遠い背中に恋をした

 あの日の大会から、少しだけ時間が経っていた。
 斗葵先輩とは、以前よりずっと頻繁にメッセージを交換するようになった。

 学校では携帯を触れないから、返信できるのは外に出てからだ。
 ほんの数行の挨拶や、くだらないスタンプの送り合い。
 それだけの会話なのに、通知の音が鳴るたび、胸のどこかがくすぐったく跳ねる。

 3年生の斗葵先輩は旧校舎、1年生の俺は本校舎。
 普段はすれ違うことさえほとんどない。
 それでも、部活のない朝だけは、たまに廊下で鉢合わせることがある。

 眠たそうな目をこすりながら陸上ノートを届けに来る先輩に、「おはようございます」と声をかけると、「おはよう」と、あの柔らかい笑顔が返ってくる。

 ほんの数秒の会話。
 それだけで、1日の色が少しだけ変わる気がした。

 1度、学食で偶然隣に座ってからは、ときどきメッセージで昼を誘ってくれるようになった。

 今日も朝、家を出る前にスマホを見ると、先輩からの通知が静かに光っていた。

 『明日、学食行くけど来れる?』

 その1行だけで、眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。
 返事を打ちながら、自然と頬がゆるんでしまうのはもう仕方ない。

 次の日。
 学食に向かうと、先に来ていた先輩が俺に気づいて、軽く手を上げた。
 その仕草が、自分に向けられたものだと思うだけで、少しだけ落ち着かなくなった。

 席を確保して、それぞれメニューを見に行く。

 麺に丼、定食。
 少し迷ったけど、今日は定食にする。
 A定食とB定食の札を見て、俺は迷わずA定食を選んだ。
 トレーを受け取り席に戻るともう斗葵先輩が座っていた。

