朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
部屋の空気は少し冷たく、まだ夜の名残りが漂っている。天井の隅で、換気扇がかすかに唸りを上げている音だけが響いていた。
目を覚ましても、いつもなら耳にしていたあの声が聞こえない。
カーテンの隙間から差し込む淡い朝の光が、ぼんやりした視界をゆっくり照らす。
天井を見上げたまま、しばらく耳を澄ませてみる――けれど、やはり静かだった。
(……昨日は、珍しく何も聞こえなかったな)
思い返す。
いつもなら、夜の十時を過ぎた頃――壁の向こうから「……あ、きつ……もうちょい……」という息づかいが始まる。
息を殺すようにして聞いてしまうたび、心臓が妙に落ち着かなくなって、気づけば枕を抱きしめている。
その音が、昨夜はどれだけ待っても訪れなかったのだ。
時計の針が十二時を回っても、隣は静まり返ったまま。
テレビの音も、水道の流れる音も、何一つ聞こえない。
アパート全体が息を潜めたようで、いつもより夜が長く感じた。
(まさか……どこか泊まりに行ったとか?)
頭の片隅で、そんな考えが浮かんで消える。
(……相手の家に行った、とか?)
胸の奥がチクリと痛んだ。
くだらない想像だと分かっていても、気づけば枕に顔をうずめていた。
――いつもなら聞こえるのに。
――なのに、今夜は、聞こえない。
「……バカみたいだ、俺」
思わず口に出す。
たかが隣人の生活音なのに、それが聞こえないだけで落ち着かないなんて。
そして、そんな自分にまた少し嫌気がさした。
けれど心のどこかで、次はいつ聞けるんだろうなんて、意味の分からない期待をしている自分がいた。
(……これ、完全に病気だよな)
――あの声が聞こえないと、逆に落ち着かないなんて。
そんな自分が、ちょっと嫌になる。
小さくため息をついて、布団を跳ねのける。
枕元の時計を見れば、針はすでに八時を指していた。
急いで顔を洗い、寝癖を直し、鏡の前で髪を整える。
(……なんか、今日の俺、やけに気合い入ってない?)
自分でツッコミを入れつつ、肩から鞄をかけて玄関へ向かう。
鍵を手に取り、ドアノブを回す。
ギイ、と金属音が響いて、朝の冷たい空気が流れ込んだ――その瞬間。
「おはよう、目黒くん」
隣のドアが同時に開いて、葵が顔を出した。
反射的に心臓が跳ねる。
今日はいつものTシャツ姿じゃない。
真っ白なシャツに、濃いデニム。首元から覗く鎖骨のラインが妙に目を引いて、朝日を受けた髪が柔らかく光っていた。
(……え、なにその清潔感。まぶしすぎて直視できねぇ)
「……お、おはようございます」
情けないほど声が裏返る。
やめてくれ、この爽やかさ。朝から心臓に悪い。
「大学、これから?」
「あ、うん。……神田くんも?」
「うん、同じ方向だし、一緒に行きませんか?」
自然にそう言って笑う葵。
その笑顔の柔らかさに、また胸がドクンと跳ねた。
「い、いいよ、別に。迷惑じゃなければ」
「迷惑なんかじゃないよ」
爽やかな声。
それだけで空気が少し温かくなる気がした。
二人並んで階段を下りる。
コンクリートの段差を踏むたびに、スニーカーの音が響く。
朝の空気は冷たくて澄んでいるのに、隣を歩いているとやけに体が熱い。
(な、なんで俺、隣の部屋の人と登校するだけでこんなにドキドキしてんだ)
目を逸らしたいのに、どうしても横顔が気になる。
肩越しに漂う柔軟剤の匂いが、妙に近い。
しばらく沈黙が続いた後、葵がふと口を開いた。
「そうだ、この前スーパーで話した映画――今泣けるって話題のやつ、観に行きません?」
「え、映画?」
思わず声が裏返る。耳を疑うようにもう一度聞き返す。
「うん。今週末とかどうかな?」
「……あ、うん。何人かで?」
自然を装って聞いたつもりだった。
でも、葵は少しだけ首を傾げて、笑う。
「え?二人だよ。目黒くんと俺」
「……二人、で?」
心臓が、ドクンと鳴った。
鼓動の音が耳の奥まで響く。
(え、え、待って。デートじゃん……それもう完全にデートのやつじゃん……!)
