ニヤニヤと笑う自分よりも身長の高い男を睨み上げる。目尻にちょっと雫が溜まりかけるが、揶揄われて泣きそうだとか、そういうことはない。断じてない。
「センパーイ、今日も俺の勝ちでしたね!」
清々しい顔をして嫌味ったらしく言ってくるのは自分よりも一個年下の男、神原秋人だ。小学校、中学校、そして何故か高校も同じ学校で、もはやストーカーなのではないかと思うくら神原は自分について回ってきた。どれだけ逃げても、いつの間にか自分の隣には神原がいて、そして何かと勝負を仕掛けてきては圧勝していく。こんなに勝っても嬉しくない相手も他にいないだろうに。
なのになぜか神原はいつでも自分にだけ勝負を挑むのだ。そして、当然のように勝つと自分に向かって言うのだ。
「じゃあ、今日はほっぺたにお願いしますね、センパイ」
にっこりと笑う姿は一部の生徒から天使の微笑みだと言われているが、自分からすれば悪魔かそれに類似した何かにしか見えない。それくらい、この男が要求してくるものが悪趣味なのだ。
「ほーら、早くしてくださいよ、センパイ。今なら誰もいないのに、誰か来ちゃいますよ…………それとも、誰かに見られることを期待してますか?」
そして、この男は決まって学校でしかその勝負を仕掛けてこない。つまり、それの対価を要求されるのも学校の中なのだ。
「――ね、早瀬センパイ?」
とろけるように甘い笑みを浮かべる神原に自分こと早瀬薫は絶対に屈することはない。たとえ、勝負に負けても――その報酬に毎回どこかしらへのキスを要求されても。
早瀬は小さく舌打ちをすると、神原の胸ぐらを掴んで引き寄せる。いつか絶対にぎゃふんと言わせてやる、と心に決めながら。
「……っ!」
早瀬はキスをすると見せかけてその整った肌に歯を突き立てた。神原の表情が歪んだのを確認すると、満足そうに早瀬は頷くと、おまけ程度に頬にキスを落とす。油断をしているから痛い目に遭うのだ、ざまぁみろ。
早瀬はふんっと鼻を鳴らしながら、その場にふんぞりかえる。整った顔が歪められているのを見ると、自分が優位に立っているようで気分が良かった。だが、その余裕も神原の行動一つであっという間に瓦解する。
「……おいたがすぎるセンパイには、お仕置きが必要、ですかね?」
「うっ……わぁ!?」
神原は早瀬が理解するよりも先にその細い腰に手を回し自分の方に引き寄せると、空いた手で早瀬の顎を掴むと無理やり上を向かせる。
――しまった、煽りすぎた。と、思った時にはもう遅かった。
ぐいっと持ち上げられる腰に、身長差からつま先立ちになる足。早瀬の薄茶色の瞳は大きく見開かれ、そこには獲物を狙うような鋭い瞳に感情の熱で頬が火照った神原の顔が映っていた。早瀬の全てを喰らい尽くすかのようなその真剣な様子にグッと唇を強く引き結ぶ。
「……好きです、センパイ」
神原は祈るようにそう呟くと、固く閉ざされた早瀬の唇に自分の唇を押し当てる。
男同士の、大して柔らかくもない唇を突き合わせて何が楽しいのかわからない。だけど、神原はそれでもいいと言うように、早瀬にキスの嵐を降らす。こうなると彼が満足するか、早瀬が本気でギブアップするまで終わらない。
誰もこない、旧校舎の教室の一つ。
午後の陽が傾いて、古い窓から差し込む光が教室の隅に溜まった埃を照らしていた
何年経っても早瀬は目の前の神原の気持ちも自分自身の気持ちもわからないまま、綱渡りみたいな愛を紡いでいた。
*
早瀬薫と神原秋人の出会いは早瀬が一歳、神原が0歳の時だ。母親同士が仲が良く、歳が近いと言うこともあって、家族ぐるみの付き合いがあった。もちろん、早瀬は漫画のようにその出会いに運命を感じたこともなければ、当時のことを覚えているなんてミラクルもなかった。ただ、年々歳をとって大きくなるにつれて、自分よりも発達速度の速いことや女子に異様にモテる神原に嫉妬していったのは覚えている。