 先輩は俺のトレーを覗き込み、目を細めた。

 「やっぱりA定食頼むと思った」

 「え?」

 「A定食、唐揚げが2つあるからな。結斗くん、唐揚げある方を選ぶじゃん」

 「……そんなに、いつも食べてます?」

 「食ってるよ。メニューに唐揚げがあると目が輝いてるし」

 ちょっと恥ずかしい。
 でも否定はできない。
 俺は本当に、唐揚げが好きだから。

 すると先輩は、ぷっと小さく笑って、自分のランチを少し寄せてきた。
 その端に、唐揚げがひとつ、そっと置かれていた。

 「ほら。俺の唐揚げも食べな」

 「い、いいですよ、そんな……」

 「さすがにいらない?」

 「欲しい、ですけど」

 「なら、食べて。結斗くんが食べてるの見たい」

 心臓が、一瞬、止まったみたいになった。

 “みたい”って。
 俺が食べるところを、わざわざ。

 先輩は続ける。

 「結斗くんが美味しそうに食べてると、見てて嬉しくなる」

 そんなこと言われたら、もう勝てない。
 唐揚げをひと口食べると、先輩は嬉しそうな顔で俺の表情を見てきた。

 「ほらな。うまそう」

 その目が、あまりにも優しくて。
 喉の奥がひとつ、静かに鳴った。

 特別な話はしていない。
 ただ一緒に、ご飯を食べているだけだ。

 それでも、この時間がどうしようもなく好きだった。

 「そういえば結斗くん、体育祭の種目決めた?」

 「え、ああ……まだ迷ってます。先輩は……高跳びですか?」

 「いや、陸上部は専門種目に出ちゃダメなんだ。リレーなら短距離も出ていいけどね。だから!俺はHJ以外の種目じゃないとダメ」

 「HJ?」

 「走高跳は英語で high jump だから、HJって言うんだ」

 「へぇ……そうなんですね」

 「うん。俺は100を希望しようかな。最後の体育祭だし、何か出たい」

 先輩がそう言って笑った瞬間、
 胸の奥がじんわりとざわついた。

 「そう……ですよね。先輩、最後の体育祭なんですよね」

 「そうだよ。ほんと早いよな。卒業まで……もう半年くらいか」

 あと半年で、先輩はいなくなる。
 その事実が、静かに胸の中へ沈んでいく。
 理由も分からないまま、呼吸が少しだけ詰まる。

 「結斗くんも100出ようよ。ほら、一緒に」

 斗葵先輩が真っ直ぐ俺を見る。

 ……最後だし、先輩と同じ競技に出てみたい。

 そんな気持ちが胸の奥でふっと灯る。

 「……俺も、100mを希望してみます」

 「本当に?」

 目を丸くした斗葵先輩の顔は、どこか嬉しそうだった。

 「はい」

 「頑張ろうな!」

 「はい。でも、まずは選手に選ばれるように頑張らないとです」

 「それは大丈夫だろ。結斗くん、足速いんだろ?光希と春利の次に速いって聞いたぞ」

 「体力テストだとそうでした」

 「なら大丈夫だな。光希は100に出たそうだったけど、どの種目も2人ずつ出るから……結斗くんなら選ばれるよ」

 先輩はそう言って笑い、そっと拳を差し出してきた。

 「頑張ろうな」

 「はい!」

 こつん、と拳を合わせると、自然とふたりして笑った。

 それから数日後のことだ。
 クラスで体育祭の種目を決める時間がきた。

 本当に体力テストの結果が反映されるのか半信半疑のまま、100mに立候補した。
 すると、無事に光希と一緒に選手に選ばれた。
 リレー選手にも推薦されてしまったのは予想外だけど。

 その日の帰り、連絡すると斗葵先輩も100mとリレーに出ると教えてくれた。

 『一緒の種目だな』

 メッセージ越しなのに、画面の向こうで先輩が嬉しそうに笑っているのが分かる気がして、胸の奥がじんわり温かくなった。

 体育祭までの間は、クラウチングスタートとバトン練習に励む日々が続いた。
 学年ごとに練習が分かれていたため、先輩の姿を見ることはできなかった。

 でも前日の予行練習だけは違った。

 全学年の選手が集められ、当日の流れの確認や、陸上部が補助員として行う仕事の説明が行われた。

 100m走の選手は、それぞれ組とレーンを確認していく。
 1年生が1・2組。
 2年生が3・4組。
 3年生が5・6組。
 それぞれがクラスに対応するレーンにつくことになっている。
 1組目がクラス代表の1人目、2組目が2人目として走るらしい。

 俺は 1組目・5レーン、光希は 2組目・5レーン。
 斗葵先輩は 6組・5レーン を走ることになっていた。

 組ごとに軽くジョグをして、
 補助員たちはストップウォッチでタイムを測る練習をする。

 俺は走り終わると誘導された場所に座り込み、次の組が走ってくるのを静かに待った。

 最後の組のコールがかかり、斗葵先輩が軽いジョグでこちらへ走ってくる。
 ジョグなのに――やっぱり、先輩はひとりだけ飛び抜けて見えた。

 ゴールのあと、先輩がこちらを向いた。
 目が合うとふっと笑って、小さくうなずく。

 “明日、頑張ろうな”言葉にしていないはずなのに、先輩の表情がそう言っているようで、俺も“頑張ります”と返すように静かにうなずいた。

 ――そして、体育祭当日。
 開会式が終わると、すぐに100m走の招集が始まるため、光希と一緒に集合場所へ向かった。

 「すげー、賑わってんな」

 「そうだね」

 朝の校庭は、いつもとはまったく違う空気をまとっていた。
 テントの下にはクラスごとにブルーシートが敷かれ、同じ色の鉢巻をつけた生徒たちが、落ち着かなくざわめいている。

 その光景だけで、胸の奥が少しだけ高鳴った。

 「100m走る選手はこちらに来てくださーい!」

 招集している教師の声に誘われるように、選手たちが周囲から集まっていく。
 俺と光希も輪の方へ向かうと――すでに斗葵先輩の姿があった。

 同じ5組なので、俺と斗葵先輩は同じ緑の鉢巻をつけている。
 それだけなのになんだか特別な印みたいに感じてしまう。

 「おはよう」

 斗葵先輩が気づいて、軽く手を上げた。

 「おはようございます」

 光希と一緒に挨拶をすると、「今日は頑張ろうな」斗葵先輩は柔らかく笑いかけてきた。

 「はい!」

 思わず少し声が弾んでしまう。
 さっきまで普通だった心臓の鼓動が、急に速くなるのが分かった。

 そのまま選手が整列しはじめ、スタート地点へ移動するように案内がかかる。

 「じゃ、まずは予選突破を目指そ」

 去り際、斗葵先輩がほんの一瞬だけ俺の肩を軽く叩いていった。
 その指先の重みだけで、胸の奥に、細かい火花が散るみたいに熱くなる。

 (斗葵先輩に触られた……やばいっ)

