遠い背中に恋をした

  体育祭が終わると、間を置かずに次の行事――文化祭に向けて学校全体が動き出す。
 出し物がまだ決まっていない教室では話し合いが続き、すでに決まったところでは準備が始まっていた。

 俺のクラスも出し物が決まり、必要なものをリストアップしたところで授業が終わった。
 春利は風邪を引いて欠席していて、光希は用事があるらしく先に帰っていった。

 1人で廊下に出た、そのとき――

 「結斗くん」

 振り向くと、真衣が立っていた。
 あの大会以降、真衣とはすれ違えば挨拶をして、少し言葉を交わすくらいの仲になっている。

 「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……いい?」

 どこか落ち着きなく、指先をもてあそんでいる。
 俺は頷き、人通りの少ない廊下の端まで一緒に歩いた。

 周囲の足音が遠のいたあたりで、真衣は1度、深呼吸をしてから口を開く。

 「聞きたいことっていうのが……あの、光希のことで」

 「光希?」

 「そう。光希って……恋人、いるのか知ってる?」

 思いもよらない問いに、胸が小さく跳ねた。

 「いないよ」

 そう答えると、真衣はほっとしたように肩の力を抜く。

 「そっか……ありがとう」

 その反応で、察してしまう。
 真衣は光希のことが、好きなんだ。

 「頑張ってね」

 考えるより先に、言葉が口をついて出ていた。

 「ありがとう」

 真衣は少し頬を赤らめ、照れくさそうに笑う。

 「光希に恋人がいなかったら、文化祭に誘いたかったんだ。1年も、もうあと半年くらいしかないでしょ? 今はクラスが近いけど、来年はどうなるか分からないし……」

 そう言って、真衣は軽く肩をすくめた。

 「だから、アピールできる時にしておきたいんだ」

 そして、少し間を置いてから――

 「斗葵先輩も、恋人いないって聞いたよ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸が詰まった。

 「……どうして、俺に?」

 「結斗くん、斗葵先輩のこと気になってるのかと思ってたんだけど。違った?」

 違う。
 そう言い切る言葉が、出てこなかった。

 否定できなかったことに、自分でも戸惑う。

 ずっと、憧れだと思っていた。
 けれど「気になってる」と言われた瞬間、胸の奥で、その気持ちがはっきりと輪郭を持ち始めた気がした。

 ――俺、先輩のこと、気になってるんだ。

 締めつけられるような苦しさと、それ以上に、じんわりと広がるあたたかさ。

 どちらも、初めてだった。
 頬が、じわじわと熱くなる。

 真衣は柔らかく笑い、声を落とす。

 「お互い、頑張ろうね。……あとこの話は二人だけの秘密ね」

 「うん」

 「ありがとう。じゃあ、またね」

 照れくさそうに手を振って去っていく背中を見送りながら、俺はしばらく、その場から動けずにいた。

 窓の外では、夕陽が校庭を染めている。
 その景色を見つめながら、ふと気づく。
 ――俺が先輩と過ごせる時間も、あと半年くらいしかない。

 斗葵先輩は3年生で、2月には卒業する。
 自由登校を考えれば、会える時間はもっと短い。

 文化祭と、卒業式。
 一緒に過ごせる行事は、それだけだ。
 文化祭が、先輩と並んで歩ける最後の機会かもしれない。

 気づけば、スマホを手にしていた。

 『文化祭のとき、ちょっとだけ一緒にまわれませんか?』

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
 スマホを持つ手に、わずかに力が入る。

 ……ちょっとだけ、って何だ。
 1人で突っ込みながら、画面を見つめる。

 断られたらどうしよう。
 ポケットにしまって、また取り出して。
 何度も同じ画面を確認してしまう。
 返信を待つ間、時間がやけにゆっくり流れているように感じた。

 そのとき、画面が小さく震える。
 一瞬、心臓が跳ねた。

 恐る恐るロックを解除すると、斗葵先輩からのメッセージが表示されていた。

 『まわりたい』

 たった四文字。
 それだけなのに、息をするのを忘れるくらい胸がいっぱいになる。

 『ありがとうございます!一緒にまわりたかったので、嬉しいです』

 つい嬉しくて、すぐに返信してしまった。
 張り切りすぎていると思われないか、少しだけ不安になる。

 けれど、斗葵先輩からもすぐに返事が届いた。

 『俺も嬉しい。誘ってくれてありがとう』

 その一文を見た瞬間、
 胸の奥がまたじんわりと熱くなった。

 『いつ頃なら一緒にまわれそうですか?』

 『もし大丈夫なら、2日目を一緒に回りたい』

 画面を見た瞬間、胸がどくんと跳ねた。

 2日目……それって4日中ってこと……?
 信じられなくて、指が半ば勝手に文字を打っていた。

 『いいんですか?1日、一緒に回ってくれるってことですか?』

 送信して数秒。
 スマホが震えて、心臓まで跳ねる。

 『うん。結斗くんがいいなら、俺は一緒にまわりたいな』

 短い言葉なのに、やけに温かい。
 胸の奥が、じわりと広がっていく。

 頬が自然にゆるむのを、隠せなかった。

 『回りたいです!お願いします』

 送信すると、すぐに既読がつく。

 『ありがとう。じゃあ、2日目は一緒に回ろう』

 その返事を送ると、胸の奥がふっと軽くなる。

 『斗葵先輩のクラスのダンスって、何時からやるんですか?』

 この学校の文化祭は2日間あって、1年生は展示、2年生はクラス企画、3年生は1日目に体育館でダンス発表を行う。
 1年生は展示だけなので、当日の2日間とも自由に動ける。