記憶にある限りの小さい頃、神原はいつも早瀬の後ろをついて回った。その頃は人見知りが激しかったのか、早瀬以外の誰かと二人きりになることはなかったし、早瀬がいないといつも泣いていた。
そんな可愛くてどうしようもなかった弟みたいな存在が豹変したのは、二人が同じ中学に通っていた時だった。
中学の早瀬はスポーツも勉強もそつなくこなせて、モテる、ほどではなかったが、男女問わず一定以上の人気を集めていた。クラスの中心にいるというとやや誇張がすぎるが、それに近いポジションにはいたはずだ。だからか、自分の世界で生きることに忙しかった早瀬は、新入生として入学してきた神原に構う余裕は無くなっていた。
早瀬はそれでいいと思っていた。
早瀬には早瀬の世界があるように、神原には神原の世界がある。同じ歳ならいざ知らず、二人は一つ歳が離れていた。たったそれだけだが、そのことが二人の世界を分つには十分すぎる理由だった。少なくとも、早瀬はそう思っていた。
「ねぇ、カオルくん」
だから、友人と廊下を歩いているところを神原に捕まった時は本当に肝が冷えた。
暗い顔をして、表情を悟らせないように俯きながらボソボソと話す神原を見た時は、一瞬誰だか理解するのに脳が拒否した。早瀬の知る彼はおどおどとしていたが、決して早瀬の嫌がることはしない、優しい人だった。それなのに、目の前に現れた神原は、虚ろな表情でこの世の終わりのような顔をしていた。それだけで、早瀬は何故か胸が痛んだ。
ぎりっと力強く握られた腕が痛くて顔を歪めながら小さな悲鳴を上げると、ようやく神原は顔を上げた。
その表情を見た時、早瀬は思わず「なんで――」と口走っていた。
そう、神原は自分で早瀬のことを捕まえておきながら、彼自身戸惑った表情を浮かべていたのだ。
なんで……どうして…………。俺のこと、わかってよ――!
神原は何も言わなかったが、その瞳は雄弁に語っている。中学に上がってからほとんど関わることのなくなった一つ年上の早瀬に、神原は泣きそうな顔で縋っていた。その顔があまりにも捨てられた子犬のようで、早瀬はつい癖でいつものように頭をわしゃわしゃと掻き回し、その額に触れるだけのキスを落とす。
その行為は幼い頃からの大丈夫のおまじないだった。
発端は早瀬の両親で、小さい頃の眠れない夜や、泣いて帰った日に家族はいつも大丈夫のおまじないとして額にキスをくれるのだ。幼い頃の早瀬はそれをしてもらうと本当に大丈夫な気持ちになって嬉しかったから、何も知らない小さき彼はそれを神原にもしていたのだ。
中学進学を境に関わりが薄くなった神原にそれをすることはなくなり、早瀬も忘れかけていたそのおまじないを、何故か思い出したようにやってしまう。
ギョッとした表情で見る友人も、息を呑んだ通行人も視界には入らない。
ただ、その時の早瀬には目の前で何故か苦しんでいる大事な弟分を安心させなければいけない、という使命感だけがあった。
それがすべての誤りだったと後悔するのは、彼のパァッと明るくなった表情を見た時だ。
そうして早瀬薫こと俺は、あの時のあのキスが、まさか地獄の始まりになるとは思っていなかった。そして、今では勝負に負けたら指定された場所にキスを贈るという謎のゲームに参加させられていることに繋がるわけだが。
「――なぁ、本当になんでだと思う?」
もしゃもしゃと購買のパンを頬張りながら、話を聞いてくれていた友人である安齋蒼太に尋ねると、彼はげっそりと疲れた様子を見せながら小さく呟く。
「痴話喧嘩なら、よそでやってくれ。俺を巻き込むな、頼むから」
懇願するように言う安齋の頭の中には、怖い顔をする神原が思い描かれていた。
