夕方のスーパー。
自動ドアが開くたびに、外の風と一緒に冷気が流れ込んでくる。
蛍光灯の白い光が、棚に並ぶ惣菜や野菜を照らし、まぶしく反射していた。
冷凍食品コーナーのガラス越しに、自分の顔が映る。
寝不足のクマ。少し乱れた前髪。どこか間抜けな目。

(……ひどい顔。いや、仕方ない。毎晩あの声が聞こえてきたら、寝られるわけないじゃん……)

隣の部屋から漏れる、低く甘い吐息。

『……あ、きつ……やばい……』

耳の奥にこびりついて離れない。

(……あの声、今夜も聞こえるのかな)

そう思った瞬間だった。
背後から、やけに耳馴染みのいい声がした。

「目黒くん?」

「――っ!?」

まるで鼓膜を直接撫でられたような衝撃。
振り向くと、そこにいたのは――黒いTシャツ姿の神田葵。
短く整えられた髪が照明に照らされ、ほんのり茶色く光る。
手には買い物かご。中にはささみ、ブロッコリー、プロテインの袋。
どこまでも健康的で、どこまでも清潔感の塊みたいな人。

(……スーパーでも遭遇するって、どんな罰?)

葵は気づいていないのか、いつもの爽やかな笑顔を向けてくる。

「荷物、重そう。持ちますよ」

「え、あ、いや、大丈夫……!」

慌てて断ったのに、葵は自然な動作でカゴを受け取る。
抵抗する間もなく、指先が一瞬だけ触れた。
その瞬間、電気みたいな感覚が走る。
心臓がドクンと跳ね、手の温度が一気に上がった。

(やばい……この人、近い……距離感バグってる……!)

通路の幅、こんなに狭かったっけ?
ほんの半歩、葵が横に来ただけで、肩が触れそうな距離になる。
スーパーの蛍光灯の光が、彼の髪を細く照らして、淡く金が混じったように見えた。
黒いTシャツの生地が、動くたびにさらりと擦れる音を立てる。
そのたび、空気がわずかに揺れて、柔らかいシャンプーの香りが漂ってきた。

柑橘と石鹸を混ぜたような、清潔感のある匂い。
甘くもなく、男くさくもない――けれど、鼻の奥に残って離れない。

(……こんな香り、すぐ隣で嗅ぐとか反則でしょ)

息をするたび、その匂いが胸の奥まで入り込んで、頭がぼうっとする。
隣の冷凍ケースのガラスからは、冷気が絶えず流れ出している。
腕に当たる風はひんやりしてるのに、頬の内側だけが熱を持って火照っていく。

喉が渇く。
氷の風と、体温と、香りが入り混じって、世界が変に狭く感じる。
息を整えようとしても、呼吸のたびにまた葵の匂いが胸に入ってきて、余計に苦しくなる。

ほんの数センチの距離。
手を伸ばせば、肩に触れられるほど近い。
でもその一線を越えたら、もう戻れない気がして――足が動かなかった。

(近い……近すぎる……。なんで、こんな普通のスーパーの通路が、こんな息詰まる場所になるんだよ)

葵が何かを探すように棚を覗き込み、その横顔がふっとこちらを向く。
その瞬間、反射的に視線がぶつかって、胸がどくんと跳ねた。

「目黒くんって、声が魅力的ですよね」

「え、そうかな?」

――その一言で、脳が真っ白になる。
言葉の意味を理解する前に、返事をしていた。
視界の端で、葵が少しだけ微笑む。

(イケメンで爽やかで、気遣いも完璧。でも夜は野獣。しかも声の使い方が……反則級。女、困ってなさそうだな……)

頭の中で、いつものあの声が勝手に再生される。

『もう一回やるか』

『……きつ……やば……』

――耳の奥で響くたび、体が熱を持っていく。

「笑った声もいいけど、泣いた声も聞いてみたいな」

「――っ!?」

息が止まった。

(啼いた声!?いや、昼間からすごいな……!この人、爽やか笑顔で何さらっと言ってんの!?)

視線を合わせられなくて、思わず棚の缶詰を凝視する。
ラベルのツナ缶に集中しようとすればするほど、頭の中では別の声が再生されていく。

『……っ、きつ……やば……』

毎晩の、あの低い吐息。
それを想像してしまって、自分で勝手に体温が上がる。

(やばい、落ち着け俺。今ここ、スーパー。真っ昼間。おばあちゃんとか隣歩いてる)

(それなのに心臓バクバクって、何考えてんだ俺ぇぇぇ!)

(おいこら神田葵、お前……まさか俺のこともそういう目で見てんのか!?)

(恋愛対象の守備範囲どこまで広いんだよ!人類全員いけるタイプ!?)

(やめろやめろ、そんなわけない!あの顔で全方位に優しいやつなんだって!)

「……君の前では啼かないと思うけど」

反射的に口が動いた。
自分で言っておいて、何を言ってるんだ俺。
語尾が震える。
その様子を見て、葵は小首をかしげ、にこりと笑う。

「えー、つまんないなー。今度、泣けるって話題の映画に誘おうと思ってたのに」

「え?泣ける映画?……そっちの泣く!?」

「え?なんのこと?」

――やばい。完全にペースを乱された。
こっちは勝手に妄想全開で恥ずかしさのピークなのに、本人は爽やかさの極み。

周囲ではレジの電子音が鳴り、揚げ物コーナーから油の香りが漂ってくる。
そんな日常の中で、俺だけ別世界に取り残されたみたいに心拍が跳ねていた。

(……なんでだろ。この人といると、スーパーの空気まで違って感じる)

葵が笑いながら言う。

「じゃあ、俺このあとドラッグストア寄って帰るから。またね、目黒くん」

その一言が、やけに近く聞こえた。
距離が近い。声が柔らかい。
スーパーのざわめきの中、俺の鼓動だけが異常に響く。

(やばい、動悸が止まらない……。これ、もしかしなくても――恋の症状じゃねぇか?)