遠い背中に恋をした

 中学に入って、初めての体育祭だった。

 「綺麗……」

 気づいたら、そう口にしていた。

 助走から踏み切り、跳躍へと至る一連の動きが、驚くほど滑らかだった。
 地面を蹴った瞬間、体がふっと宙に浮かび、軽やかにバーを越えていく。
 跳んだ一瞬、周囲の音がすっと遠ざかり、時間さえ止まったように見えた。

 陸上のことはよくわからない。
 それでも、あの先輩がとんでもなく凄いということだけは、誰の目にも明らかだった。

 静寂のあと、

 「やばっ……」

 「跳んだ……!」

 観客席のざわめきが、堰を切ったように弾けた。

 「すげーだろ?!」

 隣で肩を叩いてきたのは、クラスでもよく一緒にいる春利(はると)だった。

 「うん……あの人、陸上の先輩?」

 返事をしながらも、視線はずっと走高跳のエリアに向いたままだった。

 春利が知っているくらいだから陸上部なのだろうし、あれだけ跳べるなら疑いようもないけれど、つい聞いていた。

 「そう。俺は短距離だから種目は違うけどな」

 「次は――新記録の高さです!」

 放送部の声がグラウンドに響き、ざわめきが一段と大きくなる。

 長年破られていない昭和の記録。
 それを、今まさに塗り替えようとしている。

 バーが上がる。
 俺は無意識に背筋を伸ばし、息を整えた。

 先輩が助走を始めた途端、周囲は一気に静まり返った。
 まぶしい日差しの中で、あの人だけが別の世界にいるみたいだった。

 俺は別チームの応援席にいる。
 本当は敵チームを応援しちゃいけないけど――もう優勝は決まっているし、あの跳躍を見たら、そんなルールなんてどうでもよくなった。

 「頑張れ」

 思わず声が漏れる。
 手をぎゅっと握りしめ、跳べるように祈った。

 踏み切る瞬間、砂ぼこりが舞い上がる。
 空中で体を反らせた姿は、まるでスローモーションのようにゆっくりと見えた。
 そして、バーに触れることもなく完璧に跳び越えたのだ。

 「……すごい」

 息のようにこぼれた言葉は、すぐに歓声に飲み込まれる。

 「大会新記録です!」

 マイク越しの声が響くと、観客席が一気に沸いた。
 歓声と拍手、先生たちのカメラのシャッター音。
 その真ん中で、先輩は少し照れくさそうに笑っていた。

 胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
 その瞬間を見届けられたことが、まるで自分のことのように嬉しかった。
 気づけば、息をするのも忘れていた。

 このあと、どの高さに挑戦するのかと会場の期待が高まっていた。
 けれど、時間の関係でこれ以上の跳躍はできないらしい。

 「このあとリレーがあるから、これで終わりみたいだな」

 どこかから聞こえたその声に、胸の奥が少し沈んだ。

 ――もっと、見ていたかったのに。

 気づけば立ち上がっていた俺は、ゆっくり腰を下ろした。

 グラウンドの向こうで、クラスの仲間に迎えられながら戻っていく先輩の姿が見えた。
 遠ざかっていくその背中を見つめながら、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 しばらくして、走幅跳に出ていた光希(こうき)が戻ってくる。
 学年対抗なので、光希は1年生の部門で優勝していた。

 「光希、おめでとう」

 「ありがと」

 タオルで汗を拭いながら、光希は少し複雑そうな顔をしていた。
 小さい頃からずっと一緒にいるから、そういう表情をするときは、だいたい悔しいときだとわかる。

 「どうしたの?」

 少し間を置いて、光希がぽつりと漏らす。

 「俺も大会新記録、出したかったな。優勝しても、記録を塗り替えられなかったのが悔しい」

 「十分すごいのに」

 「……ありがとう」

 光希は苦笑して、隣に腰を下ろす。

 「それにしても、やっぱりすげーや」

 その“すげー”が誰のことか、すぐにわかった。
 俺も自然にうなずいた。

 「あの先輩、ほんとすごかったな」

 「だろ!」

 光希は少し誇らしげに笑い、肩をすくめた。

 「斗葵(とき)先輩、マジでかっけー」

 「斗葵先輩?」

 斗葵――。
 名前を聞いた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
 さっき見た跳躍の姿と、名前の音が重なり、胸の奥がじんとする。
 さっきまで遠い存在だったのに、名前を知れただけで、ほんの少し近づけた気がした。

 「そう。(たか)の先輩ね。ちなみに、今日で中1から中3まで、全部の新記録は斗葵先輩の名前になった」

 「全部……やっぱ、凄い人なんだな」

 さっきの跳躍を思い返す。
 助走から踏み切り、空中で体を反らせたあの姿――
心を持っていかれるような時間だった。

 胸の奥に小さな熱が残ったまま、俺はそっと息を吐く。

 また、あの跳ぶ姿を見られたらいいな。
 そんな願いを胸の奥にしまいながら、時は静かに流れていった。

 合唱コンクール、期末テスト、授業参観、三者面談、スキー教室。
 行事をひとつひとつ経験していくうちに、季節はいつの間にか3月へと変わっていた。

 そして、迎えた卒業式の日。

 表彰の時間になると、校長先生が一人一人の名前を読み上げていく。
 その中に、部活動の功績として表彰される生徒の名前もあった。

 「3年8組 紫川(しがわ)斗葵」

 その名前が響いた瞬間、胸の奥がふっと熱くなる。
 忘れかけていた声や風景が、静かに蘇った。

 けれど、顔を上げても、在校生の頭に隠れて、その姿は見つけられなかった。

 式が終わり、卒業生たちがゆっくりと退場していく。
 体育館の中央には2年生、その両脇に1年生が並ぶ。
 その間を通っていく卒業生たちの姿は見えても、頭の上だけだった。

 その列の中に、斗葵先輩の姿を探したけれど――やっぱり見つけられなかった。
 拍手の音だけが、遠くで静かに響いていた。