学校生活に少し慣れてきた頃だった。
まだホームルームまで時間があり、朝早い教室は人もまばらだった。
新校舎の廊下も、どこか静かで。
特にやることもなく、なんとなく廊下に出ていた。
ぼんやりと角を曲がった、その先で――人影とぶつかりそうになる。
「わっ、すみません!」
慌てて足を止めると、相手も一歩引いた。
顔を上げた瞬間、思わず息が止まる。
「……斗葵先輩?」
先輩は少し驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。
「おはよう、結斗くん」
「は、はい。おはようございます」
朝から先輩に会うなんて思っていなくて、心臓が一気に跳ね上がる。
一・二年生の俺たちは新校舎で、三年生は旧校舎のはずだ。
なのに、どうしてここにいるんだろう。
「どうして、ここにいるんですか?」
そう聞くと、先輩は手に持っていたノートをひょいと掲げた。
「これを提出しに来たんだ」
「ああ、陸上ノートですか?」
斗葵先輩が、一瞬だけ目を丸くする。
「え、なんで分かったの?」
「ホームルーム前に陸上部がノート集めてるのを見たことがあって。春利と光希が、いつも朝ギリギリに登校して、慌てて提出に行ってるんです」
朝練がある日は、その時間にノートを集める。
この時間に提出に来ているということは、今日は朝練がないんだろう。
「ははっ、あの二人らしいな」
先輩はそう言って笑い、ノートを指先でくるりと回して見せた。
表紙の中央には「Track & Field」の文字。
その下に記された「紫川斗葵」という名前を。
こんなふうにじっと先輩の名前を目にするのは、初めてだった。
体育祭で見た、あの跳躍が頭をよぎった。
気づいたら、口が先に動いていた。
「斗葵先輩は、なんで陸上をやろうと思ったんですか?」
「んー、小五のときに選抜で選ばれたのがきっかけかな。小学生の頃はバスケをやってたんだけど、陸上の市民大会に出るように言われてさ。人数が足りない種目は体力テストの結果で選ばれるから。それで走高跳に出るよう言われたんだ。やってみたら楽しかったし、向いてるかもって思って、中学では陸上部に入った感じだな」
「そうなんですね」
偶然のきっかけで始めたことを、先輩は今も続けている。
その話を聞いて、胸の奥がじんわりと熱くなった。
あのときの跳躍も、きっと“楽しい”がそのまま続いているんだろう。
そう思うと、胸の奥にあのときの光景がもう一度浮かんだ。
「俺、体育祭のとき先輩の跳躍、見ました」
斗葵先輩が驚いたようにこちらを見た。
「そうなの?」
「はい。すごく綺麗で……空を跳んでるみたいで、かっこよかったです。また見たいなと思ってたから、この前の練習で見られて嬉しかったです」
言ってから、少し恥ずかしくなって目をそらした。
けれど先輩は、照れたように笑って頭をかいた。
「ありがとう。そんなに褒めてくれて嬉しいな」
「ほんとに、かっこよかったので」
「ありがとう」
笑うその顔を見て、胸の奥がふっと緩んだ。
「結斗くんは、部活入ってる?」
「いえ、入ってないです」
「そうなんだ。なら、今度の試合、見に来れる?来月の始めなんだけど」
「え?」
思わず声が裏返った。
「あ、もし良ければだよ」
先輩は少し照れくさそうに笑う。
「いいんですか?」
「もちろん。来てほしいな」
穏やかに笑うその顔に、また胸の奥が温かくなった。
「行きたいです!」
「じゃあ詳細送るから、また連絡先交換しよう」
「はい、ありがとうございます!また、練習後に聞きに行ってもいいですか?」
校内では携帯の使用が禁止されているため、今すぐ交換することはできない。
「いや、それは悪いから。水曜――明後日が部活休みなんだ。放課後に聞きにいっても大丈夫?光希たちと同じクラスだったよね?」
「それこそ悪いですよ!新校舎と旧校舎、少し離れてるじゃないですか。あっ、斗葵先輩って自転車ですか?」
「うん」
「なら、自転車置き場に集合しましょう。ちょうど中間くらいですし」
「いいの?」
「はい!」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
「はい!」