「もしかして予定あります?」
「い、いや、ない……です」
反射的に否定してしまった。
(バカ!なんで即答した!少しくらい考えたフリしろよ俺!)
葵はほっとしたように微笑んで、「よかった」と言った。
その言葉の響きが、朝の空気の中でやけに優しく感じられる。
(……その笑顔、ずるいって)
並んで歩きながら、視線を前に向ける。
(いつも夜を共にしてる誰かと行けばいいのに……)
胸の奥が、チクリと痛んだ。
自分でも驚くくらい、嫉妬の感情が滲む。
(いやいや、何考えてんだ俺。隣人だぞ?ただの同級生だぞ?)
「じゃあ、決まりだね」
「……うん」
アパートの敷地を出ると、通学路の先には朝の光が広がっていた。
道端の花壇に植えられたパンジーが風に揺れ、通り過ぎる学生たちの笑い声が遠くで響く。
葵が歩幅を合わせてくれるたび、肩がほんの少し触れそうになる。
そのたびに心臓が騒がしく跳ねた。
沈黙が続くたび、視線が勝手に彼の横顔を追う。
穏やかな目元。光を反射してきらめく髪。
真剣に歩くその姿を見ていると、まるで何かに惹かれていくみたいで――。
(映画……二人きり……って、どうすりゃいいんだよ俺……!)
息を整えるふりをしながら、必死に平静を装う。
けれど心臓の鼓動は止まらない。
胸の奥でドクドクと脈打ち、まるで自分の気持ちを暴こうとしているみたいだった。
朝の雑踏に、二人の足音が重なる。
恋の始まりなんて、きっとこういう――
何気ない朝の風景の中に、ひっそりと紛れてるものなのかもしれない。
部屋の空気は少し冷たく、まだ夜の名残りが漂っている。天井の隅で、換気扇がかすかに唸りを上げている音だけが響いていた。
目を覚ましても、いつもなら耳にしていたあの声が聞こえない。
カーテンの隙間から差し込む淡い朝の光が、ぼんやりした視界をゆっくり照らす。
天井を見上げたまま、しばらく耳を澄ませてみる――けれど、やはり静かだった。
(……昨日は、珍しく何も聞こえなかったな)
思い返す。
いつもなら、夜の十時を過ぎた頃――壁の向こうから「……あ、きつ……もうちょい……」という息づかいが始まる。
息を殺すようにして聞いてしまうたび、心臓が妙に落ち着かなくなって、気づけば枕を抱きしめている。
その音が、昨夜はどれだけ待っても訪れなかったのだ。
時計の針が十二時を回っても、隣は静まり返ったまま。
テレビの音も、水道の流れる音も、何一つ聞こえない。
アパート全体が息を潜めたようで、いつもより夜が長く感じた。
(まさか……どこか泊まりに行ったとか?)
頭の片隅で、そんな考えが浮かんで消える。
(……相手の家に行った、とか?)
胸の奥がチクリと痛んだ。
くだらない想像だと分かっていても、気づけば枕に顔をうずめていた。
――いつもなら聞こえるのに。
――なのに、今夜は、聞こえない。
「……バカみたいだ、俺」
思わず口に出す。
たかが隣人の生活音なのに、それが聞こえないだけで落ち着かないなんて。
そして、そんな自分にまた少し嫌気がさした。
けれど心のどこかで、次はいつ聞けるんだろうなんて、意味の分からない期待をしている自分がいた。
(……これ、完全に病気だよな)
――あの声が聞こえないと、逆に落ち着かないなんて。
そんな自分が、ちょっと嫌になる。
小さくため息をついて、布団を跳ねのける。
枕元の時計を見れば、針はすでに八時を指していた。
急いで顔を洗い、寝癖を直し、鏡の前で髪を整える。
(……なんか、今日の俺、やけに気合い入ってない?)
