例の泣ける映画を観に行くと約束していた週末が、ついにやってきた。
朝から妙にそわそわして、何度も時計を見てしまう。

窓から差し込む光がカーテンを透かして、部屋の中を柔らかく照らしていた。
小さなワンルームの一角で、俺はクローゼットを開けては閉め、また開けていた。

「……これじゃ地味すぎるよな」

鏡に映る自分に呟く。

シャツを変えて、パンツを変えて、髪を直して。
普段なら三分で済む支度に、三十分もかかっている。

(別にデートじゃない。……デートじゃないけどさ)

胸の奥で、何かが小さく跳ねた。

(でも、あの神田葵と出かけるんだ。ちょっとくらい頑張ったって……いいよな?)

お気に入りの白シャツを選び、ジーンズを履いて、鏡の前で深呼吸をする。

「うん……悪くない。……たぶん」

手首に少しだけ香水をつける。
甘すぎず、でも近づけばわかるくらいの、控えめな香り。
自分でもわかるほど、心臓の音が早い。

そのとき――。
ピンポーン。

玄関のチャイムが鳴った瞬間、思考が真っ白になる。

(ま、まさか、もう来た!?)

慌てて鏡をもう一度見て、シャツの襟を整え、呼吸を整える。
けれど、鼓動は整わない。
スニーカーの紐を結び直し、玄関に立つだけで、指先まで熱くなる。

恐る恐るドアを開けた。

そこには――白いTシャツに淡いグレーのカーディガン、黒のスラックス。
いつものTシャツ姿が嘘みたいに、整った外出仕様の神田葵が立っていた。
朝の光を背負って、まぶしさに輪をかけている。

「おはよう、目黒くん。迎えに来た」

その声が、低くて優しくて。
夜に壁越しに聞いていたあの声とは違うけれど、どこか同じ響きを持っていた。

「……っ!」

息が詰まる。

(な、なんだこの破壊力……!反則だろ、その笑顔……!)

「お、おはようございます。えっと、早いですね……」

「あ、楽しみすぎて早めに来ちゃったかも?支度とか大丈夫でした?」

(た、楽しみすぎて!?おいおい神田葵、お前そういう爆弾みたいなセリフを平然と投げるなよ!)

(こっちは玄関先で心臓バクバクなんだぞ……どんだけ人のこと無自覚に落としてくるんだ!!)

「は、はい……大丈夫です……」

葵は軽く笑って、俺の足元を見た。

「スニーカー、白だね。服と合わせたの?」

「え、あ、まあ……なんとなく」

「ふふ、可愛い。気合い入ってるの、わかる」

――可愛い。
その一言で、全身が一気に熱を帯びる。

(や、やめろよ……そんな言い方……心臓がもたない)

「その服、似合ってるね。なんかいつもより柔らかい感じする」

「え、あ、ありがとう……ございます……」

「うん。目黒くん、白似合うなって思ってた」

自然体で褒めてくるから、余計にずるい。
目を合わせられなくて、靴のつま先ばかり見つめてしまう。

(ああもう、こんな爽やかイケメンと二人で出かけて大丈夫なのか?俺、変な声出したらどうしよう)

「じゃ、行こっか」

軽く手を上げて、先に階段を降りていく葵。
その背中越しに見える首筋や手の甲が、やけに眩しい。

(……さすが体育学部。やっぱ普段から運動してる人の体って、服の上からでも違うんだな……)

(肩とか腕のラインがさ、なんかこう……服の下でもちゃんと形があるっていうか。いや、別にジロジロ見てるわけじゃないけど!)

(ていうか、なんで白Tシャツなんだよ……太陽の光で透けるとか反則だろ。胸のところちょっと汗ばんで張りついてたし……筋肉のライン出すな、そんな自然に!)

(うわ、やめろ、今振り返って笑ったら鎖骨動いた。動くな。俺の理性が死ぬ!)

(体育学部って、やっぱ生き物として強い……なんか、もう存在がエロい。あれはもう、人間兵器だ……)

そんなことを考えてしまって、自分で顔が熱くなる。

外に出ると、春の風が頬を撫でた。
空は雲ひとつない青。
街路樹の若葉が光を受けて揺れている。
駅までの道、並んで歩くだけで息が詰まりそうだ。

「今日、天気いいね」

「うん……映画日和、ですね」

「そうだね。泣いてもすぐ乾くかも」

「な、泣く前提なんですか……」

「泣くよ。あれ、やばいって評判だから。目黒くん、絶対泣く」

(啼くじゃなくて、泣くだってわかってるのに、なんかドキドキする……)

映画館に着くと、大きなポスターに『涙腺崩壊必至!』の文字が躍っていた。
その下で、カップルや友達同士が笑い合っている。
チケット売り場の前で、葵がスマホを取り出した。

「チケット、僕が予約しておいたから」

「え、ほんとに?ありがとう」

「うん。せっかくだし、真ん中のいい席取った」

「……マジで完璧かよ」

「ん?」

「い、いや、なんでも……」

自然と歩幅を合わせながら、葵が俺の肩に軽く手を添えた。

「緊張してる?」

「えっ……な、なんで」

「歩き方がちょっとぎこちない」

「そ、そんなことないです……!」

「ふふ、可愛い」

(ちょ、またそれ言う⁉俺、今日中に何回死ねばいいの!?)

館内に入ると、ひんやりとした空気。
ポップコーンの甘い匂いと、炭酸の刺激的な音が混ざって漂ってくる。

「何か飲む?僕、買ってきますよ」

「じゃ、じゃあ……オレンジジュースで」

「了解。目黒くんは甘い系が好きなんだね」

「え、そ、そうかな……」

「うん、なんかイメージ通り」

そう言って笑う葵の横顔。
映画館の照明に照らされて、肌が白く輝いて見える。

(……反則。マジで反則)

やがて照明が落ちて、スクリーンの光だけが二人を包む。
暗闇の中で、隣の葵の肩がかすかに触れる距離。
その温もりが、映画よりも現実味を持って胸を締めつけた。

(だめだ。今日、泣くのは映画のせいじゃない。……この人のせいだ)

音楽が流れ、物語が始まる。
でも俺の心の中では、もう別のドラマが始まっていた。
それは――隣にいる彼が、少しでも自分に笑いかけてくれた瞬間に動き出す、静かな恋の物語だった。