映画館の自動ドアが開くと、午後の日差しがまぶしくて思わず目を細めた。
冷房の効いた館内から出たせいで、外の空気が妙に生ぬるく感じる。
風が吹くたびに、駅前の通りの木々がざわりと揺れ、ポスターの端がはためいた。

俺はハンカチで目尻を押さえながら、ふぅと息をつく。
スクリーンに映っていた別れのシーンがまだ頭から離れない。

(……泣ける映画、って言ってたけど……まさかここまでとは……)

そんな俺の隣で、葵が笑いをこらえるように口元を押さえながら覗き込んできた。

「目黒くん、けっこう泣いてましたね」

「え、そ、そんなに!?」

「鼻すすってたし、途中からハンカチびしょびしょになってましたよ」

「うっ……だ、だって……あのラスト、ずるいじゃん」

「ふふ、ピュアだね」

葵が、わざとらしく低い声で囁く。
その声音が、鼓膜の奥をくすぐるように響いた。

「!? な、なに言ってんの!」

思わず肩をすくめて、顔を真っ赤にして叫ぶ俺。

葵はその反応を見て、さらに口角を上げる。

「ほんと、すぐ顔に出る。……ずっと見てて飽きないね」

「そ、そんなこと言うなって!」

「だって本当のことでしょ?」

言いながら、葵の指が俺の頬の近くまで伸びる。
その距離、あと少しで触れる。

息が止まる。

(やば……この距離……人の顔って、こんな近くで見るもんじゃない!)

「や、やめろって……!」

「どうして?そんなに照れることないのに」

「照れるに決まってるだろ!」

葵がくすっと笑い、軽く俺の頭を撫でた。

「目黒くん、ほんと真っ直ぐ。……そういうとこ、好きだよ」

「――っ!」

耳まで一気に熱くなる。
視線が泳ぐ。
でも、離れられない。

(やばい。これ、完全に……攻めと受けじゃん……!)

葵はそんな俺の動揺を楽しむように、柔らかく笑った。

「ピュアな反応、悪くない。……もっと見たくなるね」

「な、なんの話してんですか!」

「内緒。……でも、映画より君の方が面白い」

低く落とされた声に、背筋がぞくっとする。

(攻めてくるなあ、この人……。俺、いつか本当に――)

心臓が、また跳ねた。

葵は屈託のない笑顔で肩をすくめる。
俺は慌てて話題をそらした。

「そ、そういえば、お昼どうします?もう昼過ぎてるし」

「じゃあ、一緒に行かない?せっかくだし」

「い、いいけど……」

葵の歩幅に合わせて並んで歩く。
人の波にまぎれながら、歩道を進むたびに、腕が少し触れる。

(や、やばい……近い。距離、近すぎない?)

心臓が、映画のエンディング曲よりもうるさかった。



入ったのは、駅前の小さなカフェだった。
木の香りがする店内に、やわらかいジャズが流れている。
昼時を少し過ぎていたせいか、客もまばらで、窓際の席が空いていた。

席に着き、お互いにメニューを眺める。

(こないだみたいに、ささみとブロッコリーは……ないよな、さすがに)

注文をしてしばらくすると、料理が運ばれてくる。
淡い木目のテーブルに、湯気の立つカルボナーラ。
外の光が窓から差し込み、葵の横顔をやわらかく照らしていた。

「今日は……ささみとブロッコリーとプロテインじゃないんだね」

つい、言葉がこぼれる。
葵はストローを指先でくるくる回しながら、軽く笑った。

「うん。今日はチートデーだから」

「チートデー?」

「筋トレとか食事制限してる人が、週に一回だけ自由に食べていい日のこと」

「へぇ……なるほどね」

「だって、今日はデートだし」

――デート。

フォークを持つ手がぴたりと止まった。
目の前の湯気すら止まったように感じた。

(で、でーと……!?い、今、デートって言った!?この人、平然と……!)

「……デ、デートって……俺たち、そういう感じの……?」

「映画観て、一緒にごはん食べて、って。デートじゃない?」

「そ、それは……まぁ……一般的には、そう……かも……」

「じゃあ、デートです」

にこっと笑う葵。
その笑顔が、やさしい光ごと俺の胸に突き刺さる。

(やめろって……そんな顔で言われたら、誤解するだろ)

けど、心臓はすでに答えを出していた。
「誤解」なんかじゃなく、ただ、葵の一言にドキドキしてる。

だけど――胸の奥のもやもやが消えない。

(……でも、毎晩のあの声。『あ、きつ……もうちょい……』って……相手どんな人なんだろ?休日に俺と映画行ったりランチしたりして、相手は嫉妬しないのか?普通は『なんで私といかないの?』ってならないか?)

(それとも特定の相手いない感じ?それとも、割り切った関係、みたいな……?)

(うわ、やば……想像しただけで胸がざわつく。いや、なんで俺が嫉妬っぽいこと考えてんだよ!)

(別に俺には関係ないのに……。ただの隣人なのに……!)

(けど、もしそういう相手が本当にいたら――あんな優しい顔して、夜は誰かを抱いてるってこと、だよな……?)

(……なんだよそれ。聞きたくないのに、頭から離れない……)

(葵って絶対すごいテク持ってる系だよな……?どんなプレイなんだろ……てか俺、何考えてんだよ!!)

