遠い背中に恋をした

 放課後、久しぶりに春利と光希と遊ぶ約束をした。
 2人とも陸上部の練習で忙しく、こうして一緒に帰るのは本当に久しぶりだった。

 みんなで課題を終わらせてから昇降口を出ると、むっとした風が頬をかすめた。
 グラウンドの方から、笛の音とスパイクの音が響いてくる。
 西日が傾きはじめ、校舎の影が少しずつ伸びていた。

 「まだ、調整練習してるんだな」

 春利が手をかざして、グラウンドの方を見る。

 その中に、ふと見覚えのある動きがあった。

 走る音。
 踏み切る音。
 マットに沈む音。

 ――跳んでる。

 思考より先に、足が止まった。

 助走から踏み切りまでの流れは滑らかで、空中で身体を反らせる姿は、記憶の中のあの瞬間と重なった。
 いや、あの時よりも洗練されていて、視線を逸らせなかった。

 呼吸が浅くなっていることに、後から気づく。

 「どうした、結斗?」

 急に足を止めたせいか、春利が不思議そうに振り向く。

 「ああ。明日が試合の人は、調整練習してるんだ。俺らは今日は休みで、明日練習」

 休みのはずなのに練習している理由が気になったと思ったのか、光希が軽い調子で説明してくれた。
 けれど、跳躍に見とれて立ち尽くしていた俺には、その声がどこか遠くから聞こえるように感じられた。

 ――跳んでいたのは、やっぱり斗葵先輩だった。

 「あっ、斗葵先輩ー!」

 春利が名前を叫んで片手を大きく振る。

 その声に気づいた斗葵先輩が笑って、こちらに向かってくる。
 スパイクの音が近づくたび、無意識に背筋が伸びた。

 「ちょうどいいところに来たな。片付け、手伝ってくれない?」

 「え、マジですか?!」

 隣の2人の声が、見事に揃った。
 何がそんなに嫌なのかと首を傾げると、2人とも露骨に顔をしかめていた。

 「なんでそんな顔してんの?」

 「そりゃ、やりたくないから」

 光希が即答すると、斗葵先輩が笑い声を漏らす。

 「そんなに嫌かよ。まあ、重いからな」

 そう言って振り返り、マットの方を見た。

 「そうですよ。それに俺ら制服なんで。汚れるのはちょっと……」

 「部活のTシャツが透けて見えてるぞ」

 光希と春利の白シャツの胸元には、うっすらと“T&F”の文字が浮かんでいた。

 「まあ、冗談だけどな」

 「いや、俺らも冗談なんで。斗葵先輩の頼みとあれば喜んで手伝いますよ」

 そう言うと、2人はシャツを脱いで部活のTシャツ姿になった。

 「マジ?それは嬉しいけど、友達と帰るんだろ?」

 斗葵先輩の視線が、俺の方を捉える。
 目が合った瞬間、胸の奥が少しだけ跳ねた。

 慌てて会釈すると、斗葵先輩も穏やかにうなずいてくれる。

 「そうっす。これからちょっと遊びに行く予定で。ごめんだけど、結斗、少し待っててもらってもいい?」

 「いいけど……あの、俺にも何か手伝えることありますか?」

 「君も?」

 斗葵先輩は少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。

 「ありがとう。じゃあ、支柱とバーをお願いしてもいいかな?」

 「はい」

  それが何かよくわからなかったけど、頼まれたことが嬉しくて笑顔でうなずいた。
 その様子を見ていた斗葵先輩が、ふっと目を細める。

 「かわいい……」

 「へっ?!」

 予想していなかった言葉に、頭が一瞬真っ白になる。
 唐突にそんなことを言われ、思わず声が裏返る。

 「ちょっと、先輩。口説かないでくださいよ」

 春利が壁のように立ちはだかり、光希もそれに続いた。

 「いや、口説いてないって」

 斗葵先輩はそれに苦笑する。

 「俺の後輩は生意気なやつばっかで、こんな素直にうなずいてくれる子がなかなかいないからさ。ついね」

 「俺らもかわいいでしょ」

 「ああ、かわいいかわいい」

 斗葵先輩の返事は完全に棒読みだった。
 それに思わず笑いがこぼれる。

 「もっと気持ち込めてくださいよ」

 2人は笑いながらカバンを端に置き、ついでに俺のもその上に乗せてくれた。
 汚れないように、というさりげない優しさが嬉しかった。

 そのあと、3人の後を追ってグラウンドに足を踏み入れる。
 初めて立ち入るグラウンドの内側に、胸の奥が少し高鳴った。

 「そういえば、自己紹介してなかったね。俺は3年の紫川斗葵」

 「1年生の清水(しみず)結斗です。光希とは幼馴染で、春利は中学からの友達です」

 「なるほど。結斗くんはこの2人と腐れ縁なんだね」

 斗葵先輩がからかうように同情めいた視線を向けると、2人は同時に抗議した。

 「ちょっと、失礼ですよ」

 「あー、ごめんな」

 斗葵先輩と関わって、俺が抱いていた硬いイメージが崩れていく。
 想像していたよりも気さくで、思っていた“遠い存在”とは少し違っていた。
 その意外さを知ることができて、なんだか嬉しかった。

