遠い背中に恋をした

 恋人になってから、お互いの呼び方が変わった。
 斗葵先輩は俺のことを“結斗”と呼ぶようになり、俺も斗葵先輩から“斗葵くん”と呼ぶようになった。

 それだけのことなのに、距離がぐっと縮まった気がする。

 恋人になってから、斗葵くんと一緒にいる時間も増えた。
 特別なことをしているわけじゃないのに、斗葵くんの視線が前よりほんの少し甘くなって、光希と春利には伝える前から「付き合った?」と見抜かれるほどだった。

 付き合って一カ月が経った頃、俺は初めて斗葵くんの家に遊びに行った。

 部屋は思っていたよりもすっきりしていて、無駄なものがなく、斗葵くんらしいシンプルな部屋だった。

 「緊張してる?」

 そう聞かれて、初めて自分が肩に力を入れていることに気づく。

 「……してます」

 正直に答えると、斗葵くんは小さく笑って、

 「とりあえず映画みよっか」

 そう言って、テレビをつけた。

 前から一緒に観ようって話していた映画だ。
 ソファに並んで座ると、斗葵くんが自然に距離を詰めてくる。

 近い。
 いつもみたいに隣にいるだけなのに、
 家の中だと思うだけで、胸の奥が落ち着かない。

 映画が始まると、画面に集中しようとするけれど、隣にいる斗葵くんの気配ばかりが気になってしまう。

 笑うところで一緒に小さく笑って、驚く場面では肩が少し触れて。
 それだけのことなのに、そのたびに心臓が跳ねた。

 エンドロールが流れ始めた頃、部屋の中が、さっきより静かになる。

 「どうだった?」

 「面白かったです」

 そう答えると、斗葵くんがこちらを見る。

 視線が合う。
 今度は、さっきよりも長く。

 斗葵くんは一度だけ瞬きをしてから、少し迷うように、俺の名前を呼んだ。

 「結斗」

 その声がやけに近く聞こえて――次の瞬間、視界がふっと塞がれる。

 心臓の音がうるさくて、何が起きたのか、ちゃんと考える余裕なんてなかった。

 ただ、斗葵くんがすぐそばにいて、触れそうなくらい近くて、気づいたときには、唇が触れ合っていた。

 離れたあとも、しばらく息の仕方が分からなくて、胸の奥だけが、じんと熱を残していた。

 斗葵くんの耳まで赤くなっているのが分かって、――ああ、斗葵くんも同じくらい緊張してるんだ、と気づく。
 その事実に、胸の奥がじんわりと温かくなっていった。

 ――その日を境に、俺たちは前より近い存在になった。

 斗葵くんは大学が推薦で決まっていて、今でも部活に参加している。
 だから、部活のない日は一緒に帰るのが、いつの間にか当たり前になっていた。

 「結斗は何飲む?」

 「俺は大丈夫です」

 冬の夕方。
 お揃いのマフラーを巻いた斗葵くんが、温かい缶コーヒーを取り出して俺に差し出す。

 「なら、これ持っててくれる?」

 「ありがとうございます」

 缶コーヒーは、冬の空気を忘れさせるほど温かかった。
 両手で包み込むと、じわりと指先まで熱が広がっていく。

 「寒いところに当てなよ」

 「はい」

 斗葵くんは優しい。
 この缶コーヒーも、俺の手が冷えていることに気づいて買ってくれたんだと思う。
 “休みの日に手袋を買おう”と心の中で決めながら、俺はその優しさに甘えることにした。

 缶コーヒーで手を温めながら歩いていると、斗葵くんがふと思い出したように口をひらいた。

 「そういえば、最後の試合の日にち、ちゃんと決まった」

 「え、本当ですか?」

 「うん。2月3日だって。場所は大阪」

 もともと大阪だと聞いていたし、日にちもだいたいは知っていた。
 それでも正式に決まったと聞くと胸が少し弾む。
 同時に——これが本当に高校最後の試合なんだと思うと、ほんの少しだけ寂しくなる。