確かに、神原秋人の容姿は優れていて、成績優秀、スポーツ万能。アニメの中のチートキャラがそのまま出てきたかのような人物ではあるが、その神原を、たとえ今よりも幼い頃であったとしても子犬と表現するのは早瀬くらいだろう。
しかし、そのことに早瀬は気がついていない。なんなら今でも、大きな子犬か何かだと勘違いしている節がある。
(どう考えてもあいつは、子犬なんてキャラじゃないだろ。どっちかていうと、番犬――)
その時、背筋を撫でるような声が教室の入り口から聞こえてくる。
「センパーイ!」
「……っ!」
安齋が早瀬の後ろに静かに佇む神原を思い返していると、その声が現実になって返ってきた。安齋は驚きすぎて手に持っていたフルール牛乳の紙パックを握りつぶすところだった。
「げ…………なんで上の階に来てるんだよ、秋人」
「えー? センパイに会いたくて?」
「お前は俺の彼氏か何かか」
「実質そうじゃないんですか?」
「だが、お断りだ! お前みたいにガタイのいい奴は俺の好みじゃない!」
教室の入り口に神原、反対側の窓際に早瀬たち。教室中に広がる二人のやりとりに、クラスメイトはまたか、と苦笑いを浮かべる。もはや夫婦漫才かのようなそのやり取りは、早瀬と同じクラスである彼らには日常茶飯事だった。
神原は飽きることなく早瀬の元に通い、早瀬はそれを嫌がるそぶりを見せる。本心がどうかは知らないが、神原が来ない日にはいつもの元気が二、三割なくなるので、おそらく早瀬もまんざらではないのだろう。
では、なぜこの二人が今だに付き合っていないのか――それは、簡単な話だった。
「ほらほら、昼休憩まで俺のところに来てたらいけないだろ――それで、今度はどの子が彼女さんなんだ?」
「…………ねぇ、センパイ。俺も聞きたいんだけど、今度はその話誰に聞いたの?」
「え? ……あーっと、確か隣のクラスの…………」
早瀬が答えようとした瞬間、クラスメイトが鮮やかな連携プレーを発揮した。
安齋は早瀬の口を塞ぎ、数人の男子生徒と女子生徒が神原の元に集まる。そして、クッキーやら飴やら、とにかく甘いものを神原に握らせると「ごめんねー! 早瀬のアホにはちゃんと誤解だって言っておくから!」と言って無理やり神原を教室のそばから違うところに連れて行く。
神原は「ちょっと、待って! まだ、話が……!」と言いながらも、クラスメイトの圧には勝てないのか、どんどん流されていく。
その声が完全に聞こえなくなったところで安齋は塞いでいた早瀬の口を離すと、彼は不満そうに眉間に皺を寄せていた。どうしてこんな扱いを受けているのかわからないという顔だった。
安齋は先ほどよりもさらにやつれた顔で目の前に座る可哀想な男を見る。
二人が付き合っていない理由。
それは、早瀬の思い込みの強さが関係していた。
早瀬は神原から何かしらの好意もしくは悪意を抱かれていることには気がついている。だが、長年の付き合い故にそれが愛だとか恋だとか、そういう甘いものであることは認識できずにいた。
なのに、神原の恋愛の噂には敏感で、仕入れた情報は疑うことなく真実だと思い込む。そのせいで、早瀬の中の神原は男女問わず取っ替え引っ替えしている魔性の男と化している。
どれだけ周りが、本人が、訂正しても次の日にはすべて忘れ、新しい噂の餌食になっている。
ここまで噂を信じやすい人もなかなかいないかもしれないと、安齋は深いため息を吐く。
安齋的には早瀬とあの後輩がくっつくのかどうかは関係なかった。ただ、一人の男として、斜め上の勘違いを発揮する男を好きになった神原に少しだけ同情していた。
「お前、しばらく、他クラスのやつと噂話するの禁止な」
ジトっとした目で安齋が言うと、残ったクラスメイトも首を縦に振る。早瀬だけは「なんでだよ!」と憤慨していたが、理由がわからないのなら尚更大人しくしていてくれ、と願うばかりだった。
