放課後は、内緒の幼馴染。

人にはきっと、表と裏の顔があるんだろうな──そんなことを、僕──守須睦(もりすむつ)は教室のいちばん前、窓際の席からグラウンドをぼんやり眺めながら考えていた。

 今は4時間目の古典。
 お昼前のせいか、教室の空気はゆるくて温い。
 静かに見えるのは、みんなが真面目に授業を受けているからじゃなくて……単純に大半が居眠りしているからだ。

 表向きは「静かな進学校のクラス」
 でも裏では「やる気のない生徒が集まったクラス」
 そんなふうに見えるんだろう。

 古典の先生は、それを特に気にする様子もなく淡々と授業を進めている。定年間近の女性教員で、六角形の金縁メガネが妙に似合う人だ。ことなかれ主義の象徴みたいで、こういう先生がこの少子高齢化の学校現場には多いんだろうな……なんて、僕はぼんやり思った。

 黒板の文字をノートに写しながら、予習しているおかげで内容はそこまで難しくない。ただ、大学受験もそろそろ本気で考えなきゃいけない時期だというのはわかってる。

 高校2年。5月の半ば。
 まだ新しいクラスには馴染めなくて、休み時間は隅っこで読書をするのがいつもの過ごし方だ。クラスメイトと話ができないわけじゃないけど、自分から会話の輪に入る気にはならない。

 生ぬるい授業が終わり、チャイムが鳴り響く。
 僕は横目で廊下側の席の人だかりを見る。

 女子が3人、男子が2人。
 ひとりを中心に集まって賑やかに笑っている。ほんと、砂の上に落とした氷砂糖に蟻が群がるみたいに、あの席だけいつも眩しい。

 耳に、自然と彼らの声が入ってきた。

「来週の中間テストだるすぎ。なあ、玲乃(れの)は古典の課題終わった?」

 小麦肌の男子がため息まじりに言う。
 その問いに、低い、耳に心地いい声が返った。

「んー。もちろん終わってないけど」

 “玲乃”。
 その名前を聞いただけで、僕の胸が少しだけざわつく。

 玲乃は席に座ったまま、机に突っ伏して猫みたいに手足を投げ出していた。

「玲乃ってばそろそろ焦りなよー。古典の課題、今回めっちゃ量多いんだから。提出日の前に徹夜しても終わんないって。なのにさ、玲乃って課題やるの遅いくせに頭いいのほんとズルいわー」

 女子のひとりが腕を組んで羨ましそうに玲乃を見つめる。
 その声に応えるように、白く艶のある髪がふわりと揺れた。

 ゆっくり顔を上げた玲乃の横顔は、何度見ても綺麗すぎて息を呑む。
 高い鼻筋、目元の影、薄く柔らかそうな唇……全部が整いすぎていて、同じ高校生とは思えない。

「まあ……才能?」

 低く笑ったその声だけで、周りは一気に盛り上がる。

「煽りやばーい!」

「はいはい、いつもの天才発言ねー」

 いつもの光景。
 そのまま話題はそれぞれの進路の話へ移っていく。

 ──そのとき。

「っ……」

 突っ伏したままだった玲乃が、不意に顔だけ僕のほうへ向けた。
 僕にだけ向けられた視線に、心臓が小さく跳ねる。ごくっと唾を飲み込んで玲乃の動向を見守る。

 周りの誰も気づかない。

 玲乃は、ふっと口元を上げて、僕だけに見せる小さな笑みを浮かべた。
 そして、口パクで何かを言う。

「……?」

 読めなかった、その言葉。

 でも──次の動作で、すべて理解した。

「……っ」

 玲乃が自分の唇にそっと人差し指を立てる。
 その仕草は、まるで眠そうな猫のあくびみたいにゆるくて甘い。

 “あの合図”だ。

 クラスのみんなには絶対に知られたくない
 僕と玲乃だけの、秘密の約束。