 『まだ決まってないから、わからないな』

 『なら、決まったら教えてほしいです。見に行きたいです』

 『見られるの、ちょっと恥ずかしいんだけどね。俺、下手くそだから』

 その弱気な一言が、どうしようもなく可愛く思えてしまって、思わず口元が緩んだ。
 普段は頼りがいがあって、何でもそつなくこなしているように見える先輩が、こんなふうに不安を口にするなんて。

 『それでも見たいです。お願いします!』

 ほんの数秒の沈黙のあと、画面がもう1度、控えめに震えた。

 『時間が分かったらまた連絡するよ』

 その短い一文を読み返しながら、胸の奥が、ゆっくりと温かくなっていくのを感じた。

 体育祭が終わったばかりだと思っていたのに、もう文化祭当日の朝だ。
 校舎の前には、いつもより早くから生徒たちが集まり、楽しげな声が秋の空気に混ざっていた。
 飾られた校門をくぐると、胸の奥がそわそわと弾む。

 教室に入ると、いつもはギリギリに来る光希と春利が、すでに席についていた。

 「結斗、おはよー!」

 元気すぎる声に、思わず苦笑しながら近づく。

 「どうしたの? 今日めっちゃ早くない?」

 「文化祭の日に遅刻なんかしてられるかよ」

 「だよなー。今日、1番楽しみにしてたし!」

 そのまま朝のHRを終え、担任から注意事項を聞くと、すぐに解散となった。
 合図のように、教室が一気にざわつき、生徒たちが廊下へ流れ出していく。

 「じゃ、まずどこ行く?」

 「1年展示?それとも上から回ってく?」

 「俺、腹減った!」

 「なら、模擬店からだな」

 春利の一言に笑いながら、俺たちは連れ立って階段を下りた。

 ワイワイと騒ぎながら、新校舎を抜ける。
 1日目の文化祭は、そんな賑やかな空気の中で始まった。
 人混みであふれる模擬店エリアに足を踏み入れると、

 「うわ、めっちゃ並んでるじゃん……!」

 「焼きそば、人気すぎだろ」

 「早く並ぶぞ!」

 春利は迷いもなく、列の最後尾へ向かう。

 「……違う店にしないんだ」

 その背中を見て、光希が苦笑した。

 3人分の焼きそばを受け取ると、校庭の端に腰を下ろす。

 「あっつ!」

 「そりゃー、できたてだしな」

 「おいしい」

 紙皿を片手に風に当たると、秋の空気が心地良かった。

 「それにしてもすげー人だな」

 「こんなに来るんだね」

 「なー、次はどこ行く?ダンスは13時からだから、それまでいろいろ回ろうぜ」

 「俺はお化け屋敷に行きたい」

 「それなら、混みそうだし、食べ終わったらすぐ行くか」

 俺たちは残りをかき込むように食べ終え、すぐに立ち上がる。
 そしてまた、人混みの生徒たちの波へと戻っていった。

 廊下には笑い声や呼び込みの声、軽音の演奏が入り混じり、学校全体が、いつもよりずっと色鮮やかに感じられる。

 2年生のフロアに上がると、どの教室にも人だかりができていた。

 「お化け屋敷あった!」

 列の最後尾を探して歩いたが──

 「……これ、最後尾どこ?」

 「見えねぇ。てか、並ぶ気失せるな」

 「階段のほうまで続いてない?」

 その先を見た瞬間、俺たちは顔を見合わせ、無言でうなずいた。

 「もう一個の方、行ってみる?」

 「そういや、お化け屋敷、2つあったな」

 「そっち行こーぜ」

 移動してみると、そちらはまだ列が短かった。

 「よし、ここならいける!」

 「誰が1番驚くかな?」

 「そりゃあ、春利でしょ」

 そんなことを言い合いながら、ライトに照らされた薄暗い廊下へ足を踏み入れる。

 結果──

 「ぎゃあああああぁ!!」

 「うわっ!」

 「なんか掴まれた!」

 3人ともしっかりビビらされた。

 「……疲れた」

 「やっぱ、春利が1番声でかかったな」

 「だって、俺のほうばっか驚かしにくるんだよ!」

 文句を言い合いながらもしばらく笑って、俺たちはまた人の流れに身を任せた。

 そのあとも、いくつか展示を覗き、途中で模擬店に立ち寄って軽く腹を満たしながら、文化祭を回った。
 そうしているうちに、気づけば時計の針は進み、3年生のダンスが始まる時間が近づいていた。