 思わずそこをなぞるように手を動かしていると、光希に「行くぞー」と肩を引かれた。

 100の選手が揃うとすぐに競技を開始するアナウンスが響いた。
 その後すぐに1組目がコールされる。
 俺の組だ。

 「頑張れ」

 「うん」

 光希の声援にうなずきながら、少し緊張して、つい斗葵先輩の方へ視線を向けた。
 先輩は拳を軽く握りしめて、“頑張れ”と口にしてくれる。
 俺もそれに合わせて、“頑張ります”と返した。

 それだけで、不思議と力が入った。

 スタートラインに立つと、深呼吸を一つした。
 試合で見た春利のスタートを思い出しながら、見よう見まねで姿勢をとる。

 スターターの声が響いた。

 「位置について──」

 足を置く。
 手を地面に添える。
 心臓の音が、すぐ耳の近くで鳴っているみたいだった。

 「よーい……」

 肩が手の真上に来るまで、体を前に倒す。

 パンッ!

 合図と同時に体が前へ飛び出す。
 前へ、ただ前へ。
 腕を強く振って、最後の一歩で体を倒す。

 ゴールの線を踏んだ瞬間、足の力が抜ける。
 体中が熱くて、一気に疲労が押し寄せてきた。
 苦しいのに、不思議と心地よかった。

 誘導されて待機場所に歩くと、“2位”と書かれた札の前に座る。
 ほんの少し悔しいけど、3位以内にゴールできたのは嬉しかった。

 次に光希の組が走り出す。
 優勝は案の定、光希だった。
 余裕の1位でゴール。
 光希が隣の列に座ると、2人でハイタッチを交わす。

 右斜め後ろに座った光希が、俺の肩を軽く叩いて言った。

 「やったな、結斗。タイムで決勝いけるかもよ」

 その言葉に、少し笑った。

 拾われたらいいな――
 そう思いながら、次に走ってくる人たちを見ていた。

 「次、斗葵先輩だ」

 スタートに立つ斗葵先輩。
 最後の組のコールがかかると、校庭中が一気に沸いた。
 試合のときと違って、先生のスタートの掛け声が響いても周囲のざわめきは消えなかった。
 少しざわめきの残る中、先輩は勢いよく飛び出した。

 「斗葵先輩、頑張れー!」

 ――あの頃とは違う。
 中学のときみたいに隠れてじゃなくて、今は名前を呼んで堂々と応援できる。
 同じチームだからこそ、胸を張って声を届けられる。
 その事実が、なんだか胸を熱くした。