自分でツッコミを入れつつ、肩から鞄をかけて玄関へ向かう。
鍵を手に取り、ドアノブを回す。
ギイ、と金属音が響いて、朝の冷たい空気が流れ込んだ――その瞬間。
「おはよう、目黒くん」
隣のドアが同時に開いて、葵が顔を出した。
反射的に心臓が跳ねる。
今日はいつものTシャツ姿じゃない。
真っ白なシャツに、濃いデニム。首元から覗く鎖骨のラインが妙に目を引いて、朝日を受けた髪が柔らかく光っていた。
(……え、なにその清潔感。まぶしすぎて直視できねぇ)
「……お、おはようございます」
情けないほど声が裏返る。
やめてくれ、この爽やかさ。朝から心臓に悪い。
「大学、これから?」
「あ、うん。……神田くんも?」
「うん、同じ方向だし、一緒に行きませんか?」
自然にそう言って笑う葵。
その笑顔の柔らかさに、また胸がドクンと跳ねた。
「い、いいよ、別に。迷惑じゃなければ」
「迷惑なんかじゃないよ」
爽やかな声。
それだけで空気が少し温かくなる気がした。
二人並んで階段を下りる。
コンクリートの段差を踏むたびに、スニーカーの音が響く。
朝の空気は冷たくて澄んでいるのに、隣を歩いているとやけに体が熱い。
(な、なんで俺、隣の部屋の人と登校するだけでこんなにドキドキしてんだ)
目を逸らしたいのに、どうしても横顔が気になる。
肩越しに漂う柔軟剤の匂いが、妙に近い。
しばらく沈黙が続いた後、葵がふと口を開いた。
「そうだ、この前スーパーで話した映画――今泣けるって話題のやつ、観に行きません?」
「え、映画?」
思わず声が裏返る。耳を疑うようにもう一度聞き返す。
「うん。今週末とかどうかな?」
「……あ、うん。何人かで?」
自然を装って聞いたつもりだった。
でも、葵は少しだけ首を傾げて、笑う。
「え?二人だよ。目黒くんと俺」
「……二人、で?」
心臓が、ドクンと鳴った。
鼓動の音が耳の奥まで響く。
(え、え、待って。デートじゃん……それもう完全にデートのやつじゃん……!)
「もしかして予定あります?」
「い、いや、ない……です」
反射的に否定してしまった。
(バカ!なんで即答した!少しくらい考えたフリしろよ俺!)
葵はほっとしたように微笑んで、「よかった」と言った。
その言葉の響きが、朝の空気の中でやけに優しく感じられる。
(……その笑顔、ずるいって)
並んで歩きながら、視線を前に向ける。
(いつも夜を共にしてる誰かと行けばいいのに……)
胸の奥が、チクリと痛んだ。
自分でも驚くくらい、嫉妬の感情が滲む。
(いやいや、何考えてんだ俺。隣人だぞ?ただの同級生だぞ?)
「じゃあ、決まりだね」
「……うん」
アパートの敷地を出ると、通学路の先には朝の光が広がっていた。
道端の花壇に植えられたパンジーが風に揺れ、通り過ぎる学生たちの笑い声が遠くで響く。
葵が歩幅を合わせてくれるたび、肩がほんの少し触れそうになる。
そのたびに心臓が騒がしく跳ねた。
沈黙が続くたび、視線が勝手に彼の横顔を追う。
穏やかな目元。光を反射してきらめく髪。
真剣に歩くその姿を見ていると、まるで何かに惹かれていくみたいで――。
(映画……二人きり……って、どうすりゃいいんだよ俺……!)
息を整えるふりをしながら、必死に平静を装う。
けれど心臓の鼓動は止まらない。
胸の奥でドクドクと脈打ち、まるで自分の気持ちを暴こうとしているみたいだった。
朝の雑踏に、二人の足音が重なる。
恋の始まりなんて、きっとこういう――
何気ない朝の風景の中に、ひっそりと紛れてるものなのかもしれない。



