遠い背中に恋をした

 試合当日の朝。

 少し汗を滲ませながら、最寄り駅に向かって歩く。
 早朝の空気は思ったよりも暖かくて、胸の奥がじんわり落ち着かない。

 電車の本数は少ないけれど、ホームには意外と人がいた。
 スーツ姿の人、部活道具を持った学生、おしゃれな服装の若者――それぞれが静かに電車を待っている。

 車窓から見える景色はどこまでも穏やかで、雲ひとつない青空が広がっていた。
 スマホで時間を確認すると、競技開始まではまだ余裕がある。
 それでも落ち着かなくて、少し早く家を出た。

 やがて電車が会場の最寄り駅に滑り込む。
 ホームに降りると、同じ方向へ向かう人の流れが見えた。
 といっても、その数は多くない。
 小さな集団がいくつも分かれて、静かに歩いている。
 服装や背中に掛けたバッグから、みんな選手だとすぐに分かった。

 改札を抜けた瞬間、朝の光がまぶしく差し込む。
 少し歩くと、遠くからスピーカーのアナウンスや笛の音が風に乗って届いてきた。
 どうやら、すでに競技は始まっているようだった。

 会場へ向かう人たちの列に混ざりながら、俺も自然と歩くスピードを早めた。

 競技場に着くと、想像以上の人の多さに、思わず足が止まった。
 時間を確認すると、光希の競技が始まるまで、まだ1時間弱ある。

 とりあえず走幅跳の見える場所を探そうと思い、メインスタンドへ向かう。
 踏切板の前あたりの席が見やすそうだったけれど、前列はすでに学生で埋まっている。
 助走練習をしている選手たちにアドバイスをするため、前に陣取っているみたいだった。