 「いよいよですね」

 「そうだな。……結斗、本当に来てくれるの?」

 「行きますよ。前にも言いましたよね。大阪でも応援に行きたいって」

 「嬉しいけど、遠いし」

 「アルバイト代が貯まってるので大丈夫です。逆に斗葵くんの最後の試合を見に行かない方が気になります。それについでに光希と春利と旅行してきますし」

 「そっちがついでなんだ」

 「当たり前です」

 斗葵くんが笑う。
 その笑顔を見ると、応援に行きたいと伝えてよかったと思う。

 「斗葵くんの高校最後の試合ですから」

 「そっか。ありがとう」

 その横顔が、いつもより少しだけ柔らかく見えた。

 家へ向かって歩いていると、冬の風が急に強く吹いてきて、指先がまた冷えていく。
 俺は缶コーヒーを握り直した。

 「もうぬるい?」

 そう言いながら、斗葵くんは指先を軽く揉むように温めてくれる。

 「まだ温かいですよ」

 「それならよかった」

 こういう優しさが、胸の奥までゆっくり染み込んでいく。

 「久しぶりに斗葵くんの跳んでいるところ、見られるんだなって思うと、すごく嬉しいです」

 俺がそう言うと、斗葵くんは歩みを少しゆるめ、横目でこちらを見る。

 「この時期は全然試合がないからね。俺も結斗が応援に来てくれるの嬉しいよ」

 斗葵くんは照れを隠すように前を向いて、小さく笑った。

 「いいところ見せられるように頑張るよ」

 その言葉が、冬の空気よりずっと温かく胸に広がった。

 「ありがとうございます。斗葵先輩の試合を近くで見られて、応援できるだけで……俺、嬉しくて。今回の試合も、見られるの楽しみです」

 斗葵くんは一瞬だけ目を細め、少しだけ力の抜けた笑みを浮かべた。

 やがて、自宅のある角が見えてくる。
 分かれ道に差し掛かったところで、斗葵くんがふっと立ち止まった。

 「結斗」

 「はい?」

 名前を呼ばれただけで胸が少し高鳴る。
 冬の空気の中でも、先輩の声は柔らかく響いた。

 「いつもありがとう。結斗のおかげで頑張ろうと思える」

 その言葉は、冷えた体よりも先に心を温めた。

 俺は小さく息を吸って、先輩の顔を見上げる。

 「俺こそ、ありがとうございます。斗葵先輩が跳ぶところを見られるのを楽しみにしてます」

 斗葵くんの目が、ほんの少し甘く和らぐ。
 恋人になってから増えた、あの表情だ。

 「ああ、楽しむよ。応援待ってるね」

 「はい。そばで見てます」

 そう言い合って歩いているうちに、先輩が俺の家の前で立ち止まった。

 「これ、ありがとうございました」

 缶コーヒーを返すと、斗葵くんは受け取りながら小さく笑う。

 「温めてくれてありがとう。寒いから、すぐ入れよ」

 「はい。先輩も、気をつけて帰ってください」

 斗葵くんが手を軽く振って歩き出す。
 その背中が暗がりに消えていくのを見届けてから、俺は家の中へ入った。

 2月の大阪は、思っていたよりずっと冷え込んでいた。
 首元に入り込む風が冷たくて、マフラーの端を握る手にも力が入る。

 「うわ、めっちゃ寒いな……」

 光希が肩をすくめる。

 「冬だもんな」

 春利も吐く息を白くしながら言った。

 会場が近づくにつれて、人の流れが少しずつ増えていく。
 自動ドアが開いた瞬間、ふわっと暖気が身体を包んだ。

 「うわ、あったけぇ……!」

 光希が思わず声を上げ、肩の力を抜いたように息を吐く。

 「外との気温差やばいな。これ、脱がないと汗かきそう」

 春利もマフラーを外しながら、周囲を見回す。

 廊下を進み、観客席へと続く通路を抜けた瞬間——視界が一気に開け、空気ががらりと変わった。

 広いアリーナの天井には無数の照明が並び、高い天井のせいか、声がわずかに反響している。

 外の刺すような寒さが嘘みたいに、場内は冗談みたいに暖かかった。
 暖房の熱と大会特有のざわめきが混ざり合って、空気が少し、もわっとしている。