先輩が小さく笑った。
その瞬間、鼓動がまた一段強く跳ねた。
「じゃー、明後日の放課後ね。そろそろ提出してくるわ」
「あっ、はい!また」
斗葵先輩は軽く手を振って、歩いていった。
その背中を見送りながら、俺はしばらくその場から動けなかった。
ほんの数分の出来事なのに、朝の光までどこか特別に感じた。
教室に戻り、席に座ってぼんやりと外を眺めていると、教室の後ろが急に騒がしくなった。
顔を上げるより先に、勢いよく名前を呼ばれる。
「結斗!」
振り向くと、光希と春利が、ほとんど同時に机の横にやってきた。
「俺ら、試合に出れることになった!」
「初試合だぞ、初!記録会じゃなくて賞状がある試合!」
二人とも目がやけに輝いている。
その様子を見た瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。
「え、ほんと?おめでとう!」
「だろ?一番に結斗に言いたくてさ。いつも応援してくれてるし」
春利が少し照れたように笑い、光希も大きくうなずく。
「それでさ……見に来てくれる?」
「うん!行きたい!」
考えるより先に答えていた。
二人はほっとしたように顔を見合わせる。
その日付を聞いた瞬間、胸の奥で小さく弾けるものがあった。
――え。
一拍遅れて、朝の会話が頭の中によみがえる。
俺は思わず顔を上げた。
「……それ、さっき誘われた試合だ」
光希と春利が、同時に瞬きをする。
「誰に?」
二人の視線が、ぴたりと俺に集まった。
「斗葵先輩に」
「えっ?!」
光希と春利の声が、見事に重なる。
二人とも一瞬だけ目を丸くして――すぐに顔を見合わせた。
短い沈黙のあと、ほとんど同時に話し始める。
「斗葵先輩が?!」
「嘘だろ?!」
驚いているはずなのに、どこか楽しそうな声。
「結斗、むちゃ気に入られてるじゃん」
「え……、そんなことないって。それに、ちゃんと話したのもまだ二回目だよ」
「二回?!」
それだけで、二人は「気に入られてる」と面白がるには十分だったらしい。
しかも俺の反応を見て、まだ続きがあることも察したらしい。
――こういうところが、ほんとに厄介だ。
「……で?」
光希が、にやにやしながら続きを促してくる。
こういうときの光希はめんどくさい。
言うまで聞いてくるくせに、本当に嫌がっていたらちゃんと引くのも分かっているから。
俺は小さく息を吐いて、観念した。
「それで、明後日に連絡先交換することになって」
「明後日?!」
「すぐじゃん!」
また声がそろう。
光希と春利は顔を見合わせた。
「あの斗葵先輩が、自分から後輩に声かけて、しかも連絡先まで交換するって――普通じゃないだろ」
「だよなー。でも、結斗。よかったな。前から斗葵先輩のこと、すげー憧れてたもんな」
「え?!」
思わず素っ頓狂な声が出る。
なんで知ってるんだ、という顔をしたら、春利が今さら何を、という調子で肩をすくめた。
「練習の片付けのときもさ、表彰伝達で壇上に立ってるときも、ずっと目で追ってたじゃん」
光希も、苦笑しながらうなずく。
まさか、そんなところまで見られていたとは思わなかった。
急に恥ずかしくなって、視線を落とす。
――もしかしたら、斗葵先輩にも気づかれてたりするのかもしれない。
……いや、さすがにそれはないか。
俺なんて、そんなに印象に残るはずもない。
それでも二人は、まだ信じられないといった様子だった。
「ていうかさ、斗葵先輩って、自分の試合に人呼ぶこと滅多にないらしいよ」
「見に行きたいって言われても、だいたい断るって聞くしな」
その話を聞いて、胸の奥が少しざわつく。
じゃあ、なんで俺は誘われたんだ――そんな疑問が、余計に膨らんだ。
「その先輩が自分から声かけてくるとかさ。そりゃ、気に入られてるってなるだろ」
「そう、なのかな」
そうだったらいいな。
そう思った瞬間、胸の奥がほんのりと温かくなったが、これ以上からかわれるのは嫌で俺は口を開く。
「二人とも、ノート提出しに行かないと間に合わないよ」
「それはやばい!」
「行ってくるわ!」
二人は最後までニヤニヤしたまま、慌てて廊下へ駆けていった。
