遠い背中に恋をした

 それから季節はいくつも過ぎていき、気づけば俺たちはもう高校生になっていた。

 春利も光希も同じ高校で、同じクラス。
 中学の頃とあまり変わらない毎日を送っていた。

 入学して数週間後。
 体育館で行われた部活動紹介は、入学式の余韻がまだ残る少し張り詰めた空気の中だった。
 最初のうちはぼんやり聞いていたけれど、

 「陸上部です」

 という声が耳に届いた瞬間、自然と顔を上げた。

 舞台の上に立っていたのは、あの頃よりも少し大人びた斗葵先輩だった。
 光を受けて髪がわずかに揺れ、真っすぐ前を見つめて話す姿は、中学の時よりも落ち着いた印象を纏っていた。
 その静かな声と、揺るがない眼差しに、胸の奥がじんと熱を帯びた。

 そして、思い出す。
 斗葵先輩の跳躍を。

 ――まさか、同じ高校にいるなんて。

 その現実が、ゆっくり胸の奥に沈んでいく。
 嬉しいのか、驚いているのか、自分でもよくわからなかった。
 ただ、鼓動の音だけがやけに鮮明に聞こえていた。

 部活動紹介が終わり、ざわめきの残るまま教室へ戻る。
 頭の中には、さっきの斗葵先輩の姿がまだ焼きついていた。

 斗葵先輩がこの学校にいる。
 そう思うだけで、胸の奥がふっと熱を帯びた。

 ――もしかしたら、またあの跳躍を見られるかもしれない。

 そんな淡い期待が、胸の奥を小さく、でも確かに揺らした。

 放課後になると、春利と光希が来た。

 「結斗(ゆいと)、どうすんの?」

 「部活、入るか決めた?」

 2人はともに陸上の推薦で入学していて、入学前から部活動に参加していた。

 「俺は、入らないかな」

 「興味あるのなかった?」

 「うーん……入りたいのはなかったかな」

 気になる部活はあったが、入部してまでやりたいと思うものはなかった。

 「なら、陸部のマネージャーはどう?」

 「マネージャー?」

 「そう。結斗って気配りできるし、細かい作業も結構得意だから向いてそうだなって思って」

 「いや……俺素人だし。入っても、邪魔になるだけだと思うよ」

 けれど、その言葉とは裏腹に、ひとつの考えが頭をよぎった。
 選手でなくても、部に関わる方法はある。

 ――もし自分がマネージャーになれたら、斗葵先輩の跳躍を、もっと近くで見られるんじゃないか。

 ほんの一瞬だけ、考えてしまった。
 そんな浅い理由が頭をよぎったことに、胸の奥が少しざわついた。

 一瞬、“入ってみるのもいいかもしれない”と思った。
 けれど、教室のどこからか聞こえてきた声が、その思いをすぐにかき消した。

 「陸上部のキャプテン、かっこよかったよね」

 「あの先輩目的でマネージャー希望する人いそうじゃない?」

 その言葉に、心臓がひゅっと縮こまった。

 まるで、自分の気持ちを見透かされたみたいで。
 胸の奥に、じわりと恥ずかしさが広がる。

 光希も、その会話を耳にしたらしい。

 「あー、それもあって、マネージャーは基本的に募集してないんだ」

 少し気まずそうに、そう付け加えた。

 「え?」

 「過去に選手目的で入ってきたマネージャーがいるんだって。それで、仕事を全然しなくて邪魔だって顧問が怒ったらしくて……。それ以来、マネージャーは部員の推薦があって、初めて検討されるようになったらしいよ」

 「そうなんだ……」

 「で、結斗はどうする?希望、出してみる?」

 顔を上げると、春利が首を傾げていた。

 「……ううん、やめとく」

 俺は、首を横に振った。

 「そっか。まぁ、気が向いたら、いつでも言えよ」

 春利が笑って、背中を軽く叩く。

 「誘ってくれて、ありがとう」

 そう言いながらも、心の奥には、さっき聞いた女子たちの声がまだ残っていた。

 ―― 先輩目的でマネージャー希望する人いそうじゃない?

 そして、その言葉に重なるように、壇上でまっすぐ前を見て話していた斗葵先輩の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。

 (……関わりたいのは、俺だけじゃないんだ)

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 気づけば、口が動いていた。

 「……それにしても、斗葵先輩って、同じ高校だったんだね」

 「え、結斗、知り合いなの?」

 その名前を口にしたせいか、春利が少し驚いたように顔を上げる。

 「ううん、違うよ。体育祭の時に走高跳で新記録出してたでしょ。2人とも“すげーだろ”って自慢してたから、覚えてただけ」

 「あー、そうだった!」

 「けっこう前のことなのに、よく覚えてるな」

 光希が感心したように笑う。

 「うん。跳ぶ姿がすごく綺麗で、つい見とれてたんだ。新記録を更新する瞬間も初めて見たし、会場が一気に盛り上がって……ちょっと鳥肌立ったんだよね」

 言いながら、あの時の光景が、ありありと甦ってくる。

 斗葵先輩が跳ぶ直前、グラウンドは静まり返った。
 さっきまでのざわめきが消え、空気が張り詰める。

 助走が始まり、そして踏み切る。
 体が宙に浮き、マットに体が沈んだその瞬間、記録更新を告げるように、歓声が一斉に上がった。

 あの時、もう1度あの跳躍を見たいと思ったことを、ふと思い出す。

 けれど、その気持ちを思い出したからといって、何かが変わるわけでもなく。
 俺は結局、部活に入ることもないまま、いつも通りの生活を送っていた。放課後の時間も特別なことは何も起こらず、淡々と過ぎていく。

 クラスの空気にも少しずつ慣れ、毎日は静かに流れていった。
 気づけば季節はひとつ巡り、中学の頃よりも時間の流れがずっと速く感じられるようになっていた。

 春利と光希は陸上部で忙しくしていて、放課後に一緒に帰ることも減った。
 俺は別の友人たちと帰るようになり、いつの間にか「陸上部」という言葉も、日常の会話から遠ざかっていた。

 だから、俺が先輩の姿を見られるのは、全校集会の結果報告会だけだった。

 「○○大会 走高跳 優勝 紫川」

 その名前が読み上げられるたび、胸の奥がふっと緩む。
 舞台の上で堂々と立つ姿を、遠くの席から見上げる。

 先輩は、俺のことなんて知らない。
 それでも、拍手の音に包まれる中で、先輩がふとあたりを見回した瞬間――ほんの一瞬だけ、視線が重なった気がした。

 もちろん、気のせいだ。
 それでも、その勘違いがしばらく頭から離れなかった。

 3年生の教室は別の校舎にある。
 同じ学校にいるのに、すぐそこにいるのに、もう会うことはない。
 そんな距離を、俺は毎日のように感じていた。

 そうして季節は静かに流れていった。
 気づけば、夏の太陽が校舎を照らすようになっていた。
 窓の外には入道雲が浮かび、アスファルトの照り返しがゆらゆらと揺れている。
 空気の重さが、もう夏休みの近さを知らせていた。