 「もっと早く来るべきだったな……」

 苦笑しながら空いている席を探していると――手を振る人影が目に入った。

 「あっ、春利だ」

 知り合いの顔を見つけてホッとする。
 春利もこちらに気づくと、階段を駆け下りてきた。

 「おはよう」

 「おはよ。結斗の席、取ってくれてるらしいから行こ」

 「え、そうなの?ありがと」

 そう言って付いていくと、春利は階段をさらに上へ上がっていく。
 さっき座っていた段を通り過ぎていくので、少し不思議に思いながら後を付いていった。

 春利が向かった先に、斗葵先輩の姿があった。

 「斗葵先輩」

 そこにいると思っていなかったので、思わず名前を呼んでしまった。

 斗葵先輩は軽く手を振り、柔らかく笑った。

 「おはよう。もうすぐ着くか連絡しようと思ってたんだ。無事着いてよかった」

 そう言って隣の荷物をどかし、手で席を示した。

 「ここ、どうぞ」

 「あ、ありがとうございます」

 少し緊張しながら席に座ると、先輩は小さくうなずき、春利の方へ視線を向けた。

 「春利も、あんまり日の当たるところにいすぎるなよ。近くで見たい気持ちは分かるけど、暑さにやられるからな。体がえらくなるぞ」

 「そうですね。俺もそろそろ日陰で見ようかな」

 春利が苦笑しながら答えると、斗葵先輩は「そうしな」と軽く笑った。

 春利はすぐ下の空いた席に腰を下ろした。

 「結斗くんは迷わずに来れた?」

 「はい。斗葵先輩が行き方をわかりやすく教えてくれたので、大丈夫でした。ありがとうございます」

 「それならよかった」

 斗葵先輩は視線をピットに向ける。

 「光希、調子良さそうだよ」

 「そうなんですか!」

 つい弾んだ声が出る。

 「うん。踏切位置もちょうどいいし、助走もハマってるなって思う。な?」

 「はい。気持ちよさそうに跳んでますね」

 そのやり取りを聞きながら、俺は自然とグラウンドへ視線を向ける。

 3人で話しているうちに、場内に競技開始を告げるアナウンスが響く。
 ざわめいていた空気が、少しずつ張りつめていく。

 そして、いよいよ春利の番がまわってきた。

 「1回目、行くみたいだな」

 斗葵先輩の声に、思わず息をのむ。

 軽快な足音が走路に響き、光希が踏切板をしっかり踏み切って宙に浮いた。
 砂を蹴り上げる音。粘土板ぎりぎりのクリーンな踏切に、周囲から小さな歓声が上がる。

 「いいスタートだな」

 斗葵先輩の言葉に、俺もほっと息をついた。

 2回目、3回目と跳躍を重ねるたび、光希の動きが少しずつ安定していく。
 記録が表示されるたびに、斗葵先輩と春利が短く感想を交わしていた。

 そして3回目を終えたあと、審判が選手に向かって何かを告げた。
 ピットの脇で、審判がクリップボードを手に声を上げていた。
 それを聞いた選手たちがそれぞれ動き出す。
 助走のマークを拾い上げ、スパイクを脱ぎ、ユニフォームの上からTシャツを着る者。
 逆に、まだ競技が続く選手たちはマークを残したまま、軽く足を回して次の跳躍に備えている。

 光希はマークをそのままにして、走路の端で体を動かしていた。

 「よし、残ったな!」

 春利が嬉しそうに笑い、斗葵先輩も満足そうにうなずいた。
 どうやら、予選記録の上位八名が決勝進出し、さらに3回の跳躍を行えるようだ。

 光希は五本目の記録を少し伸ばしたものの、まだ自己ベストには届かなかった。
 光希は額の汗を拭い、ゆっくりと走路の端で呼吸を整える。

 そして――6本目。
 助走を始めた瞬間、思わず背筋が伸びるほど、空気が変わった。
 スピードも、踏み切りも、今までで1番いい。

 「いいぞ、光希!」

 春利が思わず声を上げる。

 踏み切り板を強く蹴った光希の体が、きれいな放物線を描いて宙に浮いた。
 砂を巻き上げて着地した瞬間、計測員が掲げた数字に歓声が広がる。

 掲示板に記録が表示され、光希がガッツポーズをした。
 スタンドから拍手が湧き起こる。

 「やった!」

 思わず立ち上がりそうになったが、周りの迷惑になりそうで、ぐっと耐えて強く拍手を送った。

 結果、光希は3位。
 1位と2位は3年生だったので、1年生の光希が入賞できたのは、本当にすごいことだと思った。

 光希の表彰式の写真を撮るために、春利と一緒にスタンバイする。
 表彰台のすぐ前、ちょうどいい位置を取ることができた。
 斗葵先輩は席を取られないようにスタンドに残ってくれている。

 アナウンスが流れ、走幅跳の表彰式が始まった。
 光希はすぐに俺たちに気づいて、笑みを浮かべて手を振ってくれる。
 嬉しそうに賞状を受け取る姿を目の前で見られて、胸がいっぱいになった。
 シャッターを切るたびに、その瞬間を残せている気がした。

 写真もいい感じに撮れて、満足した気持ちのまま斗葵先輩の隣に戻る。

 メインスタンドに上がってきた光希は、仲間たちと笑い合いながら歩いていた。
 その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 「結斗!」

 階段を駆け上がってきた光希は満面の笑みを浮かべていた。

 「光希、おめでとう!すごかったよ。自己ベストもおめでとう」

 「ありがとう!マジで嬉しい!次は春利だな」

 光希が笑いながら春利の肩を軽く叩く。
 春利は「任せとけ」と言って、いつもの笑顔を見せた。
 そんな2人を見て、斗葵先輩も目を細めて嬉しそうに微笑む。

 その後、春利はすぐにトラックのほうへ向かった。

 「ちょっとアップしてくる!」

 そう言って、軽く手を振る。

 「いってらっしゃい!」

 光希が大きな声で返すと、春利は片手を上げて応えた。

 トラックの外周では、スパイクを鳴らしながら流しをしている選手たちが並んでいる。
 春利もその列に加わり、短い距離を繰り返し走っては、スタートの反応を確かめていた。

 「春利、さっきよりリラックスしてるな」

 斗葵先輩が小さくつぶやく。
 その声を聞きながら、俺は首をかしげた。

 「陸上って、緊張してるときはどうしても動きが固くなるんだよ。でも今の春利、いい感じに力が抜けてる。たぶん、俺の入賞がちょっと刺激になったんじゃないかな」

 光希の説明を聞いて、なるほどと思った。

 確かに――先ほどまでのどこか張り詰めた表情が、今は少し柔らかい。
 光希の頑張りを見たことで、春利の中にもいいスイッチが入ったのかもしれない。

 やがてアナウンスが響き、100メートル予選が始まる。

 スターターの声が、静まり返った競技場に響いた。
 観客席の空気が、ぴんと張り詰める。
 一瞬の静寂。
 次の瞬間――乾いた破裂音が空を裂いた。

 スタンドから歓声が上がり、選手たちが一斉に飛び出していく。
 1組目がスタートを切ると、すぐに2組目――春利のいる組がブロックを調整し、スタートの確認を始めた。
 調整を終えると、それぞれが自分のレーンに立つ。