教室に残ると、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かになる。
なんだか落ち着かなくて、小さく息を吐いた。
胸の奥が、さっきよりもほんの少しだけ、熱かった。
――それからの二日間、俺はなんだか落ち着かなかった。
授業を受けていても、ふとした瞬間に斗葵先輩の笑顔が浮かんでくる。
そんな自分に気づくたび、意味もなくノートをめくったり、ペンを回したりしてごまかした。
そして、水曜日の放課後。
帰り支度をしていると、光希が机に肘をついて話しかけてきた。
「今日だな」
その一言で、心臓が一瞬だけ跳ねた。
それを見逃さず、光希が楽しそうに笑う。
「緊張してんの顔に出てるぞ」
「もう!」
茶化すように言われて、光希の頭を軽く叩いた。
「痛っ」
すると、横で見ていた春利が肩をすくめて口を挟んだ。
「自業自得だな。まあ、ちゃんと連絡先は交換してこいよ」
「こいよー」
二人は意味ありげに笑い合いながら、先に昇降口の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、俺は一度、深く息を吸って、鞄を持ち直した。
――自転車置き場。
あの朝、約束した場所へ向かう。
昇降口を出た瞬間、むっとする熱気が肌にまとわりついた。
西日が校舎の壁を照らし、アスファルトの上で陽炎が揺れる。
蝉の声が絶え間なく響き、耳の奥まで夏で満たされていく。
歩くたび、心臓の音が少しずつ速くなる。
額を伝う汗が、制服の襟元にじっとりと滲んだ。
自転車置き場に近づくにつれて、校舎の影が濃くなる。
その影の中に、見覚えのある背中があった。
「……斗葵先輩」
思わず声が漏れる。
先輩がこちらを振り向いた。
「結斗くん、早かったね」
西日に焼けた肌。
暑そうに服で扇ぎながらも、その笑顔はいつも通り爽やかで、やけにまぶしく見えた。
「待たせてすみません」
「全然。今来たところだよ」
先輩は自転車のハンドルにもたれ、少し照れたように笑う。
「じゃ、連絡先交換しよ」
「はい」
ポケットからスマホを取り出す先輩。
その何気ない動作から、なぜか目が離せなかった。
「俺、こういうの慣れてなくてさ。なんか変な感じ」
「俺もです」
声が小さくなる。
蝉の声の向こうで、鼓動だけがやけに大きく響いていた。
スマホの画面に表示された先輩の名前を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「登録できた?」
「はい。ありがとうございます」
「よかった。あ、試合の詳細はあとで送るね」
「ありがとうございます!お願いします」
出会って数分で用事は終わってしまった。
もっと話していたかった、なんて思ってしまう自分に気づいた、そのとき。
「結斗くん、もう帰る?」
「はい。帰ろうかなって」
「光希たちと?」
「いえ、一人でです」
「じゃあ、一緒に帰らない?」
その一言で心臓が一瞬、跳ねた。
「一緒に、ですか?」
「うん。光希たちと、帰る方向一緒だよな?」
「あっ、はい」
「俺もそっちだから、よかったら帰らない?」
「はい!お願いします」
平静を装って返事をするけど、心臓の音はごまかせない。
「じゃ、行こっか」
先輩は自転車のスタンドを上げ、軽く笑った。
その笑顔が、いつもより少しまぶしく見える。
「鞄、カゴに入れて」
「え、でも……」
「大丈夫。ほら」
あまりにも自然な仕草に、断る隙もなかった。
「ありがとうございます」
鞄を入れると、先輩は自転車を押しながら横に並ぶ。
影が二つ、アスファルトの上に並んで伸びていく。
西日の熱が肌にまとわりつくのに、心は不思議と軽かった。
斗葵先輩は、驚くほど話しやすかった。
こちらが言葉を探していると、その間を埋めるみたいに、さりげなく話題を振ってくれる。
「結斗くんは学校終わったら何してるの?」
「だいたいアルバイトしてます」
答えていくうちに肩の力が自然に抜けていくのを感じる。
「へえー、どんなバイト?」
「カフェのスタッフです。親がやってて」
「そうなんだ。お店、手伝ってるんだ。えらいね」
少し照れくさくて、視線を逸らす。
「いや、全然です。高校から初めて、まだ慣れてなくて」
先輩は軽くうなずいた。