 「そろそろ体育館、行くか」

 そうして俺たちは、人の流れに混じって体育館へ向かった。
 早めに向かったおかげで、前方の中央あたり──ステージが1番よく見える場所を無事に確保できた。

 それからしばらくして、『まもなく3年生のクラスダンスを開始します』というアナウンスが流れ、体育館の空気が一気にざわめき始める。

 こうして、ダンス鑑賞がゆっくりと幕を開けた。

 3年生のダンスが始まると、かっこいい系、お笑い系、オタク芸みたいなものまで、とにかくバリエーションが豊富だった。

 中でも、幼稚園の頃によく見ていたテレビの体操を踊り始めたときは、「懐かしい」という声が客席のあちこちから上がった。
 俺たちも「小さい頃、真似したやつだ」と盛り上がっていると、プログラムはまた1つ進み、場内に次のアナウンスが響いた。

 『続いて、3年5組の発表です』

 ステージ横から、3年5組のメンバーが登場してくる。
 その瞬間、客席のあちこちから歓声が上がった。
 次のクラスが登場するたび、知り合いのいる生徒たちは毎回のように名前を叫んでいた。

 斗葵先輩は、ステージの端のほうに立っていた。
 その姿を見つけて、胸の奥が少しだけ跳ねる。

 けれど、次の瞬間、思わず息を呑んだ。

 「斗葵ー!!」

 3年生の女の子たちの声が、客席のどこかから響く。

 斗葵先輩はそれに気づくと、そちらへ軽く手を振った。
 手を振られた女の子たちは、嬉しそうに声を上げて騒いでいる。
 その明るい笑い声が、胸に少しだけ刺さった。

 でも、そのすぐあと。
 視線を客席へ移した斗葵先輩が、あっという間に僕たちを見つける。
 ふっと、優しい笑みを浮かべて──こっちにも手を振ってくれた。
 斗葵先輩から手を振ってくれたことが嬉しくて、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 やがて音楽が流れ、照明がステージを包み込んだ。
 3年5組のダンスが、いよいよ始まった。

 斗葵先輩のクラスは、今人気のアイドルグループの曲を使ったダンスだ。
 振り付けは原曲をベースにしつつ、ところどころにクラス独自のアレンジが加えられていて、見ていて飽きない。

 サビに入ると、一気に会場が沸き、あちこちから歓声が上がる。
 隊形移動も揃っていて、全員が楽しそうに踊っていた。

 その中で、斗葵先輩も音に合わせてステップを踏んでいる。
 ところどころ少しぎこちないところもあって、なんだかかわいかった。
 斗葵先輩にも得意じゃないことがあるんだと知れて、胸の奥がほんのり温かくなる。

 曲が終わり、ダンス発表が終わると、客席のあちこちから再び名前が飛び交い始めた。

 斗葵先輩はすぐに俺たちを見つけて、また楽しそうに手を振ってくれた。
 俺らも手を振り返すと、光希が急にこっちを振り返った。

 「なー、俺らも斗葵先輩呼ぼうぜ!」

 「うん」

 「よしっ!じゃー、せーの!」

 「斗葵先輩ー!」

 光希と春利、そして俺の声が体育館に響く。

 その瞬間、先輩は嬉しそうにVサインを返してくれた。
 それを見た瞬間、自然と笑みがあふれた。

 ステージが片付けに入り、次の準備が始まったところで、俺たちは席を立ち、体育館をあとにした。

 体育館を出たあとも、3人で校内をぶらぶらと歩き回った。
 模擬店をのぞいたり、気になった企画に少しだけ参加したりして、気づけば1日中、ほとんど休みなく動き回っていた。

 帰り際、明日は誰と回るのかを聞くと、
 光希と春利は、真衣とその友達を含めた4人で回るらしい。

 少し前に、真衣から相談されていたことを思い出す。
 光希と一緒に文化祭を回りたいと、不安そうに話していた顔が浮かんで――

 「そっか」

 と小さく呟きながら、胸の奥でほっとした。
 真衣が光希たちと一緒に回れて良かったと思った。

 家に着くころには足が重くなっていたけれど、初めての文化祭で感じた高揚感は、まだ胸の奥に熱を残していた。

 それに――明日のことを考えるたびに、自然と口元が緩んでしまう。
 ベッドに横になっても、落ち着かなくて早く明日が来て欲しいなと強く思った。

 ──そして次の日。
 今日は、斗葵先輩と文化祭をまわる日だ。

 朝のHRが終わると、俺は教室を出た。
 新校舎から旧校舎へ続く連絡通路を渡り、3年生の教室が並ぶフロアへ向かう。
 斗葵先輩は迎えに来ようかと言ってくれたけれど、誘ったのは自分なんだからと、俺のほうから会いに行きたかった。

