深夜の東京。雑踏の喧騒から隔絶された地下に、大嶺酒場はひっそりと息づいていた。
薄暗い照明が揺らめき、古いスピーカーから流れるジャズが、煙とともに空間を満たす。
カウンターの奥で、大嶺陸莉はグラスを磨きながら、店の空気を鋭く観察していた。彼女の目は、客たちの些細な仕草さえ見逃さない。唇の端では、いつも煙草の火が小さく瞬いている。

扉の軋む音とともに、ケムダーが現れた。その巨体が一歩踏み入れるだけで、酒場の空気が変わる。
短く刈られた白髪と、氷のように冷たい白瞳。銀鉄の籠手には不気味な紋様が刻まれ、鈍く光を返していた。彼はカウンターにどっしりと腰を下ろし、店内の重力を一段階増やしたかのように沈黙を落とす。

「いつもの、陸莉」
低く響く声は、まるで地下の底から湧き上がるようだった。陸莉は眉をわずかに上げ、唇の端を歪めて笑う。
「へえ、ケムダーさん。今夜も底なしの胃袋で来たわけ？」
彼女は煙草を灰皿に押しつけ、棚から無骨なボトルをひとつ取り出す。琥珀色の液体がグラスに満ちると、芳醇な香りがケムダーの鼻先を打った。

「酒は所有じゃない。ただの燃料だ」
ケムダーはグラスを一気に空ける。その咀嚼するような顎の動きが、陸莉の目には妙に人間くさく映る。
陸莉は新しい煙草に火をつけ、煙を吐きながら肘をつく。
「燃料ねえ。じゃあ、何を燃やそうってんだい？　また誰かの人生でも吸い取るつもり？」

ケムダーの白瞳が一瞬だけ鋭く光るが、すぐに笑みに転じる。
「君には関係ないよ、陸莉。僕の“所有権吸奪”は、欲しいもんを全部手に入れるためのもんだ。それが僕の生き方だ」

「ふん、欲の化身ってわけか」
陸莉は小さく笑い、煙を天井に揺らせる。
「けどさ、あんたが奪うたびに、何か大事なもんまで削れてる気がするけどね。どう思う？」

ケムダーの手に力がこもり、グラスが低く軋んだ。籠手の奥から鈍い唸りが漏れ、空気が一瞬張り詰める。だが彼は鼻を鳴らし、短く言う。
「君の哲学は面倒くさぁな。酒を出しやがれ」

陸莉は肩をすくめ、静かにボトルを傾ける。ケムダーの冷徹な外見の奥、崩れそうな何かを、彼女の眼差しは確かに捉えていた。
再び流れるジャズ。漂う煙。ケムダーは新たな一杯に耳を傾けるように口をつけた。

「陸莉。この酒場、君の所有物だろ？ なんで手放さないんだ？」
不意に問われ、陸莉は煙草をくゆらせながら微笑む。
「さあね。たぶん、ここがアタシの欲そのものだからさ。奪うだけじゃなく、守るのも、悪くないだろ？」

ケムダーは何も返さず、ただグラスを空にした。
籠手の唸りは、ほんの一瞬、静まり返った。
そして夜は、まだ深い闇の底へと漂い続ける。