「なぁ、お前最近放課後付き合い悪いけど、なんかあったのか?」
 体育の授業が終わり、クラスでいつもつるんでいるメンバーでダラダラ校庭の砂の上を歩いていた時、ツレの一人がそう声をかけてきた。
「そーいえば、最近俺ん家のゲーム大会で集まっても、お前だけいっつもいないよな」
「俺か? 聞いて驚け! なんと俺は、遊びを断って勉強しているのだ!」
「えええっ!?」
 質問したやつの驚きの声は、すぐに他の連中の爆笑の渦に巻き込まれた。
「ぶはははは! 陽斗が勉強だって!」
「どうせ歴史マンガでも読んでるだけだろ?」
 それは確かに正しい。
「いや待てよ。そういえばこないだの期末テストの後、こいつだけ補修呼ばれてなくなかったか?」
「あっ! そういえばそうじゃん!」
「どういうことだよ陽斗! お前の中で一体何が起こったんだ?」
「俺は将来の目標を決めたんだ。俺は医学部に行く! 医者になるんだ!」
「医者〜!?」
 再び爆笑の渦。
「何がおかしい! 俺は偉業を成し遂げる人間になるのが夢だったんだ。それで最近具体的な職業に思い至っただけだ。人の命を救うってのはまさに偉業中の偉業だろうが!」
「お前な〜。一回赤点回避しただけのやつが医学部に行けるかどうかなんて、さすがの一回も赤点回避できたことのない俺でも分かるぞ〜」
 むむむ。確かにそれも正しい。
「てかこのクソ寒いのに校庭で体育とかありえないよな〜」
「本当それ。こんなうっすいジャージ生地で防げるような冷気じゃないぜ」
「体操服の防御力舐めすぎだよな〜」
「こういう時は、人間カイロだっ!」
 そう言いながら、ツレの一人がいきなり俺の背後からがばっと抱きついてきた。
「ちょっ! ジャージ生地冷たっ!」
「あ〜、やっぱり持つべきものは、体温の高い友人様様だよなぁ」
「あっ、次俺に貸して」
「お前ら! 勝手に人を貸し借りするんじゃねぇ! ていうか持つべきものって、それ冬限定の話じゃねえか! 夏はお払い箱ってか?」
 その時、ザッザッと砂を踏む音と共に、正面から見覚えのあるくっきりと黒い人影が近づいてくるのに気がついて、俺ははっと顔を上げた。
「おっ、蒼太じゃん! 今から一年の体育か?」
 彼が体操服姿だったのでそう声をかけたのだが、蒼太は軽くペコリと頭を下げただけで、俺とは目を合わすことなくさっさと通り過ぎて行ってしまった。
(……あれ?)
「陽斗、部活入ってないくせに後輩と面識あったんだ〜」
「……うん、ちょっとした腐れ縁で……」
 何だろう。頭を下げるだなんて蒼太らしくない行動も気になったけど、それより俺とは視線が混じり合わなかったあの目。いつもの憎まれ口を叩いている時とも、公園のベンチで自信なさげに揺れていた時とも違う、底の見えない真っ暗な闇のように光の消えた彼の瞳がなぜだか俺の心に引っかかっていた。
(どうしたんだろう? もしかしてこないだの中学の同級生の連中と何かあったのかな?)
 湯たんぽ扱いしながら俺に抱きついているツレを一人背中に背負ったまま、俺は神妙な面持ちで一人首を傾げていた。



 その日の放課後、恐る恐る自習室の扉を開けた俺は、いつも通り窓際の席に蒼太の姿を発見してほっと胸をなでおろした。
(良かった。何となく今日は来ないんじゃないかって気がしてたから……)
「先輩?」
 いつもより慎重にゆっくりと扉を開けたにも関わらず、蒼太はすぐに俺に気がついてこちらを振り返った。
「お、お〜。体育の時間ぶり〜」
 何となく気まずさを感じながら、俺は蒼太の後ろの席に腰を下ろした。
「……先輩」
 蒼太は前を向いたままで、不意に後ろにいる俺に話しかけてきた。
「問三の問題が載ってるプリント、今持ってますか?」
「え?」
「教えますよ、答え」
 一瞬、蒼太の言ってる意味が分からなくて、俺は戸惑ったまま彼の黒い背中をぼんやりと眺めていた。
「え、なんで急に?」
「それが知りたくてずっと俺に付きまとってたんじゃなかったんですか?」
 そうだ。そもそも最初に蒼太に声をかけた理由が問三の答えを聞くことだった。だけど蒼太が頑なに教えてくれないから、結局俺は今もその問いが解けないままだ。
(……そうだ。確かに俺が言ったんじゃないか。問三を教えてもらうまでは付きまとうぞ! って)
 さっさと教えれば済む話だったのにそれをしなかったのは、蒼太が俺と過ごすここでの時間を実は結構気に入っていたからなのではないだろうか?