「あー、慣れるまでは周り見てるだけで精一杯で大変だよな」
「はい。今は頑張って覚えてます」
「そっか。頑張ってね」
横目でちらりと向けられた視線に、胸がきゅっと締めつけられた。
蝉の声と強い日差しに包まれて、短い沈黙が落ちる。
その静かな時間さえ心地よくて、できることなら、このまま続けばいいと思った。
「斗葵先輩のほうが大変そうです。キャプテンもやってますし」
先輩はくすっと笑い、照れくさそうに肩をすくめた。
「ありがとう。結斗くんみたいに、みんなもっと敬ってくれたらな」
冗談めかした口調に、思わず笑ってしまう。
「絶対されてますよ」
「まあ、それは感じてる。だから頑張れるんだけど」
その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「結斗くん、家どの辺?」
「駅の手前です」
「じゃあ、あと五分くらい?」
「はい、そのくらいです。斗葵先輩は?」
「俺は駅の向こうだから、あと三十分くらい」
二人で並んで歩く。
夏の光に照らされて、足元に落ちる影が、ゆっくりと長く伸びていった。
そうして、五分も経たないうちに、自宅の前へと辿り着く。
「ここです。隣がカフェで」
そう言って家を指さす。
小さな木製の看板に刻まれた“café”の文字が、風に揺れて控えめにきらめいていた。
「おしゃれな店だね」
感心したようなその言葉に、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうございます」
親の店なのに、先輩に褒められると、自分まで誇らしくなる。
「また来た時に、おすすめ教えてね」
「はい。お待ちしてますね」
「ありがとう。試合の詳細は、後で送るね」
「ありがとうございます。お願いします」
「うん。今日は話せて楽しかったよ」
そう言って向けられた柔らかな笑顔に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「俺も楽しかったです。荷物も、ありがとうございました」
「どういたしまして。じゃ、またね」
斗葵先輩は自転車に跨がり、軽く手を振った。
ペダルを踏む音が、夕焼けに染まった空気の中へ溶けていく。
金色に照らされた背中は、少しずつ遠ざかり、やがて小さくなっていった。
玄関の前で、そっと息を吸う。
何気ない言葉や笑顔が、どうしてこんなにも心に残るんだろう。
不思議に思いながら家に入り、制服のままソファに腰を下ろす。
冷たいお茶を一口飲んで、ようやく体の力が抜けた。
そのとき、スマホが震える。
胸が跳ねる。
――斗葵先輩?
けれど表示されたのは、光希と春利の名前だったので、拍子抜けした。
『どうだった?』
『交換した?』
三人のグループチャットが、やけに騒がしい。
『交換したよ』
それだけ返すと、スタンプと絵文字が一気に流れてくる。
「うるさいな……」
そう呟きながら、思わず笑ってしまった。
そのとき、もう一度スマホが震える。
画面に表示された名前を見て、息が止まった。
――紫川斗葵。
一度深呼吸してから、そっとメッセージを開く。
『こんにちは。斗葵です。今日はありがとう』
たったそれだけの一文なのに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
『結斗です。こちらこそありがとうございました。先輩も家に着きましたか?』
送信した瞬間、心臓の鼓動が速くなる。
『うん、ついさっき着いたところ』
その文字を見て、ふっと息が漏れた。
続けて、もう一通。
『これが試合の詳細になる』
送られてきたタイムテーブルを、しばらく黙って見つめる。
9:30 走幅跳決勝
12:30 100m予選
13:55 100m決勝
14:30 走高跳決勝
『ありがとうございます』
そう返してから、少し迷ってお気に入りのスタンプを一つ送った。
陸上の試合を観に行くのは、久しぶりだ。
中二のとき、光希と春利を応援した以来になる。
今回は、二人にとって高校での初戦。
そして――斗葵先輩の跳躍も、また見られる。
三人が全力で走り、跳ぶ姿を思い浮かべると、
胸の奥で、静かに楽しみが膨らんでいった。
