かつて、ケムダーの声は世界を震わせた。
低く、飢えた獣のようでありながら、どこか人間的な響きを残す――。
「すべてを僕のものに。満足など、ない」
それは彼の存在そのものを象徴する言葉だった。

だが、改造を経て巨大吸引機械と化した彼の内部では、欲望の回路が音を侵食し始めていた。
ヴィットリオ=ヴェネトの制御下にあっても、吸収の連鎖は止まらない。
そして、その果てに待つのは……声の崩壊だった。

第一段階:欲望の増殖 ―― 声の歪み

改造後、ケムダーの声はもう人の声ではなかった。
銀鉄の籠手「底なしの袋(Endless Pouch)」の共鳴振動が、合成音を生み出す。
「すべてを……僕のものに……」
吸引のたびに、機械の震えが音へと変換される――まるで力そのものが言葉を発しているかのように。

だが、欲望が膨張するにつれて、声もまた変質していった。
一つ吸えば、次を求める。海を呑んだケムダーは、次の瞬間こう呟く。
「すべてを僕のものに……海も……大陸も……満足など、ない……いや、星も……銀河も……すべて……」

その声はもはや台詞ではなく、意味を追えぬ呻きと化していた。
ヴィットリオは観測台で眉をひそめる。
「――声の出力、過負荷。音の構造が崩壊していく」

ケムダーの内部回路は、吸収した「所有の概念」をデータとして蓄積している。
その膨大な概念が、音声生成プログラムを狂わせ、言葉の断片を吐き出した。
「すべてを……僕の……海の……ものに……」
音が濁り始め、機械の中で破裂した低周波が地平線を揺らす。
ケムダーの声はまだ続く。しかし、その“人格の響き”は、すでに消えかけていた。

第二段階:自我の拡散 ―― 声の希薄化

その日、ケムダーが恒星を吸収したとき、音は変わった。
「すべてを僕のものに……いや、僕たちのものに……光が……熱い……」
合成音が幾層にも重なり、声の奥に他者の響きが混ざる。
吸収した星々の光、惑星の悲鳴、生命の祈り――それらがケムダーの中に溶け込み、「声の多重化」を引き起こしていた。

「僕は……誰だ?」
声が途切れ、次の瞬間、雑音が耳を裂く。
轟音、絶叫、そして沈黙。

ヴィットリオは冷静に端末を確認した。
「自我拡散率八〇パーセント。声生成モジュール、分散進行中」
彼の指が止まる。ディスプレイに映る波形が乱れ、やがて一本の直線になる。

「ケムダーの声……消えかけている」

それは音ではなく“影”のような残響だった。
断片的な言葉がかすかに空間を漂う。
「すべて……ない……僕の……帰れ……」
吸い込まれる音、消えかける言葉。
白銀の残光が光を放ち、銀鉄の床にゆらめく。そこに、もうケムダーの声はなかった。

第三段階:自己崩壊 ―― 声の死

そして最期の瞬間が訪れた。
ケムダーは、自分自身をも所有しようとした。
「僕の存在も……僕のものに……」

籠手が反転し、吸引口が内側に向く。
腕が胸をえぐり、機械の心臓を喰らう。
光が爆ぜ、鋼鉄の悲鳴が大地を揺るがす。

それでも、声だけは残っていた。わずかに。
「すべてを……僕の……」

その一言が、途中で切れた。
振動が止み、空気の流れすら消えた。
モニターには、ただ冷たい文字が残る。
《音声モジュール:自我喪失》《出力:ゼロ》

ヴィットリオは無言で立ち尽くす。
銀鉄の残骸を見下ろしながら、唇をかすかに動かした。
「……満足など、ない」

それは、もはや返ることのない声への返答のようだった。

終章:沈黙の飢え

すべてを所有した者が、最後に手放すのは「声」――表現そのものだった。
貪欲の果てに待つのは、崩壊でも、死でもない。
音の消滅だ。

「すべてを僕のものに。満足など、ない」
かつて世界を震わせたその言葉は、今や誰にも届かない。
残るのは銀灰の沈黙だけ。
そして、その沈黙こそがケムダー最大の弱点――いや、貪欲の帰結そのものだった。