「センパーイ、今日も俺の勝ちでしたね!」
清々しい顔をして嫌味ったらしく言ってくるのは自分よりも一個年下の男、神原秋人だ。小学校、中学校、そして何故か高校も同じ学校で、もはやストーカーなのではないかと思うくら神原は自分について回ってきた。どれだけ逃げても、いつの間にか自分の隣には神原がいて、そして何かと勝負を仕掛けてきては圧勝していく。こんなに勝っても嬉しくない相手も他にいないだろうに。
なのになぜか神原はいつでも自分にだけ勝負を挑むのだ。そして、当然のように勝つと自分に向かって言うのだ。
「じゃあ、今日はほっぺたにお願いしますね、センパイ」
にっこりと笑う姿は一部の生徒から天使の微笑みだと言われているが、自分からすれば悪魔かそれに類似した何かにしか見えない。それくらい、この男が要求してくるものが悪趣味なのだ。
「ほーら、早くしてくださいよ、センパイ。今なら誰もいないのに、誰か来ちゃいますよ…………それとも、誰かに見られることを期待してますか?」
そして、この男は決まって学校でしかその勝負を仕掛けてこない。つまり、それの対価を要求されるのも学校の中なのだ。
「――ね、早瀬センパイ?」
とろけるように甘い笑みを浮かべる神原に自分こと早瀬薫は絶対に屈することはない。たとえ、勝負に負けても――その報酬に毎回どこかしらへのキスを要求されても。
早瀬は小さく舌打ちをすると、神原の胸ぐらを掴んで引き寄せる。いつか絶対にぎゃふんと言わせてやる、と心に決めながら。
「……っ!」
早瀬はキスをすると見せかけてその整った肌に歯を突き立てた。神原の表情が歪んだのを確認すると、満足そうに早瀬は頷くと、おまけ程度に頬にキスを落とす。油断をしているから痛い目に遭うのだ、ざまぁみろ。
早瀬はふんっと鼻を鳴らしながら、その場にふんぞりかえる。整った顔が歪められているのを見ると、自分が優位に立っているようで気分が良かった。だが、その余裕も神原の行動一つであっという間に瓦解する。
「……おいたがすぎるセンパイには、お仕置きが必要、ですかね?」
「うっ……わぁ!?」
神原は早瀬が理解するよりも先にその細い腰に手を回し自分の方に引き寄せると、空いた手で早瀬の顎を掴むと無理やり上を向かせる。
――しまった、煽りすぎた。と、思った時にはもう遅かった。
ぐいっと持ち上げられる腰に、身長差からつま先立ちになる足。早瀬の薄茶色の瞳は大きく見開かれ、そこには獲物を狙うような鋭い瞳に感情の熱で頬が火照った神原の顔が映っていた。早瀬の全てを喰らい尽くすかのようなその真剣な様子にグッと唇を強く引き結ぶ。
「……好きです、センパイ」
神原は祈るようにそう呟くと、固く閉ざされた早瀬の唇に自分の唇を押し当てる。
男同士の、大して柔らかくもない唇を突き合わせて何が楽しいのかわからない。だけど、神原はそれでもいいと言うように、早瀬にキスの嵐を降らす。こうなると彼が満足するか、早瀬が本気でギブアップするまで終わらない。
誰もこない、旧校舎の教室の一つ。
午後の陽が傾いて、古い窓から差し込む光が教室の隅に溜まった埃を照らしていた
何年経っても早瀬は目の前の神原の気持ちも自分自身の気持ちもわからないまま、綱渡りみたいな愛を紡いでいた。
*
早瀬薫と神原秋人の出会いは早瀬が一歳、神原が0歳の時だ。母親同士が仲が良く、歳が近いと言うこともあって、家族ぐるみの付き合いがあった。もちろん、早瀬は漫画のようにその出会いに運命を感じたこともなければ、当時のことを覚えているなんてミラクルもなかった。ただ、年々歳をとって大きくなるにつれて、自分よりも発達速度の速いことや女子に異様にモテる神原に嫉妬していったのは覚えている。
