豊かな自然に囲まれた少数精鋭の自由な校風の高校。つまり田舎の定員割れしているゆる〜い高校。それが俺の通っている高校だ。こんな高校の図書室には、真面目に勉強しに来る生徒なんかそうそういるもんじゃない。いるのは俺を含めて、歴史マンガを読みに来る暇人だけ。活字の分厚い本なんか何世紀も開かれていないみたいに埃を被ってる。
 だから、窓際の席で一人シャーペンを動かしながらノートに視線を落としているその後ろ姿に、俺はひどく興味を引かれた。
「……なぁ、それ今日の宿題? 俺分かんないから教えてよ」
 俺に黒い学ランの背中を叩かれて、彼はビクッと机に覆いかぶさっていた上半身を起こすと、黒縁のボストン型のメガネの奥から迷惑そうな目で俺のことを睨みつけた。
「……どちら様ですか?」
「あっ、俺のこと知らない? 二年一組の 新田陽斗(にったはると)。結構目立つから同学年の連中はみんな俺のこと知ってると思ってたけど、自意識過剰すぎたかなぁ」
 いくらゆる〜い高校とはいえ、ここまで思い切った金髪に染めているのは俺くらいだ。同じクラスの友人たちからも、新田は遠くからでも見つけやすいと好評の髪色である。
「……毛根死んでそうですね」
「大丈夫! 女子が使うみたいなシャンプー使ってるから。カラーリングダメージケアに特化したやつ」
「そういう問題ですか」
「なぁ、それよりその問三の問題教えてくんね? ちょうど今日そこが解けなくて担任がブチ切れててさ。いつもはゆるっと流してくれるのに、なぜか今日だけめっちゃ怒ってたんだよな」
 黒髪メガネの賢そうなその男子生徒は、一旦ノートに視線を落としてから再び顔を上げて軽蔑したような目つきで俺のことを見た。
「先輩、俺一年ですよ」
「え?」
「これ、一年生の問題です」
 彼は机に置いてあったノートをパタッと閉じると、表紙を俺にかざして見せた。少しだけ硬めの薄い表紙の右下に丁寧な字で「一年一組  谷口蒼太(たにぐちそうた)」と確かに記載されていた。
「先生がブチ切れるのも当然ですね」
「ぶっ!」
 俺が突然吹き出したため、彼は一瞬驚いたように目を見開いた。
「何がおかしいんですか?」
「何がって……ブフッ! あはははは! だって、アホすぎるじゃん俺! え〜、マジで俺、一年に勉強教わろうとしてたってわけ?」
 一応ここは図書室で静かにマンガを読みに来ている連中もいるため、俺は机に突っ伏して必死に笑い声を抑えながらしばらく肩を震わせていた。
 ひとしきり笑ってから顔を上げると、彼はまだ驚いたような表情で俺のことをポカンと眺めていた。
「は〜、笑った笑った。それで、その問題どうやって解くの?」
「……先輩、プライドとかって無いんですか?」
「無いね! 俺はいつか大いなる偉業を成し遂げるような人間になりたいんだ。偉業を成し遂げる人間ってのは、無駄なプライドなんか持ち合わせていないもんなんだよ」
「そういうのは実力のある人間が言うセリフだと思うんですけど」
「じゃあ俺に実力がつくよう、早く問三の答え教えてくれよ〜」
「答え聞いてどうするんですか!」
 思わず鋭いツッコミを入れてしまった自分に驚いたかのように、彼は一瞬ピタッと動きを止めてから、気を取り直したかのように軽く頭を振って少し長めの前髪を揺らした。
「ていうか先輩、そうやって馴れ馴れしく誰にでも話しかけてるんですか? もし俺が三年生だったらどうするつもりだったんですか? タメ口で気軽に話しかけちゃって」
「うちの学校緩いから、先輩たちもみんなタメ語で許してくれるよ。だから蒼太も俺のこと先輩なんて呼ばずに陽斗って呼んでいいよ。敬語も必要ないし」
「こちらから丁重にお断りします。逆にやりづらいんで」
「うちの学校で律儀に後輩やってるのなんて、きっと蒼太ぐらいだぞ〜」
 うちの学校はとにかく緩い。生徒間の上下関係も緩いし、服装規定も先生も緩いし、窓の外から見える田園風景も緩い。きっとうちの学校の上空を流れている雲ですら、都会の学校上空の雲よりずっとゆっくりと流れているんじゃないだろうか。
 だから、この谷口蒼太という後輩に、俺はひどく興味をそそられた。色鉛筆や水彩画で描かれたようなほんわかしたパステルカラーの俺の世界の中で、この男は黒のボールペンでくっきりと描かれているように一人異様な存在感を放っていたのだ。
「……顔も濃いし髪も黒いし、おまけにメガネのフレームまでくっきりと黒だし……」
「先輩、なに言ってんですか?」
「あっ! 俺心の声漏れてた?」
「普通に喋ってましたけど」
 蒼太は呆れたようにため息をつくと、机に広げていた教科書類をパタンパタンと閉じ始めた。
「あっ、ちょっと待てよ! 問三〜」
「そんなの俺に聞かなくても、クラスの友達にでも聞けばいいじゃないですか。二年生の友達に」
「やだ。俺はお前に教わりたいの!」
「なんで基本ユルユルなのにそこだけ頑固?」
「いいじゃん。俺はお前と仲良くなりたいんだよ〜。蒼太みたいなタイプって俺の周りにはいないから新鮮でさ」
「珍獣扱いですか」