 俺は先輩がゴールするまで、声が涸れるほど叫んでいた。

 ――1位。

 ゴールテープを体から外して補助員に渡した先輩は、笑顔のまま列の最後尾に並ぶ。

 それから間もなく、補助員が決勝に進むメンバーを発表した。
 各組の1着と、タイムの上位2人を加えた8人で決勝が行われるという。

 「タイムで拾われたのは……1年5組、清水と──」

 一瞬、耳を疑った。
 隣で光希が「ほら言ったじゃん!」と笑って、背中を叩いた。

 決勝メンバーの発表が終わると、そのまま解散となった。

 立ち上がって振り返ると、そこに斗葵先輩の姿があった。
 先輩は小さく拍手をして、嬉しそうに笑っている。

 「おめでとう。俺らが一番決勝に残ったな」

 いわれてみると、確かに決勝メンバーの中で緑の鉢巻が1番多かった。
 他のチームは多くても2つ。

 「みんなで走れるんですね」

 光希が嬉しそうに笑う。

 「ああ。決勝は1組だけだから、全員同じだな」

 斗葵先輩も口元を緩めてうなずく。

 そのあと、光希が胸を張って言った。

 「俺、負けませんから」

 光希のまっすぐな言葉に、先輩が少しだけ目を細める。
 それから、ゆっくりと笑って――

 「いや、俺が勝つよ」

 静かに返す声に、周りの空気が一瞬だけ引き締まった気がした。
 そんな二人のやり取りを見ながら、俺は自然と笑みがこぼれる。

 「もちろん、結斗くんにも負けないよ」

 俺が斗葵先輩たちに勝てるわけがないのに、名前を並べてそう言われると、胸の奥がじんわり熱くなった。

 「俺は……少しでも、いい順位を取れるように頑張ります」

 言葉にしてみると、自然と背筋が伸びた。
 同じ場所で走れることが、俺はただ嬉しかった。

 決勝が始まる少し前、再び招集の声がかかる。
 太陽はもう頭の真上にあって、足元からじりじりと熱が伝わってくる。
 呼吸を整えながら、俺たちは整列していく。

 「結斗、緊張してる?」

 光希が笑いながら小声で聞く。
 その顔には、さっきまでと同じ余裕の笑みが浮かんでいた。

 「してるよ」

 「だよな。でも、なんか嬉しいな。久しぶりに結斗と勝負できるなんて楽しみだ」

 「そうだね。楽しみかも。光希と走るの、すごい久しぶりだし」

 小さい頃はよくかけっこして勝負していた。
 でもそれは光希が陸上部に入ってから、もうしなくなった。

 ――だって、勝てる気がしなかったから。

 だからだろうか。
 この空気の中に自分も立っていることが、本当に嬉しかった。

 レーンに並ぶと、隣には光希、3つ隣には斗葵先輩がいた。
 スタート練習を終えて位置に戻るとき、斗葵先輩と視線が合う。

 「頑張ろうな」

 短い言葉なのに、胸の奥にまっすぐ届いた。
 俺は深くうなずく。

 スタートラインに立つ。
 少し遠くに揺れるゴールテープが、やけに眩しく見えた。

 「位置について──」

 スターターの声が響く。
 地面に手を添え、足の位置を確かめる。
 心臓の音が、耳の内側で鳴っているみたいだった。

 「よーい……」

 一瞬、世界が止まったように静まり返る。

 パンッ!

 号砲と同時に、体が前へ弾けた。
 風を切る音、足音、歓声。
 全部が混ざり合っているのに、聞こえるのは自分の呼吸だけ。

 少しでも、いい順位を。
 前を走る彼らを必死に追いかけて、最後の力で前へ倒れ込む。

 ゴールテープを抜けた瞬間、全身の力が抜けた。
 息が切れて、足が震える。
 こんなに全力で走ったのは、久しぶりだった。
 しんどいのに、なぜか心地よかった。

 顔を上げると、汗を拭いながら光希がこちらを見ていた。

 「やっぱ、速いな……」

 息を切らしながら笑うと、光希も同じように笑って返す。

 「結斗もな」

 肩で息をしながら、2人で笑い合う。

 「お疲れ様」

 体を起こすと、斗葵先輩が目の前に立っていた。
 汗を拭いながら、それでもどこか誇らしそうな笑みを浮かべている。

 「光希に負けたな。それにしても、結斗くん、速かったな」

 「ありがとうございます」

 頑張りを認められた、その言葉が何よりも嬉しかった。

 結果発表のアナウンスが流れる。

 光希は2位。
 斗葵先輩は3位。
 そして俺の名前は5位で呼ばれた。

 優勝したのは、光希の幅跳びの先輩だったらしい。

 2人は少し悔しそうにしていたけれど、俺の胸の中には、不思議なほど穏やかな温かさがあった。
 だって、光希と勝負できて、そして初めて斗葵先輩と同じ舞台に立てたのだから。
 ここにいられたことが、ただ誇らしかった。

 決勝が終わってから、俺たちはそれぞれクラスに戻った。
 校庭の熱気はまだ冷めず、あちこちで歓声が上がっている。

 「結斗おかえり! すげーじゃん!」
 「5位だったって!?」

 クラスのみんなが声をかけてくれる。
 そのたびに、なんだかくすぐったくて照れくさかった。

 午後の競技が始まり、今度は応援に回る番だ。
 俺たちはクラスのテントの前に座って、次の出番を見守る。

 「次、春利の幅跳びだ!」

 放送で名前が呼ばれ、春利が助走路に立つ。
 光希が真剣な目で見守っていて、俺も自然と身を乗り出した。

 1回目の助走。
 勢いよく走り出したが踏切った瞬間、バランスを崩した。
 着地の瞬間、春利の足が砂場に“ぶすっ”と突き刺さるように沈んだ。

 「え?!」

 思わず笑いがこぼれる。
 隣で光希が「おいおい、大丈夫かよ」と言いながらも肩を震わせていた。
 いつも光希はお尻からすっと砂に座り込むような美しい着地をしていた。
 陸上部ならそれが当たり前に出来ると思ってたから、春利の着地は衝撃的だった。