記憶にある限りの小さい頃、神原はいつも早瀬の後ろをついて回った。その頃は人見知りが激しかったのか、早瀬以外の誰かと二人きりになることはなかったし、早瀬がいないといつも泣いていた。
そんな可愛くてどうしようもなかった弟みたいな存在が豹変したのは、二人が同じ中学に通っていた時だった。
中学の早瀬はスポーツも勉強もそつなくこなせて、モテる、ほどではなかったが、男女問わず一定以上の人気を集めていた。クラスの中心にいるというとやや誇張がすぎるが、それに近いポジションにはいたはずだ。だからか、自分の世界で生きることに忙しかった早瀬は、新入生として入学してきた神原に構う余裕は無くなっていた。
早瀬はそれでいいと思っていた。
早瀬には早瀬の世界があるように、神原には神原の世界がある。同じ歳ならいざ知らず、二人は一つ歳が離れていた。たったそれだけだが、そのことが二人の世界を分つには十分すぎる理由だった。少なくとも、早瀬はそう思っていた。
「ねぇ、カオルくん」
だから、友人と廊下を歩いているところを神原に捕まった時は本当に肝が冷えた。
暗い顔をして、表情を悟らせないように俯きながらボソボソと話す神原を見た時は、一瞬誰だか理解するのに脳が拒否した。早瀬の知る彼はおどおどとしていたが、決して早瀬の嫌がることはしない、優しい人だった。それなのに、目の前に現れた神原は、虚ろな表情でこの世の終わりのような顔をしていた。それだけで、早瀬は何故か胸が痛んだ。
ぎりっと力強く握られた腕が痛くて顔を歪めながら小さな悲鳴を上げると、ようやく神原は顔を上げた。
その表情を見た時、早瀬は思わず「なんで――」と口走っていた。
そう、神原は自分で早瀬のことを捕まえておきながら、彼自身戸惑った表情を浮かべていたのだ。
なんで……どうして…………。俺のこと、わかってよ――!
神原は何も言わなかったが、その瞳は雄弁に語っている。中学に上がってからほとんど関わることのなくなった一つ年上の早瀬に、神原は泣きそうな顔で縋っていた。その顔があまりにも捨てられた子犬のようで、早瀬はつい癖でいつものように頭をわしゃわしゃと掻き回し、その額に触れるだけのキスを落とす。
その行為は幼い頃からの大丈夫のおまじないだった。
発端は早瀬の両親で、小さい頃の眠れない夜や、泣いて帰った日に家族はいつも大丈夫のおまじないとして額にキスをくれるのだ。幼い頃の早瀬はそれをしてもらうと本当に大丈夫な気持ちになって嬉しかったから、何も知らない小さき彼はそれを神原にもしていたのだ。
中学進学を境に関わりが薄くなった神原にそれをすることはなくなり、早瀬も忘れかけていたそのおまじないを、何故か思い出したようにやってしまう。
ギョッとした表情で見る友人も、息を呑んだ通行人も視界には入らない。
ただ、その時の早瀬には目の前で何故か苦しんでいる大事な弟分を安心させなければいけない、という使命感だけがあった。
それがすべての誤りだったと後悔するのは、彼のパァッと明るくなった表情を見た時だ。
そうして早瀬薫こと俺は、あの時のあのキスが、まさか地獄の始まりになるとは思っていなかった。そして、今では勝負に負けたら指定された場所にキスを贈るという謎のゲームに参加させられていることに繋がるわけだが。
「――なぁ、本当になんでだと思う?」
もしゃもしゃと購買のパンを頬張りながら、話を聞いてくれていた友人である安齋蒼太に尋ねると、彼はげっそりと疲れた様子を見せながら小さく呟く。
「痴話喧嘩なら、よそでやってくれ。俺を巻き込むな、頼むから」
懇願するように言う安齋の頭の中には、怖い顔をする神原が思い描かれていた。