(でもじゃあ、今このタイミングで教えてやるって言い出したのって……)
 もう、俺には付きまとわないで欲しいって、そういうことなのだろうか?
 ふっと、この前隣町で会った蒼太の中学の頃の同級生たちの顔が浮かんできた。
 そうだ、本来蒼太はあっち側の人間だ。こんな空を流れる雲までのんびりと怠けているような田舎の学校で燻っていていいような人間じゃない。口では大きいことを言いながら、その実一回赤点回避できただけで喜んでいるような、俺みたいな人間とつるんでいていいような人間ではなかったのだ。
 きっと、こないだファストフード店で彼らと再会したのをきっかけに、蒼太は前に進むことを決めたのだ。今までだってコツコツ努力は続けていたけれど、今までよりもっと早く、より高みを目指すことに決めたんだろう。高い場所へ登るのには当然、不要な荷物は一つでも多く置いていかなければならない。
(そっか……)
 良かった。止まっていた彼の時が、ようやく再び動き出したのだ。ちょっと寂しい気もするけれど、俺は先輩として思いっきりこいつの背中を押してやらなければならない。俺の手なんか全然届かないくらい、遥かな高みを目指すこいつの背中を。
「……うん、そうだな。じゃあ早いとこ教えてもらおうかな〜」
 動揺しているのを悟られないように、俺は努めていつも通りのゆる〜い先輩を装いながら、震える指先でカバンからプリントを引っ張り出した。
「……いや、やっぱりやめとくわ」
「え?」
「俺、やっぱり頑張って自分で解いてみることにする」
 一度机に出したプリントを再びカバンにしまってから、俺はまっすぐ蒼太と正面から向き合った。
「俺、将来医者になりたいんだ。病気の人や傷ついた人を癒してあげられるような人間なりたい。俺、今まで将来のこととか漠然としか考えて来なかったけど、お前のおかげで明確な目標ってやつが持てるようになったよ。ふわふわしてた俺の世界に、常に真面目で真剣に努力している、はっきりとした存在感を持つお前が現れたから」
 俺はプリントをしまい込んだカバンを担ぐと、精一杯の緩い笑顔を作ってひらひらと手を振った。
「じゃあ、もうここには来ないことにするよ。お前の勉強の邪魔はしたくないからさ。でもさ、たま〜に学校で見かけたりとかしたら、ちゃんと声かけてくれよな。ほら、今日の体育の時みたいに目ぇ逸らしたりしないでさ。俺、寂しくて泣いちゃうから」
 これが限界だった。これ以上は強がっていられる自信がなかった。俺はさっと蒼太に背を向けると、逃げるように自習室から出て行こうとした。
「……なんで今、そんなことを言うんですか?」
「え?」
 蒼太は決して大声を出したわけではなかったが、その声音は強い感情を必死で押さえつけているかのような激しさを秘めていて、俺は思わず振り返らずにはいられなかった。
「蒼太?」
「結局問三の答えも聞かないままだし、まるで俺に未練があるみたいに感じるんですけど」
 未練だって? そんなのあるに決まってるだろ! ああそうだよ、俺はお前に未練タラタラだよ! もっと二人で一緒に勉強したかったし、こないだほとんど食べられなかったデカバーガーもまた一緒に食べたいとも思っていたし、もうすぐクリスマスがやってくるから、そしたら二人で遊びに行ったり、パーティーなんかもしたいなんて考えたりしてたし……
 ん? あれ? この感情って一体何なんだっけ?