まだホームルームまで時間があり、朝早い教室は人もまばらだった。
新校舎の廊下も、どこか静かで。
特にやることもなく、なんとなく廊下に出ていた。
ぼんやりと角を曲がった、その先で――人影とぶつかりそうになる。
「わっ、すみません!」
慌てて足を止めると、相手も一歩引いた。
顔を上げた瞬間、思わず息が止まる。
「……斗葵先輩?」
先輩は少し驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。
「おはよう、結斗くん」
「は、はい。おはようございます」
朝から先輩に会うなんて思っていなくて、心臓が一気に跳ね上がる。
一・二年生の俺たちは新校舎で、三年生は旧校舎のはずだ。
なのに、どうしてここにいるんだろう。
「どうして、ここにいるんですか?」
そう聞くと、先輩は手に持っていたノートをひょいと掲げた。
「これを提出しに来たんだ」
「ああ、陸上ノートですか?」
斗葵先輩が、一瞬だけ目を丸くする。
「え、なんで分かったの?」
「ホームルーム前に陸上部がノート集めてるのを見たことがあって。春利と光希が、いつも朝ギリギリに登校して、慌てて提出に行ってるんです」
朝練がある日は、その時間にノートを集める。
この時間に提出に来ているということは、今日は朝練がないんだろう。
「ははっ、あの二人らしいな」
先輩はそう言って笑い、ノートを指先でくるりと回して見せた。
表紙の中央には「Track & Field」の文字。
その下に記された「紫川斗葵」という名前を。
こんなふうにじっと先輩の名前を目にするのは、初めてだった。
体育祭で見た、あの跳躍が頭をよぎった。
気づいたら、口が先に動いていた。
「斗葵先輩は、なんで陸上をやろうと思ったんですか?」
「んー、小五のときに選抜で選ばれたのがきっかけかな。小学生の頃はバスケをやってたんだけど、陸上の市民大会に出るように言われてさ。人数が足りない種目は体力テストの結果で選ばれるから。それで走高跳に出るよう言われたんだ。やってみたら楽しかったし、向いてるかもって思って、中学では陸上部に入った感じだな」
「そうなんですね」
偶然のきっかけで始めたことを、先輩は今も続けている。
その話を聞いて、胸の奥がじんわりと熱くなった。
あのときの跳躍も、きっと“楽しい”がそのまま続いているんだろう。
そう思うと、胸の奥にあのときの光景がもう一度浮かんだ。
「俺、体育祭のとき先輩の跳躍、見ました」
斗葵先輩が驚いたようにこちらを見た。
「そうなの?」
「はい。すごく綺麗で……空を跳んでるみたいで、かっこよかったです。また見たいなと思ってたから、この前の練習で見られて嬉しかったです」
言ってから、少し恥ずかしくなって目をそらした。
けれど先輩は、照れたように笑って頭をかいた。
「ありがとう。そんなに褒めてくれて嬉しいな」
「ほんとに、かっこよかったので」
「ありがとう」
笑うその顔を見て、胸の奥がふっと緩んだ。
「結斗くんは、部活入ってる?」
「いえ、入ってないです」
「そうなんだ。なら、今度の試合、見に来れる?来月の始めなんだけど」
「え?」
思わず声が裏返った。
「あ、もし良ければだよ」
先輩は少し照れくさそうに笑う。
「いいんですか?」
「もちろん。来てほしいな」
穏やかに笑うその顔に、また胸の奥が温かくなった。
「行きたいです!」
「じゃあ詳細送るから、また連絡先交換しよう」
「はい、ありがとうございます!また、練習後に聞きに行ってもいいですか?」
校内では携帯の使用が禁止されているため、今すぐ交換することはできない。
「いや、それは悪いから。水曜――明後日が部活休みなんだ。放課後に聞きにいっても大丈夫?光希たちと同じクラスだったよね?」
「それこそ悪いですよ!新校舎と旧校舎、少し離れてるじゃないですか。あっ、斗葵先輩って自転車ですか?」
「うん」
「なら、自転車置き場に集合しましょう。ちょうど中間くらいですし」
「いいの?」
「はい!」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
「はい!」
先輩が小さく笑った。