 スターターは選手たちの準備が整ったことを確認し、合図を出す。

 「On your marks」

 春利がスタートラインに足をつけ、深く息を吐いた。

 「Set」

 その合図とともに、体がわずかに前へ傾く。

 息を飲むような静寂。

 乾いた音が、再び競技場を裂いた。
 その瞬間、春利の体が弾かれたように飛び出す。

 スタートの1歩目が確かに地を捉え、低い姿勢のまま一気に加速していった。

 「春利、いけー!」

 「春利、頑張れ!」

 光希の叫びに続くように、俺も身を乗り出して声を張り上げた。
 気づけば、無我夢中で叫んでいた。
 少しでも力になれば――そう思って、喉が痛くなるほど声を張り上げた。

 春利は、他の選手よりもわずかに1歩前へ。
 そのまま、ゴールラインを駆け抜けた。

 電光掲示板に「1」の表示とともに春利の名前が浮かび上がった瞬間、スタンドからどっと歓声が上がる。

 「やった……!」

 嬉しさが胸に広がる。
 隣を見ると、斗葵先輩も口元を緩め、うなずいていた。

 「予選突破だな。動きもいい」

 春利は電光掲示板を見上げ、大きく息を吐いた。
 その顔には、はっきりとした笑顔が浮かんでいる。

 春利の走りを見届けた斗葵先輩は、ゆっくりと立ち上がった。

 「じゃあ、俺は行くな」

 「アップですか?」

 「そう」

 「頑張ってください!」

 思わず、声が弾む。

 「うん、ありがとう」

 斗葵先輩は笑ってから、ふと俺のほうを見た。

 「結斗くん、ご飯は持ってきた?」

 「持ってきました」

 鞄を軽く叩くと、斗葵先輩は小さく笑う。

 「なら、今のうちに食べといたら? 光希も一緒に」

 「そうですね。次の種目まで、1時間くらいありますし」

 光希がうなずくと、斗葵先輩は「じゃあな」と短く言って、スタンドを降りていった。

 ご飯を食べながら、光希とこのあとのことを話す。
 光希はリュックから、タイムスケジュールがまとめられた紙を取り出した。

 「これ、うちの学校が出る競技のスケジュール。次は13時25分の女子200メートル決勝だな」

 指差されたところを覗き込む。

 「俺はチームのみんなと一緒に応援行くけど、結斗はどうする?一緒に行って隣に座るか?」

 「いや、大丈夫」

 「そうか。あ、でも――斗葵先輩の招集が13時10分からだ。招集受けたあとに助走練習するはずだから、それに合わせて行くのもいいかもしれない」

 「なら、斗葵先輩のところ見に行く」

 「うん。俺は13時45分の男子ハードルを応援したあと、マットの裏のほうに行く。跳躍は跳躍、短距離は短距離で応援が分かれるんだ」

 「じゃあ、春利の決勝は後ろから見る感じ?」

 「そうだな。100はマットの裏で応援する感じになるな」

 光希が時計を見て立ち上がった。

 「そろそろ行くわ。ハードルの応援に行ってくる」

 「うん、いってらっしゃい」

 短く言葉を交わして、光希はリュックを背負い、スタンドを降りていった。
 その背中を見送りながら、俺はしばらくその場に残った。

 太陽は真上を少し過ぎ、トラックの向こうに揺らめく陽炎が濃くなる。
 アナウンスの声と、スパイクの音、熱気に混じった歓声。
 夏の大会特有の重たい空気が、スタンドの下にも漂っていた。
 蒸し暑くて、シャツが肌に張りつく。