 3年5組の前に着くと、扉が少し開いていて、中にはまだ何人かが残っていた。

 (……斗葵先輩、どこだろ)

 教室の中を見渡すと、黒板の前あたりで誰かと話している斗葵先輩の姿が目に入る。
 その姿を見つけて、胸が小さく跳ねた――そのとき。

 「あれ、1年じゃん?」

 「ほんとだ……って、おっ」

 背後から声が飛んできた。
 振り向くと、3年生の女の子たちが数人、こちらを見ている。
 スリッパの色で、すぐに学年が分かった。

 「君、1年だよね?」

 「え、はい」

 「かっこいいね」

 「えっと……ありがとうございます……?」

 いきなり褒められて、どう反応すればいいのか分からなくなる。
 頭が一瞬真っ白になって、視線があちこち彷徨った。

 「こんなところで、どうしたの?」

 そう聞かれた直後――

 「結斗?」

 聞き慣れた声がして、はっと振り向いた。
 斗葵先輩がこちらへ歩いてきて、俺の隣に立つ。

 「ごめん、待たせた」

 その一言で、女の子たちはすぐに状況を察したらしい。

 「斗葵待ちだったんだ」

 「はい」

 「学園祭、一緒に回るんだよ。ほら、行こっか」

 そう言って、先輩が俺の方を向く。

 「ちょっと、待って」

 女の子の1人が、斗葵先輩の腕を掴んだ。
 その光景に、思わず眉をひそめる。
 斗葵先輩は軽くその腕を払うと、少し困ったように首を傾げた。

 「なに?」

 「私たちも、一緒に回りたい!」

 その言葉に、思わず息を呑んだ。
 嫌な予感が胸をかすめて、反射的に斗葵先輩を見てしまう。
 斗葵先輩は、ちらりと俺の方を見た。

 「やだよ。2人で回りたいから」

 その一言に、胸の奥がふっと緩む。
 俺も小さく、うなずいた。

 「俺も……斗葵先輩と、2人がいいです」

 「それなら、少しだけ!ちょっとだけ一緒にまわろう」

 きっぱり断ったはずなのに、先輩たちはなおも食い下がってくる。
 どう反応すればいいのか分からず、戸惑って言葉に詰まった。

 「最後の文化祭なんだから、少しぐらいいいでしょ?」

 そう言われると、強く否定しづらくなる。

 ――けれど。

 「だからなおさら、嫌なんだよ」

 斗葵先輩がそう言った瞬間、女の子たちは一斉に目を丸くした。

 「えっ……?」

 次の瞬間、斗葵先輩が俺の肩を引き寄せる。
 突然の距離に、心臓が跳ねた。

 斗葵先輩は落ち着いたまま、静かに言う。

 「デートの邪魔、しないで」

 ――デート?

 思わず斗葵先輩を見上げると、
 先輩は「ん?」とでも言うように、優しく笑みを返してくれた。

 その甘い笑顔に、頬が一気に熱くなる。

 俺たちの反応を見た女の子たちは顔を見合わせてから、

 「そっか!邪魔してごめんね」

 とそう言い残して慌てて離れていった。

 「じゃあ、行こっか」

 「……はい。お願いします」

 そうして、俺たちは並んで歩き出した。

 数歩進んだところで、斗葵先輩がふと俺のほうを見る。
 どこか申し訳なさそうな表情だった。

 「待たせてごめんね」

 「いえ。ほんとに、さっき来たところなので」

 「そう? それにしてもさ……」

 少し間を置いてから、斗葵先輩は続けた。

 「結斗くんがナンパされてる姿を、こんなに早く見るとは思わなかったな」

 「……え?」

 聞き慣れない言葉に、思わず足を止める。

 「ナンパ、ですか?」

 「うん。されてたでしょ?」

 「違いますよ。こんなところに1年生がいるのが珍しかったみたいで、どうしたのって聞かれただけです」

 「それ、わりと定番なんだよ」

 先輩はそう言って、周囲へと視線を巡らす。

 「違う学年の子もいるでしょ。学園祭って、学年関係なく旧校舎の方にも来るからね」

 言われて見渡すと、確かに3年生じゃなさそうな生徒も、教室の前で誰かを待っている。

 「……そうなんですか」

 「そうそう。だから、学年関係なく声をかけやすい環境ではある」

 先輩は視線を俺に戻すと続けた。

 「結斗くんって、話しかけやすい雰囲気あるし、かわいいからナンパされるとは思ったんだよ」

 「か、可愛くないです」

 反射的に否定すると、斗葵先輩はすぐに首を横に振る。

 「かわいいよ。俺はずっと思ってる」

 「っ……」

 胸の奥が、ぱっと弾けたみたいに熱くなった。

  「からかわないでくださいよ!」

 思わず少し強い口調になってしまって、余計に顔が熱くなる。

 けれど先輩は、冗談で流すこともなく、当たり前みたいな顔で、静かに言った。

 「結斗くんにしか言ってないよ。ほら、行こ」

 そう言い残して歩き出した背中は、ほんの少しだけ肩がこわばっていて──まるで、自分で言ったことに照れているみたいに見えた。

 (……これって、少しは期待してもいいのかな)

