる。

折れた灯籠が、静かに光を灯し始めた。

終わりの中にこそ、希望は咲く。

新しい名とともに、新しい心が生まれる。

―― 夢廻の街に、朝が来る。

おわり