あったかい場所で溶かしてあげる

「はっくしゅん!」
 ぶるっと肌寒さを感じて、俺は寝ていた自習室の床から起き上がると、さっき脱いだ学ランを引き寄せようと手を伸ばした。
「はい、先輩」
 ふわっと柔らかいものが肩に触れて、それで蒼太が薄手の毛布みたいな膝掛けを俺に掛けてくれたのだと分かった。
「あ、ありがと……」
「はっくしゅん!」
「ちょっ! 大丈夫か?」
 蒼太は風邪を引くのが嫌で、普段から運動をして体を鍛えているのだと言っていた。受験の前にインフルエンザになったのがきっとトラウマになっているのだろう。
「ほら、毛布……」
「大丈夫ですよ」
 蒼太はそう言うと、俺の横に並んで膝掛けの端っこを引っ張って自分も中に潜り込もうとした。しかし女子が使うような膝掛けは肩幅の広い蒼太を包むのには到底足りず、彼はすぐに考え直して三角座りで立てた膝の間に俺を抱え込むようにすっぽりと収めた。
「ほら、これなら二人ともあったかいでしょ?」
 柔らかい毛布と違ってシャツ越しに背中に触れる蒼太の胸は硬くて熱い。バックハグで顔を見られないのが幸いだった。年上のくせにこんなに顔が赤くなっているのを見られたりしたら、またきっとからかわれるに違いない。
「先輩の髪、甘い匂いがします」
 蒼太が鼻先を俺の耳元に擦り付けてきてくすぐったい。照れを隠すように、俺は大型犬みたいな蒼太の頭を後ろ手にパシパシと叩いた。
「女子が使うみたいなシャンプー使ってるからだろ」
「なんの銘柄ですか?」
「えっと、メルティだかミルクティだか、そんな感じのやつ」
「なんだか食欲をそそる匂いですね」
「やめろ! このムッツリスケベ!」
 俺が慌てて蒼太の拘束から逃げるように抜け出すと、蒼太は心外だと言わんばかりの表情で肩をすくめた。
「そんな一日に何度も取って食ったりしませんって」
「いーや、お前は粘着質で、なんかねちっこい感じがするから信用ならねぇ!」
 床に投げ捨てられていた学ランを拾って袖を通した瞬間、期待していた位置に手が出てこないことに気がついた。
「あれ?」
「先輩、それ俺の学ランです」
「あっ、ごめん!」
 すぐに片袖を抜こうとした俺を、蒼太がちょっと待ってと押しとどめた。
「え、なんで?」
「ぶかぶかな感じが可愛いので、ちょっと写真撮らせて下さい」
「それはダメ!」
 問答無用で脱いだ学ランを、俺は勢いよく蒼太の顔めがけて投げつけた。
「ぶっ! ひどい! 顔にぶつけてくるなんて!」
「こんな時だけ後輩のフリしてかわいこぶったってダメだ」
「だって、俺のぶかぶかの学ラン着てる先輩って、なんだか俺の庇護対象みたいで可愛かったから」
「だったら目に焼き付けとけ。写真なんか撮ってうっかり誰かに見られたらどうしてくれんだよ?」
「くっ……だったらせめてメガネをかけるまで待ってて欲しかったです。もっとはっきりと詳細まで目に焼き付けたかったのに」
 ジメジメと文句を言いながら蒼太がメガネを掛けている間に、俺は机に置いてあった蒼太の筆箱のチャックをジーッと開けていた。相変わらず大量に入っている消しゴムの一つを取り出して、すっとケースから取り出してみる。
(蒼太が消しゴムを大量に持ち歩いている理由は、受験の時の失敗を繰り返さないようにするためだって分かってるけど、それでも女子の名前が書いてないって保証はないからな)
 両思いになれる消しゴムのおまじないは、誰にも見られずに使い切ることによって効果が発揮されるという。だったら俺がしっかり見ることによってその可能性を潰しておかなければ。
『新田陽斗』
「あ……」
「先輩、見ましたね」
 冷や汗をかきながら振り返った俺だったが、意外にも蒼太は余裕の表情だ。
「あ、悪い。これ……」
「大丈夫ですよ。あと四個予備があるんで」
「おまじないまでしっかり予備ありかよ!」
「そうですよ。準備は万全にしておかないと」
 そう言ってメガネを掛けた蒼太は、俺がいつも座っている席に座ってパラパラと歴史マンガのページをめくり始めた。
「あれっ、お前もマンガとか読むんだ」
「普通に好きですよ」