 胸の奥が、ふわっと熱くなる。
 さっきまで人混みにいたはずなのに、急に2人だけの空気になった気がした。

 「結斗くん、まずはどこ行きたい?」

 振り返った先輩は、いつもと同じ柔らかな笑顔。

 「……お化け屋敷、行きたいです」

 「それは2組の方?」

 「はい。昨日、行列がすごくて諦めたんです」

 「俺も昨日は無理だったんだよね」

 そう言って笑う先輩は、やっぱりいつも通りなのに、並んで歩く距離だけが、ほんの少し近い気がした。

 「今日ならいけそうだね」

 「ですね。昨日より全然並んでないです」

 朝イチだからか、人もまだまばらだった。
 順番が来て中へ入ると、暗さも音も昨日のものより本格的で──

 突然、耳元で突然大きな音が鳴った。

 「うわっ……!」

 怖さに耐えられず、反射的に斗葵先輩の服を掴んでいた。
 離そうと思うより先に、その手に、別の温もりが重なった。

 「大丈夫」

 低く落ち着いた声と同時に、先輩は俺の指をそっとほどき、代わりに自分の手を差し込んできた。
 そのまま、ぎゅっと握りしめられた。

 驚く暇もなく、俺はその手に導かれるように歩き出した。

 怖い音が鳴るたびに、斗葵先輩の握る力が少しだけ強くなる。
 それが“大丈夫だよ”と言われているみたいで、怖さで早鐘を打っていた心臓が、少しずつ落ち着いていった。

 そのおかげで、お化け屋敷はただ怖いだけじゃなくて、隣を歩く温もりを意識してしまうくらいの余裕が生まれていた。

 そうして、2人で出口へたどり着く。
 外に出た瞬間、光がまぶしくて、思わず目を細めた。
 胸がどきどきしているのは、きっと怖さだけのせいじゃない。

 「結構、怖かったね」

 「はい。急に驚かせにくるので、びっくりしました」

 「お化け屋敷だからね。もう大丈夫?」

 「はい。もう怖くないです」

 「それならよかった」

 そう言って、斗葵先輩は握っていた手を一度だけ、ぎゅっと強くする。
 それから、名残を惜しむみたいに、ゆっくりと手を離した。

 離れた瞬間、指先からぬくもりが消えて、胸の奥がほんの少しだけ、寂しくなる。
 けれど、その気持ちは口に出さずに、そっと飲み込んだ。

 「よし、次どこ行こっか。少し早いけど、何か食べる?昼になると混むし」

 斗葵先輩がそう言ったちょうどその時、窓の方からふわっと食べ物の匂いが流れてきた。
 まるで、背中を押されたみたいなタイミングで。

 「いいですね。混む前に行きましょう」

 「じゃあ、中庭の屋台、見てみよっか」

 そう言って歩き出す先輩の隣に俺も並ぶ。

 さっきまで繋がっていたはずの手が、今は空いている。
 それが妙に気になってしまって、でも何も言えないまま2人で人の流れに紛れた。

 「結斗くんは唐揚げ?」

 屋台の前で、斗葵先輩が振り返って聞いてくる。

 「そんないつも食べませんよ」

 「そう?」

 首をかしげる先輩の仕草が、どこか楽しそうで。

 「……売ってないので」

 「――ああ、そういうこと」

 ふっと、理解したみたいに先輩が笑う。
 からかうでもなく、ただ納得しただけのやわらかい笑い方だった。

 「じゃあ今日は、何食べる?」

 歩きながら、横目でのぞき込まれる。

 「んー……どうしましょう」

 「昨日、友達がたこ焼き食べてたんだけど、めっちゃ美味しかったって言ってたよ」

 「たこ焼き、それにします!」

 思わず即答すると、先輩が小さく噴き出した。

 「即決だね。じゃ、たこ焼き行こうか」

 その声が少し嬉しそうで、つられるみたいに胸の奥があたたかくなる。

 屋台の前はまだ人も少なく、俺たちはすぐに注文することができた。

 「はい、お待たせしました。たこ焼き2つです。熱いので気をつけてくださいね」

 「ありがとうございます」

 受け取ったパックから、ふわっと湯気が立ちのぼる。

 2人で近くの空き教室へ移動すると、斗葵先輩は椅子の向きをくるっと変えて、机を挟んで向かい合う形で座った。

 「すげー、あつそう」

 「出来たてですもんね」

先輩はたこ焼きをひとつ爪楊枝で刺し、ふうっと息を吹きかけてから口に運ぶ──が。

 「……っ、あつ!」

 肩がびくっと跳ね、先輩は思わず顔をしかめた。

 「だ、大丈夫ですか!? これ、どうぞ!」

 慌てて、さっき買った冷たいペットボトルを差し出す。

 斗葵先輩はそれを受け取ると、キャップをひねり、そのまま一気に口へ運んだ。
 飲み終え、小さく息を吐く。

 「ありがとう。助かった」

 「いえ……」

 「結斗くん、ほんと気が利くよな」

