ファストフード店を飛び出してすぐに、俺は店の向かいにあった公園のベンチで蒼太の姿を発見した。生垣で見えづらい位置だったが、俺にはすぐに蒼太だと分かった。色鉛筆で描かれたようなふわっとした世界の中で、ボールペンで描かれたような彼の黒々とした黒髪は、そこだけくっきりと背景から浮かび上がっているかのように俺の目をしっかりと引き寄せたからだ。
「蒼太!」
 名前を呼んでも、蒼太はすぐにはこちらを振り返らなかった。ベンチに座って前屈みになった蒼太は、やけに大きく肩を上下させている。
「ちょっ、大丈夫かお前?」
 慌てて蒼太の横に座って顔を覗き込むと、両手で口を押さえて深呼吸していた蒼太がようやくチラッと俺の方を見た。
「蒼太……?」
「すみません。もう大丈夫です」
 そう言うと、蒼太は口元を押さえていた両手を解放してゆっくりと上半身を起こした。
「息するのが苦しいのか? もしかしてあれ、過呼吸ってやつ?」
「たまになるんです。でもそんな重篤なものでもないんで。恥ずかしい所見られちゃいましたね」
「恥ずかしいとか、そういう問題じゃないだろ?」
 過呼吸の対処法なんて分からなかったけど、少しでも症状を和らげる助けになりたくて、俺は腕を伸ばして蒼太の学ランの広い背中をおずおずとさすってやった。
「……お前、さっきのやつらと同じ高校に行きたかったんだ」
 聞くべきか聞かざるべきか、バカな俺にはよく分からなかった。でも、蒼太だって俺が知ってしまったことはとっくに分かっているはずだ。だったら思い切って聞いてしまえと思った。俺は蒼太とは表面だけ撫でるようなふわっとした関係にはなりたくなかった。たとえ傷つけあったとしても、ぐっと深い所まで触れるような濃い関係でありたかった。
 睨まれる覚悟を持って聞いたのだが、蒼太はぼんやりと目の前の遊具を眺めたまま、俺に視線を向けることは無かった。
「……高校受験の一週間前、インフルエンザになったんです。なかなか熱が下がらなくて、下がってからも鼻水が酷くて、勉強に集中できませんでした」
「そうだったんだ」
 俺は受験の前日はツレと騒いで雪合戦とかしてたけど、当日は咳とも鼻水とも無縁のパーフェクトなコンディションだった覚えがある。一生懸命勉強していたであろう蒼太は風邪を引いて、遊んでいた俺は超元気だったなんて、神様も酷いことをなさるものである。
「それで受験、上手くいかなかったんだな」
「いいえ。コンディションは最悪でしたけど、それでも受かる自信はありました」
 俺は思わず目を瞬いて蒼太の顔を二度見した。彼の横顔はEラインがとても綺麗で、秀才という言葉は彼のためにあるのではないかと思えるくらい、非常に賢そうに見えた。
「雪で電車が止まる心配があったので、受験の前日は前乗りしてホテルに泊まりました。さっきの三人は高校の近くのホテルが取れたんですけど、俺は電車で一駅の所のホテルしか空いてなくて。一駅くらい全然良かったんですけど、当日間違えて逆の電車に乗ってしまいました」
「えっ、マジで?」
 普段電車に乗り慣れていない俺には、彼が乗る電車の方向を間違えてしまった気持ちが痛いほどよく分かった。しかも当時、蒼太はまだ中学生だったのだ。体は大きくても大人ほど成熟していない年代で、体調も悪かった上に受験のことで頭もいっぱいだったはずだ。
「それで、試験の時間に間に合わなかったのか?」
「いえ、余裕を持って出発していたので、試験時間には間に合いました」
「何じゃそりゃ!」
「そこまでは何とか持ちこたえていたんですけど、試験が始まった瞬間に消しゴムを床に落としてしまって。その時筆箱に消しゴムが一個しか入っていなかったことに気がついたんです。そしたら急にいつも通りに呼吸ができなくなりました」
 蒼太は十一月の寒空に向かってふーっと大きく息を吐き出した。
「試験は呼吸が落ち着いてから別室で受けさせてもらえたんですけど、頭が真っ白になっちゃって、結局ほとんど何も書けませんでした」
「それは仕方なかっただろ」
「あいつらもそう言ってくれました。色んなことが重なって仕方がなかったじゃないかって。でもじゃあ何で俺は風邪なんか引いたんだろう? ちゃんと自己管理ができていなかったからだ。電車だってもっと念入りに確認できたはずだし、消しゴムなんかたくさん予備を持っていれば良かったって、自責の念に押しつぶされそうになりました。でもね……」
 空から再び目の前の遊具まで視線を下ろしてきた蒼太の目は、いつも憎まれ口を叩いている時とは全く違って、ひどく頼りなく、自信なさげに揺れていた。
