「秩序なくして国家なし。痛みは必要悪」——ガシャバ
「白はただの“無”ではない。光が行き交う場所だ」——シェリダー

真白な霧が都市の上に降りかかり、色彩が音もなく剥がれ落ちていく。
純白秩序局の旗が遠くで震え、広場の中心には二人の男が立っていた。

ひとりは刈上げの白髪、白い瞳、鉄のような気配を纏う男——ガシャバ。
秘密警察長官の白いコートが、舞い散る灰の中で唯一、重さを持って揺れていた。
もうひとりは、白銀の鎧をまとい、胸に翼持つ白十字の紋章を抱く男——シェリダー。
白を極め、白で断じる“銀警官”。彼の周囲だけ、世界は輪郭を失い、白の力が静かに鼓動していた。

「立ち退け、ガシャバ。ここは僕の権能の領域だ」
シェリダーの声は冷やされ、刃先のように透明だった。
ガシャバは短く首を傾ける。
「命令は出ている。騒乱因子の一斉拘束だ。お前は——邪魔をするな」

二人の視線が交差し、白い霧が無風のまま裂けた。


広場に集められた者たちは、ただ色が違うという理由だけで「異色」として印をつけられていた。旗布、瞳の色、皮膚の模様、歌声に混じる別のリズム——それらが罪名となる街。

シェリダーは右手を掲げ、純白の秩序を展開する。
世界が褪せ、色が沈む。露店の布も、子どもの赤い靴も、青年の黒いマフラーも、ゆっくりと白い板のようになっていく。
「汚れは切り離されなければならない。秩序のために」

「必要以上に色を剥ぐな、銀警官」
ガシャバが低く言う。

「秩序は残酷でいい。だが、盲目であってはならない」

「盲目なのはそちらだ、ガシャバ。君は痛みを秤にかける。僕は理念で裁く」

「理念は血を見ないふりをする」

ガシャバの白い瞳が一瞬だけ細くなる。

「お前の剣の先にいるのは、紙ではない」

その時、群衆の中で小さな声が上がった。

「お願い、うちの子は——ただの歌い手なんです」

シェリダーの意識が揺れる。白が一瞬、薄くなる。
彼は胸の紋章に視線を落とした。翼ある白十字。純白の象徴に紛れ込む、わずかな陰影。胸の奥に、古い痛みが疼いた。
——起源。自分の血に潜む異端の影。決して口にしてはならない混色。

「迷うな」
ガシャバの声が、冷ややかな鐘の音のように響く。
「迷いは秩序を腐らせる」

シェリダーは唇を結び、領域の密度を上げた。群衆の色がさらに落ちて、白く、白く、均されていく。
しかし、耳のどこかで、銀の糸が震えるように囁いた——白は、空っぽではない。

夜。局舎の天井は磨かれた雪のように艶やかで、足音は氷を踏む音に似ていた。
ガシャバの執務室は簡素そのもので、飾り気がない。机の上には、拘束名簿と、未処理の嘆願書が数枚。

「署名が増えている」
ガシャバは書類を捲り、短く言った。
「お前の領域が強いほど、人間は弱くなる。反発は形を変える。火は隙間に潜む」

「秩序が整えば、火は消える」
シェリダーは言い、窓の外に目をやった。

暗闇の中に、誰かが灯す手灯りが虫のように点滅している。白に塗られた町の、その白のひび割れに、色の火が滲んでいた。

ガシャバは椅子から立ち、背を向けて言った。
「お前の白は世界を守る鎧だ。その鎧が、世界を締め殺すことがある」

沈黙。
シェリダーは、己の剣の名を思い出す。
「セラフィエル」
天から摘み出したような純白の刃。
剣は問う——お前の白は誰の白だ、と。

「……もし、白が、他の色を守るためにあるとしたら?」
思わず声が零れた。
ガシャバの肩が微かに動く。
「ならば、お前は自分を否定することになる」

「僕自身が、白にとっての汚れだとしたら?」

ガシャバはゆっくり振り向く。その白い瞳は冷たいが、そこにわずかな人の温度があった。
「お前がどんな血であろうと、任務は変わらない。——だが、任務の『意味』は、持ち主に殺されも、救われもする」
(一回、頼むといいだろう。失敗は最初にあるべきだから)

短い言葉。だが、冷徹の底に、刃先のように細い「許し」が触れた気がした。

翌朝、反旗が上がった。
白の塗膜に押し込められた色が、一斉に弾ける。旗、歌、涙、怒り——それらが入り混じり、都市は一瞬で万華鏡になった。

ガシャバは無駄のない指示を飛ばし、鎮圧部隊を展開する。
「角を抑えろ。火を消せ。誰も殺すな——必要な限りで、止めろ」

街角で、シェリダーは白の領域を広げた。反乱者の刃を鈍らせ、飛び石を粉に変え、怒号を白い静けさで包み込む。
しかし——人の心は白に沈黙しなかった。
色は色として叫び、泣き、ぶつかった。

群衆の中に、あの日の歌い手の母がいた。彼女は震える手で子を抱え、シェリダーを見上げる。

「どうか、あの子の声を奪わないで」

「…」
(…「歌だけは…どうか奪わないで……」…歌だけは…どうか……ッ!)
セラフィエルが、手の中でわずかに重みを失った。
白が、薄くなる。

「迷うな」
背後からガシャバの声。
「理念で裁け。情に溺れるな」

「違う」
シェリダーは、自分の声が変わったのを感じた。冷さが抜け、静けさが深くなった。

「裁くための白は、もういらない」
彼は剣を鞘に納め、両手を広げる。
白の領域が形を変え——融光の秩序が、街に降りた。

白は色を剥がすのではなく、色の間に光の橋をかける。
怒りの刃から、恐怖の棘を抜く。歌の音階が、恐怖の鼓動と調和する。
兵の瞳から、殺意が蒸気のように消え、代わりに任務の輪郭だけが残る。
群衆の足が止まり、息が合い、誰かが短く祈る。