 胸の奥がじわっと熱くなる。
 視線を落としたのは、無意識だった。

 その様子に気づいたのか、斗葵先輩がふっと表情を緩める。

 「照れてるのかわいい」

 「か、かわいくないです……!」

 小さく反論すると、先輩は目を細めて、穏やかに言う。

 「かわいいよ。俺、そういうとこ、好きだよ」

 「す、好きって! もう揶揄しないでください!」

 声が少し上ずってしまって、
 自分でも分かるくらい、頬が熱くなっていった。

 ――なんだか、今日の斗葵先輩は甘い。

 どうしてこんなに、心臓が落ち着かなくなることばかり言うんだろう。
 自分だけが振り回されている気がして、悔しくなって、俺は思わず口を開いた。

 「あの! 先輩がかわいいって言うなら、俺も言いますけど」

 「ん?」

 「斗葵先輩の方が、かわいいですよ」

 「……は?」

 予想外だったのか、斗葵先輩は一瞬きょとんとする。

 「だって先輩、びっくりするとき、ちょっと子どもっぽくなるし。すぐ笑うし……そういうところ、かわいいと思ってます」

 「えっ?」

 斗葵先輩は驚いて口を開けている。

 「でも、かわいいだけじゃなくて。周りをちゃんと見て、気遣って、努力してるところ……全部、かっこいいです」

 「っ、結斗くん?」

 言葉にするたび、胸の奥が熱くなる。

 「今日も、先輩がかっこ良すぎて。いろんな人に見られてて……正直、ちょっと嫉妬しました」

 「っ……!」

 「しかも、何回ナンパされてるんですか?“連絡先交換しませんか” とか、“一緒に回りません?” とか」

 ——そう。
 この文化祭は校舎をまたいで自由に回れるから、
 斗葵先輩は学年を問わず、声をかけられていた。
 そのたびにきっぱり断ってくれてはいたけれど……改めて、そのモテ具合を目の当たりにしてしまった。

 「ほんと、斗葵先輩モテすぎです」

 「いや、結斗くんも声かけられてたでしょ?」

 「俺はついでみたいなものです」

 「そんなことないと思うけど……」

 少し間を置いて、先輩が言う。

 「でも、嫉妬してくれたんだ」

 「はい!」

 斗葵先輩は、息がこぼれるみたいに小さく笑った。

 「そっか。それは嬉しいな。結斗くん、俺のこと好きだね」

 「好きですよ!」

 ——言った瞬間、はっとした。
 止めようとするより先に、言葉が口をついて出てしまっていた。

 しまった、と思って恐る恐る顔を上げると。

 斗葵先輩は目を丸くしたまま固まり、次の瞬間、耳まで真っ赤にして視線を落とした。

 「……っ、反撃……強すぎ……」

 斗葵先輩が、今まで見たことがないくらい照れている。
 その様子につられて、俺まで一気に恥ずかしくなって、何も言えなくなってしまった。

 俯いたまま、ぎゅっと手を握りしめていると、ふいに名前を呼ばれる。

 「結斗くん」

 恐る恐る顔を上げると、
 斗葵先輩は、さっきまでの照れを少しだけ残したまま、柔らかく笑っていた。

 「俺も、結斗くんのことが好きだよ」

 「っ……!」

 分かってる。
 分かってるつもりなのに――
 言い方が、まるで告白みたいで、顔に一気に熱が集まる。

 きっとこれは、先輩として、友達としての「好き」だ。
 そう思おうとしても、斗葵先輩の気持ちをちゃんと言葉にしてもらえたことが嬉しすぎて、胸の奥がいっぱいになる。

 「……ありがとうございます」

 絞り出すみたいにそう言うと、斗葵先輩は、少し照れたように目を細めた。
 嬉しくてにやけそうになる顔を誤魔化すように、俺はたこ焼きをぱくっと口に放り込んだ。

 「ほんと、かわいいなー」

 その一言に思わずじろっと睨むと、斗葵先輩は楽しそうに笑う。

 「上目遣いになってて、余計かわいい」

 「……ありがとうございます」

 ——これは、否定すればするほど「“かわいい”が返ってくるやつだ。
 そう悟った俺は、もう受け入れるしかなかった。

 そのあとは他愛ない話をしながら、二人でたこ焼きを食べ終える。
 ゴミを捨てて、次はどこへ行くのか聞こうと振り返った、そのとき。

 斗葵先輩が、じっと俺を見ていた。

 「結斗」

 ——初めて呼び捨てにされて、胸が跳ねた。

 「っ……どうしたんですか?」

 問いかけると、斗葵先輩はさっきまでの軽い雰囲気とは違う、まっすぐな目で俺を見つめていた。

 「俺、結斗のことが好きだよ」

 あまりにも真剣な声に、思考が一瞬止まる。
 本当に告白されているみたいで、どう反応すればいいのか分からなかった。

 「好きっていうのは、恋愛感情のほうだから」

 恋愛……?