 「室内って、こんな感じなんだな……」

 光希が感嘆したように声を漏らす。

 「うん。外と全然違うな」

 春利も周囲を見渡しながら答えた。

 俺も同じことを思っていた。
 真っ赤なタータンの直線レーンは短い。
 その両脇には走幅跳や棒高跳のエリアが並び、外とは違って、カーブの短い円形の走路が目を引く。

 どれも見慣れた屋外競技場とは違う、室内競技ならではの景色だった。

 ——この場所で。
 今日は、斗葵くんの高校最後の試合が行われる。

 胸の奥が、静かに熱を帯びる。

 「これって、どこで高跳びやるんだ?」

 光希が首をかしげた。

 俺も辺りを見渡す。
 けれど、外の競技場なら必ずあるはずのあの大きなマットが、どこにも見当たらない。

 「あれ、ないな……」

 「室内は初めてだから、俺らも分からないな」

 春利も同じようにきょろきょろしている。

 そのとき——

 「あっ、斗葵くんだ!」

 少し離れたアップエリアで、軽くジョグをしている姿が目に入った。
 緊張と嬉しさが、一気に胸に押し寄せる。

 「あ、本当だ」

 春利も目を丸くして、視線を向けた。

 俺たちは観客席の1番下まで降り、アップ中の斗葵くんを見つめる。

 軽く体を動かすだけなのに、跳ねる高さも、着地の安定感もまるで違う。
 ただのスキップ1つでさえ、“跳べる人”の動きだと分かってしまう。

 思わず、目が離せなかった。

 スタート地点へ戻ってきた斗葵くんが、ふとこちらを見上げる。

 ぱちっと目が合って、先輩は一瞬立ち止まり、軽く手を振ってくれた。

 気づいてくれたのが嬉しくて、俺も慌てて手を振り返す。
 斗葵くんは柔らかく微笑んで、またアップへと戻っていった。

 その後、数本のダッシュを終え、スパイクを脱いで靴を履き替え始める。

 どうやらアップは終わったようだ。

 先生と何か話しながら競技場を出ていき、しばらくして——斗葵くんが、こちらへ歩いてきた。

 「おはよう。3人とも来てくれたんだね」

 「はい。応援に来ました」

 そう言うと、先輩はふっと目元を緩めた。
 少し照れたようで、でも確かに嬉しそうな表情。

 「ありがとう。ほんとに心強いよ」

 その一言で、胸の奥がじんわり温かくなる。

 「斗葵先輩、頑張ってください!」

 「むっちゃ応援してますからね!」

 光希と春利が勢いよく声をかける。

 俺も小さく息を吸って、言葉を添えた。

 「今日の試合、楽しみにしてます」

 「うん、ありがとう」

 斗葵くんは柔らかく笑って、軽く手を振ると先生のほうへ戻っていった。

 場内アナウンスが響き、アップ終了が告げられる。
 さっきまで人の動きで満ちていたフィールドが、嘘みたいに静まり返った。

 そのタイミングで、スタッフが青い大きなマットを台車に載せて運び込んでくる。

 「あれ、走高跳のマットだよな?」

 光希が思わず身を乗り出す。

 「ほんとだ。レーンの真ん中に置くんだ……すげぇ」

 俺も自然と目を奪われた。
 準備される瞬間を見るのは、初めてだった。

 赤い直線レーンの中央に、
 青いマットがゆっくりと配置されていく。
 支柱が立てられ、バーをかける器具がセットされる。

 「室内の走高跳って、こういう配置なんだな……」

 春利が感心したように息を漏らす。

 明るい照明に照らされたマットは、まるで舞台の中央に、主役のための場所が用意されたみたいだった。

 跳躍練習を終え、審判の声がかかると、選手たちがバーの近くに並び始める。

 再びアナウンスが流れ、1人1人の名前が呼ばれるたびに、観客席から期待のこもった拍手が沸いた。

 斗葵くんの名前が呼ばれた瞬間、私たちは叫んだ。

 「斗葵ー!」

 斗葵くんは軽く会釈し、こちらに一度だけ視線を向けてから、静かにベンチへ戻っていった。

 選手紹介が終わると同時に、バーの高さが調整され、フィールドの空気が一段と張り詰める。