 マンガに落としている蒼太の視線はなんだかいつもよりも柔らかく、教科書を読んでいる時より体勢もずっとくだけて楽そうに見えた。
「俺、勉強ってずっと教科書やテキストにこだわってきましたけど、先輩を見て思ったんです。別にガッチガチに固定観念に囚われる必要なんかないんじゃないかって。マンガも勉強ツールの一環として利用したっていいんじゃないかって」
「そうそう。お前はバカ真面目で頭固過ぎなんだよ。もっと力を抜くことも覚えないと」
「先輩は常に抜きすぎてユルユルですけどね」
「ガチガチのお前にぴったりの教師だろうが」
「教師兼反面教師です」
 くそ〜。さっきは全然余裕なさそうだったくせに、今は憎まれ口を平気で叩くいつもの生意気な蒼太である。
「なぁ、俺も本気で将来のこと考えたいんだけどさ、ぶっちゃけ俺って医者になれると思う?」
 ぼんやりしていた俺の世界に突然現れた、くっきりと色の濃い人生の指針のような人物に、俺はそれとなく尋ねてみた。
「無理ですね」
「そんなバッサリ言う?」
 蒼太は面白がっているように口元を緩ませていたが、顔を上げてまっすぐ俺を見た時は真剣な表情をしていた。
「先輩がなりたいのって、傷ついた人を癒してあげられるような偉人ですよね? それって別に医者である必要無くないですか?」
「え?」
「こないだ言った看護師もそうだし、作業療法士や言語聴覚士や介護士、心を癒すカウンセラーという職業だってあります」
「ちょ、ちょっと待って! なんとか士が多すぎてわけ分かんないんだけど!」
 慌ててノートを取り出そうとカバンを漁る俺を、蒼太はいつになく優しい瞳でじっと見つめていた。
「先輩は福祉関係の仕事って向いていると思います」
「えっ、何で?」
「一緒にいるとあったかくて癒されるから」
「えっ?」
 さっきまで毒舌でけなしていたくせに、こうやって不意打ちでデレをぶっ込まれると、高低差でこっちの心臓が持たなくなる。
「ほら、そうやってすぐに赤くなったりして感情が表に出る所とか、子供みたいで可愛いじゃないですか。あと体温高めなとことか」
「体温は仕方ないだろ!」
 蒼太は歴史マンガをパタンと閉じて立ち上がると、ゆっくりと俺に向かって近づいてきた。隠れるように下を向いていたのに、彼の大きな手が俺の前髪をかきあげて額に触れるものだから、結局蒼太の言葉に翻弄されて恥じらって上気した顔を暴かれてしまう。
「ほら、やっぱりあったかい」
「子供みたいだってバカにしてんのか?」
「バカにするだなんてとんでもない。先輩は偉業を成し遂げた偉人じゃないですか」
「ほら、そーゆー言い方がバカにしてるって言ってんの!」
「バカになんかしてません」
 蒼太は俺の顎に指を掛けてくいっと上を向かせてから、まっすぐにメガネの奥から俺の目を見た。
「本当です。俺、ずっと自分のことが嫌いだったけど、先輩と一緒にいる時だけは自分のことが好きになれました。俺、人に好かれるような柔らかい言葉遣いとか苦手で、つい皮肉っぽい言い方ばっかりしてしまうんですけど、先輩は全然そんな俺でも離れて行ったりしなくって。受験の失敗の話をした時も、俺が嫌いだった自分の弱い部分をそれは俺の努力の結果だって教えてくれて。ダメな所も全部受け入れてもらえてる気がしたから、このままの自分でいいんだって思えたんです」
 まさか蒼太がそんなふうに思っていただなんてつゆほども知らなかった俺は、顎を引き上げられるがままポカンとした表情で彼のことを見上げていた。
「傷ついた人を癒すのが、先輩の言う『偉業』なんでしょう?」
「それは……」
「あ、それに先輩は俺に『初めて』を教えてくれたじゃないですか。これってすごいことだと思うんですけど」
「えっ? 初体験のこと?」
 蒼太が俺の顎にかけていた手をぱっと離してわしゃわしゃっと俺の髪を撫でた。
「わわっ! ちょっと……!」
 乱された髪の隙間から覗き見た蒼太は、今まで見た中で一番くっきりと濃く、明るい笑顔を見せていた。
「俺、誰かのことをこんなに好きになったのって初めてです」

 終わり