「ていうか俺の周りも似たような連中ばっかりだから、どうせ聞いたって誰も答えられないよ」
「……」
「あっ! 今俺のことゴミを見るような目で見た! 先輩をそんな目で見ることは許さ〜ん!」
「おいそこ〜、ちょっとうるさいぞ〜」
 歴史マンガの棚の奥から先輩らしき男子生徒がひょこっと顔を出してゆる〜く注意してきたため、俺は慌ててぱっと両手で口を塞いだ。
「すんませんっした〜」
「ちょっと、先輩のせいで怒られたじゃないですか!」
「別に怒ってなんかなかったって。ちょっと注意されただけだろ?」
「俺は怒られるのも注意されるのも嫌なんです」
 蒼太は小さな声でそう言うと、教科書やノートをパパッとカバンに詰めて図書室から出て行ってしまった。
「あっ! ちょっと待ってよ!」
 俺も慌てて立ち上がると、さっき俺たちのことを注意していた先輩の所へ走って行って、俺が机に持って来ていた歴史マンガをぎゅむっと先輩の手の中に押し込んだ。
「これ元の場所に返しておいてもらえます?」
「え〜? も〜、しょーがねーなぁ」
 マンガの返却はその先輩に託して、俺は図書室を飛び出すと蒼太の後を追った。
「ちょっと待ってってば!」
 別の教室に入ろうとしていた蒼太は、俺がしつこく追いかけて来るのを見てうんざりしたような表情をした。
「まだ付いて来るつもりですか?」
「問三を教えてもらうまでは付きまとうぞ!」
「教えるつもりはありません」
 ガラッと扉を開けた教室に蒼太が入って行ったため、俺は彼が後ろ手に閉めようとした扉の隙間に体をねじ込んで締め出されるのは何とか阻止した。
「……あれ、ここって何の教室?」
 その教室はしばらく誰にも使われていなかったのか、埃っぽくて薄暗く、寒々とした印象を受けた。ごほっごほっと咳をしている俺の目の前で蒼太がガラッと窓を開けると、澄んだ冷たい風がびゅうっと教室に入り込んで来て、俺はとっさに両手で自分の両肩を抱きしめた。
「寒っ!」
「だから嫌だったんですよ。ここに来るの」
「なぁ、ここって何の教室?」
「自習室ですよ」
 机に積もった埃を指先ですくい取って顔をしかめながら、ようやく蒼太がそう教えてくれた。
「ご覧の通り、全く使われている気配はありませんけど」
「え〜! だってそんな教室あっただなんて、全然知らなかったし!」
「うっかり先輩みたいな生徒に教えたら溜まり場にされそうなんで、先生方も黙ってたんじゃないですか?」
「そんなことしねーし。俺ってどういう印象なの?」
「見たまんまの不良の印象です」
「おまっ! 不良ってお前、こんなユル真面目な俺みたいな生徒が不良だって?」
「ユル真面目ってなんですか?」
「色々緩いけど真面目な生徒ってこと! 服装も髪型も自由だけど、喧嘩もしないし規則も守るし原付にも乗ったことない」
「原付に乗るのは別にいいんじゃないですか? 無免許でなければ」
 蒼太はカバンの中から教科書を取り出そうとしたが、埃を被った机を見て思い直したようにカバンのジッパーをジーッと閉めた。
「あれ、勉強しないの?」
「勉強する気が失せました。ここは寒いし埃っぽいし、邪魔してくる人間もいるし」
「ったく仕方ねーな。俺が掃除してやるからお前はちょっと外で待っとけ」
 俺の言葉を聞いて、蒼太はメガネの奥から胡散臭そうな瞳で俺のことをジーッと見て来た。
「……先輩、掃除とかできるんですか?」
「掃除なんか小学生の頃からちゃんとやっとるわい!」
 こう見えて俺はまあまあ綺麗好きだ。それこそシャンプーの銘柄にもこだわっちゃうくらいには。
(よしよし、ここでこの教室をしっかり綺麗に掃除して、あいつの俺に対する好感度アップを図ってやろうじゃんよ!)
 自習室の隅っこには、俺たちの教室にあるのと同じような灰色のスチール性の掃除ロッカーが置かれていた。今は使われていないみたいだが、生徒数が多かった頃はここも立派な教室の一つだったんだろう。
(お、ちゃんと箒も雑巾も残ってんじゃん)
 さっそく雑巾を引っ張り出すと、手洗い場の冷たい水で念入りに洗ってからきつく絞った。指先にはぁっと息を吹きかけながら自習室に戻って、まずは埃まみれの机を綺麗に拭いていく。ついでに窓も拭こうかと窓際に近づいた時、校門に向かって歩いている背の高い後ろ姿が目に入った。
「おーい! 蒼太!」
 ガラッと窓を開けて大声で呼びかけると、彼は一瞬ピタッと動きを止めてから気だるそうにこちらを振り返った。
「なに勝手に先に帰ってんだよ〜!」
 蒼太は迷惑そうな表情で俺を睨んでから、何も言わずにプイッと背中を向けて再びゆっくりと校門に向かって歩き始めた。
「ったくあいつ、待っとけって言ったのに」
 思わず苦笑いを浮かべながら、俺は口元に両手をあてて、帰って行く彼の背中に再び呼びかけた。
「じゃー、また明日なー!」
 スタスタスタスタ。
「絶対だぞー! 約束だからなー!」
 そのまま彼は振り返らずに校門を出て左に曲がって姿を消したが、俺は構わず彼の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けた。