 そして、審判が開始の合図を告げた。

 ——いよいよ、競技が始まった。

 開始の合図が響き、最初の高さの試技が始まった。

 斗葵くんの番になると、いつものように助走位置へ向かう。
 けれど——跳び出した瞬間、ほんのわずかな違和感が走った。

 「……あ」

 踏切のタイミングが噛み合わず、バーに肩が触れる。

 かすかな金属音。
 バーが落ちた。

 「え……斗葵先輩、珍しいな」

 光希が小さくつぶやく。

 「やっぱり外と感覚違うのかな」

 「それもあるだろうけど。いつも長いピンを使ってる斗葵先輩は、なおさら跳びにくいんじゃないか」

 春利の言葉に、俺もはっとする。

 室内のタータンは傷つきやすいため、屋外よりも短いピンが規定されている。
 普段とは違う感覚が、助走や踏切に影響しているのかもしれない。

 それでも斗葵くんは表情を崩さず、すぐに気持ちを切り替えて、次の試技に向かった。

 2回目の跳躍。
 今度は、助走の途中から動きが違った。

 迷いが消え、リズムが戻っている。
 軽く宙を越えるように身体が浮き、バーをきれいにクリアした。

 「よし……!」

 胸の奥が、じんと熱くなる。
 見慣れた、斗葵くんの跳び方だ。

 本来なら高さは5センチずつ上がる。
 けれど今日は開始の高さが高いため、上げ幅は3センチに調整されていた。

 3センチ上がったバーの前に立ち、先輩は一度、深く息を整える。

 ——そして、走り出した。

 だが、助走がわずかに乱れ、踏切の角度が低くなる。
 足がバーに触れた。

 カランッ。

 「惜しい……!」

 光希が悔しそうに声を漏らす。

 斗葵くんは焦る様子もなく、静かに自分の動きを確かめているようだった。

 2回目。
 助走に入る前、先輩は軽く肩を叩き、ぐっと前を見据える。

 スタートの一歩目から、空気が変わった。
 スピードが乗り、踏切位置が、ぴたりと合う。
 ふわり——大きな放物線を描いて、身体が宙を舞った。

 ——抜けた。

 青いマットに静かに着地し、バーは揺れもしない。

  「やった……!」

 気付いたときには、声が出ていた。
 光希も春利も、手を叩きながら喜んでいる。

 これで斗葵くんは、次の高さへ進む。
 その後も、先輩は安定した跳躍を重ねていった。

 試技が進むにつれて、緊張と期待が入り混じり、胸の奥が、じわじわと熱くなっていく。

 そして——ついに残ったのは、2人。

 この高さを越えられなければ、斗葵くんの優勝はない。
 優勝決定戦ということもあり、観客の視線は、自然と2人の選手に集まっていた。

 先に跳んだ他校の選手は、跳躍の途中で腕がバーに触れてしまう。

 カラン、と音を立てて落ちるバー。

 悔しそうに眉を寄せながら、その選手は静かに助走路を戻っていった。

 次は、斗葵くん。

 助走位置に立ち、深く息を吸って、肩を軽く回す。
 前方を、まっすぐに見据えた。

 一歩目。
 そこから一気に加速した。

 踏切の瞬間、身体がふわりと宙へ舞い上がった。

 バーの上を——きれいに、越えた。

 青いマットへ身体が沈んだ瞬間、観客席から、割れるような拍手が湧き起こった。

 「やった!」

 俺も、手が痛くなるほど拍手した。

 「すっげ……!」

 「跳んだな!」

 光希と春利が同時に声を上げた。
 斗葵くんは、軽くガッツポーズを見せた。

 続いて、もう1人の選手が挑戦する。

 2回目も、失敗。

 迎えた最後の跳躍。
 助走は悪くない。

 ——だが、足先がわずかにバーを擦り、耐えていたバーが惜しくも落ちた。

 その瞬間、斗葵くんの優勝が決まった。

 視線を向けると、斗葵くんはふっと肩の力を抜くように息を吐いた。
 ランキング1位という重圧から、ようやく解放されたように見えた。
 その状態まで追い込まれながらも、きちんと結果を残したことが、ただ凄いと思った。

