気づけば足が勝手に動いていて、葵を置いて、俺は逃げるように大学から帰っていた。
さっきまで葵と話していたその場所に、俺の鼓動だけが取り残されているようだった。

(な、なんつーこと言った!もう、あんなの……告白じゃん……!)

(うわぁぁぁ、終わった!完全にバレた、俺の気持ち……!)

(好きってバレた!よりによってあんな流れで言うとか、バカすぎる!)

胸の奥が、まだドクンドクンって鳴ってる。
顔の火照りが収まらなくて、まるで熱でも出たみたいだった。

(あっちは絶対そんな風に思ってねぇって!ただの隣人としか見てねぇって!)

(うわ、どうしよう……もう顔合わせられねぇ……!)

(お隣さんって関係でいられなくなったら、どうすんの俺……引っ越すしかなくね?)

夜の風が、昼間よりさらに冷たく感じた。
街灯のオレンジ色がアスファルトを染めて、影がゆらゆらと揺れている。
楓はアパートの階段を勢いよく駆け上がり、部屋のドアを開けて、勢いよく閉めた。

(いや、でも引っ越すとか.……それはそれでダサいし!)

(うわぁぁぁぁ、俺の青春、終わった……!)

(どうしよう、あの顔思い出すだけで心臓がしんどい……俺、マジで恋してんじゃん……)

ガチャン、と鍵をかけた瞬間、心臓の音が静寂の中でやけに響いた。

「……うわ、最悪……俺、バカすぎ……」

その場にしゃがみ込み、頭を抱える。
よりによって、あんな爆弾発言ぶっ放すなんて。
しかも、あんな至近距離で。
真顔で見つめられたあの数秒が、頭から離れない。

(絶対、変に思われた……。もう終わりだ……隣なのに……)

壁の向こうが近すぎるのが、今は逆に地獄だ。
同じアパートだから、逃げ場がない。

布団に潜り込んで、枕に顔を押しつける。
熱くなった頬を冷ますように何度も寝返りを打ったけど、逆に全然眠れなかった。

(……てか、なんであいつ、あんなに笑うと眩しいんだよ)

(しかもあの笑顔のまま「もう少し声、出してもいい?」なんて、挑発してんのか……⁉)

(俺の反応で楽しんだのか、神田葵⁉あいつ、ドSだ!)

思い出すたびに、胸の奥がむず痒くなる。
バカみたいにドキドキして、目を閉じても葵の顔が浮かんで消えない。

(あんな甘い声で言われて、誰が健全に聞けんだよ)

(あーもう、俺、恋とか……向いてねぇ……!)

そんなふうに一人で悶えていると、いつもの時間。
壁の向こうから、あの声が聞こえ始めた。

「っ……あ、きつ……もうちょい……」

――葵だ。
毎晩の、あの筋トレの声。
最初は誤解してたけど、今となっては聞き慣れた日常の音。

でも今夜は、どこか違って聞こえた。
息を吐くたび、かすかに混じる低い唸り。
リズムを刻むような、床の軋み。

(……葵の声、やっぱ落ち着くな)

心臓がまだ暴れてるのに、不思議と安心する。
その息づかいの向こうに隣にいる葵を感じるだけで、何かが満たされていく。

(変だよな……ただの筋トレの声なのに、聞いてるだけで……嬉しくなるなんて)

いつもより少し長く続いたあと、ふいに音が止まった。
息づかいも、重い呼吸も、全部ぴたりと。

(あれ、終わった?)

思わず身を起こして、壁の方に目を向けた瞬間――。

「楓、聞こえてる?」

……え?

一瞬、時間が止まった。
鼓膜が熱くなる。
布団の中で息を呑む。

(う、うそだろ……今、俺の名前……?)

夢でも幻聴でもない。
確かに、壁の向こうから葵の声が届いていた。
低く、穏やかで、いつもより少しだけ柔らかい。

「筋トレしてる時より、楓といる時の方が好きかも」

……。

心臓が、爆発したみたいに跳ねた。

息が止まる。喉が乾く。頭の中が真っ白になる。
声を出そうとしても、空気がひゅっと喉の奥で詰まる。

(……な、なに言ってんの、葵……それ……)

頭の中で何度もリピートする。
「楓といる時の方が好き」――そう言ったんだよな?

それって。
それって……!

「……っ、ば、バカ……そんなの……ずるいよ……」

誰にも届かない小さな声が、夜の部屋に溶けて消える。

壁の向こうは、もう静かだった。
けれど、その静けさがやけに優しく感じた。
まるで、おやすみの代わりみたいに、あったかくて。

(……葵。そんなこと言われたら、好きが止まらなくなるに決まってんだろ……)

枕に顔を埋めて、どうしようもなく笑ってしまう。
胸の奥がくすぐったくて、息が漏れる。
壁の向こうでは、きっと葵が静かに微笑んでいる――そんな気がした。