 言ってしまってから蒼太もしまったと思ったのか、俺から目を逸らして斜め下方向に視線を落としている。
「すみません。未練だなんて、俺変なこと言いましたね。先輩が俺のことそんな風に考えてるはずなんかないのに。自分の未熟さを先輩に責任転嫁するようなことを言ってしまいました」
「え? 責任転嫁って?」
「ごめんなさい。本当は未練があるのは俺の方なんです」
 そう言ってから、蒼太は急に頭を抱えてその場にしゃがみ込むと表情を歪めた。
「でも、このままだと俺、どうにかなってしまいそうで。頭では分かっていても、自分の心なのに全然ままならなくて。俺の世界に先輩しかいないみたいに、先輩の世界にも俺しかいなければいいのにって、そんなあり得ないことをつい考えてしまうんです。俺は心の弱い人間だから、このまま先輩と一緒にいたら、自分でもどうなってしまうのか分からなくて」
 なんだろう。蒼太が何を言っているのかさっぱり理解できない。ただなんとなくだけど、蒼太がまた自己嫌悪に陥っているような気がして、俺はすぐさま彼の側に近づいてさっと手を差し伸べた。蒼太には自分自身のことを嫌いになんかなって欲しくはない。それはどんな状況下でも、例外なく。
 俺が触れた瞬間、蒼太の肩がビクッと跳ねて、いきなり俺の手をぱっと払いのけた。
「ちょっと! 何考えてるんですか!」
「いや、あんまり何も考えてなかった」
「ちゃんと考えて下さいよ! 俺の言ったことの意味ちゃんと分かってますか?」
「う〜ん、現国のテストの読解問題並みによく分からなかった」
「そんなんで医者目指せるとでも思ってるんですか?」
 蒼太は投げやりにそう小さく叫ぶと、いきなり俺の手を掴んで強い力で自分の方へと引き寄せた。
「おわっ!」
 椅子に足が当たってガタッと音がしたが、そんなことをいちいち気にしていられるほどの心の余裕を俺は持ち合わせていなかった。力では敵わない、という俺の直感は当たっていて、蒼太はいとも容易く俺を自分の体の下に組み敷いていた。
「こうやって、先輩を俺のものにしたいって、そういうことを言ったんですよ」
「ええっ?」
 俺は慌てて先程蒼太が頭を抱えながら言っていたセリフを頭の中で思い返してみた。
「本当に? そんなこと言ってたか?」
「……それっぽいことをそういうつもりで言いました」
「いや! なにちょっと自信無くしてんの!?」
 だけど、もう一度思い返してみて、気がついたことが一つあった。
「……もしかして体育の授業の時、俺が他の連中とくっついてたのが気に入らなかったの?」
「……まぁ、及第点ですね」
 それは、俺が蒼太が中学の同級生たちと一緒にいる光景を見た時に感じたものと似たような感情である気がした。
「もしかして、俺のこと好きなの?」
「そっ、そういうことをあんまりハッキリとは……」
「ハッキリ言ってくんないと、俺バカだからわかんねぇよ」
 衝動的に俺は両腕を上に向かって伸ばすと、蒼太の首に巻きつけてから自分の顔を持ち上げるように蒼太の顔へと近づけた。軽く触れるだけのファーストキスは、黒縁のボストンメガネに顔が当たって少し窮屈に感じられた。
「ほら、こうやってストレートに行為で示してくれたっていいよ」
 蒼太はぱっと右手でメガネを外すと、横の机の上に置いてから再び俺を見下ろしてきた。レンズで遮られることのなくなった綺麗な黒い瞳にまっすぐ見下ろされて、俺の心臓が急にドキドキと激しく脈打ち始めた。
「本当に行為で示してもいいんですか?」
「……うん」
「それってどういう意味か、ちゃんと分かってますか?」
「ハッキリ口で言った方がいい?」
「いえ、大丈夫です。俺は基本八十点以下は取らないので、ハッキリ言われなくてもちゃんと分かります」
 蒼太が俺の額にそっと手を這わせて金色の前髪をかきあげた。
「先輩、今日も体温高めですね。体の中はもっとあったかいんじゃないですか?」
「そうかも」
 蒼太がゆっくりと上から俺に体を近づけてきたため、俺は再び腕を伸ばして彼の背中に回してからぎゅっと抱きしめた。
「お前はいっつもバカ真面目で、ガチガチに緊張して氷みたいに硬くなってるからさ。俺の中で溶かしてあげる」