 「本当ですか?」

 斗葵先輩が、俺を?
 信じられなくて目を見開くと、先輩は少し照れたように、でもはっきりと言った。

 「本当だよ」

 胸の奥がぎゅっと締めつけられて、気づいたら言葉がこぼれていた。

 「俺も、斗葵先輩のことが好きです」

 一瞬、間が空く。

 それから、斗葵先輩は少し息を整えるようにして、優しく笑った。

 「結斗くん、俺の恋人になってくれませんか?」

 「なりたいです!」

 答えた瞬間、ぐっと腕を引かれて、斗葵先輩に抱きしめられた。

 「ありがとう。嬉しすぎて、心臓がやばい」

 少し掠れた声。
 その声色だけで、斗葵先輩の気持ちがまっすぐ伝わってくる。

 抱きしめられたまま、しばらく言葉が出なかった。
 すぐ耳元で響く心音と、さっきまでとはまるで違う距離感に、胸の奥がじわじわと熱くなっていく。

 ——ああ、これ、夢じゃない。

 「……最後の文化祭だからさ。やっぱり恋人として、結斗くんと回ってみたかったんだ。だから、すごく嬉しい」

 その言葉が胸にしみて、じんわりと温かくなる。

 「……俺も嬉しいです。恋人として一緒に回れることになって」

 そう答えると、斗葵先輩はほっとしたように腕の力をゆるめ、ゆっくりと俺を離した。

 「一緒に回れるだけで満足してたはずなのにさ……結斗くんが他の人から声かけられてるの見て、急に焦って」

 少し照れたように視線を逸らしながら、続ける。

 「ただ一緒にいるだけじゃやっぱ足りなかった。ちゃんと“特別な相手”として、隣にいたくなったんだ」

 距離は少し離れたのに、表情は近いままで——斗葵先輩は、どこか照れくさそうに笑っていた。

 「じゃあ……行こっか。後半、全部一緒に見て回ろう」

 「はい」

 並んで歩き出す。
 手は繋がないまま、それでも肩が触れそうなくらいの距離で、2人で校舎へと戻っていった。

 文化祭のざわめきが耳に届くのに、さっきまでとは少し違って聞こえた。
 人混みも、屋台の匂いも、遠くの笑い声も……全部がさっきより鮮やかに感じる。

 恋人として過ごす、最後の文化祭の後半。
 その始まりに、胸がそっと高鳴った。

 校内を歩いていると、斗葵先輩がふと思い出したように言った。

 「結斗のクラス、フォトスポットやってるんだよね?」

 「はい。教室の中にスマホを置く台があって、自分たちで撮影する感じです」

 「そっか。なら、一緒に写真撮ろ」

 「はい!」

 恋人としての最初の写真を、自分たちのクラスで撮れる。
 そのことだけで胸がじんわり温かくなる。

 教室に入ると、何組かの客がそれぞれ撮影に夢中になっていて、周りの視線も気にならない。
 俺たちは、いちばん空いているセットで撮ることにした。

 「10秒でいくか」

 斗葵先輩が台にスマホをセットし、タイマーを合わせる。

 「もう少し寄ってくれる?」

 「……はい」

 タイマーがカウントを始めた瞬間、斗葵先輩の手がそっと俺の肩に添えられた。
 その仕草に胸が強く跳ねる。

 ——パシャッ。

 シャッター音が小さく教室に響く。
 画面には、さっきよりも距離の近い“恋人のふたり”が映っていて、見た瞬間、また心臓が熱くなる。

 「お!いいじゃん」

 斗葵先輩がさっき撮った写真に満足そうに微笑む。
 胸が温かくなりながら、ふと隣のセットが目に留まった。

 「……あのセットでも撮りたいです」

 「うん、行こ」

 そこには犬のカチューシャが置かれていて、結斗のクラスで用意したものだ。
 だから、どこに何が置かれているかも全部把握している。

 セットの前に立つと、俺は犬のカチューシャをそっと手に取り、斗葵先輩へ差し出す。

 「先輩、これつけてくれませんか?」

 斗葵先輩は一瞬だけ目を見開いた。

 「……俺が?」

 「はい!お願いします」

 その真っ直ぐな頼みに、斗葵先輩は照れたように笑い、少し目を細める。

 「……結斗もつけるなら、いいよ」

 「俺も……つけます」

 ふたりで犬のカチューシャをつけて並ぶ。
 斗葵先輩がスマホを台にセットし、タイマーを合わせる。

 「結斗、こっち」

 そっと手を取られ、自然に指が絡む。
 ——恋人繋ぎ。
 触れた瞬間、胸が一気に熱くなる。

 「……これで1枚撮りたい。いい?」

 囁く声が近すぎて、心臓が跳ねる。
 結斗は言葉にならず、静かにうなずいた。

 ——パシャッ。

 小さなシャッター音が教室に響く。

 画面には、犬のカチューシャをつけて、恋人繋ぎで寄り添う“ふたり”が映っていた。
 見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 「本当に恋人になれたんだな……嬉しいな」