 「釘みたい」

 「確かに!」

 2人して笑い合いながら、春利の2回目、3回目の跳躍を見守った。
 結果は8位とギリギリ体育祭の点数を稼いできた。

 春利は悔しそうに頭をかいて戻ってきた。

 「幅跳びむずすぎ!着地ができん!」

 「完璧に刺さってたな」

 光希が揶揄うように笑いながら言うと、春利は「難しすぎっ!」と、改めて嘆いていた。

 そのあとも競技は着々と進み、会場は盛り上がっていく。

 そして、ついに午後の最終種目――選抜リレーの時間がやってきた。
 クラスの代表として選ばれた4人が、学年ごとに競う種目だ。

 トラックの上には、学年別に分かれた選手たちが並んでいる。
 俺は2走で、3走は春利、アンカーが光希だった。

 俺は不安だった。
 ちゃんと受け取れるか。
 ちゃんと渡せるか。
 失敗したらどうしよう、という考えが頭から離れない。

 それでも、スタートの合図は待ってくれない。
 前の走者が、もうこっちへ向かってきている。

 俺は軽く走り出し、肩越しに、後ろから迫ってくる走者の方を見る。

 腕を伸ばす。
 視線は、バトンだけを追った。
 触れた瞬間、反射的にそれを握りしめる。
 その瞬間、視線を前に戻した。

 前へ。
 ただ前へ。

 地面を蹴って走り出す。
 頭にあるのは、“次に渡す”ことだけを考えて。

 カーブを抜け、次の走者が見えてくる。
 伸ばされた手のひらに、バトンを置くように――腕を前へ出した。

 次の瞬間、足元がもつれた。
 前へ行こうとした体だけが先に出て、足が追いつかず、空を切る。

 「――っ!」

 視界が一気に傾いて、次の瞬間、地面に叩きつけられた。

 手のひらに、ざらっとした感触。
 膝にも、遅れて鈍い痛みが走る。

 俺は慌てて顔を上げる。
 前方で次の走者である春利がバトンを握りしめ、走っていた。

 「……よかった」

 バトンは渡っていた。

 それに気づいた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが、ふっとほどけた。

 遅れて体を起こすと、トラックの向こうから、光希の姿が見える。

 バトンを受け取った瞬間、一気に加速していく。

 「光希!」

 声を張り上げて、応援する。
 俺は膝の痛みも忘れて、その背中をただ必死に追い続けていた。

 そして、緑の鉢巻がテープを切る瞬間、俺たち1年は歓声に包まれた。

 「1年生リレー、優勝は緑チームです!」

 アナウンスの声に、クラスの仲間たちが飛び跳ねて喜ぶ。
 俺はまだ息が整わないまま、光希のもとに向かった。

 「結斗、ナイスラン!最後、転んでたけど」

 「……うるさいな。久しぶりに走ったからだよ」

 「まあな。足は……痛そうだな。足洗って手当してもらお」

 光希に連れられて水道で膝を洗い、そのまま臨時の保健室になっているテントで手当をしてもらった。
 2年生は移動している間に走り終わったようだ。
 グラウンドには3年生が立っていて、ちょうどスタートしたところだった。
 

 斗葵先輩は2走。
 バトンを受け取ると、一気にスピードを上げ、前の走者を1人抜き去った。

 「凄っ……」

 思わず声が漏れる。
 そのまま勢いを保ち、次の走者へバトンを渡す。
 斗葵先輩のクラスは、そのまま2位でゴールした。

 クラスの人と抱き合う姿を遠目に見て、胸の奥が理由もなくきゅっとした。
 そして、緑の鉢巻をした女性が、斗葵先輩の腕を軽く叩いて声をかけるのが見えた。
 何でもないやり取りのはずなのに、胸の奥が一瞬ざわつく。

 ……やっぱり、斗葵先輩って人気なんだな。

 しばらくして、競技場に流れていた熱気も落ち着き、最後のプログラム――閉会式を迎えた。

 次々と結果が発表され、校庭には拍手とざわめきが広がっていく。
 そして最後に残ったのは――総合順位だった。

 「総合優勝は、緑チーム」

 一瞬の静寂のあと、校庭のあちこちで歓声が弾ける。
 クラスの仲間たちがガッツポーズを決め、叫び声が重なった。
 その勢いのまま、光希が俺の肩に腕をかけてくる。

 「結斗! 優勝だ」

 「うん、やった!」

 強い日差しの中で、嬉しさが胸の奥まで、じんと染み渡っていった。

 閉会式が終わると、各クラスごとに後片付けが始まった。
 テントを畳み、道具を運びながらも、クラスの空気はどこか浮き足立っていて、誰もが笑顔を浮かべている。
 片付けが終わると、教室に戻って、そのまま解散になった。