 やがて、周りの人たちが少しずつ移動を始める。
 視線を追うと、走高跳のピットの方へ向かう流れができていた。
 斗葵先輩の出番が近いのかもしれない。

 俺も立ち上がって、その後を追う。

 ピット近くの芝生に腰を下ろすと、ほどなくして T シャツ姿の選手たちがピットに出てきた。
 用意されたテントの中でスパイクに履き替え、支柱のほうへ向かって助走の感覚を確かめている。
 地面には、それぞれの選手が貼ったマークが並んでいた。
 白いテープの人もいれば、青や黄色など、目立つ色を使う人もいる。

 その中に、斗葵先輩の姿があった。
 斗葵先輩はまず、支柱の真横から水平方向に足長を測り始める。
 それから体の向きを変え、今度は垂直方向に足長を取っていった。
 立ち止まると、地面に青色の小さなマークを置き、再び歩き出す。
 もう1つマークを貼り終えると、振り返って助走のラインを確かめた。

 そして、「いきます」と声をかけ、助走の流れを確認していく。

 斗葵先輩の後に続くように、ほかの選手たちも次々と助走練習を始めた。
 何本か確認を終えると、それぞれベンチに戻り、本番に向けて体を動かしている。

 それから少しして、跳躍練習が始まった頃、光希たちが隣にやってきた。

 「これって、低い方だよな?」

 低い方という意味がわからず、首を傾げる。

 「跳躍練習の高さ。低いバーと、高いバーに分けてやるんだよ」

 「なら、低い方だと思うよ。さっき始まったから」

 跳躍練習では、ほとんどの選手がバーをクリアしていた。
 しばらく跳躍練習を見ていると、不意に裾を引かれた。

 「もうそろそろ、100メートル決勝が始まりそう」

 光希に指さされた先では、春利が体を動かしていた。
 スターティングブロック(スタブロ)の位置を細かく調整し、スパイクの歯が地面をきしませる。
 審判の合図で確認走を終え、腰に手を当てて深呼吸する春利の表情には、静かな緊張が漂っていた。

 やがて放送が入り、選手紹介が始まる。

 「6レーン、伊那春利!」

 名前が呼ばれると、観客席から拍手が起きた。
 春利は胸の前で軽く拳を握り、短く頭を下げる。

 「On your marks」

 スターターの合図に合わせ、選手たちがスタートラインに足をかける。
 スタブロに両足を固定し、前傾姿勢で腕を支える。
 競技場のざわめきが、すっと遠のいた。

 「Set」

 全員の体が一斉に静止する。
 空気が張りつめ、音のない時間が伸びていく。

 ――パンッ!
 ピストルの破裂音とともに、春利が飛び出した。
 最初の数歩で地面を蹴りつけ、加速に乗る。

 「春利、頑張れー!」

 光希が叫ぶ。俺も夢中で声を上げた。
 遠ざかる背中を見つめながら、心臓の鼓動が速くなっていく。

 中盤で他の選手と並び、最後の10メートルでさらに伸びた。
 ゴール直前、体を大きく倒し込む。

 それからまもなくして、電光掲示板に順位が映し出される。
 1つ、また1つと順位が表示されるたび、観客席から歓声が上がった。

 春利は6位で入賞が確定した。
 光希と顔を見合わせ、思わずハイタッチをする。

 ふと見ると、斗葵先輩も拍手をしていた。
 けれど、その視線がバーの方へ向いた瞬間、空気が変わった気がした。
 もう、さっきまでの柔らかさはない。
 そこにいたのは、完全に「競技者」の顔だった。

 やがて、バーの高さが一気に上げられる。
 数人が跳躍を終えると、斗葵先輩がゆっくりと立ち上がった。
 スタート位置に立つと、審判が白旗を上げる。
 それが、試技開始の合図だった。
 それを確認してから、斗葵先輩は静かに息を整え、助走ラインを見つめる。

 やがて、手を挙げて「いきます」と短く声を出す。
 それに応えるように、横から「はーい!」と大きな声が返る。

 斗葵先輩が助走を始めた。
 体を内側に傾けたまま、滑らかに加速していく。
 最後の3歩で一気にスピードを上げ、鋭く踏み切った。

 ――バーの上を、きれいに越えた。

 見ているこっちが思わず息を呑むほど、無駄のない跳躍だった。
 着地のあと、バーを軽く振り返って確認し、静かにうなずく斗葵先輩の姿に、周りの選手たちも目を向けていた。