ガシャバは一歩、シェリダーの前に出た。白い瞳が、その新しい光を計る。
「……何をした」

「白を空に戻した」
シェリダーは静かに答えた。
「光を行き交わせた」

「甘い」
ガシャバは言葉を切り刻むように吐き捨てる。
「甘さは秩序を腐らせる」

「君はいつも“腐る”と言う」
(もし、目の前の汚物が色を持っていたとしても…僕は白に塗り替えることは大変不可能である)
シェリダーは首を振った。

「腐敗は密閉から始まる。息をしない秩序は、死体と同じだ」

「息が混乱を呼ぶ」

「息が生を呼ぶ」

数秒、二人は互いの息を数えた。
やがてガシャバは、短く顎を引く。
「……続けろ。ただし、暴発は止める」

「約束する。誰も切らない」

逃走した武装組が、行政棟を占拠した。
火薬の匂い。割れたガラス。崩れた白壁。
ガシャバは最前線に立ち、短い号令で包囲網を締める。
「突入する」

彼はシェリダーを見ずに言った。
「待て」

シェリダーは手を上げる。
「僕が通す」

「お前は剣を納めた」

「剣で道を作る時代は、もう終わりだ」

シェリダーはひとりで扉を押し開け、薄暗い廊下に入った。
融光の秩序が、狭い空間の隅々に息づく。
武装した青年が叫びながら突進してくる——その瞳の奥、燃えているのは恐怖だ。
シェリダーは手を伸ばし、彼の肩に触れた。光が走り、震えが静まる。
「怖いんだろう」
青年は嗚咽し、武器を落とした。

階段の踊り場で、別の男が起爆装置に指をかける。
ガシャバが影のように現れ、無駄のない動作で腕を折り、装置を奪った。
短い呻き。ガシャバは一切の情を見せない——が、倒れた男の頭が階段に打ち付けられないよう、手の甲でそっと支えた。

「必要悪だ」
彼は誰にも聞こえないほどの声量で呟く。

最上階。指導者格の男が窓辺に追い詰められ、外の群衆に向けて叫ぶ。
「白に飲まれるくらいなら、ここで——!」

シェリダーが前に出る。
「白は飲み込まない。灯すんだ」

「信じられるか!」

男は叫ぶ。
「お前は剥ぎ取った! 俺達の色も、歌も、誇りも!」

言葉が刃になる。シェリダーの胸が痛む。
過去の自分が、彼の叫びに重なる。
「……ああ。奪った。だから、返しに来た」

シェリダーはゆっくり手を差し出す。
「僕の白は、お前の色を守るためにある」

男の手が震える。
その瞬間、背後から別の影が飛び出し、刃が閃く。
ガシャバが間に入り、無駄のない一撃で刃を叩き落とす。鋼が床を跳ね、窓の外へ消えた。
「無駄は嫌いだ」
ガシャバは冷ややかに言う。
「死も、無駄だ」

沈黙。
やがて、指導者の肩が崩れ落ち、武器が床に転がった。
外の群衆が、吸い込まれるように静まる。
融光の秩序が、都市の上に、薄い朝のように広がっていく。

火は消え、歌が残った。
シェリダーは鎧の白を抑え、灰と青の装飾を帯びた新たな礼装に身を包んだ。
剣“セラフィエル”は鞘のまま、今は“調和の刃”と呼ばれる。抜くのは守るためだけ。
彼は「再統合評議」の広場で、かつて排除した白黒の民に頭を垂れた。
「奪った声を、守るために立つ。忘れないことを、僕の罰にする」

ガシャバは遠くからそれを見ていた。
白い瞳は相変わらず冷たい。だが、彼の立ち位置が、街の風の邪魔にならないよう一歩だけ下がっていることに、シェリダーは気づいた。

「長官」
シェリダーが近づく。
「貴方は、僕を止めるつもりか」

「必要なら」
ガシャバは短く答える。
「しかし今は——見張る」

「僕が過ちに戻ったら?」

「切り捨てる」
ガシャバの声は乾いている。
「自分ごとだ」

シェリダーは小さく笑った。
「それが、貴方の優しさだ」
(……本当に自分が汚物だと分かってて…正直驚いてる……でないと、あの「自分ごとだ」という発言は出ないのだから)

風が吹き、旗が鳴る。
色は混ざり、白は透け、光が行き交う。
ガシャバは帽子の庇を指で押さえ、わずかに目を細めた。
「秩序なくして国家なし」

彼は昔と同じ言葉を吐き、しかし最後に一つだけ、付け加えた。
「——息をする秩序だ」

シェリダーは頷く。
「色を否定しない白こそ、真の純粋」

二人の間に、結論ではない了解が落ちる。
それは協定ではなく、警鐘であり、救命索であり、いつでも断ち切れる細い糸でもあった。
彼らはそれぞれのやり方で、それぞれの「必要悪」と「必要光」を持って、街を見張り続ける。

遠く、子どもの歌が聞こえた。
かつて消されかけた旋律が、今は白の中でよく響く。
ガシャバは僅かに顎を上げ、シェリダーは目を閉じる。

「…歌だけは奪わないで……良かった」

白はもう、誰も飲み込まない。
白は、光が行き交う場所になった。

『色を灯す為の白でありたい』白偉大遊官