 光希と桜翔と一緒に玄関で靴を履き、外に出ると――

 「……あれ?」

 昇降口の前に、斗葵先輩が立っていた。

 春利と光希が「斗葵先輩?!」と大げさに声を上げる。
 斗葵先輩は少しだけ困ったように笑ってから、俺の方を見た。

 「結斗くん、転んでたでしょ。大丈夫?」

 「あ、はい……平気です」

 「本当に?」

 斗葵先輩が光希のほうを見ると、光希はなぜか背筋を伸ばして敬礼した。

 「いえ、血が出てとても痛そうでした。これは斗葵先輩が送っていくべきであると思います」

 「何、その変な口調」

 春利が突っ込みを入れる。
 光希のふざけた報告に、俺と斗葵先輩は思わず苦笑した。

 「カゴに荷物入れなよ。家まで送ってあげる」

 斗葵先輩は俺の方を見て、自転車のカゴを軽く叩く。

 「……いいんですか?」

 「うん」

 俺は斗葵先輩とカゴを交互に見て、そっとカバンを下ろした。

 わざわざ待っていてくれたのだ。
 ここで遠慮するのは、きっと違う。
 それに斗葵先輩と一緒に帰れるのは、嬉しかった。

 「お願いします」

 「ああ」

 斗葵先輩は優しくうなずくと、光希と春利に「じゃーな」と挨拶して足を進めた。

 「またね」

 2人に挨拶をすると斗葵先輩の横に立つ。

 「あの、ありがとうございます」

 「いや、俺こそ勝手に待っててごめんね」

 「いえ、うれしかったです」

 「なら良かった」

 校門を出ると、風が少し冷たくなっていた。
 昼間あんなに照りつけていた太陽も、今は西の空に傾いている。

 「転んだとき、結構焦ったよ」

 ハンドルを握りながら、斗葵先輩が言う。

 「見られてたんですね」

 「うん。久しぶりに走ったんだよね?だから足に来ちゃったんだろうな」

 「だと思います。まだ足がガクガクですもん」

 そう言いながら、少し笑う。

 「でも、ちゃんと走り切れたのでよかったです」

 「結斗くん、帰宅部とは思えないくらい速かったな。すごいかっこよかったよ」

 「ほんとですか?」

 「ほんと」

 その言葉に、胸の奥が熱くなる。
 顔も、少し熱い。

 ――斗葵先輩に、褒められた。

 「斗葵先輩は走りもすごいですね。100は3位だし、リレーは1人抜いてましたよね」

 「一応、陸上部で走ってるからね。まあ、幅組に負けちゃったのは悔しかったな」

 幅は高よりも走り込む量が多いと聞いたことがある。
 だから仕方ないと思ってしまうけど、斗葵先輩はきっと違うのだろう。

 「でも、最後の体育祭、楽しかったな」

 「最後……」

 「うん。来年からは出られないからさ。今年が1番楽しかったかも」

 先輩の横顔は、夕日に染まって穏やかに笑っていた。

 「結斗くんと勝負できたのも、いい思い出だな」

 その笑顔を見ていたら、挑戦して良かったと心の底から思った。

 「俺もです」

 そう返すと、先輩は少しだけ前を見つめながら、
 小さく笑って「良かった」と呟いた。

 俺は先輩の横顔を見ながら、この時間が、もう少しだけ続けばいいのにと思った。

 その言葉が風に混ざって、ゆっくりと遠くへ流れていく。
 オレンジ色の光がアスファルトを優しく照らし、長く伸びた影が、2人の足もとで静かに重なっていく。

 やがて、家の前に着く。
 籠から荷物を受け取りながら、名残惜しさが胸の奥で静かに広がった。

 「今日はありがとうございました」

 「こっちこそ。今日はお疲れさま。明日、筋肉痛にならないようにマッサージをよくしときな」

 「すでに筋肉痛かもしれないです」

 「まじか……」

 「まじです」

 「少しでも軽くなるようにマッサージしなよ」

 「そうします」

 夕焼けの中で、その声はやけに優しく響いた。
 先輩が自転車を漕ぎ出すのを見送る。
 風が通り抜けて、少し遅れて、胸の奥にまたあの熱が戻ってきた気がした。

 きっと、今日のことは忘れないだろう。