 「……かっこいい」

 思わず声に出ていた。
 その瞬間、背後から明るい声がかかる。

 「やっぱ、そう思うよね!」

 驚いて振り返ると、そこには見覚えのない女の子が座っていた。
 光希と同じTシャツを着ているから、同じ高校の陸上部だとすぐにわかった。
 けれど、顔を見るのは初めてだった。

 戸惑いながら頷くと、彼女はにこっと笑って自己紹介してくれた。

 「初めまして。私、1年の宮田(みやた)真衣(まい)。走高跳やってるの。よろしくね」

 「初めまして。俺も1年の清水結斗です。よろしく」

 挨拶を交わすと、光希が補足するように紹介してくれる。

 「結斗は、俺の幼馴染だよ」

 「幼馴染なの?!」

 「うん。幼稚園から一緒だよな」

 光希の言葉にうなずくと、真衣は「へぇー」と感心したように声を漏らした。

 「そうなんだ」

 「うん」

 俺は人見知りで、初対面の人と話すのがあまり得意じゃない。
 何を話せばいいのかわからなくなって、再び視線を助走路のほうへ向けた。

 斗葵先輩は試技順が最後らしく、再び見覚えのある選手たちが跳び始めた。
 ちょうど次の選手が踏み切った瞬間、バーが腕に当たって落ちる。

 「斗葵先輩、やっぱりすげー。なんか、助走から違うなって思う」

 「うん。あの内傾の姿勢、すごくきれい。私もあれ、真似したくても全然できないんだよ」

 その光景を見ながら、光希と真衣が感想を漏らしていた。

 「次、2回目」

 審判の声が響く。
 その合図で改めて見渡すと、1回目のときより、跳ぶ人数が少ない気がした。

 「なんで、跳ぶ人減ってるの?」

 「低いほうを1本、高いほうを1本で跳んだからだよ。今跳んでるのは、高いほうを2本にした人たち」

 「なるほど……」

 真衣の言葉に納得して頷いたそのとき、斗葵先輩の2本目の跳躍練習が回ってきた。
 助走に入った途端、他の選手よりも明らかにスピードが速い。
 その勢いのまま滑らかに踏み切り、バーの上を軽々と越えていく。
 マットに着地して軽くバーを確認すると、いつも通りの表情でベンチに戻っていった。

 ――やっぱり、斗葵先輩はすごい。

 プレッシャーもきっとあるはずなのに、
 そんな素振りをまったく見せない。
 ただ、自分の跳躍だけに集中しているようだった。
 跳躍練習を終えると、数人の選手が審判のもとへ向かっていった。
 光希いわく、パスする高さを伝えに行っているらしい。

 斗葵先輩も申告すると、上はTシャツで下はジャージ姿のまま、持参したストレッチマットに寝転がった。

 そして、いよいよ競技が始まった。

 うちの学校からは、斗葵先輩のほかに3年生が2人出場していた。
 跳躍を行うと声をかけ合い、アドバイスを交わしているようだった。
 本当は全員がライバルなのに。
 個人戦なのに、まるでチームみたいだった。

 高さは五センチずつ上がっていく。
 バーの位置は、いつの間にか自分の身長をとっくに超えていた。

 ――この人たちは、俺の身長さえ跳び越えてしまうんだ。

 高さが上がるあいだ、周りを見渡すと、スパイクを脱ぐ人、マークを外す人、上着を着始める人の姿があった。
 その動きだけで、試合を終えたのだと分かる。

 それでも、まだ動いている選手が7人。
 次の高さに挑む人たちだ。

 そのとき、斗葵先輩がゆっくりとジャージを脱いだ。
 その仕草だけで、この高さから跳び始めるのだと分かる。

 胸の奥が、少しざわついた。
 斗葵先輩は、まだ1度も跳んでいない。
 つまり、この高さを越えなければ、入賞すらできない。
 けれど、そのざわつきもすぐにおさまった。