 「俺も嬉しいです」

 斗葵先輩はその写真を、しばらく名残惜しそうに見つめていた。
 そんな流れで、ふたりは他のフォトスポットもいくつか巡った。
 気づけばスマホのアルバムには“恋人になった今日”が少しずつ積み上がっていた。

 フォトスポットを出たあとも、ふたりで校内をゆっくり歩きながら文化祭を回った。
 食べ物の屋台を覗いて、迷路の前で笑って、ステージの音に足を止めて——さっきまでとは違う距離感のまま、でも自然に並んで歩けている。

 文化祭の終わりが近づく頃、校舎の外に出た風が少し冷たく感じた。

 「結斗くん」

 斗葵先輩が横で立ち止まる。

 「今日、一緒に回れてよかった。ありがとう」

 「ありがとうございます。斗葵先輩と一緒に回れて本当に嬉しかったです」

 言葉にすると胸の奥が温かくなる。

 「今日の帰り、一緒に帰らない?」

 その誘い方は落ち着いているのに、どこか照れを隠しきれていない。

 「はい。帰りも、一緒がいいです」

 斗葵先輩は小さく笑って、結斗の頭をそっと撫でた。

 「じゃあ、決まり。終わったら迎えにくるね」

 その約束だけで、胸の中にじんわりとした幸福が広がった。

 文化祭が完全に終わり、後片づけも一段落したころ。
 俺は一人で、斗葵先輩を待っていた。

 人の気配が少なくなった廊下に、足音が近づいてくる。

 「結斗くん」

 その声に振り向くと、斗葵先輩が立っていた。

 少し照れたようで、それでも隠しきれないくらい嬉しそうな笑顔。

 「お疲れさま。帰ろっか」

 「はい、帰りましょう」

 教室を出て並んで歩くと、校舎の外はすっかり夕方の色に染まっていた。
 文化祭の喧騒が嘘みたいに静かで、さっきまでよりも周りの目がなくて、ふたりだけの空気になる。

 「今日、楽しかったな」

 斗葵先輩がぽつりと言う。

 「はい、すごく楽しかったです」

 「写真もいっぱい撮れたのも嬉しかったな」

 校門を出て、少し歩いたところで。
 人通りが減ってきたのを確かめるように、斗葵先輩が自然と歩幅を緩めた。

 周囲をちらりと見てから、俺の方へ視線を戻す。

 「結斗くん」

 「はい?」

 「手、繋いでもいい?」

 「はい、いいですよ」

 答えると、斗葵先輩はほっとしたように微笑んで、俺の差し出した手をそっと取った。

 指が絡む。
 自然と、恋人繋ぎになる。
  
 ぎゅ、と少しだけ強く握られて。

 「……嬉しいな」

 漏れた声があまりにも素直で俺は思わず、つられるように笑ってしまった。

 「俺もです」

 きっと、人目が少なくなるのを待ってくれてたんだ。
 俺が恥ずかしがるって、わかってて。

 夕焼けの帰り道。
 並んだふたりの影が、静かに、同じ方向へ伸びていった。

 “恋人として歩く初めての帰り道”。
 その時間をかみしめるように、指先は離れなかった。
 手を繋いだまま歩く帰り道は、普段よりゆっくりで、どこか名残惜しい空気が漂っていた。

 「もう少しで結斗の家だよな」

 「はい」

 「まだ話していたいけど、寒いからな」

 門の前で立ち止まると、斗葵先輩は結斗の方へ身体を向けた。

 「今日はほんとにありがとな。文化祭、結斗と一緒に回れてほんとよかった」

 「俺もです。すごく楽しかったです」

 斗葵先輩は照れたように笑い、結斗の手をゆっくり離した。
 指先だけが最後まで名残惜しく触れていて、離れた瞬間、胸がきゅっとなる。

 「帰ったら連絡するな」

 「はい、待ってます」

 「じゃあ、またね」

 「はい、また」

 斗葵先輩は軽く手を振って、自転車にまたがり、背を向けた。
 その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、俺はその場を動けなかった。

 部屋に戻っても、落ち着かなくて。
 静かな時間だけが、ゆっくり流れていく。

 ——まだかな。

 そう思い始めた頃、静まり返った部屋で、ようやくスマホが震えた。

 『今、家着いた。今日はありがとう。結斗と恋人になれたこと、何回思い出してもやばい。撮った写真、全部大切にする』

 文字だけなのに、斗葵先輩の声が聞こえそうなくらい温かくて、胸の奥がまた熱くなる。

 『俺も嬉しいです!また、写真一緒に撮りたいです』

 送信ボタンを押した後、顔が勝手に熱くなった。

 『またいっぱい撮ろ』

 『はい!』

 短いやり取りなのに、恋人になったことをゆっくり実感していく。
 その夜はなかなか寝つけなかった。