「一番情けなかったのは、この程度で過呼吸になったり、頭が真っ白になって一問も回答ができなくなった、自分の弱さです。消しゴムを落としたって手を上げて拾ってもらうこともできたはずだし、別室で試験だって継続できたはずでしょう? 自分ってこんなに打たれ弱くて、ちょっとしたことでつまづいて動けなくなるような人間だったのかって、情けなくなって自分が嫌いになって……」
「それは違うって!」
 俺が思わず大きな声で否定したため、蒼太は驚いて俺の方を振り返った。
「お前が過呼吸になったり、頭が真っ白になったりしたのは、お前がそうなるくらいメチャクチャ頑張ってきたからだ! 必死に勉強して努力してきたからだろ? それだけ受験に懸けてたんだから、緊張してガチガチになって当然だ! 想定外のことが起これば過呼吸の一つや二つ発症したっておかしくないだろ! 全く努力も勉強もせずに、緊張感とは無縁で受験会場に行った俺には分かる!」
「ぶふっ! 何で分かるんですか? てか何が分かるんですか?」
 蒼太が突然吹き出したため、俺は一瞬ポカンとしてくっくっと笑いを堪えている蒼太を眺め、それからなぜだか急に涙が出そうになった。
「えっ、ちょっと先輩、今度はどうしたんですか?」
 笑顔から一転してぎょっとしたような表情になった蒼太に向かって、俺は意地でも涙は見せまいと目をぎゅっと固くつぶりながらブンブンと首を振って見せた。
 世の中そんな上手くなんかいかないって分かっているけど、それでも努力した人間は全員報われればいいのに。結果が全てなんだって分かっているけど、それでもこいつが積み上げてきた血の滲むような日々を、正当に評価してくれる学校があれば良かったのに。
 コツコツコツコツ、地道に毎日努力を続けるこいつの姿勢が、結果が出なかったからと言って無意味だなんて、誰にも思って欲しくなんかない。もちろん、蒼太自身にだって。
「……俺は、お前にうちの学校で会えたから、蒼太がうちの学校に来てくれて嬉しかったけど」
 こんなセリフ、バカ高のバカな先輩に言われたって嬉しくも何ともないだろうってことぐらい分かってたけど、言わずにはいられなかった。だってこれが、今の俺の精一杯の本心だったから。
「……先輩、それ、無自覚で言ってます?」
 不意に耳元で低い声で囁かれて、耳から首筋にかけてゾクッとするような感覚が走った。思わず固く閉じていた目をぱっと開けると、メガネの奥の蒼太の黒い瞳と至近距離で目が合った。
「あ……」
 蒼太は俺が彼の背中をさすっていた手をいきなり掴むと、自分の学ランの首元とカラーの隙間に引き込んだ。指と手のひらが蒼太の尖った顎や首元に触れて、俺の指がピクリと緊張する。
「えっ、そ、蒼太?」
「制服越しじゃなくて、直接触れてよ。先輩の手はあったかいから」
「えっ、ええっ?」
 いくら体温が高いとはいえ、さすがに吹きっさらしの外に出ていた俺の手は蒼太の首よりずっと冷たいはずだ。
「い、いや、俺の手今冷えてるから、お前首冷たくないの?」
「じゃあこっちは?」
 蒼太が軽く顔を横に向けると、彼の冷たい唇が俺の手にそっと触れた。
(ひあっ!)
 触れたのが唇だというだけで、皮膚に走る刺激の種類が全く異なってくるようだ。ゾクッとするような、くすぐったいような、ドキッと緊張するような。
「やっぱりあったかい」
 蒼太はそう言って笑うと、俺のところへ返すようにすっと手を離した。俺は返却された手をもう片方の手で支えながら、ドクドク脈打っている心臓を押さえてバカみたいに蒼太のことをぼけっと見つめていた。
「ねぇ先輩、今、どんな気持ち?」
「へっ? ど、どんなって、分からないけど……」
「じゃあ、俺も先輩のこと触ってもいい? そうすれば聞かなくても、先輩が今何を考えているのか分かるかもしれない」
「え、ええっ?」
 蒼太が俺の無防備な首元にすうっと手を伸ばしてきたため、俺は慌てて身を捩ってそれを回避した。
「ダメダメ! 首はムリっ! 俺くすぐったがりだから!」
「そうなんですか? 俺は全然平気なんですけど」
「そーいうのは個人差があんの! 脇とかこちょこちょしても全然平気なやつとかいるけど、俺は全然ダメだから!」
「先輩、感じやすい体してるんじゃないですか? なんかエロいですね」
「かっ!? 感じやすいとか知らねーし! そういうことしたことねーんだから!」
「じゃあ、どこだったら直接触ってもいいんですか?」
「どこもダメ!」
 俺が慌ててベンチから飛び上がって逃げ出すと、蒼太はあははっと笑い声を上げながらゆっくりと立ち上がった。
(……良かった。もう呼吸は苦しくはなさそうだ)
 自分の身の危険は感じながらも、笑っている蒼太を見ているとなんだか嬉しくなって、公園中を逃げ回りながらついつい俺も笑顔になっていた。