その瞬間、鼓動がまた一段強く跳ねた。
「じゃー、明後日の放課後ね。そろそろ提出してくるわ」
「あっ、はい!また」
斗葵先輩は軽く手を振って、歩いていった。
その背中を見送りながら、俺はしばらくその場から動けなかった。
ほんの数分の出来事なのに、朝の光までどこか特別に感じた。
教室に戻り、席に座ってぼんやりと外を眺めていると、教室の後ろが急に騒がしくなった。
顔を上げるより先に、勢いよく名前を呼ばれる。
「結斗!」
振り向くと、光希と春利が、ほとんど同時に机の横にやってきた。
「俺ら、試合に出れることになった!」
「初試合だぞ、初!記録会じゃなくて賞状がある試合!」
二人とも目がやけに輝いている。
その様子を見た瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。
「え、ほんと?おめでとう!」
「だろ?一番に結斗に言いたくてさ。いつも応援してくれてるし」
春利が少し照れたように笑い、光希も大きくうなずく。
「それでさ……見に来てくれる?」
「うん!行きたい!」
考えるより先に答えていた。
二人はほっとしたように顔を見合わせる。
その日付を聞いた瞬間、胸の奥で小さく弾けるものがあった。
――え。
一拍遅れて、朝の会話が頭の中によみがえる。
俺は思わず顔を上げた。
「……それ、さっき誘われた試合だ」
光希と春利が、同時に瞬きをする。
「誰に?」
二人の視線が、ぴたりと俺に集まった。
「斗葵先輩に」
「えっ?!」
光希と春利の声が、見事に重なる。
二人とも一瞬だけ目を丸くして――すぐに顔を見合わせた。
短い沈黙のあと、ほとんど同時に話し始める。
「斗葵先輩が?!」
「嘘だろ?!」
驚いているはずなのに、どこか楽しそうな声。
「結斗、むちゃ気に入られてるじゃん」
「え……、そんなことないって。それに、ちゃんと話したのもまだ二回目だよ」
「二回?!」
それだけで、二人は「気に入られてる」と面白がるには十分だったらしい。
しかも俺の反応を見て、まだ続きがあることも察したらしい。
――こういうところが、ほんとに厄介だ。
「……で?」
光希が、にやにやしながら続きを促してくる。
こういうときの光希はめんどくさい。
言うまで聞いてくるくせに、本当に嫌がっていたらちゃんと引くのも分かっているから。
俺は小さく息を吐いて、観念した。
「それで、明後日に連絡先交換することになって」
「明後日?!」
「すぐじゃん!」
また声がそろう。
光希と春利は顔を見合わせた。
「あの斗葵先輩が、自分から後輩に声かけて、しかも連絡先まで交換するって――普通じゃないだろ」
「だよなー。でも、結斗。よかったな。前から斗葵先輩のこと、すげー憧れてたもんな」
「え?!」
思わず素っ頓狂な声が出る。
なんで知ってるんだ、という顔をしたら、春利が今さら何を、という調子で肩をすくめた。
「練習の片付けのときもさ、表彰伝達で壇上に立ってるときも、ずっと目で追ってたじゃん」
光希も、苦笑しながらうなずく。
まさか、そんなところまで見られていたとは思わなかった。
急に恥ずかしくなって、視線を落とす。
――もしかしたら、斗葵先輩にも気づかれてたりするのかもしれない。
……いや、さすがにそれはないか。
俺なんて、そんなに印象に残るはずもない。
それでも二人は、まだ信じられないといった様子だった。
「ていうかさ、斗葵先輩って、自分の試合に人呼ぶこと滅多にないらしいよ」
「見に行きたいって言われても、だいたい断るって聞くしな」
その話を聞いて、胸の奥が少しざわつく。
じゃあ、なんで俺は誘われたんだ――そんな疑問が、余計に膨らんだ。
「その先輩が自分から声かけてくるとかさ。そりゃ、気に入られてるってなるだろ」
「そう、なのかな」
そうだったらいいな。
そう思った瞬間、胸の奥がほんのりと温かくなったが、これ以上からかわれるのは嫌で俺は口を開く。
「二人とも、ノート提出しに行かないと間に合わないよ」
「それはやばい!」
「行ってくるわ!」
二人は最後までニヤニヤしたまま、慌てて廊下へ駆けていった。
教室に残ると、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かになる。
