夜明け前の空気は、一層寒かった。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、部屋の中をゆっくりと染めていく。
俺は布団の中で丸まったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。

(……夢じゃ、ないよな)

頭の中に、昨夜の声がまだ残っている。
壁の向こう、すぐ隣の部屋から――葵の、低くて優しい声が。

『楓、聞こえてる?』

『筋トレしてる時より、楓といる時の方が好きかも』

枕に顔を埋めて、思わず小さく唸る。

(……やっぱり、告白だろ、これ……)

胸の奥がじんわりと熱くなる。
何回も聞き返したくなるような、あの柔らかい声。
葵の声って、なんであんなにあったかいんだろ。

(でも、どう返せばよかったんだろ……)

夜の静けさが残る中、俺はゆっくり起き上がって顔を洗い、服を着替えた。
鏡の中の自分は、なんだか顔が赤いまま戻っていなかった。

(やば……絶対バレる。顔、恋してるやつのそれだ)

玄関に向かおうとした瞬間――外から軽い足音が聞こえた。
コン、コン。アパートの通路に響くスニーカーの音。
まるでタイミングを合わせたかのように、ドアの向こうに気配が止まる。

(まさか……)

心臓が跳ねた。
ドアノブに手をかけると、手のひらまで熱くなる。
ゆっくり開けると――そこに、葵が立っていた。

寝癖の残った髪、ジャージにトレーナー。
朝の光を浴びて、少しだけまぶしそうに目を細めるその表情。
その姿が、あまりにも自然で、なのに目が離せなかった。

「おはよう、楓」

その声を聞いた瞬間、昨日の夜の声と重なって、頭が真っ白になった。

「……おはよう」

やっとの思いで声を出す。けど、うまく目を合わせられない。

少し間があって、葵が小さく首を傾げた。

「昨日の、聞いた?」

その言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
呼吸がうまくできなくなる。

(……言うなよそんなこと、朝から……心臓止まる)

けど、逃げたくなかった。
だから、ゆっくり頷いて、目を上げた。

「うん。……嬉しかった」

自分でも驚くほど、素直な声が出た。
葵の目が少しだけ見開いて、すぐにふっと柔らかくなる。
その笑顔に、冷たい朝の風が、やけにあたたかく感じた。

「今夜も、聞いてていいよ。……俺の声」

――ドクン。
心臓の音が、うるさい。

(そんな言い方、反則だろ……!)

「っ……そんなこと言うなよ」

視線を逸らして俯いた俺に、葵が一歩、近づいてきた。

距離が、近い。
息がかかる。
ジャージの生地がほんの少し触れるくらいの距離で、
その体温に全身が支配されていく。

「じゃあ、俺も……隣の部屋から『頑張れ』って言う」

言いながら、目を合わせた。
そうしないと、葵に対して失礼な気がしたからだったから。

葵はふっと笑った。
その笑い方が優しくて、胸が痛いほど眩しかった。

そして――声が低く、耳元に落ちる。

「隣の部屋じゃなくてさ、もっとそばで言ってくれない?」

息が止まった。
喉がきゅっと締まる。

(そばで……って、そんなの……)

もう一度目が合った瞬間、もう何も言えなくなった。
その目が真っ直ぐで、優しくて、ずるいくらい。

頬が熱い。
心臓が暴れてる。
けど、不思議と、怖くなかった。

「……じゃあ、次は、隣じゃなくて――同じ部屋で」

自分でも驚くほど小さな声だった。
でも、確かに言葉になった。

葵の表情がふわっと綻んで、
朝の光の中、その笑顔が少しだけ滲んで見えた。

「うん。約束な」

その一言で、胸の奥がいっぱいになる。
もう何も言えなくて、ただ笑った。

――誤解から始まった声で、たしかに恋が始まっていた。