 斗葵くんが、本当は知り合いに試合を見られるのがあまり得意じゃないことを知ったのは、恋人になってからだった。

 「優勝だろ」

 「今日も勝てよ」

 そう声をかけられるたび、斗葵くんの表情は、ほんのわずかに強張る。

 強すぎるからこそ、周りから“勝って当たり前”だと思われる。
 その重さが、しんどいんだと気づいた。

 それに気づいているのは、たぶん、俺だけだ。

 だから今回も、本当は見に来ていいのか、少し迷っていた。
 けれど斗葵くんのほうから「試合があるよ」と教えてくれたから、思い切って、行きたいと伝えた。

 そのときの斗葵くんは、確かに、嬉しそうだった。

  きっと——斗葵くんが本当に試合を楽しめるのは優勝が決まってから、ここからなんだ。

 バーは、斗葵くんの希望の高さへと上がる。
 跳べるか、跳べないか。
 そのぎりぎりのライン。

 調子のいい日なら越えられる。
 ほんの少し噛み合わなければ、落ちる。
 そんな高さだ。

 斗葵くんはマットの前で足を止め、静かに目を閉じた。
 頭の中で助走のリズムをなぞり、踏切の位置、空中での身体の形を1つ1つ確認していく。

 軽く身体を揺らし、最後に小さくうなずくと、スタート位置へ戻った。

 審判の合図。

 肩の力を抜いたまま、走り出す。
 1歩、2歩とリズムを刻み、助走のスピードが徐々に乗っていく。

 身体がふわりと宙に浮き、背中がバーに沿うように大きく反る。

 ——だが、太ももがわずかに触れた。

 カラン、と音を立ててバーが落ちる。

 次の跳躍も、同じ場所だった。
 あと少し。
 ほんの数センチが、どうしても届かない。

 迎えた3回目。

 助走に迷いはない。
 踏切も、今度はぴたりと合った。
 身体が高く、静かに持ち上がり、太ももを抜け、足先がバーを越える。
 青いマットに身体が沈み込むと同時に、バーは、わずかに揺れただけで静まった。

 一瞬の静寂のあと、会場に歓声と拍手が一気に広がる。

 「……綺麗」

 思わず、声が漏れる。斗葵くんは起き上がり、小さく手を叩いて、心から嬉しそうに笑っていた。
 
 続いて、自己ベストの高さへ。

 今度は、さすがに簡単じゃない。
 助走は悪くない。
 踏切も合っている。

 けれど——空中で、ほんのわずかに身体が流れた。
 足先が、バーに触れる。
 カラン、と乾いた音が響き、バーは静かに落ちた。

 3回目の跳躍が終わると、場内には大きな拍手が広がる。

 斗葵くんはマットを降り、四方へ丁寧にお辞儀をして、その声援に応えた。

 その姿を見た瞬間、胸の奥が、一気に熱くなる。

 斗葵くんの——高校最後の跳躍は、こうして幕を下ろした。

 試合が終わると、斗葵くんたちは審判に連れられて競技場の奥へと歩いていった。
 3位以内の選手は、表彰式の準備が整うまで別室で待機する決まりらしい。

 数十分後、場内アナウンスが響き、いよいよ表彰式が始まった。
 俺たちは最前列を確保し、先輩の晴れ姿を一瞬でも逃すまいとカメラを構える。

 表彰台の中央に立つ斗葵くん。
 ライトを浴びた横顔はどこか誇らしげで、それでいていつも通り落ち着いていて——その姿を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。

 表彰が終わり、クールダウンを済ませた斗葵くんが戻ってくるのが見えた。
 気づけば俺は、考えるより先に走り出していた。

 「斗葵くん、本当に優勝おめでとうございます」

 そう伝えた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 今日の跳躍を見て、ただ“すごい”だけじゃない強さを感じたからだ。

 「ランキング1位っていうだけでも、相当なプレッシャーがあったと思う。室内で条件も違って、最初の跳躍も簡単じゃなかったはずなのに……。それでも最後まで落ち着いて、自分の跳びを取り戻して、ちゃんと結果を出していて……」