なんだか落ち着かなくて、小さく息を吐いた。
胸の奥が、さっきよりもほんの少しだけ、熱かった。
――それからの二日間、俺はなんだか落ち着かなかった。
授業を受けていても、ふとした瞬間に斗葵先輩の笑顔が浮かんでくる。
そんな自分に気づくたび、意味もなくノートをめくったり、ペンを回したりしてごまかした。
そして、水曜日の放課後。
帰り支度をしていると、光希が机に肘をついて話しかけてきた。
「今日だな」
その一言で、心臓が一瞬だけ跳ねた。
それを見逃さず、光希が楽しそうに笑う。
「緊張してんの顔に出てるぞ」
「もう!」
茶化すように言われて、光希の頭を軽く叩いた。
「痛っ」
すると、横で見ていた春利が肩をすくめて口を挟んだ。
「自業自得だな。まあ、ちゃんと連絡先は交換してこいよ」
「こいよー」
二人は意味ありげに笑い合いながら、先に昇降口の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、俺は一度、深く息を吸って、鞄を持ち直した。
――自転車置き場。
あの朝、約束した場所へ向かう。
昇降口を出た瞬間、むっとする熱気が肌にまとわりついた。
西日が校舎の壁を照らし、アスファルトの上で陽炎が揺れる。
蝉の声が絶え間なく響き、耳の奥まで夏で満たされていく。
歩くたび、心臓の音が少しずつ速くなる。
額を伝う汗が、制服の襟元にじっとりと滲んだ。
自転車置き場に近づくにつれて、校舎の影が濃くなる。
その影の中に、見覚えのある背中があった。
「……斗葵先輩」
思わず声が漏れる。
先輩がこちらを振り向いた。
「結斗くん、早かったね」
西日に焼けた肌。
暑そうに服で扇ぎながらも、その笑顔はいつも通り爽やかで、やけにまぶしく見えた。
「待たせてすみません」
「全然。今来たところだよ」
先輩は自転車のハンドルにもたれ、少し照れたように笑う。
「じゃ、連絡先交換しよ」
「はい」
ポケットからスマホを取り出す先輩。
その何気ない動作から、なぜか目が離せなかった。
「俺、こういうの慣れてなくてさ。なんか変な感じ」
「俺もです」
声が小さくなる。
蝉の声の向こうで、鼓動だけがやけに大きく響いていた。
スマホの画面に表示された先輩の名前を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「登録できた?」
「はい。ありがとうございます」
「よかった。あ、試合の詳細はあとで送るね」
「ありがとうございます!お願いします」
出会って数分で用事は終わってしまった。
もっと話していたかった、なんて思ってしまう自分に気づいた、そのとき。
「結斗くん、もう帰る?」
「はい。帰ろうかなって」
「光希たちと?」
「いえ、一人でです」
「じゃあ、一緒に帰らない?」
その一言で心臓が一瞬、跳ねた。
「一緒に、ですか?」
「うん。光希たちと、帰る方向一緒だよな?」
「あっ、はい」
「俺もそっちだから、よかったら帰らない?」
「はい!お願いします」
平静を装って返事をするけど、心臓の音はごまかせない。
「じゃ、行こっか」
先輩は自転車のスタンドを上げ、軽く笑った。
その笑顔が、いつもより少しまぶしく見える。
「鞄、カゴに入れて」
「え、でも……」
「大丈夫。ほら」
あまりにも自然な仕草に、断る隙もなかった。
「ありがとうございます」
鞄を入れると、先輩は自転車を押しながら横に並ぶ。
影が二つ、アスファルトの上に並んで伸びていく。
西日の熱が肌にまとわりつくのに、心は不思議と軽かった。
斗葵先輩は、驚くほど話しやすかった。
こちらが言葉を探していると、その間を埋めるみたいに、さりげなく話題を振ってくれる。
「結斗くんは学校終わったら何してるの?」
「だいたいアルバイトしてます」
答えていくうちに肩の力が自然に抜けていくのを感じる。
「へえー、どんなバイト?」
「カフェのスタッフです。親がやってて」
「そうなんだ。お店、手伝ってるんだ。えらいね」
少し照れくさくて、視線を逸らす。
「いや、全然です。高校から初めて、まだ慣れてなくて」
先輩は軽くうなずいた。