確かに、神原秋人の容姿は優れていて、成績優秀、スポーツ万能。アニメの中のチートキャラがそのまま出てきたかのような人物ではあるが、その神原を、たとえ今よりも幼い頃であったとしても子犬と表現するのは早瀬くらいだろう。
しかし、そのことに早瀬は気がついていない。なんなら今でも、大きな子犬か何かだと勘違いしている節がある。
(どう考えてもあいつは、子犬なんてキャラじゃないだろ。どっちかていうと、番犬――)
その時、背筋を撫でるような声が教室の入り口から聞こえてくる。
「センパーイ!」
「……っ!」
安齋が早瀬の後ろに静かに佇む神原を思い返していると、その声が現実になって返ってきた。安齋は驚きすぎて手に持っていたフルール牛乳の紙パックを握りつぶすところだった。
「げ…………なんで上の階に来てるんだよ、秋人」
「えー? センパイに会いたくて?」
「お前は俺の彼氏か何かか」
「実質そうじゃないんですか?」
「だが、お断りだ! お前みたいにガタイのいい奴は俺の好みじゃない!」
教室の入り口に神原、反対側の窓際に早瀬たち。教室中に広がる二人のやりとりに、クラスメイトはまたか、と苦笑いを浮かべる。もはや夫婦漫才かのようなそのやり取りは、早瀬と同じクラスである彼らには日常茶飯事だった。
神原は飽きることなく早瀬の元に通い、早瀬はそれを嫌がるそぶりを見せる。本心がどうかは知らないが、神原が来ない日にはいつもの元気が二、三割なくなるので、おそらく早瀬もまんざらではないのだろう。
では、なぜこの二人が今だに付き合っていないのか――それは、簡単な話だった。
「ほらほら、昼休憩まで俺のところに来てたらいけないだろ――それで、今度はどの子が彼女さんなんだ?」
「…………ねぇ、センパイ。俺も聞きたいんだけど、今度はその話誰に聞いたの?」
「え? ……あーっと、確か隣のクラスの…………」
早瀬が答えようとした瞬間、クラスメイトが鮮やかな連携プレーを発揮した。
安齋は早瀬の口を塞ぎ、数人の男子生徒と女子生徒が神原の元に集まる。そして、クッキーやら飴やら、とにかく甘いものを神原に握らせると「ごめんねー! 早瀬のアホにはちゃんと誤解だって言っておくから!」と言って無理やり神原を教室のそばから違うところに連れて行く。
神原は「ちょっと、待って! まだ、話が……!」と言いながらも、クラスメイトの圧には勝てないのか、どんどん流されていく。
その声が完全に聞こえなくなったところで安齋は塞いでいた早瀬の口を離すと、彼は不満そうに眉間に皺を寄せていた。どうしてこんな扱いを受けているのかわからないという顔だった。
安齋は先ほどよりもさらにやつれた顔で目の前に座る可哀想な男を見る。
二人が付き合っていない理由。
それは、早瀬の思い込みの強さが関係していた。
早瀬は神原から何かしらの好意もしくは悪意を抱かれていることには気がついている。だが、長年の付き合い故にそれが愛だとか恋だとか、そういう甘いものであることは認識できずにいた。
なのに、神原の恋愛の噂には敏感で、仕入れた情報は疑うことなく真実だと思い込む。そのせいで、早瀬の中の神原は男女問わず取っ替え引っ替えしている魔性の男と化している。
どれだけ周りが、本人が、訂正しても次の日にはすべて忘れ、新しい噂の餌食になっている。
ここまで噂を信じやすい人もなかなかいないかもしれないと、安齋は深いため息を吐く。
安齋的には早瀬とあの後輩がくっつくのかどうかは関係なかった。ただ、一人の男として、斜め上の勘違いを発揮する男を好きになった神原に少しだけ同情していた。
「お前、しばらく、他クラスのやつと噂話するの禁止な」
ジトっとした目で安齋が言うと、残ったクラスメイトも首を縦に振る。早瀬だけは「なんでだよ!」と憤慨していたが、理由がわからないのなら尚更大人しくしていてくれ、と願うばかりだった。