 この高さを1回目で越えたのは4人。
 うちの学校の3年生が1人、ほかの高校の選手が2人、そして、斗葵先輩だった。

 斗葵先輩の跳躍は、余裕そのものだった。
 助走から踏み切り、バーの上をきれいに越えていく。
 マットに着地しても、表情ひとつ変わらない。

 失敗した選手たちは、残り2本の跳躍にかけた。
 そのうち3本目で1人だけが成功し、最終的に次の高さへ進んだのは5人だった。

 そして、次の高さは3センチ上がった。
 先に跳んだほかの四人は、いずれもバーに体が触れて失敗した。
 助走からどこか力みが見える。

 「これを跳べば優勝」――そんな空気が張りつめていく中、斗葵先輩が立ち上がった。
 その表情に、緊張の色は一切見えない。

 むしろ、さっきまでよりも動きはさらに良くなっていた。

 踏み切りの音。
 バーを越える瞬間――きれいに宙を舞い、着地。
 バーは、微動だにしなかった。

 胸の奥が熱くなり、斗葵先輩から視線を外せなかった。

 ――眩しかった。
 積み重ねてきたものを、迷いなく形にできる強さがあって。
 同時に、どこか別の世界の人みたいにも感じた。

 俺には、これといって得意なことなんてない。
 だから、あんなふうに輝く姿が、ただ遠く思えた。

 優勝が決まっても、斗葵先輩は跳び続けた。

 「男子走高跳では、大会新記録に挑戦します」

 アナウンスが響いても、斗葵先輩は迷いなく次のバーへ視線を向ける。
 その横顔には、緊張も焦りもなく、ただ静かな炎のようなものが宿っていた。

 助走に入った瞬間、空気が変わった。
 会場全体が、息を呑んで見守っているのが分かる。
 一歩ごとに加速し、踏み切りの瞬間――体がふわりと浮いた。
 バーの上を、まるで重力なんて存在しないみたいに越えていく。

 ――その刹那、競技場の空気が張りつめた。
 バーはわずかに揺れたが、静かに残る。

 アナウンスが響いた。

 「大会新記録です」

 観客席がどっと湧く。
 光希も真衣も立ち上がって拍手していた。
 けれど俺は、手を叩くことも忘れて、ただその姿を見つめていた。

 胸の奥に、言葉にできない感覚が残った。

 そのとき、斗葵先輩がふとこちらを振り返った。
 視線が合った気がする。
 観客のざわめきの中で、周囲の音だけが遠のいた。

 先輩は片手でピースをしてみせる。
 俺はようやく、遅れて拍手をした。
 斗葵先輩は少し笑い、視線を戻して静かにベンチへ戻っていった。

 光希たちは、次の競技の応援に行くと言って席を立ち、スタンドの向こうへ消えていった。

 風が通り抜けて、競技場特有のゴムの匂いがほんのり漂う。
 グラウンドの向こうでは、マットとバーを片づける音が響いていた。
 その中に、斗葵先輩や他の選手たちの姿も混じっていた。

 さっきの跳躍が、頭の中に鮮明に蘇る。
 助走の速さ、踏み切りの音、宙を舞うあの一瞬――。
 思い出すたびに、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 また見られた。
 新記録を出す、あの瞬間を。
 中学の体育大会の記憶がふと蘇る。
 あのときも、新記録を出した斗葵先輩は同じように笑っていた。