「あー、慣れるまでは周り見てるだけで精一杯で大変だよな」
「はい。今は頑張って覚えてます」
「そっか。頑張ってね」
横目でちらりと向けられた視線に、胸がきゅっと締めつけられた。
蝉の声と強い日差しに包まれて、短い沈黙が落ちる。
その静かな時間さえ心地よくて、できることなら、このまま続けばいいと思った。
「斗葵先輩のほうが大変そうです。キャプテンもやってますし」
先輩はくすっと笑い、照れくさそうに肩をすくめた。
「ありがとう。結斗くんみたいに、みんなもっと敬ってくれたらな」
冗談めかした口調に、思わず笑ってしまう。
「絶対されてますよ」
「まあ、それは感じてる。だから頑張れるんだけど」
その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「結斗くん、家どの辺?」
「駅の手前です」
「じゃあ、あと五分くらい?」
「はい、そのくらいです。斗葵先輩は?」
「俺は駅の向こうだから、あと三十分くらい」
二人で並んで歩く。
夏の光に照らされて、足元に落ちる影が、ゆっくりと長く伸びていった。
そうして、五分も経たないうちに、自宅の前へと辿り着く。
「ここです。隣がカフェで」
そう言って家を指さす。
小さな木製の看板に刻まれた“café”の文字が、風に揺れて控えめにきらめいていた。
「おしゃれな店だね」
感心したようなその言葉に、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうございます」
親の店なのに、先輩に褒められると、自分まで誇らしくなる。
「また来た時に、おすすめ教えてね」
「はい。お待ちしてますね」
「ありがとう。試合の詳細は、後で送るね」
「ありがとうございます。お願いします」
「うん。今日は話せて楽しかったよ」
そう言って向けられた柔らかな笑顔に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「俺も楽しかったです。荷物も、ありがとうございました」
「どういたしまして。じゃ、またね」
斗葵先輩は自転車に跨がり、軽く手を振った。
ペダルを踏む音が、夕焼けに染まった空気の中へ溶けていく。
金色に照らされた背中は、少しずつ遠ざかり、やがて小さくなっていった。
玄関の前で、そっと息を吸う。
何気ない言葉や笑顔が、どうしてこんなにも心に残るんだろう。
不思議に思いながら家に入り、制服のままソファに腰を下ろす。
冷たいお茶を一口飲んで、ようやく体の力が抜けた。
そのとき、スマホが震える。
胸が跳ねる。
――斗葵先輩?
けれど表示されたのは、光希と春利の名前だったので、拍子抜けした。
『どうだった?』
『交換した?』
三人のグループチャットが、やけに騒がしい。
『交換したよ』
それだけ返すと、スタンプと絵文字が一気に流れてくる。
「うるさいな……」
そう呟きながら、思わず笑ってしまった。
そのとき、もう一度スマホが震える。
画面に表示された名前を見て、息が止まった。
――紫川斗葵。
一度深呼吸してから、そっとメッセージを開く。
『こんにちは。斗葵です。今日はありがとう』
たったそれだけの一文なのに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
『結斗です。こちらこそありがとうございました。先輩も家に着きましたか?』
送信した瞬間、心臓の鼓動が速くなる。
『うん、ついさっき着いたところ』
その文字を見て、ふっと息が漏れた。
続けて、もう一通。
『これが試合の詳細になる』
送られてきたタイムテーブルを、しばらく黙って見つめる。
9:30 走幅跳決勝
12:30 100m予選
13:55 100m決勝
14:30 走高跳決勝
『ありがとうございます』
そう返してから、少し迷ってお気に入りのスタンプを一つ送った。
陸上の試合を観に行くのは、久しぶりだ。
中二のとき、光希と春利を応援した以来になる。
今回は、二人にとって高校での初戦。
そして――斗葵先輩の跳躍も、また見られる。
三人が全力で走り、跳ぶ姿を思い浮かべると、
胸の奥で、静かに楽しみが膨らんでいった。