 言葉を選びながら、息を吸う。

 「技術だけじゃなくて、気持ちの強さも含めて。本当に、すごいと思った」

 口にした瞬間、胸が少し軽くなった。
 ようやく、ちゃんと伝えられた気がした。

 「本当に、かっこよかった」

 斗葵くんは一瞬きょとんとしたあと、驚いたように目を丸くして、
 それから少し照れたように笑った。

 「そっか。そんなふうに見ててくれたんだな。ありがとう、結斗。今日、ほんとに来てくれて嬉しかったよ」

 その言葉に、胸の奥がまた温かくなる。

 会話が一段落したのを見て、少し離れて待っていた光希と春利がこちらへ近づいてきた。

 「斗葵先輩! 優勝おめでとうございます!」

 「ほんと、めっちゃかっこよかったです!」

 斗葵くんは照れくさそうに笑って、「ありがとな」と柔らかく返した。

 「写真、撮りません?」

 「撮りたいです!」

 春利の言葉に、光希もすぐに乗ってくる。

 「ああ、撮ろう」

 斗葵くんがうなずくと、2人は自然に動いて、光希が斗葵くんの右側へ、春利が俺の左側へと並んだ。

 斗葵くんと俺が中央に立ち、その両隣に光希と春利が肩を寄せる。

 「撮るよー! はい、笑って!」

 ——カシャッ。

 シャッターの音が響いた瞬間、斗葵くんの最後の試合の日を刻むように、4人の笑顔が一枚の写真に焼き付いた。

 4人での写真を撮り終えたタイミングで、斗葵くんは顧問の先生に呼ばれた。

 先生との話が終わり、戻ってきたところで、俺はスマホを取り出す。

 「斗葵くん、一緒に撮ってもらってもいいですか?」

 斗葵くんは、すぐに顔をほころばせた。

 「もちろん。俺も撮りたい」

 斗葵くんが俺のスマホを受け取ろうとすると、

 「はいはい、貸してー」

 光希が当たり前みたいに受け取り、春利が横から「もっとくっついて」と指示を出す。

 2人に言われるまま、斗葵くんのすぐ隣に立った。

 「じゃ、撮るよー」

 光希がそう言って、さっとシャッターを切る。

 「ありがとう」

 スマホを受け取って、すぐに画面を確認した。

 そこには、並んで立つ斗葵くんと俺が映っている。
 先輩は満面の笑みで、俺の肩に自然に寄りかかっていて、俺は少し照れた顔をしながらも、隠しきれないくらい嬉しそうだった。

 それを見て、斗葵くんが柔らかく笑う。

 ――幸せだな、と思った。

 「いい写真だな」

 「はい」

 スマホを下ろして、斗葵くんに向き直る。

 「高校最後の試合、お疲れさまでした。本当に、すごくかっこよかった。やっぱり斗葵くんが跳んでいる姿、見るの好きです。応援に来させてくださって、ありがとうございました」

 「ありがとう。でも……まだ実感ないな。もう、これ着ることないんだと思うと」

 そう言って、斗葵くんはジャージの胸元にある刺繍を指でなぞった。
 そこには、通っていた高校の名前が入っている。

 少し間を置いて、先輩がぽつりと言う。

 「でも、これで行けるな」

 「はい?」

 「結斗家のカフェ。試合中は甘いの控えてたから、甘いものたくさん食べたい」

 「はい。ぜひ来てください」

 「ああ。結斗が働いてるところ見るのも、楽しみだな」

 そう言って、少しだけ肩の力を抜いた笑顔を見せた。

 写真を撮り終えても、アリーナの空気は変わらなかった。
 むしろ、これからだと言わんばかりに熱を帯びている。

 走高跳は、この大会の最初の競技だ。
 すでに次の種目に向けて選手たちが動き始め、観客席のざわめきも途切れない。

 さっきまで斗葵くんが立っていた場所には、もう別の準備が進んでいる。

 競技は止まらず、次へと進んでいく。

 それでも——俺の中では、はっきりと一区切りがついていた。

 斗葵くんの、高校最後の試合は終わった。
 あの跳躍も、表彰台の姿も、全部、この胸に残っている。