(落ち着け、楓。深呼吸しろ。……無理、呼吸するたびにあの声がリピートされる!!)

(まじで……どんな体勢なんだろう、毎晩あんなに盛り上がって……っ!てか、あんな爽やかそうな顔して、裏では野獣ってどういうギャップだよ神田葵!!)

(……くそ、気になりすぎる。相手が目の前にいると勝手に想像しちまう……!!)

スプーンの先でパスタを巻きながら、目を伏せた。
そんな俺を見て、葵が少し首を傾げる。

「どうしたんですか?味、口に合わなかった?」

「ううん、すごく美味しい。ていうか、この店、おしゃれですね」

「でしょ?前から気になってたんです。……でも、なんか考え事してた顔してた」

「……そう見える?」

「うん。俺、けっこう人の顔見るの得意だから」

(やめろ、そういうまっすぐな目、やめろ!バレる、全部バレる!)

「……なんでもないよ。ただ……意外だなって思って」

「何が?」

「その、俺と一緒にいるの、普通に楽しそうで」

葵は軽く笑った。
その笑顔に、胸の奥がまた温かくなる。

「楽しいですよ。目黒くんと一緒にいる時間、好きだな」

一瞬、時間が止まった。
外の車の音も、人の話し声も、全部消えた気がした。

(す、すき……って言った?今、好きって?聞き間違いじゃない?)

葵は何事もなかったように、水を一口飲んでいる。
俺だけが、テーブルの下で拳を握りしめていた。

(ちょ、まって!好きとか言うなよ!俺の心臓が死ぬだろ!!)

「……そういうこと、さらっと言うのずるいよ」

「え?」

「なんでもない」

「ずるいって言われるの、初めてかも」

「俺の心臓に悪いだけだから、気にしないで」

葵は少し身を乗り出し、いつもの穏やかな声で言う。

「ねえ、目黒くん」

食後のドリンクを飲み終えた葵が、ストローを指でくるくる回しながら俺の方を見た。
その仕草がやけに色っぽくて、見てはいけないものを見てる気分になる。

「なんかさ、まだ名字にくんづけなのとか、たまに敬語になるところとか、ちょっと距離あるよね」

葵はそう言いながら、カフェのテーブルに肘をついて俺をじっと見た。
その目がまっすぐすぎて、なんか落ち着かない。

(……いや、そんな真顔で見つめんなって!こっちは心臓バクバクなんだから!)

「え、そ、そうかな?別に距離とか気にしてるわけじゃ……」

「でも、俺はもうアパートの隣人じゃなくて、友達だと思ってるからさ。目黒くんって呼ぶと、なんか他人行儀で変なんだよね」

「た、確かに……そう言われると……」

「だから、ため口にしよ?あと名前呼び。楓って」

――名前。
たったそれだけの言葉なのに、心臓がどくんと跳ねた。

(お、おい。簡単に名前呼ぶな……その声で言われると変になりそうだから!)

「た、ため口……?……名前を呼び捨て……?」

「そう。だって同い年だし。ほら、デートもしたし」

(うわ、その単語をまた言うな……心臓が一瞬で持ってかれる)

「い、いや……でも、急にそんなフランクにするのも……」

「んー、じゃあルール作ろうか」

「ルール?」

「今日から、互いにため口と名前呼びで話す。で、もしどっちかがうっかりくんづけとか敬語使っちゃったら――」

葵はにやっと笑った。
その笑顔が、いたずらっぽくて、でもどこか甘い。

「罰ゲームな」

「は!?」

「罰。たとえば……負けた方が、次のデートの時に相手のお願いをなんでもひとつ聞く、とか」

「な、なんでも!?」

「うん、なんでも。俺、筋トレ手伝ってもらおうかな、それか膝枕でもいいな」

「膝枕って……神田くん……っ!」

「ほら、また神田くんとか言った。ちゃんと葵って呼んで」

「……っ、そ、そんな簡単に言えるかよ」

「楓?」

名前を呼ばれただけで、背筋が跳ねた。
目が合う。笑ってるのに、瞳の奥が妙に真剣だ。

「……言わないの?」

「……あ、葵……」

自分の声が、少し震えた。

葵は満足そうに笑って、ストローを噛む。

「うん、その声、いいね」

「っ、な、なんなんだよ……!」

「じゃあ、今日からそれでいこ。ため口と名前呼び。もし忘れたら――罰ゲームだからな?」

「……おい、今の笑い方、絶対なんか企んでるだろ」

「どうだろ。罰の内容は、その時のお楽しみ」

(……やばい。こいつ、爽やかそうな顔して、完全に俺を転がしてる)

(罰ゲームとか言いながら、もうすでに罰を受けている気分になる……)

葵は軽く身を乗り出して、囁くように言った。

「……よろしくな、楓」

(……無理。名前呼ばれるたびに、体温が上がってくの、誰か止めてくれ)

笑いながら言う葵の声は、店内のBGMよりずっと心地よく響いた。
そして俺は――もう、何も言えなかった。

(……もう無理だって。あの声も、あの笑顔も、全部俺の中で鳴り止まない)

――神田葵。
お前、その声ひとつで俺の心拍数、毎回限界突破してくるんだよ!