 「結斗くん」

 名前を呼ばれて、顔を上げる。
 逆光の中に、斗葵先輩が立っていた。
 風に髪が揺れ、日差しの輪郭がその姿をやわらかく包んでいる。

 「斗葵先輩……お疲れ様です。おめでとうございます」

 伝えたい言葉はいくつもあったのに、うまく口に出せなかった。
 胸の奥に広がるのは、言葉にならない感情。

 「ありがとう」

 斗葵先輩は少し笑って、芝生の上に上がってきた。
 俺のすぐ隣に腰を下ろす。

 思わず息が詰まった。
 さっきまであんなに遠くに見えていた人が、今はこんなに近くにいる。

 「今日は、暑かったね。熱中症とか大丈夫?」

 そう言って、斗葵先輩は軽く息を吐いた。
 汗で少しだけ額に貼りついた髪が、風に揺れる。
 さっきまでの試合の熱気が、まだ体の周りに残っている気がした。

 「大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」

 「それならよかった」

 斗葵先輩が汗をぬぐう。

 「すごかったです。記録も、跳躍も」

 俺はやっとの思いで、それだけ言えた。

 斗葵先輩は少し首を傾げ、照れたように笑う。

 「ありがとう。結斗くんにいいところを見せられたみたいでよかった」

 競技者としての顔が消えて、いつもの「斗葵先輩」に戻った気がした。
 その笑顔を見た瞬間、また胸の奥が熱くなった。

 「――あの、よかったらこれどうぞ」

 バッグから取り出したのは、冷えたスポーツドリンク。
 以前、斗葵先輩がおごってくれたのと同じ銘柄だった。

 「あっ、この前の。今度は奢られる側だ。ありがとう」

 斗葵先輩はボトルを受け取ると、キャップを外してごくりと飲んだ。
 喉を鳴らす音が、やけに近くに聞こえた。

 「……冷たくて、美味しい」

 その一言に、胸の奥がふわっと軽くなった。
 試合が始まる前に、自販機で買って、保冷バッグに入れておいたものだ。
 ちゃんと冷たさが残っていて、本当によかった。

 周囲では次の競技の応援が始まり、歓声や拍手が響いている。
 でも、不思議とその音が遠くに感じた。
 目の前にいる斗葵先輩の声だけが、はっきりと耳に残っていた。

 「そろそろ表彰式、呼ばれるかも」

 「写真、撮ってもいいですか?」

 「撮ってくれるの? ありがとう」

 斗葵先輩はそう言って立ち上がり、ボトルを軽く掲げて笑った。

 「ドリンク、ありがとう。冷たくて助かった」

 「それなら、よかったです」

 そう言葉を交わしてから、斗葵先輩と別れた。
 俺は表彰台の前にあるスタンドへ向かう。

 やがて場内アナウンスが流れ、表彰式が始まった。

 観客席から拍手が広がっていく。
 斗葵先輩が名前を呼ばれ、少し照れくさそうに笑いながら表彰台に上がった。
 金色のメダルが首にかけられると、ライトを反射してきらりと光る。
 スマホを取り出し、その瞬間を撮った。

 ――本当に、かっこいい。

 表彰式が終わり、人の流れが出口へ向かい始める。
 俺も帰る前に挨拶だけしておこうと思い、席を立った。

 階段を下りたところで、ちょうど斗葵先輩と鉢合わせる。
 先輩はメダルを胸にかけたまま、少し息を弾ませていた。

 「結斗くん、帰る?」

 「はい。あの、また斗葵先輩の写真撮ってもいいですか?」

 「もちろん」

 そう言って、斗葵先輩は笑う。
 メダルを指先で軽く押さえながらピースをする。
 シャッターを切ると、ほんのり汗ばんだ髪が風に揺れた。

 「じゃあ、次は一緒に撮ろっか」

 「え、俺もですか?」

 「せっかくだし」

 斗葵先輩が自然に肩を寄せてきて、ツーショットを撮った。

 画面には、柔らかく笑う斗葵先輩と、どこか照れくさい自分が並んでいた。

 「ありがとう。またね」

 「はい、また」

 そう言って手を振ると、俺はその場を離れる。
 振り返ると、斗葵先輩は仲間のもとへ戻っていった。
 その背中を見送ってから、スマホを開いて写真をもう1度見る。

 表彰台での笑顔と、ツーショットの写真。
 写真を見返すたびに、胸の奥がじんわり熱くなる。
 それが何の感情なのか、自分でもうまく言えなかった。

 家に帰ってから、斗葵先輩にメッセージを送った。

 『今日、本当におめでとうございます。写真、送りました』

 しばらくして、スマホが震えた。

 『今日は来てくれてありがとう。写真、すごく嬉しいよ』

 その一文を見ただけで、胸の奥が静かに温かくなった。
 まるで、今日の日差しの余韻がまだ心の中に残っているみたいだった。

 『今日の跳躍、本当にすごかったです。バーを越えた瞬間のこと、ずっと頭に残ってます。努力してきたことが形になるのって、本当にかっこいいと思いました。新記録、本当におめでとうございます』

 少しして、また通知が鳴る。

 『ありがとう。結斗くんが見てくれてるって思ったら、力が出たよ。応援に来てくれて、嬉しかった。』

 画面を見つめているうちに、自然と笑みがこぼれた。
 その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいくようだった。
 たぶんこの日を、俺はこれからも何度も思い出す。