 それからは斗葵先輩の指示に従い、先輩と光希、春利、そしてもう1人の部員がマットを運び、俺は支柱とバーを片付けることになった。

 制服姿のままマットを持ち上げようとした2人を見て、斗葵先輩がふと思い出したように言う。

 「……下、汚れない?」

 その一言に、春利と光希が同時に凍りつく。
 スラックスが土で汚れることに気づいたらしい。

 「汚れないように気をつけます……!」

 2人の気合いを横目に、俺は支柱とバーを運んだ。
 思っていたよりもずっと軽くて、少し驚いた。
 軽いものを選んでくれた斗葵先輩の気遣いが、胸の奥が温かくなる。

 片付けが終わると、斗葵先輩は額の汗を拭いながら言った。

 「じゃあ、手伝ってくれたいい後輩たちに、後でプレゼントをあげよう」

 その瞬間、歓声が上がった。

 「ありがとうございます!」

 嬉しくて思わず拍手すると、斗葵先輩もつられて笑った。

 「そんなに喜んでもらって悪いけど、自販機の飲み物だからな」

 「嬉しいです!」

 俺の勢いのいい返事に斗葵先輩は少しだけ目を丸くすると、優しく笑った。
 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がわずかに熱を帯びた。

 「ごめん、待たせたな」

 斗葵先輩が制服に着替えて戻ってくる。
 練習着のときよりもどこか大人びて見えて、思わず視線を奪われた。
 そのまま俺たちを連れて、グラウンド脇にある一番近い自販機へ向かう。

 「どれがいい?」

 斗葵先輩が自販機の前で振り返る。
 練習のあとなのに、疲れを感じさせない爽やかな笑顔だった。

 「俺、カフェオレで」
 「俺はオレンジジュース!」

 春利と光希が即答する。
 俺は少し迷って、スポーツドリンクを選んだ。

 「了解」

 斗葵先輩が軽くうなずき、次々とボタンを押していく。
 ガコン、ガコンと冷えたペットボトルが落ちる音が響く。
 それをひとつずつ拾って、手渡していった。

 「はい、春利と光希。そして結斗くん」

 「ありがとうございます」

 受け取ったボトルは、掌にひんやりと心地よかった。
 指先に残る冷たさが、火照った肌を少し落ち着かせる。

 そのあと斗葵先輩は、自分の分を買った。
 押したボタンは、俺と同じスポーツドリンクだった。

 「俺もこれにしよ。結斗くんとおそろいだな」

 それだけの言葉なのに、胸の奥が小さく跳ねた。
 思わず顔を上げると、斗葵先輩が柔らかく笑っていた。
 その笑顔に、胸の奥が小さく跳ねた。

 「今日はありがとな。3人とも助かった」

 「いえ、全然!」

 春利がペットボトルを掲げて笑う。
 光希も「マジで助け合いっすよ」と続けた。

 「じゃ、乾杯でもしとくか」

 斗葵先輩が冗談めかしてペットボトルを軽く掲げる。
 俺たちも真似して、ボトル同士を軽く合わせた。

 冷たい飲み物が喉を通る感覚が心地よかった。

 春利がカフェオレを飲み干し、満足そうに息をつく。

 「っはー、冷たいの最高。これで疲れも吹っ飛ぶな」

 「疲れるほどは動いてないだろ」

 斗葵先輩もつられて笑い、ふとグラウンドの時計に視線を向けた。

 「そろそろ戻るわ。まだやること残ってるから」

 そう言って、軽く肩をすくめる。

 「お前らはこのあと遊びに行くんだろ?引き止めて悪かったな」

 「いえ!全然です。いいものもらえたんで!」

 春利がペットボトルを掲げて言うと、光希もうなずいた。

 「奢ってくれてありがとうございます。試合、頑張ってください」

 俺も小さく頭を下げる。

 斗葵先輩は笑って、軽く手を振った。

 「手伝ってくれて本当に助かった。試合も頑張るよ。ありがとう」

 制服姿の背中が、グラウンドの向こうに小さくなっていく。
 その姿を、俺はしばらく目で追っていた。

 「……かっこいいよな、斗葵先輩」

 光希がぽつりと呟くと、春利も同意するようにうなずいた。

 「うん。なんか、ああいう先輩になりてぇな」

 2人の横顔を見ながら、俺も小さくうなずく。
 胸の奥に、まだ冷たいペットボトルの感触と、斗葵先輩の笑顔が残っていた。

 「よし、そろそろ行くか。ゲーセン行こうぜ!」

 春利がペットボトルを掲げるように言った。

 「また勝負かよ」

 光希が笑いながら肩をすくめる。

 「いいじゃん、久しぶりだし」

 春利が笑って返す。

 「そのあと飯行こうぜ。どうせまた腹減ったとか言うんだろ?」

 光希の言葉に、春利が「読まれてるな!」と笑い返す。

 「結斗は? 何食べたい?」

 光希が俺の方を見た。

 「うーん……ラーメンとか?」

 そう答えると、春利がすぐに反応する。

 「いいじゃん、それ!決まり!」

 3人で並んで歩き出す。
 部活の掛け声や楽器の音が、夕暮れの風に溶けていく。
 久しぶりの放課後の帰り道が――どこか懐かしくて、少しだけ特別に感じられた。
 胸の奥に、今日の光景が静かに残っていた。